「水族館の床にふとんを敷いて寝て暮らしたい」というのが夢だった。
初めて六十センチ水槽を買ったその日、水を入れてポンプを入れて、水だけをながめて長いこと過ごした(ばか?)。そのままうとうと居眠りしていると、水の音は人の話声のようにも聞こえてくる。
水槽が十数本に増えた今も、水音にふと、そちらを見てしまうこともある。あれ、そうだ誰もいなかったのよね。そういえば昔、自宅の一室にスタジオを造った友人が、ひとりでそのスタジオにこもっていると、水の音が聞こえてくるんだと言ってた。単なるあぶないやつだったのかもしれないが、似た状況を思い出した私。
ほら、そばがらの枕で寝ていると、こめかみのところで、ザッ、ザッと音がしてたじゃん。あれ、脈がいわせてるんだと思うんだけど、だとしたらあれもそばがらという形を借りた水の音でしょう。水の中に血も入れるとしたらだけどさ。
自分のエクトプラズムを借りて霊を形にして見せるという芸(芸じゃない? こりゃまた失礼)があるが、あれと似たかんじで、水の音は生き物の音って気がする。それも、魚たちがさせている音というよりは、自分の中から聞こえてくる音のような。
日本はものすごく水族館の多い国なのだそうだ。やっとこさで五十数館行ったけど、それでも半分くらい。日本人は魚を食べるからね、と思うでしょ。イタリアだって食べるけど、水族館少ないぞ。まあ、ナマでも食べるのは日本人くらいか。
『水物語』という漫画(ビデオもあるよ)を描いたとき、どういう意味のタイトルなのですか、とよく聞かれた。水商売の水ですよ、と言うと、なーんだと反応するうかつな人もいたが、水商売の水は、水ものの水。水いらず、水くさい、水が入る、水に合わないの水じゃあないの? ということは、気にくわない、気が合わない、気にさわるなどと共通点がある。「気」って、個人的な内部のものみたいだけど、「水」は、人と人との間のもののように使用されているもよう。
つまり日本人は、人と人との間の空気のようなものを水と呼んでて、そしてそのくらい日本では、水とは人と人の間に当然存在するものだと思われてんのね、と私は勝手に解釈したわけ。フロイトの夢判断では、水は羊水、子宮と考えられるようだけど、これも私は気に入ってる。
私が飼っているのは主に肉食魚。ナマズも多いけど、どっちにしろかなり大きくなる。肉食魚に与えているのは金魚だ。たいていひと飲みだけど、たまに頭だけ残って転がったりもする。大型魚なので、暴れると水草なんか全部抜ける。だから水草をきれいにレイアウト、などは不可能。それでも私の心の奥のなにかにそっと寄り添ってくれているもの。私にとっては水槽とはそんなものだ。