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寝ながら学べる構造主義11

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:2 狂気を査定するのは誰?[#「2 狂気を査定するのは誰?」はゴシック体] フーコーは、歴史を「生成の現場」にまで遡行し
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2 狂気を査定するのは誰?[#「2 狂気を査定するのは誰?」はゴシック体]
 フーコーは、歴史を「生成の現場」にまで遡行してみることによって、「常識」をいくつも覆してゆきました。フーコーが覆した「常識」のうちでいちばん衝撃的なものは、おそらく精神疾患における「健常/異常」の境界という概念でしょう。
フーコーはその最初の学術的主題に「狂気」を選びました。彼が最初にめざしたのは「歴史から排除され、理性から忘れ去られたもの──狂気──に語る機会を提供すること」でした。(ドッス『構造主義の歴史』)
『狂気の歴史』において、フーコーは、正気と狂気が「科学的な用語」を用いて厳密に分離可能であるとする考え方は、実は近代になってはじめて採用されたものだ、という驚くべき事実を指摘します。
精神病者の「囲い込み」はヨーロッパでは一七〜一八世紀に近代的な都市と家族と国家の成立とともに始まりました。それ以前、狂人は地域社会においては共同体の成員として認知されており、固有の社会的役割を担《にな》っておりました。というのも、狂人は中世ヨーロッパにおいては悪魔という超自然的な力に「取り憑《つ》かれた人」と見なされていたからです。
狂人は「罪に堕《お》ちる」ことの具体的な様態であり、共同体内部ではいわば信仰を持つことの重大性の「生きた教訓」としての教化的機能を果たしていたのです。ですから狂人たちが身近にいること、その生身の存在をあからさまにさらしていることは、人間社会にとって自然であり、有意義なこととされていたのです。ある意味では、中世のヨーロッパでは、悪魔や神や聖霊や天使たちもまた人間たちとこの世界を分かち合っていたのです。フーコーはこう書きます。
[#1字下げ]「しばらく前まで、狂気は白日のもとで大いに活躍していた。『リヤ王』も、『ドン・キホーテ』もそうだ。しかし、それから半世紀も経たないうちに、狂気は押し込められてしまった。強制収容の城塞《じようさい》の中で、『理性』と、道徳の諸規則と、それがもたらす彩りのない暗がりに縛り付けられてしまったのである。」(『狂気の歴史』)
 近代以前においては、狂人が「人間的秩序」の内部に、その正当な構成員として受容されていた事情は本邦でも変わりません。
能にはしばしば「ものぐるひ」が登場します。例えば、『隅田川』には人さらいに拐《かどわ》かされたわが子を追って都から隅田川まで旅した母が登場します。彼女は、わが子を思う激情を人々に吐露することをいわば「職業」とする「をんなものぐるひ」です。
ですから、人々は「都より女物狂の下り候が。是非もなく面白う狂ひ候を見候よ」「さやうに候はば。暫《しばら》く舟を留めてかの物狂を待たうずるにて候」と、狂女の出現に期待を馳せます。そしてかの狂女が登場すると、人々は「面白う狂うて見せ候へ。狂はずはこの舟には乗せまじいぞよ」と「狂女ショー」をせがみます。
この心ないしうちに、狂女は在原業平《ありわらのなりひら》の「都鳥」の古歌を引いて、隅田川の渡し守に雅量を求め、その問答をきっかけにして、狂女と渡し守と舟に乗り合わせた人々は、誘拐された子どもの非業の死の物語と、亡骸《なきがら》を弔った草塚の因縁と、念仏に応える亡き人の声が彩なす「ミステリー・ゾーン」にしだいに引きずり込まれてゆきます……。
『隅田川』の「をんなものぐるひ」は、世俗と霊界を結ぶ「リンク」の役を果たしています。梓の弓音で生《い》き霊《りよう》を呼び寄せる同じ能楽の名曲である『葵上《あおいのうえ》』の「照日の巫女」や神語りする『巻絹《まきぎぬ》』の巫女も、その役割は同じです。この「ものぐるひ」する女たちは、現実の世界と異界とを接合し、現実の解釈可能性を拡大し、事件の蔵する意味に厚みを加えるというすぐれて社会的な役割を担っていたのです。
