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黒い扇06

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:秘密旅行宴席へ能条寛が戻ってみると、会は既に終わっていた。客の大半は帰ってしまって、ガランとした広間に主催者側の数名が後
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秘密旅行

宴席へ能条寛が戻ってみると、会は既に終わっていた。
客の大半は帰ってしまって、ガランとした広間に主催者側の数名が後始末の相談でもしている様子だ。
寛はロビーから車寄せに出た。
「親父《おやじ》の奴《やつ》、先に帰っちまったな」
案外、誰《だれ》かに誘われて二次会に銀座へ流れて行ってしまったのかも知れない。車の鍵《かぎ》を探してポケットへ手を入れた。キイホールダーの冷たい触感が温まった指先に快い。
車のドアを開けて、寛はキイホールダーを眺めた。金色のケースに入った小さなトランプが下がっている。横が二センチ、縦が四センチ足らずのかわいいトランプカードである。この車を買った時、浜八千代がプレゼントしてくれたものだ。
ハンドルを握って、寛は行く先を定めずにスタートした。無意識に銀座へ向かう。顔|馴染《なじみ》のバーにでも寄る気だった。
「まてよ……」
バーの暗がりの中で女の子にきゃあきゃあ騒がれるのもうるさいし、サインをねだられるのも苦手ではある。それ程、飲みたい酒でもなかった。
一方交通で車の出入りのやかましい通りを抜けて、銀座の裏側へ出た。ずらりと並んでいるバーのネオンも、この辺りでまばらになる。その代わりに料亭の名を入れた外灯がちらほらと見えはじめる。新橋の花柳界へ近い。「浜の家」と粋な文字の浮かんだ玄関へ、寛は車を止めた。
(どうせ、やっちゃんは帰っていまいが、是非、話したい事があるので、明日の夕方、撮影所から電話する。その時間に外出しないでくれと、彼女のお袋さんに言伝てを頼んでおこう……)
理屈は勝手なものである。本心は中村菊四と一緒にナイトクラブへ出かけた八千代が気になってやりきれないのだ。
(染ちゃんが一緒だから……)
まあ、どうという事はないだろうが、中村菊四が八千代に充分、関心があると染子から聞かされたばかりだけに、心中、甚だ穏かでない。
「浜の家」の入口は敷きつめた玉砂利に水が打ってあって、玄関|脇《わき》の木賊《とくさ》の緑が外灯の光に生き生きとして見える。内玄関を入ると、客座敷のにぎやかさが手に取るようだ。
「あら、音羽屋の若旦那……」
顔を出したのは八千代の母親であった。座敷へ挨拶《あいさつ》にでも行く所らしい。
「お珍しいわね。さあ、どうぞ、どうぞ」
寛はつい、靴を脱いだ。
「相変わらず、ご繁盛だね」
母親は気さくな微笑で受けた。
「おかげさまでね。さあ、おあがんなさいな。ちょうど八千代も帰って来ているのよ」
浜八千代が家にいると聞いて寛は眼を丸くした。
「八千代ちゃん、帰ってるんですか」
「ええ、もう三十分も前かしら。今日はね、ほら劇作家の先生のお祝の会で、余興に出たもんで……」
寛は黙ってうなずいた。なんにも知らない八千代の母親に今更、その祝賀会へ自分も出席していたとは言い難い。
それにしても、八千代が帰宅していたのは意外だった。中村菊四とナイトクラブへは行かなかったのか。
「寛ちゃんが見えたと聞いたら喜びますよ。たしか、部屋でセーターかなんか編んでましたよ」
八千代の母親はいそいそと奥へ呼んだ。
「八千代、寛ちゃんがお見えだよ。八千代」
八千代はすぐに返事はなかった。
「なにしてんだろう。あの子、部屋にいる筈《はず》なんですけどね……」
せかせかと戻りかける母親を寛は制した。
「あ、小母さん、いいんですよ。お客で忙しんでしょう。僕、八千代ちゃんの部屋へ行ってみますから……」
「そう、そいじゃ。そうしてちょうだいな。折角、いらしたんだからゆっくりしていらっしゃいよ。私もお座敷の方が一段落したら話を聞きに行きますからねえ。八千代にそう言って、お酒でもウイスキーでも出させて……すぐに、おいしいものを作らせるから……」
