が外国人初の横綱になった。
朝日新聞にコメントを求められた時、私は言った。
「心技体を満足し、抜群の力と品格があれば、外国人でもいっこうに構わないと思っています。プロ野球の場合はアメリカから選手を何億円という契約金で連れてきて、ポンと四番に座らせたりする。でも相撲の場合はそうじゃありません。日本に連れてきて、日本人の新弟子と同じように一番下から始めさせています。兄弟子につかえることも、掃除も、チャンコ番も、すべて日本人の新弟子と同じにやらせている以上、昇進も平等です」
私は本当にそう思っている。同じ朝日新聞に、高橋義孝元横綱審議会委員長のコメントが出ていた。私の意見と矛盾するようだが、私はとても好きなコメントであった。
「私にとって相撲はスポーツではなく、まず祭事です。そして江戸前の古典芸能です。能の家元が外国人ではおかしい。でもは強いのだからしょうがないですね」
これを差別という人もいるだろうが、私はそうは思わない。私自身、大相撲は何よりも神事であるといつも思っている。神事である以上、プロ野球のように突然引っぱってきた外国人を、最初から横綱や大関にして土俵にあげるのなら怒る。日本の神事に、日本の道理をわかっていない外国人をタッチさせるのはそれこそ「不浄」である。しかし、私が高橋元委員長と唯一違う点は、外国人も新弟子としてつらい生活に耐え、心技体を身をもって学んでいくうちに日本人になっていくのだと思っていることである。彼らも本心では「俺はアメリカ人」だと思っているだろうし、基本的には母国を捨てる気はあるまい。捨てる必要もない。しかし、それでもあの半端でないつらい日々は、彼らを日本人にしていくのだと思っている。
やはり同じ朝日新聞に、上智大学の国際政治学者、猪口邦子教授もコメントされていた。
「表彰式ではアメリカ国歌も流せば、日本の容量の大きさを国際的に示すことになるのに」
こういうコメントに私は一番腹が立つ。相撲を単なる「スポーツ」ととらえればこういうコメントもありうるとは思うが、アメリカ人の小錦でさえ言っている。
「入門して今まで来てよくわかった。相撲は普通のスポーツではない」
日本の国技、神事にアメリカ国歌を流したらパロディである。何よりも、「外国の国歌を流すことイコール国際感覚」だと思っているのなら見当違いもはなはだしい。
大相撲における「国際化」のとらえ方というのは非常にデリケートな問題だと思う。
私自身は、外国人が横綱の条件を立派に満たしていれば、横綱に推挙されて当然と思う。しかし、私自身はそのことと国際化はイコールとは考えていない。もっと言えば、大相撲は国際化を積極的にめざす必要は何ひとつないし、大相撲関係者は現実に国際化を進めている意識は全くないのではなかろうか。私個人の推測であるがそんな気がする。
海外巡業はあくまでも興行であり、日本相撲協会のふところ事情の問題であり、あれが国際化だとは私は全く考えていない。海外のアーティストが日本市場がおいしいとわかれば、こぞって来日してコンサートを開くのと何ら違わないと考えている。
外国人力士の入門も、私は国際化とは全然思っていない。国際色が豊かになったとは思うが、それは日本人の新弟子の入門と同じである。たまたま外国人だから「国際化」と言われるが、単なる「新弟子」である。
私がそう思う理由の第一が、相撲社会の厳しさと、新弟子時代のつらさである。
外国人であろうと日本人であろうと、今風の男の子が耐えていくのは並大抵ではない。下の者に追い抜かれてみじめな気持になることもあろうし、肉体的限界まで自分を鍛えるつらさもある。上下関係も厳しいし、番付による差別も歴然とある。物のない時代ならともかく、これだけ物質的に豊かな今、何も相撲界でつらい思いをする必要はないのである。スター力士になれる保証はないし、一攫《いつかく》千金の世界でもない。親の七光りで幕下付出しからデビューできることもない。ひたすら自分自身の努力と頑張りにかかっているのであり、考えてみればこれほど割の合わない世界もない。
日本人でさえ日常的に着る人は少ない着物を着て、叩《たた》きあげられていく世界に、外国人も日本人もあるものかと思う。「神事をつかさどる男」になりきれなくて、途中で逃げ出すのも、外国人日本人問わずに多い。あの厳しさには耐えられない方が普通だと思う。
そんな中で高見山は耐え、小錦も武蔵丸も星安出寿《ほしあんです》も星誕期《ほしたんご》も耐えた。千代の富士や霧島が耐えたのと同じである。
外国人を新弟子時代から平等に扱ってきた以上、平等に横綱にするのは当然であり、それは国際化だのではなく、土俵の神に「選ばれた男」に過ぎない。