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黒い扇07

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:楓《かえで》の間の客修善寺駅前からタクシーに乗り込むと、寛は行先を、「笹屋旅館」と指定した。タクシーは桂《かつら》川に架
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楓《かえで》の間の客

修善寺駅前からタクシーに乗り込むと、寛は行先を、「笹屋旅館」
と指定した。
タクシーは桂《かつら》川に架かった危うげな橋をごとごとと渡った。昨年の台風の爪痕《つめあと》が川底や土手や河原にまだ生々しく残っている。トラックが漸《ようや》く渡れる程のこの橋も台風後に出来た仮橋で、それに並んで新しい鉄橋が骨組だけ工事が終わっていた。
「笹屋旅館へ電話しといたの?」
山ぞいの道をタクシーにゆられながら八千代は念のために聞いた。
「なんで……?」
「今夜、泊まるんでしょ」
「そうだよ」
「だったら東京から予約の電話をしといたかって訊《き》いてるのよ」
てっきり、そうした手配は済んでいるものとばかり思って尋ねたのだが、寛はあっさり首をふった。
「いや、別に……」
「嫌だわ。ヒロシったら……」
八千代は心細い顔になった。
「不意に行って、もし部屋がないって断られたら、どうする気なのよ」
「大丈夫、シーズンオフだし、ウィークデーだもの、混んでる筈《はず》がないよ」
「だって万が一……」
「やっちゃんって案外、苦労性なんだね」
「ヒロシこそ、無鉄砲だわ」
「大丈夫ったら大丈夫だよ」
寛は煙草の煙を窓外に吐いてゆったりとクッションにもたれている。八千代は少々、つむじをまげた。
「いいわ。もし笹屋旅館へ行ってお部屋がなかったら、私、そのまんま東京へ帰っちゃう」
ハンドルを握っていた運転手が八千代の言葉に笑いながら言ったものだ。
「心配ないですよ。来月になると新婚さんで少しは混むんですがね、今月はどこの旅館も空《す》いてますよ」
寛が、大きく相槌《あいづち》をうち、八千代は知らん顔を装った。
タクシーは十分程で修善寺の温泉街へ入った。せまい道の両側にずらりと土産《みやげ》物の店が並び、その裏が桂川の流れになっている。温泉街共通の街の造りであり、町の風景であった。笹屋旅館は温泉街を突っ切って、かなり山の手の方へ向った奥の台地に建っている。周囲は畑地で梅林が右方へ長く続いていた。ここ一軒だけが孤立している。
タクシーが、八千代にとっては見憶《みおぼ》えのある笹屋旅館の入口へ止まると、番頭や女中がわらわらとかけよって来た。
「いらっしゃいまし」
という声に囲まれて、八千代は寛の厚い肩のかげに小さくなった。
能条寛と浜八千代が通された部屋は、長い廊下を幾曲がりもして階段を上がった離れ造りの部屋であった。入口に桂の間と木札が下がっている。
階段を上がって、と書いたが笹屋旅館は高台の中腹に建っているので奥へ行く程、階段を上がるが二階になるわけではない。
暗くなりかけた庭には筧《かけい》を引いて水が流れていた。竹垣の向うは畑である。
「お疲れになりましたでしょう」
若い女中が茶と名物らしい餅《もち》菓子をテーブルに並べた。三間続きで隅にテレビがあり、電気|炬燵《ごたつ》も据えてあった。
「奥様、お風呂《ふろ》はこちらでございますから……」
ぎこちなく庭を見ていた八千代が女中の言葉に真っ赤になった。
「ああ、ちょっと君……」
廊下で番頭と立ち話をしていた寛が、慌《あわ》てて声をはさんだ。