「ありがとう。あんまりかまわないで下さい。勝手に我儘《わがまま》を言いますから、心配しないでおいて貰《もら》いますよ」
寛ははずんだ声で応じた。朗らかな足取りで廊下を八千代の部屋へ急ぐ。
「やっちゃん、僕だよ、入ってもいいかい」
障子の前で寛は神妙に訊《き》いた。
「どうぞ、お入り遊ばせ」
取り澄ました八千代の答えも、なんとなく機嫌がいい。
障子を寛が開けて、二人は顔を見合わせた。にじみ出るような微笑が双方の頬《ほお》に浮かぶ。
「やっちゃん……」
寛は八千代の前の椅子《いす》に腰を下した。日本座敷に絨毯《じゆうたん》を敷いて、洋室風の応接セットを入れている。部屋全体の色調が淡い藤《ふじ》色なのも八千代の好みだった。
「行かなかったのかい……」
寛は素直に言った。八千代はソファに坐《すわ》って編み物をしている。もう普段の洋服に着替えていて、キルティングのスカートから自然に伸ばした足がすんなりと健康的だ。
「行かなかったの」
八千代は編み針へ眼を落としたまま応じた。
「どうして……?」
「どうしてって……」
毛糸を置いて、立ち上がった。
「ヘネシーのブランデー、買っといたけど……召し上がる……?」
寛の返事も待たずに八千代はガラス戸棚を開けた。花模様のコーヒー茶碗《ぢやわん》やセット、それにカトレアの花を散らしたデザインのガラスのコップの大きいのや小さいのや、ブランデーグラス、ソーダーグラスなどのおそろいが並んでいる横に、まだ封を切っていないヘネシーのブランデーの瓶が見えた。
「わざわざ、買っといてくれたの」
「だって、寛の好物でしょ」
「好物か……」
思わず笑って、その心づかいがひどく嬉《うれ》しい。
「自分で封を開けてね。氷とお水を取ってくるから……」
フレアスカートの裾《すそ》をひるがえして、八千代はいそいそと出て行った。入って来た時は氷と水の他にチーズとクラッカーを木皿にのせて来た。
「ちょっと香だけ嗅《か》いでごらん。いい匂いだから……」
コニャックの芳醇《ほうじゆん》な香りに寛は目を細めて八千代を誘った。顔だけ寄せて、
「わあ、きつい匂いだ……」
八千代は子供っぽい声をあげた。氷片を氷ばさみで挟んでコップの水へ落し、椅子《いす》へ戻りながら小さく別に言った。
「こないだはごめんなさい。あんな悪口みたいな事を言っちゃって」
「なにさ、悪口みたいなことって……」
寛はブランデーグラスを両掌《りようて》で包みこむようにしながら、わざととぼける。
「丹波篠山《たんばささやま》、山家《やまが》の猿がタキシード着たみたいだって言ったこと……」
八千代はいよいよ伏し目になる。
「なんだ。あれは僕の事、言ったんじゃないんだろう。一般の日本の男性諸氏のことなんじゃないのかい」
八千代は上目づかいに相手を見た。くすんと笑う。
「ヒロシって、相変わらず自信家ね」
「そうさ。少なくとも君の前じゃ天下の二枚目だもの」
「それ、どういう意味」
「いや」
寛は照れくさそうにまばたきをした。
「なにしろ、僕はタキシードだろうと、フロックコートだろうと着こなしならまかしといてくれってんだ。そうだろう、やっちゃん」
「さあね」
八千代は自分のために戸棚からオレンジジュースを出した。
「そういう時には、嘘《うそ》にもうんというのが近代人のエチケットだぜ」
「そんなら、お義理にうんだわ」
「馬鹿《ばか》にしてやがら……」
二人の間に軽い笑い声が湧《わ》いた。笑い止んだとたんに寛が言った。
「物は相談だけど、一緒に修善寺《しゆぜんじ》まで行ってくれないかな……」
「修善寺へ……?」
八千代は呆気《あつけ》にとられた。
「修善寺へなにしに行くの?」
「遊びに行くのさ」
寛はチーズクラッカーをつまんだ。
「仕事がちょうどキリでね。来週三日ばかり休みがとれるんだよ。もうスキーはシーズンオフだしゴルフは好きじゃないし、せいぜいゆっくり温泉にでも寝に行こうかと思ってさ」
まじまじと寛の顔をみつめて、八千代は低く応じた。
「温泉へ休息に行くのならなにも修善寺に限らないでしょう」