しかし、近代とともに、天使と悪魔と人間が世界を分かち合うための装置であった「ものぐるひ」や狂人は日の当たる場所から追放されることになります。一七世紀以後、人間主義的視点がしだいに根を下ろすにつれて、社会から狂人のための場所はなくなってゆきます。世界は「標準的な人間」だけが住む場所になり、「人間」の標準からはずれたものは、社会から組織的に排除されることになるのです。
一七世紀ヨーロッパをフーコーは「大監禁時代」と呼んでいます。それはこの時代になって、近代社会は「人間」標準になじまないすべてのもの──精神病者、奇形、浮浪者、失業者、乞食、貧民、などさまざまな「非標準的な個体」──を強制的に排除、隔離するようになるからです。標準化は時代が下るにつれてますます過激化し、近代ヨーロッパの「監禁施設」には、自由思想家、性的倒錯者、無神論者、呪術師からついには浪費家にいたるまで、およそ「標準から逸脱する」あらゆるタイプの人間たちが収監されるようになります。
[#1字下げ]「一七世紀になって、狂気はいわば非神聖化される。(略)狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。宗教的ではなく社会的な感受性が。狂人が中世の人々の風景の中にしっくりなじんでいたのは、狂人が別世界から到来するものだったからである。いま、狂人は都市における個人の位置づけにかかわる『統治』の問題として前景化する。かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する貧民、窮民、浮浪者の中に算入されるがゆえに排除される。」(『狂気の歴史』)
 私たちの常識とは逆のことをフーコーはここで書いています。狂人は「別世界」からの「客人」であるときには共同体に歓待され、「この世界の市民」に数え入れられると同時に、共同体から排除されたのです。つまり、狂人の排除はそれが「なんだかよく分からないもの」であるからなされたのではなく、「なんであるかが分かった」からなされたのです。狂人は理解され、命名され、分類され、そして排除されたのです。狂気を排除したのは「理性」なのです。
こうして狂人の組織的「排除」が進行するに従って、狂気の認定者も変わります。誰が狂人であるかを決定する権利が「司法」から「医療」に移行するのです。
一七世紀において、狂人の「囲い込み」を決定するのは司法官でした。「反社会性」において狂人は貧者や窮民と「同格」だったのです。ところが一八世紀になると、ここに新たな境界線が引かれます。狂人だけが別カテゴリーになるのです。彼らのための施設が作られます。彼らは「治療の対象」になります。症状は観察され、分類され、それは病理学的症候としてカタログ化されます。
狂人は司法官による収監の対象ではなく、医師による治療の対象となります。一見すると、狂人の処遇の仕方はより合理的、より人道的なものになったように思えますが、この「ハードな隔離」から「ソフトな隔離」への移行過程で、ある共犯関係が暗黙のうちに成就します。それは医療と政治の結託、「知と権力」の結託です。
古代において権力は剥き出しのものでした。それが中世から近代に下るにつれて、しだいに輪郭を曖昧にしてゆきます。それは必ずしも権力が非権力的になったということを意味するわけではありません。権力は、当たりの柔らかい理性的な「代理人」である「学術的な知」を介して、むしろ徹底的に行使されるようになった、フーコーはそう考えます。
3 身体も一個の社会制度である[#「3 身体も一個の社会制度である」はゴシック体]
 知と権力は近代において人間の「標準化」という方向をめざしてきた、というのがフーコーの基本的な考え方です。標準化はさまざまな水準で進行します。そのもっとも顕著なのが「身体」に対する標準化の圧力です。
私たちは身体というものを生理的・物理的「自然」であり、それは古今東西どこにおいても同じような機能を果たしており、古代人であれ現代人であれ、知覚や身体操作に、本質的な差異はないと思っています。しかし、フーコーによれば、身体もまた「意味によって編まれた」という点で、一個の社会制度に他なりません。
「意味によって編まれた身体」とはどういうものなのか、さきほどは「肩凝り」という身体現象が、日本語話者に固有のものだという例を挙げましたが、もう一つ例を挙げておきましょう。