「もう一つの方の部屋はどこなんだい」
女中は怪訝《けげん》な顔で立って行った。番頭が女中にささやき、女中は自分の早合点にしなを作って笑った。
「それはどうも、てっきり御新婚さんと思ったもんですから……」
番頭は寛へ丁寧なうながし方をした。
「御案内致させますからどうぞ……」
寛はおうようなうなずきをみせたが、ひどく照れていた。
「この上のお部屋でございます……」
女中が先に立ち、寛は入口に出ていた八千代に片眼をつぶってみせてから、又、階段を上がって行った。
「雑誌社のお仕事だそうで、大変でございますね……」
残っていた番頭に声をかけられて、八千代は狼狽《ろうばい》した。とっさに寛がそういう説明をしたものと判断する。
「はあ……」
女の曖昧《あいまい》な微笑は、こういう時にはまことに都合がいい。
「どうぞ、御ゆっくり、御用がございましたら御遠慮なくお申しつけ下さいまし」
番頭がひっこむと、入れかわりに階段を女中が下りて来た。
「先程はとんだ間違いを申しまして……」
八千代はそれにも微笑している他はない。
「あのお食事の方は先生のお部屋でご一緒に、と記者の方がおっしゃいましたが、よろしゅうございましょうか」
八千代は途方に暮れた。
「どうぞ……」
とりあえずの返事に、女中は再度、丁寧なお辞儀をして下がって行った。後姿の消えるのを見すまして八千代は階段を上がる。百合《ゆり》の間と札の下がった部屋から寛が出てくる所だった。
「ヒロシったら、あんたなんて言ったの、女中さんや番頭さんに私達のこと、なんて説明したのよ」
八千代につめ寄られて、寛はにやにや笑った。
「まず説明申し上げ候。これなる女性は近頃《ちかごろ》売り出しの女流随筆家、紫三千代女史、このたび我が社の企画によって修善寺の歴史を訪ねて、というルポルタージュを御依頼申し上げた所、快く御承諾下さいましたので、担当記者付き添いの上、当笹屋旅館に御一泊……という趣向さ。どうだい、下手な小説家顔まけの筋立てだろう」
「それじゃ、私が女流随筆家で、ヒロシが雑誌記者……」
八千代はあっけに取られた。
「そうさ、紫三千代先生……」
「馬鹿《ばか》にしてるわ、そんなの……」
唇をへの字に結んで、八千代は本気で憤《おこ》った。口から出まかせにした所で、女流随筆家などとは人を軽蔑《けいべつ》するのもいい加減にして貰《もら》いたいと思う。
「なんでさ。なんで女流随筆家が、君を軽蔑したことになるのさ。随筆家ってのは文学者だぜ。立派な職業じゃないか」
寛は相変わらずとぼけた笑いを止めない。
「人にもよりけりよ。私がそんな文学者に見えるかどうか考えてごらんなさいよ」
「見えるさ。第一、やっちゃんってのはなかなか文才があるよ。葉書一枚でも実に気がきいていて、情がこもっていて、君にラブレターもらったら魂天外にとぶことうけあいだよ。残念ながら僕はまだ貰《もら》ったことがないけどさ……」
不意に八千代は踵《きびす》を返した。スリッパの音を立てて階段を下りる。自分の部屋へ入ると鏡台の前に坐《すわ》った。
(冗談にも程があるわ。ヒロシっていい年齢《とし》して悪ふざけばかりするんだもの……)
母を欺《だま》してまで出かけて来た旅行なのに、と八千代はぷりぷりした。
(海東先生の死因について、修善寺の実地検証に行くんだなんてエラそうな事、言ったって、てんで無計画なんだから嫌になっちゃう……)
唇の上だけで呟《つぶや》いて、八千代は思い直した。子供っぽい悪戯《いたずら》ばかりしている寛が頼りにならないのだから、せめて自分だけでも積極的に調査しなければまずい。
(折角、修善寺まで来たんだもの、無駄にしたら意味がないわ)
八千代は鏡をのぞいて髪だけ直すと、勢い込んで部屋を出た。