「修善寺でないと具合が悪いんだ」
「なぜ……」
「今度の次の、その次の映画がどうも修善寺物語になりそうなんだ。知ってるだろう。芝居の、岡本|綺堂《きどう》先生の作品だよ」
「知ってますとも。あなたのお父様が夜叉王《やしやおう》、ついこの間、明治座でおやりになったじゃないの。あれを映画化するの」
「そうらしいよ。秋の大作にするらしい」
「寛は、もし出演するとすれば頼家《よりいえ》の役ね」
八千代はちらと歌舞伎《かぶき》の舞台を想像した。鎌倉二代の将軍頼家は悲劇の主人公らしく白面の貴公子である。
「そういう話が来ているんだけど……」
「ミスキャストね」
ずばりと八千代はいった。
「僕もそう思うよ。だから、演《や》ってみたい気もするんだ」
「ヒロシも随分、役者づいて来たのね」
微笑して八千代は逸《そ》れた話題を前へ戻した。
「でも、修善寺へ行くのは、その映画のためじゃないわね。映画の話が未決定なのに、早合点で修善寺と史蹟《しせき》を訪ねるなんて可笑《おか》しいわ」
寛は答えず、チーズクラッカーを噛《か》んでいる。かまわず八千代は続けた。
「それに、ヒロシの言葉どおり、休息のために修善寺へ行くんならなにも私と行くわけないでしょう。付き人の佐久間さんとでも出かけた方がお似合いだわ」
「八千代ちゃんと一緒でないと困るんだよ」
八千代は相手の眼を正面から見た。寛はブランデーのコップを左手に持ったまま、部屋の隅のレコードプレイヤーのスイッチを入れた。陽気なジャズが流れ出す。ドラムの音が部屋に響いた。
「てへ、派手にさわぎやがんの」
ラジオのダイヤルを廻《まわ》すと三味線の音が聞こえて来た。美智子妃殿下が無事に親王《しんのう》様を出産なさったと報道されたのは先週の事である。その慶祝番組の一つらしく、曲は長唄《ながうた》の「鶴亀《つるかめ》」であった。
八千代は寛の背後から手を伸ばしてスイッチを切った。覗《のぞ》き込むように顔を寄せて言った。
「ヒロシ、貴方《あなた》も黒い扇に関心を持ったのね」
 二月の末なのに気候は四月に近かった。
東京駅|八重洲口《やえすぐち》の構内にあるアートコーヒーの喫茶部で、八千代は落ち付かない顔を入口へ向けていた。
膝《ひざ》の上には大型のピンクのハンドバッグが一つ。それとキャンディやチョコレートを入れた紙袋が脇《わき》にコートと一緒に置いてある。
昼下りの喫茶室は、かなり混んでいた。駅の構内だけに利用者はビジネスが目的らしい。中年の男性が目立って多かった。
卓上のフリージヤの花から、八千代が何度目かの視線をドアへ向けた時、黒いふちの眼鏡《めがね》をかけ、髪をきっちりと七三に分けた若い男が入って来た。チャコールグレイのトレンチコートを着ている。すっと店内を見廻《みまわ》して、まっすぐに八千代の傍へ近づいた。
「待ったかい、やっちゃん」
声を聞くまで八千代は気づかなかった。
「ヒロシ……なの」
まじまじと顔をみつめた。
「わかんないだろう。これなら」
あたりを窺《うかが》って、そっと眼鏡をはずした。
「眼鏡をかけなくとも、見違えそうだわ。ああ、その髪の感じね。嫌だわ。ポマードのにおいがぷんぷんする……」
寛の短く、ぼさぼさに油っ気のない髪形は、映画俳優としての能条寛のトレードマークでもあった。
「変わるもんね」
八千代は、ほっと嘆息をついた。
「本当は、つけ髯《ひげ》もしてこようかと思ったんだけど、八千代ちゃんに嫌われるとまずいから止めたんだよ」
眼鏡をかけて、腕時計を覗《のぞ》いた。
「まだ、いいな。おい、僕もコーヒー」
声をかけられたウェイトレスも勿論、彼が人気スターの能条寛とは気がつかない。
「そんな変装、よくやるの」
八千代は冷えかけた自分のコーヒーを唇へ運んだ。
「時々ね。そうでもないと外出するたんびに背広をやぶかれたり、ネクタイ取られたりじゃ、間尺《ましやく》に合わないからねえ」
「変装して悪いことをするか……なるほどねえ」
「おいおい、何を考えてるんだい」
