返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 作品合集 » 正文

ぼくのコドモ時間20

时间: 2019-12-05    进入日语论坛
核心提示:図書館とテニスコートホアン・ミロっていう、スペイン人の有名な画家がいますね。ボクが最初に好きになった画家はこの人でした。
(单词翻译:双击或拖选)
図書館とテニスコート

ホアン・ミロっていう、スペイン人の有名な画家がいますね。ボクが最初に好きになった画家はこの人でした。中学校の一年生ごろですね。それから、サルバドール・ダリも好きでした。
それならパブロ・ピカソも好きになってもよさそうなのに、どうしてピカソは好きにならなかったんだろう? といま考えてたんですが、これはつまり、ピカソはそのころ、大人の人が「偉い、偉い」と言ってほめる人だったというのがあったと思いますね。
ボクはそのころ、大人と見ると反抗をする、そういうコドモだったんでした。ところで、いまボクは、ミロとダリが好きなら、ピカソも好きなハズだと書きましたが、この三人はそれぞれまったく違った画風です。
ですがこの三人には共通したところがあるんですね。三人ともスペイン人であるということとはあんまり関係ない。中学生のボクにとってこの三人は共通した性格を持っていたんでした。
つまり、この三人の絵は、みんな|変な絵《ヽヽヽ》だったんですね。学校で習うようなことから、ハミダシてるような、ハズレてるような感じがした。そこがうれしかったんだと思うんです。この人たちの絵をボクはほかならぬ、学校の図書館で見たんです。
図書館というのは、フシギなところで、そこにいさえすれば、先生からは大目に見てもらえる場所なんですね。放課後に校庭をウロウロしてますと、食う必要のない小言を食ってしまったりするんですが、図書館で本を読んでいれば、監視されたり、それを気にしたりする必要がない。
図書館が居心地のいい場所だとわかってからは、ボクは放課後はだいたい、図書館に行くことに決めました。しばらくすると場所に慣れてきましたので、ちょっとずうずうしくなる。図書館の奥にベランダに面した小部屋があって、どういうわけか、ここだけ妙に豪華なつくりになってるんですね。そうしてその部屋には一かかえもあるような、大きな本、豪華本が並べてある。百科全書や世界地図や、博物図鑑や画集のたぐいです。画集も廉価版《れんかばん》のものは、大部屋のほうにも置いてあるので、つまりここに置いてあるのは、いわば飾りのようなもんで「見るだけ」と言ってる
そこにある椅子やソファなんかも、ここはコドモの来るところじゃないよ、という感じに威圧してるような感じなんですね。もともと図書館に来る生徒は、そんなに多くないし、館内では静粛にとかって、それだけはうるさく注意されますから、いきおい、おとなしいタイプのコが多いですから、みんなこの、おどかしてるような小部屋のほうには、やってこないんですね。
で、ボクは、ここを自分の特待席と決めてしまって、その映画の中のお金持ちが座るような大きな背もたれのある椅子に腰をかけて、ムチャクチャに大きな、重たい画集を出してきては、それをおもむろに、一ページずつめくっては鑑賞していたんでした。
多くは�泰西名画�と呼ばれるようなもので、宗教画や風景画、肖像画のむやみに写実的な克明なものが多い。最初のうちは絵を見るのが目的じゃないですから、そんなことにはおかまいなしに、いわば機械的にページを繰っていたんですが、当然見てもいるわけですから、退屈をする。
そこへ、ヒョコッとミロだのダリだのが出てくると、これはもう、ものすごく変な、おもしろい絵なんですね。だんだん思い出してきましたが、その豪華本の部屋には、ピカソの画集はなかったんでした。これもきっとピカソを好きにならなかった理由だと思う。
とにかく、反抗的な気分で大人の領分で、ふんぞり返っているボクに、ダリとミロは、友だちのような気がしたんですね。なんかこうしかつめらしくお説教をタレたりするタイプじゃなくて、ちょっとお茶目なオジサンのような感じがした。
この二人の絵は、フシギで変わって、ふざけているみたいな楽しさがある。その上、絵の中には女の人の裸が出てきますが、ほかの画家の絵のように�ちっともやらしい感じがしない�つまんない絵でなくて、なんだかドキドキするような、なまなましさがあったんですね。
もし、こんなふうにボクが絵を見ている時にポール・デルボーの画集や、バルテュスの画集があったとしたら、どんなにボクは至福の時間を味わっただろう……と、いま思います。いや、それがなくともその時に、ボクは実際、至福の時間を味わっていたんでした。
とっても豪華で秘密めいていて、しかも何かイケナイことをしているような緊張と高揚を感じながら、ボクはこの上なくリラックスした姿勢で、ダリやミロの画集を、何度となく、ひっくり返していたワケなんでした。
ボクはその後、画集だけでなく、画廊や展覧会に絵を見に行ったり、ついには自分で絵を描く仕事についたり、美術について作文を書いたりするようになりましたが、この中学一年生の一時期こそがもっとも、鑑賞者として充実をしていたんではないか、あの時間をすごしたことが、非常に大きな収穫だったのではないか、と考えてます。
さて、ボクはいまでもかなり視覚偏重型の人間ですが、一時期、音楽的に鋭敏になったことがあって(これは、あとでわかったことでしたが)、それが、ちょうどこの、画集を図書館で眺めていたころと前後しているんです。
図書館のベランダ越しに、テニスコートがあって、といってもそれは校庭の一画に石灰で白線を引き、ネットを張ってできる、つまりそういうスペースだったんですが、そこに実は、上級生の静江さんが白球を追っていて、ボクは、ミロではなくこの静江さんを眺めるようになってから、音楽がよく聞こえるようになっていったんではないか? と思ってるんでした。
静江さんと、初めて会ったのは、渡り廊下の上でした。渡り廊下というのは、すのこの大きなものを、廊下状に並べてあるもので、離れた校舎同士をむすんでいるんですね。この渡り廊下を一年坊主のボクが歩いていて、ふと顔を上げた時に、二年生の静江さんがいた。
広い校庭を横ぎる渡り廊下の上に、中学生の男のコと女のコがたった一人ずつ(とその時はそう感じました。実際はうじゃうじゃ、うぞうむぞうがいたんでしょうが)で、男のコは、その小さい、ないんじゃないかというような小さい目を、見開いて、そこで立ちすくんじゃったんですね。静江さんがとってもキレイだったからです。それを見て、上級生の静江さんはニッコリ笑った。男のコはこのニッコリの意味をとりちがえてしまったんでした。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%