長い廊下を幾曲がりして本館の方へ出た。昨年、茜流の慰安旅行で来た時は本館の部屋へ泊まったものだ。今日はジュースの会社の団体が入っているらしい。
本館の一階にロビーがあり、その横がピンポン室、隣が玉突き、それからホールと並んでいる。ホールの片すみにはスタンドバーがあった。入口の所に土産《みやげ》物の売り場がある。
八千代は品物を見るような恰好《かつこう》でさりげなくその売り子に声をかけた。
「そのコケシを見せて頂けません」
八千代が指したのは頼家《よりいえ》と桂《かつら》をモデルにしたらしい一対《いつつい》の人形である。無論、芝居の「修善寺物語」にちなんだものだ。
グリーンの事務服を着た売り場の女の子はおさげ髪の、せいぜい十七、八歳くらいなのにアイシャドウとアイラインを濃く引いた眼の化粧がどぎつかった。その化粧に八千代は見憶《みおぼ》えがある。昨年、ここへ来た時も染子がコケシ人形をあれこれといじくり回しながら、
「どう、あの子のメイキャップ。まるでミミズクの漫画だね」
と八千代の耳にささやいたものだ。
売り場の女の子は化粧の割合には愛想のよい態度でコケシを取り出してくれた。手に取って八千代はさりげない微笑を女の子に向ける。
「修善寺はいつ頃《ごろ》が一番混むのかしら」
「そうですね……」
女の子は媚《こび》のない答え方をした。
相手が同性であるためかも知れない。
「やっぱり秋ですね。あの……紅葉がきれいですから……」
「すると十月、十一月頃でしょうね」
八千代は考える眼になった。茜流の慰安旅行で来たのは確か十二月六日と記憶している。紅葉の季節としてはもう遅い。
「昨年の十二月でしたっけ、こちらで東京の作曲家の方がおなくなりになったのは……」
八千代は早くも底を割った。老練な刑事のようなわけにはとても行かない。女の子は困った顔をした。宿としてもあまり外聞のいい話ではない。新聞記事に出てしまったのだから、かくしようはないが出来れば早く世間が忘れてくれるのを望んでいる所だろう。
「はあ、そんな事もございましたけれど……」
「大変でしたでしょう。ここの旅館には何の落度もないのに、ああいう事になると本当に御迷惑ですわね」
八千代の苦労した言い廻《まわ》しに女の子は引っかかった。
「そうなんですよ。お酒をのんでお風呂《ふろ》へ入って心臓|麻痺《まひ》かなんか起こしたんですって。警察の人は来るし、夜なかに叩《たた》きおこされるし何日も新聞記者が聞きにきたりして商売どころではないって、ここの旦那さんもこぼしてました……」
「お風呂《ふろ》で死んだっていうと、あのギリシャ風呂の中なんですの」
「ええ、だもんで番頭さんも、うちの売り物にキズがついたって憤《おこ》ってました……」
女の子は、そこではっとしたように八千代を見た。
「でも、あの……ギリシャ風呂の方は、すっかり改装して、神主さんにおはらいまでしてもらったんです。だから、もう……」
八千代は柔らかく応じた。
「そりゃそうね。別に人が死んだからって、どうって事はありませんもの。おはらいしてしまえば気の悪い事はないわ」
八千代の調子に女の子は安心したらしい。声をひそめて別に言った。
「でも、あの当座は私たちもなんだか気味が悪くて……夜なんかギリシャ風呂のそばを通るだけでも怖い気がしたんです」
怯《おび》えた目が正直だった。
「その事件のあった日ね。お客さんは混んでましたの。もう十二月だからシーズンオフだったんでしょう」
「いえ、割合に混んでました。その死んだ作曲家の人と一緒に泊まったのが踊りの先生で、茜ますみっていう、テレビなんかにもよく出ている人で、そのお弟子さん達が忘年会で来てたんで殆《ほと》んど貸しきりみたいでしたんです。他のお客さんは離れの別館に三、四組あったと思います」
