いまでも、ボクは�仙人�が好きで、�仙人�が出てくるマンガを描いたりしてるんですが、いったいどうして、いつから�仙人�が好きになったのかな、とふと思ったんでした。
それで、記憶をさかのぼっていくと、それはどうも、芥川龍之介の「杜子春《とししゆん》」を図書館で借りて読んだのが初めらしい、ということになった。
「杜子春」は中国の『続玄怪録』っていう、いまでいうなら、UFOと超能力、霊界と超常現象みたいな与太話を蒐めた、胡散《うさん》くさいような本にのっている話ですが、もとの話は芥川龍之介さんがつくりかえたような�人間的にりっぱ�みたいな教訓話とはちょっと違います。つまり、ずっとおもしろい、ワケのわかんないような話になってる。
でも、原典など知りようもない当時、小学四年生ぐらいのボクには、この仙人になりたいと思った青年の話は、とてもおもしろかった。
杜子春は、気っぷのいいタイプで、遊び好きで親の身上を博打《ばくち》や遊興で使いはたしてしまう、計画性のない人です。財産目あてにたかりにくる友人をもてなしたりして、ついには無一文になってしまうようなタイプです。
で、その日に食べるものもなくて、とほうにくれて都大路にへたりこんでいるようなところから、お話は始まっているんでした。
ここに仙人が登場するんですね、すがめの不気味な老人です。
「いま夕陽に背を向けて立ってできた影の、頭にあたる場所を、夜中に掘り起こしてみるがよい、そこにお前のほしい物があるだろう」てなことを言う。
言う通りにしてみると、そこにとほうもない大金が埋めてあった。突然また大金持ちになった子春は、またもや放蕩三昧《ほうとうざんまい》の暮らしをしてそのお金を使いきってしまう。これがまた、ボクは気に入ったんでした。
〈こいつはいいやつだ〉と思った。
無一文になった子春が、またおなかをすかして、へたりこんでいると、またあの仙人が出てきて、同じように夕陽でできた影の、胸のあたりを掘れ、てなことを言って、夜中に掘ってみると、前の倍の金が出てくるところも豪勢ですね。しかもその金も、すぐに散財してしまう。いよいよ〈いいね〉と思ったわけでした。
三度めにまた、例の影の話を仙人が言い出すと、子春は、もう金はいいから、仙人にしてくれと言い出します。これがまたいいじゃないですか、どうせいくらもらったところで、じきに使ってしまうんだから、もう金はいいから仙人にしてくれ。ってのがボクは賛成でした。
では、というんで仙人の杖に乗って雲台峰っていう深山幽谷まで、空を飛んでいって、無言の行をさせられる。結局、童話の杜子春は、お父さんお母さんの顔をした馬が、ムチでたたかれる�幻《まぼろし》�を見て、思わず「あっ」と言ってしまうんでした。ボクはこれがとても納得がいかなかった。仙人になりたいってのに根性がねえな、�幻�を見たくらいで「あっ」とか言うな! と思ったんでした。
そうして、仙人が言うセリフも気に入らなかった。つまり、
「お前が父母の打たれるところを見て、声を立てないようだったら、オレは即座にお前を殺すつもりでいた」というような発言です。
〈それはないだろう〉それじゃあ、自分はどうやって仙人になったのだ、とほとんど食ってかかるような気分でした。
そんなわけで、芥川龍之介さんが言わんとするようなことは、ちっともボクには身につかなかったんですが、話のほうはとても気に入ってしまった。杖に乗って雲台峰に飛んでいくところや、「あっ」と言うとイキナリもとの都大路にもどってしまうところや、何よりも、夕陽のつくる影の頭の部分を、「掘れば宝物が埋まってる」というところをすごく気に入ってしまったようでした。
それからは、影を見るたんびに、頭にあたるところや、胸にあたるところを、じっと見たりするようになる。野球をやって家へ帰るころ、夕陽の影を見つめて、
〈あの頭のところに埋まってる〉と思うのです。
歩いているから、その頭のところは、ずんずん動いていく、つまり、ボクの歩くところは、ずうーっと宝物が埋まった道になる、という理屈です。お話のように立ちどまって、場所を特定しないところが、さらに徹底してますね。
つまり、夜中に掘りさえすれば、宝物はどこでもいくらでも手に入るのです。
ボクはすっかり豪勢な気分になってますから、もう、夜中に掘ったりする必要もないんでした。ボクはこの想像が気に入って、自分の影を見るたんびに、何度もそのように考えるようになっていました。
夜、銭湯からの帰り道、街灯がつくる影を見ながら、下駄をカラコロいわせて歩いている時、原っぱの土管に腰かけて足をプラプラさせながら、ふと地面の影を見た時、という具合にいつもボクはこの想像をして愉快でした。
もちろん掘れば出てくるんだけど、あえて掘らない、ってとこが、
〈イイわけだ〉とも思っていた。本当に掘って、もし出てこなかったら……とか考えるとおもしろくないから、そうは考えない。あるいは、ちょっとは考えてたのかもしれない、それで�実地�に掘ってみなかったのかもしれないです。
いずれにしても、仙人の話は、ボクの気に入るところとなって、中学生になっても、そろそろ高校受験というころになっても、それは変わらなかった。実際、高校に入ったら、やることにしていた研究テーマの箇条書きに、
「仙人」というのが入っていた。そのほかに「アフリカのお面」とか「西洋中世の甲冑《かつちゆう》」「幻想の動物」なんてのもあったわけですが、仙人と幻獣の部はいまでも気が変わっていない。
一時、仙人が空を飛んだり、一瞬のうちに深山幽谷と都大路を往復したりするのは、あれは「幻覚剤」が効いてるだけなんではないのか? と思って、すっかり熱がさめてしまったことがありました。
丹薬とか金丹とかいうのは、つまり幻覚剤のことで、仙人てのは単なるヒッピーじゃないか、と思ったら、なんだかとってもつまんなくなってしまったんでした。
これは結局、コドモのころから、フタをあけずに持ってきた玉手箱から、少しずつけむりがしみ出てしまっていて、
〈単に空っぽの箱になってしまっているんではないか?〉というような気分だったと思いますが、いまはまた、違う考えかたをするようになってます。「空っぽでもいい」のだ。夜中に実地に掘り起こしてみれば「宝」など出てこないかもしれないが、掘り起こさないでおけば、地面の下はみんな宝だ……というワケです。