分別臭い笑いを浮かべた八千代へ、寛は大きく手をふった。そんな動作にいつもの彼が出て、八千代は安心する。なんとなく、能条寛でない人間とこれから旅行へ出発するような心細さがあったのだ。みつけない寛の変装のせいである。
「だが、よく出て来られたね。僕はどたんばになって、やっちゃんが駄目だと言うんじゃないかと、ひやひやしてたんだ。今日も撮影所で仕事をしていながら、電話がかかってくると君からかと思って、その度にびくびくもんさ」
寛は八千代を見た。
「染ちゃんをダシにしちゃったのよ。母には染子さんと修善寺まで遊びに行ってくるって嘘《うそ》をついて、染ちゃんには、どうしても海東先生の死因について調べたいことがあって修善寺へ行きたいんだけど、一人で行くんじゃ母が許可しないから一緒に行ったことにしといてって……」
八千代は眼を伏せた。
「嘘《うそ》をつくのって嫌なものね。辛いわ」
「ごめんよ。嘘をつかせたのは僕なんだから罪は全く僕にあるよ。ごめんな、やっちゃん……」
寛は長い指で前髪をすくい上げようとして、ポマードのついてるのに気がつき、中止した。
「罪だなんて、大ゲサね」
八千代はつとめて明るく言った。折角の旅行を出発から暗いものにしたくない。
「でもね。染ちゃんて正直だから、欺《だま》すのに苦労しちゃった。私一人じゃ心配だから、お座敷休んで一緒に行こうか、なんて言い出すんだもの。断るのに又、一苦心よ」
「あいつは僕もにが手だ」
寛は先週の祝賀会の日、ロビーでの彼女との会話を思い出して苦笑した。
「彼女、僕の事、なんとか言ってたかい」
八千代は笑って、答えなかった。
時計の針が三時十五分前を指した時、二人は立ち上がった。八千代がコートを着ている間に寛はレジスターでコーヒー代を払う。ついでにリーフパイの袋入りを買ってポケットに突っ込んだ。
十五時発、伊東、修善寺行、いでゆ号はかなり混んでいた。客車もほぼ一杯である。もっとも座席は指定だから心配はない。
八千代を窓ぎわへ坐《すわ》らせて、寛はコートを脱いだ。
「やっぱり車で行けばよかったかな」
一人言に呟《つぶや》いた。昨年の暮れ、海東英次の事件が起こった時と全く同じコースで、というのが今度の旅の条件だった。だが、同じ時間という規定は最初から失敗している。
昨年の忘年旅行の際は、十四時のたちばな号だった。寛の仕事の時間の都合で、それには間に合わなかった。
車内の客の大半は伊東へ向かうゴルフ客らしかった。あみ棚にずらりとゴルフバッグが並んでいる。
新婚旅行組が寛達の座席の通路をへだてた隣へ落ち着いている。女だから八千代はそれがひどく気になった。
発車ベルが鳴って、車は大きく揺れ、走り出した。車窓から八千代は遠ざかる銀座の辺りをみつめた。生まれてはじめて母に嘘《うそ》をついてまで異性と二人っきりで出かける旅である。寛を信頼してないわけではないが、やっぱり不安もかくせない。
「やっちゃん」
耳のそばで寛が真剣な声で言った。
「ぼんやりしてちゃあいけないよ。昨年の修善寺行の時、まず往きの車内の事から、なんでも想い出してくれ。海東先生に関する事はなにもかもだ。みかんをいくつ食ったか、アクビをしたか、笑ったか、便所へ行ったのはどの辺りか、なにしろ想い出せる限りのことを洗いざらい、言ってくれよ」
「そんな事、言ったって、私は行きがけから海東先生が修善寺で急死なさると見通して注意してたわけじゃなし、それに三か月も前のことですもの」
それでも八千代は記憶をたどるような眼ざしになった。
「そうね。列車は一箱全部、茜流の関係者だったの。切符はそろえて買ったからだいたい、並んで座席が取れたのよ。海東先生はもちろん、ますみ先生と並んで、その前側がますみ先生の内弟子の五郎さんと海東先生のお社中《しやちゆう》の方が一人」
「通路をへだてた横の席は……」
「長唄《ながうた》の人たちよ。海東先生のお社中」
「君はどこにいたのさ」
「茜ますみ先生たちの後。私と染ちゃんと、りん子ちゃんと、内弟子の久子さん……」
「りん子ちゃんっていうと、例の細川昌弥の愛人だね」
「そう。細川と自動車事故を起こしたのが十二月の半ばごろだから、約半月も前だわ」
「だけど、もう交際してたんだろう」