女の子の目に不審な表情が浮かんだので八千代は慌《あわ》てた。
「離れのお部屋はよく出来てるわね。静かだし、小ぢんまりしていて……」
「ええ、あちらは後から建て増したんですって、新婚さん向きに……」
「あら、そう……」
八千代は赤くなった。ぎこちなくコケシをいじる。
「これ、頂くわ」
どうせコケシはつけたりである。どれだって同じようなものだ。
売り場の女の子がていねいに包んでくれたコケシを持って部屋へ戻ってくると、女中が夜食を並べていた。
「どちらへお出ましかと思いましたが、お買い物ですか……」
女中は紙包みを見て言った。売り場の女の子にしても、番頭や女中にしても昨年、茜流の団体客の一人として泊まった八千代の顔をまるで記憶していないのが、八千代には好都合だった。もっとも日に何十人とある客の、しかも同年輩の女の子ばかりがぞろりとやって来た中の一人の顔を覚えている方が不思議みたいなものかも知れない。
「お連れ様をお呼びして参ります……」
階段を上がって行く女中の足音に八千代は苦笑した。八千代の顔を記憶していない女中でも、映画スター能条寛の顔なら、よもや知らない筈《はず》はない。その彼が婦人雑誌の記者に化けてこの旅館に宿泊した事を知ったら……。
足音が二組、階段を下りて来た。
「やあ、お待ちどおさまでした」
入って来た寛は床の間の前の空席へ坐《すわ》りかけて気がついたらしい。
「先生、どうぞこちらへ……」
八千代は取りすました表情で会釈した。
「いいえ、私は女でございますもの。それに今度の旅のリーダーはそちら様でございましょう……」
寛は頭へ手をやり、ちらと女中を見る。
「じゃ、失敬して、お言葉に甘えます」
布団へ神妙に膝《ひざ》を揃《そろ》えた寛は、宿のお仕着せの浴衣《ゆかた》にドテラを重ねている。
女中はテーブルの上に刺身や天ぷら、口取り、蛤《はまぐり》の蒸し焼き、鍋料理など、如何《いか》にも旅館らしい雑多な料理を並べ立てた。ビールの栓を抜く。
「どうぞ……」
女中にうながされて八千代は手をふった。
「私は頂けませんの。こちらへ差し上げて下さいまし」
寛は真面目《まじめ》に、
「失礼します」
コップを差し出した。豊かな泡を軽く空けて、鍋をガスコンロへかけている女中へ話しかけた。
「僕、うっかりしていたんだが、この宿屋さんは昨年の暮に海東先生がおなくなりになった家だそうだね」
コンロへマッチをすっていた女中は上目使いに寛を見た。
「御存知なんですか……」
「海東先生かい。知ってるとも。長唄《ながうた》の作曲家としても有名な方だったし、我が社は婦人雑誌だから、仕事の上でもお目にかかった事があるんだ。惜しい方だったがなあ」
寛は口取りのあわびを噛《か》んだ。
「そうですか……」
女中は伏し目になって鍋に肉や野菜を入れた。そんな様子に、ふと寛の勘が働いた。
「君、海東先生の部屋付きの女中さんが誰《だれ》だったか知ってるかい。もし知ってたらその人を紹介してくれないか。なに、この旅館へ泊まり合わせたのもなにかの因縁だろう。せめて生前の海東先生の事について、なにか係りの女中さんと話し合ってみたいと思ってね」
若い女中はおずおずと顔をあげた。
「私だったんです。その先生の部屋の係りは……」
寛の期待通りの返事だった。八千代のほうが驚いた。
「まあ、あなたが海東先生のお部屋の……」
何か続いて言いかける八千代を寛は目で止めた。うっかり尻尾《しつぽ》を出されては困るという意味なのだろう。八千代は口をつぐんだ。