「歩く」という動作は非常に単純なもので、世界中どこでも人間は同じように「歩いている」と私たちは考えがちですが、そんなことはありません。日本の伝統的な歩行法は「ナンバ」のすり足というものです。「ナンバ」というのは右足を踏み出すときは右半身が前に、左足を踏み出すときは左半身が前になる歩き方です。いまでは相撲のすり足に名残りをとどめているだけで、日常生活からはほぼ完全に消え去りました。
武智鉄二によれば、この歩行法は温帯モンスーン地帯の泥濘《でいねい》で深田耕作をする農民にとって労働するに際して、もっとも自然な労働の身体運用だったと推察されています。(『伝統と断絶』)
明治維新まで日本人は全員がナンバで歩行していました。ですから、中世の絵巻物でも江戸時代の浮世絵でも、「走っている人」はすべて「阿波踊り」のように手を斜め前方に差し出して、ナンバで移動している姿が描かれているのです。(養老孟司、甲野善紀『古武術の発見』)
この歩行法は明治維新後に政治主導で「廃止」されることになりました。軍隊の行進をヨーロッパ化するために新しい歩き方が導入されたからです。爪先を振り上げ、踵《かかと》から落とし、腕を反対に振ってバランスを取る、新しい歩き方を習得させるために、全国の学校で「朝礼」というものが行われ、子どもたちはこの歩き方をその幼い身体に刷り込まれました。しかし、数千年の伝統的身体運用が一朝一夕で改まるものでもありません。ナンバが完全に消えるまでに、さらにそれから百年以上の歳月を要しました。着物が普段着でなくなり、畳の部屋が減り、足袋や下駄を履く習慣が消えると同時に、ゆっくりとナンバも消滅したのです。(いまのTVの時代劇に出てくる俳優たちの身体運用は現代人の身体運用です。昔の人はあんなふうに歩いたり走ったりしていたわけではありません。)
私たちの身体は、そのときどきの固有の歴史的・場所的条件に規定されて「歴史化」されています。明治時代にナンバで歩行することは「近代化」にあらがうことでした。私が子どもだったころ、朝礼のときにナンバで歩いた子どもに教師は不必要なほど激しい叱責を加えていました。いまにして思えば、あれはナンバで歩くことを、「国策としての身体の近代化」に異議を唱える反逆行為とみなした明治の学校教育の「名残」だったのです。
ある身体運用をすることが、あるいはある身体部位を意識することが、社会的な記号として機能し、あるメッセージを発信する、ということがあるのです。
アメリカ開拓期の伝説的英雄たち(ダニエル・ブーン、デイビー・クロケットら)はいずれも法外な「巨体」の持ち主であると伝えられています。ある伝承によれば、ダニエル・ブーンはケンタッキーの彼の住まいの百マイル先に他の開拓民がやってきたときに「ヤンキーの体臭が臭くてかなわない」とこぼして、さらに奥地に引っ越したと言われています。つまりダニエル・ブーンの「パーソナル・スペース」は半径百マイルあったわけです。(亀井俊介『アメリカン・ヒーローの系譜』)
開拓時代の伝説的英雄たちは、それだけ「場所|塞《ふさ》ぎ」な存在であったわけですが、一九世紀はじめの北米では、それこそが彼らの社会的威信の記号でした。その時代のアメリカでは、「身体は大きければ大きいほど、よい」という身体観が公共的に承認されていたのです。
それから二百年後のアメリカでは、「場所塞ぎである」ことは社会的威信どころか自己管理能力の欠如の記号とされています。現代のアメリカ紳士は必死になってダイエットに励み、シックな服装をし、控え目なコロンをつけて、できるだけ「目立たず」「場所塞ぎにならない」ことをめざしています。それはごく単純には、住民一人当たりの国土面積が開拓時代とは比較にならないくらい狭隘になったせいです。一人当たりの空間が狭くなれば、「理想的身体」のあり方も変わります。かつて開拓時代の男たちにとって、成功と力の象徴であったはずの腹部の贅肉《ぜいにく》を削ぎ落とすために、いまのアメリカ男性は必死になってワークアウトにいそしんでいます。歴史的状況が変われば、身体のあり方も変わります。おそらく、それが感じるであろう快楽も、苦痛も。
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