「そんなに、相撲がしたいのなら、ニショノセキにでも行ったらどうだ」
と、父アキラさんは言ったのだ。ニショノセキは相撲部屋の名前である。ボクはほんとにおすもうが好きだったので、もちろん相撲部屋の名前はだいたい知っている。
呼び出しの前に場内アナウンスがあって、その時に出身地と所属部屋を必ず放送する。
「東方ァ大関朝潮ォ鹿児島県奄美大島出身ン高砂部屋ァア」
それにボクは去年買った『大相撲カルタ』を何度も何度も読んで暗記してしまったから「井筒、高砂、出羽海、朝日山、立浪、二所ノ関、小野川、三保ケ関、時津風……」と、漢字でも書けるくらいなのだ。
その日は朝から雨降りで、しかも場所中じゃないから、大相撲の放送もない。いつもならとなり町内の、お稲荷さんの土俵へ出稽古に行くところだけどそれもできない。
それでボクは、タンスからタカコさんのオビを持ち出してきて、固く巻き込んだ敷きぶとんに�まわし�のようにそれを巻きつけて、画用紙で特製のサガリまでつけ、そいつと勝負していたわけなんです。
まわしは色こそ朱色で、当時はあまりそんな色のまわしはなかったけれども、光沢といい、ぶ厚い感じといいホンモノソックリでとても気分が出ていたんでした。
もっとも相手は敷きぶとんですから、タテミツはなくて、ただ単にコブ巻きのように横に巻いてあるだけなのは、冷静に考えると、ちょっと残念なんですが、重さも適当にあり、身長もあまりかわらない。
勝負がいきなり四つに組んだところから、始まるのもしかたない。そうしないと相手は一人では立っていられないような状態ですから。
「さあ、栃錦、右上手引いて十分の体勢」栃錦はボクのことです。で、その栃錦がNHKの実況アナウンサーも兼ねている。
「おっと、若、寄った若、寄った、栃、あとがないあとがない。若寄った栃ふんばった! 両者必死の攻防であります!」
もちろんふとんは寄ってきたりはしませんから栃が引きずって、畳のへりのところまで持ってくるわけです。
「栃錦体を入れかえた、土俵中央まで寄り返した、アアーッとォ? 栃上手投げ! これは若乃花残りました。大相撲であります。大相撲になりました。両者肩で息をしております。相手の出かたをうかがうように、土俵中央、両者動きが止まっております。それにしても神風さん、いい相撲になりましたね」
「えーえ、いい相撲ですゥ」神風さんももちろんボクが担当している。
「おおっとォ? こんどは若が投げをうった、栃錦残りました、若寄っています、若ガブって寄った、し、た、て、な、げ、これも残ったァ! 栃あぶない栃あぶない、あとがない、若寄った、栃いっぱいだ! うーわっっとォ、うっちゃったア!」
ガッターン! と若乃花は障子にぶつかって、そこでもう動けなくなっている。ボク栃錦は蹲居《そんきよ》して、手刀を切って、�けんしょう金�をもらってるところです。
「土俵いっぱい、剣が峰からのみごとなうっちゃりでした! 栃錦全勝であります!!」とアナウンスのあったとたんでした。むこう正面からドスの利いた声がかかった。
「クダラネエ! 何がみごとなうっちゃりだ」アキラさんであります。むこうを向いたままです。気をつけてはいたんでした。オトウサンは病気で寝てるんです。座敷でバタバタしたらホコリはたつ、病人は寝られない。いつもなら、ボクはこんなことはしない。
小学四年生にとっては、アキラさんは、実にオソロシイ存在なんです。こんな大胆なことできるわけがなかった。最初のうちは、ごく地味に座ぶとん相手の、オトナシのぶつかり稽古程度だったのです。
いつもスグにどなるアキラさんが、今日はなんとも言わないので、ついつい本式になってしまった。実際、一人でやってたとはいえ額の生え際が、ジットリ汗ばんでます。
ボクは倒れたままの若乃花のそばで正座しました。叱られてもしかたない、もはや覚悟したわけです。ところがアキラさんはそれ以上何も言わないで、姉チカコに呼びかけました。
「チカコ、あの茶色のナ、大きい風呂敷があったろう、あれを出してきなさい」
チカコは読みさしの本を畳に伏せて、立ち上がり、洋だんすの下から茶色の風呂敷を黙って出した。
「それから、ノブヒロの肌着とな、ヨソイキのズボンとな、歯ブラシ、全部出してあげなさい」
チカコは急にイソイソとなって、ボクのランニングシャツやら、サルマタやら、それにヨソイキのコール天のズボンやらを出してきてていねいにたたんで、茶色の大風呂敷の上に積み上げてます。
「そんなに相撲がしたいなら」とその時にアキラさんは冒頭のセリフを言ったのです。ニショノセキでもトキツカゼでも、行って入門すればいいのだ。そうすりゃ、勉強もせずに毎日相撲ばかりとっていればいいのだ。
ボクは、アキラさんに聞こえないくらいな小さい声で、一応、反抗のことばをつぶやいた。だってニショノセキどこだかわかんないもん、と。これはムロンそのことを言ってるのではない。こんなにもカンタンにボクを家から追い出そうとするアキラさんの理不尽につい何かを言いたくて口をついたコトバなのだ。それなのにアキラさんは、すぐそれを聞きつけてこう言った。
「両国だ、相撲部屋ってな両国にいっぱいある」すると姉チカコも楽しそうに唱和した、
「ノブちゃん、両国だってさ」
その間もチカコは荷物づくりにセイを出してる。『大相撲カルタ』や『若乃花物語』それから、オオヤブさんのおばちゃんにもらった、メタリックグリーンの外車のミニチュアまでチカコは持ち出してきて、
「これはノブヒロの宝物だもんね、これは持ってくでしょ?」と言ってそれを置き、茶色の風呂敷をていねいに包んで、むすび目を直したりしている。
ボクは、相撲部屋へなんか行きたくない。そりゃあ近所では強いほうだけど、スミちゃんやコーちゃんには負ける。お稲荷さんの土俵に行ったら、ボクより年下のハラくんにだって勝てないのだ。相撲のプロなんかになれっこないのだ。第一、チカコもオトウサンも、ボクが家から出ていってもなんともないのか、二人で笑って……と思うとボクは悲しくなってしまった。
「バカヤロウ!」と言ってボクはチカコをぶった。チカコは笑ってボクの顔をのぞき込み、「あー、泣いてるゥ!」「泣いてなんかない!」「だって涙出てる」「うるさい、ばかやろう!」と言ってボクは外に出た。もちろん茶色の風呂敷包みは持っていかない。
「ノブヒロが大きくなってから泣いたのってあの時だけだったねえ」と、いまは三人のコドモの母チカコは笑いながら言うのである。