「ええ、昨年の春ごろかららしいもの。そう言えば旅行中、ずっと染ちゃんがお説教してたっけ。往きの汽車ん中でも、あんなドンファンに欺《だま》されちゃいけないって、そりゃくどい位にね。恋愛している人に、いくら第三者が忠告したってぬかに釘《くぎ》なんだけど、染ちゃんって人は、なんでもムキになるもんで……」
八千代は気がついたように紙袋をのぞいた。寛に微笑して言った。
「なにか、召し上がる……」
紙袋を見て、寛は笑い出した。
「なんだ、まるでピクニックに行くみたいだな。女の子ってのはどこへ行くにもお菓子を忘れないんだね」
「あら、自分だってアートコーヒーでリーフパイを買ったくせに」
「あれはね、飯がわりにしようと思ったんだ。実を言うとまだ午飯《ひるめし》を喰《く》ってないんでね」
「たぶん、そうだろうと思ったからいいもの持ってきてあげたのよ」
八千代は紙袋の底からサンドイッチの四角い箱を掴《つか》み出した。
「ヒロシの好きな�赤トンボ�のビーフサンドよ」
「そいつは有難い。ついでに横浜でジュースでも買うか」
窓の外は川崎あたりである。工場から立ち上る煙で、空がどんよりと暗い。煙突が幾本も突っ立っている。
横浜でジュースを買うという寛の言葉で八千代は思い出した。
「そうだわ。横浜で染ちゃんがシューマイを買ったわ」
「あいつ、どこへ行っても喰《く》い気が張ってやんの。午飯《ひるめし》喰って出かけて来たんだろう」
サンドイッチを頬《ほお》ばりながら寛はずけずけと言う。
「シューマイを三箱買って……」
「それ、みんな染ちゃんが喰ったか」
おどけた寛の台詞《せりふ》に八千代は笑い出した。
「まさか。一箱はますみ先生にあげて、一箱を四人で食べて、もう一箱は……」
八千代は妙な顔をした。
「あら、もう一箱はどうしたのかしら」
「喰っちまったんだろ、いずれ誰《だれ》かが……」
「でも、汽車ん中では食べなかったわ。宿屋では、もうシューマイの事なんか忘れたし……」
「染ちゃんが持って帰ったんじゃないか」
「さあ、あの人なら旅行して食べる物を東京まで残して帰るはずないけど……」
海東英次の事件でてんてこまいをしたから案外、バッグにしまい忘れてもって帰ったのかも知れない、と八千代は思った。
「そう言えばシューマイってビールのおかずにいいものなの」
「なぜさ……」
寛はポケットを探って百円玉をつかみ出した。汽車は横浜のプラットホームへすべり込んだ所だ。窓を開けて、
「おい、ジュース」
とどなっている。八千代はおかしくなった。人気スターの彼が駅売りのジュースを買っている光景なんぞ、彼のファンが見たらなんと言うだろう。
二本のジュースを八千代に渡し寛は悠々と窓を閉めた。
「お飲みよ」
一本を受け取ってストローにすぐ口をつける。八千代も甘すぎるオレンジジュースをごくごくと飲んだ。車内の暖房が強いせいか、しきりにノドが乾く。そう言えばこの前の修善寺行きの時も横浜で牛乳を買って飲んだ。
「へえ、シューマイばかりか牛乳もか、肥る肥ると気に病むくせになあ……」
「でも、本当にノドが乾いたのよ。海東先生たちなんかビールを買って召し上がってたわ。それで染ちゃんがオサカナにどうですかってシューマイをあげたのよ」
「なるほど、それでシューマイがビールのおかずにいいってわけか」
「海東先生がそうおっしゃったのよ。僕はシューマイでビールのむのが一番うまいって、それでみんなが笑っちゃって、ますみ先生がそんなの野暮の骨頂だなんておっしゃるし」
「そうだなあ、シューマイにビールねえ」
その時は、寛もなんとなく笑い捨てた。
大磯《おおいそ》を過ぎる辺りから、車窓から見る風景に梅が目立った。白くかすんだように咲いている。時折は赤い桃の花も見えた。
「やっぱり、あたたかいのね」
八千代はうっとりと眼を細める。
「もう春か、そろそろヨットの手入れでもするかな」
寛は食べ終えたサンドイッチの箱を丸めて腰かけの下へ突っ込みながら言った。
「相変わらず、気だけは早いのね……」
「なあに、春だの夏だのって季節はかけ足でやってくるんだぜ」
ふと、隣席の新婚組を見、それから八千代の足元へ眼を落とした。バッグとおそろいのピンクのカッターシューズをはいている。春の色であった。
不意に八千代の耳へ口を寄せて言ったものだ。
「ねえ、やっちゃん、隣のハネムーンのカップルよか、僕らの方がずっとセンスがあるねえ。服装じゃないよ、人間のカップルとしてだよ……」
「馬鹿《ばか》ねえ、そんな……」
八千代は少し赤くなって寛を遮った。観察するところでは、年齢も寛と八千代くらいだろう。男性はサラリーマンタイプ。女性は、やっぱりビジネスガールという感じである。同じ職場での恋愛結婚というのかも知れない。男性は細かい縞《しま》のチャコールグレイの背広、女性の方はそれより、やや太目の同じ縞のスーツだった。近頃、流行のペア(お揃い)スタイルというのだろう。
軽い羨望《せんぼう》と同時に、八千代の胸にも甘いものが湧《わ》いて来た。
隣で軽い寝息が聞える。八千代は慌てて寛を眺めた。満腹のせいか、車内の温かさに連日の疲労が出たのか、寛はクッションにもたれて眠っている。
「子供みたいな顔をしている……」
八千代はずっと昔、よくそんな寛の寝顔を見たと思った。小学校時分、遊びに来ていた八千代のままごとのダンナ様になった寛は、八千代が花や草の実でお料理を作っている中に花ゴザの上にひっくり返って眠ってしまうのが常であった。
「ヒロシって、本当にねぼすけね」
と頬《ほお》をつねったり、背中を叩《たた》いたりして笑った日がなつかしい。
「あの頃《ころ》とちっとも変わってないわ。ヒロシの寝顔って……」
所在なく、八千代は車窓へ眼をやる。白い波の打ち寄せる浜辺がいつ見ても美しい。夕暮れ近い水平線も朧《おぼ》ろ朧ろに夢のようだ。
準急いでゆ号の乗客は熱海で、大半が下車してしまった。修善寺までの客は数える程しかない。がらんとした車内は、急に暗く、たそがれがしのび込んで来たようだ。
修善寺駅に着いたのは定刻通り、十七時三十分だった。
シーズンオフでもあり、夕暮のせいもあって山間の小駅はひどく裏ぶれた感じがする。旅館名を染めた小旗を持った男が三、四人、改札口に立っていた。
「やっちゃん、こっちだよ」
寛は旅館の客引きをやりすごしておいて切符売場を覗《のぞ》いている。駅員と二言三言、問答して八千代の方へ戻って来た。
「驚いたよ。明日の切符は、一等はもうないんだってさ」
八千代は汽車の時間表を仰いだ。東京行の準急は平日の場合八時発いでゆ号と、十四時二分発いこい号の二本しかない。
「八時の方なら、あるんじゃない」
八千代はいたずらっぽく笑った。寛の寝坊を知っての上の意地悪である。
「冗談じゃないよ。それじゃ、まるで修善寺くんだりまで寝に来たようなもんだ」
「嫌だわ。ヒロシ……」
「なにが……」
八千代は顔をそむけた。
「ああ、寝に来たってのがいけないんだな。馬鹿《ばか》だな。そう神経質になっちゃいけないよ」
寛がフランクに笑ったので、八千代は自分の思いすごしが気恥ずかしい。
「どうする。一日延ばそうか、東京へ帰るのを……」
「駄目よ。一晩って母に約束して来たんですもの。それにヒロシだって明後日の夕方に、雑誌社の座談会があるんじゃないの」
「夕方六時からだもの、それまでに帰ればいいさ」
「あなたはよくても、私は駄目。私だけ先に帰るわ」
「そうはいかない。一人でこんな所に置いて行かれてたまるもんか」
寛は閑散とした構内を見回して肩をすくめる。
「それじゃ宿で車を頼んでもらって、東京までとばそうか」
八千代は気の進まない表情をした。
「なんだか勿体《もつたい》ないわ」
目を落としてつけ加えた。
「そりゃ、今のヒロシにとって車代ぐらいはなんでもないでしょうけれど……どうして二等で帰るのはいけないの」
寛は頭へ手をやった。
「わかったよ。二等で帰るよ」
「人気スターの沽券《こけん》にかかわるかしら」
「とんでもない。僕は席がなくたってかまやしないけど、やっちゃんが疲れやしないかと思ってさ。本当だよ。僕なら一等だろうと二等だろうと同じようなもんさ」
寛は大股《おおまた》に切符売場へ戻って行った。
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