「そうかい。君だったの、そりゃあ全く奇縁だねえ。もしかすると海東先生のお引き合わせという奴《やつ》かも知れないな」
寛はつい歌舞伎《かぶき》役者の伜《せがれ》らしい言い方をした。女中は気づかない。
「ですけど、あの事件では本当に嫌な思いをしました。なくなった方にこう申してはなんですけれど、お部屋の係りだったばっかりに、警察の人に呼ばれたり、新聞記者に訊《き》かれたり、当分の間はノイローゼになるんじゃないかと思いましたわ」
「そうだろうね。いや、全く災難だったね。まあ一杯、どうだい。海東先生の供養のため、同時に君へのおわびのしるしだよ」
寛は八千代の前にあったコップを取り上げると、女中に渡し自分でビールを注いでやった。
若い女中は年齢の割にいける口らしい。勧められたビールのコップをすぐに半分ばかり飲み乾して、寛へお酌《しやく》をした。
「ごちそうになって、すみませんねえ。お客様もお強い方なんですか」
「いや、僕はたいしたことはないんだが、そう言や歿《な》くなられた海東先生は酒豪だったねえ」
「あら、そうですか」
というのが女中の返事だった。
「あの事件の日も随分、飲んで居られたんじゃないのかい」
「そうですね。でも……」
女中はガスコンロの火加減をして八千代にどうぞ、とうながした。話は寛へ向けて続ける。
「皆さんでお食事の時にビールを召し上がって、それから一度、お部屋へ引きあげて、あの方は茜ますみさんの部屋で又、飲み始めてたんですよ。でも、それはたいした量じゃありませんわ。お二人で日本酒が六本、ビールが二本くらいなんですもの。それでいて海東先生って人は随分、お酔いになってましたよ。ですから私なんか、あまりお強くないのだとばかり思ってました」
寛はそっと八千代を見た。
「そんな筈《はず》はないんだがなあ。海東氏は長唄《ながうた》界でも有名な左ききでビールの二本、酒の五合かそこらで酔っぱらうわけがないんだが」
「おからだの調子でも悪かったんじゃありませんの……」
冷めかかった吸物に箸《はし》をつけながら八千代が言う。
「それも一応、考えられるが……」
納得が行かない風な寛の様子に、女中がしたり顔で口を添えた。
「そういえば、あの晩の海東先生って方の酔い方は少しわざとらしいっていうんですか、大げさに見せていたのかも知れませんわ。だって酔った酔ったとおっしゃりながら、なんとなく時間を気にしてらしたし……」
寛の目が光った。
「時間を気にしてたって」
「そんな感じでしたよ。私もお酒は頂く方だから、解るんですけどね。酔っぱらったら時間なんか考えませんよ。どこかへ出かけるんならとにかく、もう寝るだけしか用のない旅館の夜でしょう。もっとも女の方の部屋にいるんで時間を気にしたというんなら別ですけど、それはこちら様のように他人行儀なお連れ様の場合ですわ。あのお二人はそんなねえ……」
女中は含み笑いをした。海東英次と茜ますみの間柄が他人でないと知っている微笑だ。
「へえ、海東氏と茜女史がねえ……」
寛はすっとぼけた。
「御存知ないんですか。まあ、恋人っていうのか愛人ってのか知りませんけど、私達の前でも平気、おむつまじいんですのよ。あの晩は随分、あてられましたもの」
女中は慌てたように口をおさえた。
「あら、どうしましょう。こんなお喋《しやべ》りをしてしまって……」
ほんのりと赤くなった眼許に酔いが出ていた。寛は威勢よくビールを注いでやる。
「なにかまわんさ。茜女史のお行状は知る人ぞ知るだからね。有名なんだよ。彼女のお色気ってのは……」
「そうなんですってね。本当に人前もなにもない方ですわ。あの晩だって男の方のほうがもて余してお出でみたいでしたもの」
「それじゃ、海東氏はなにかな、彼女のお色気攻勢をもて余して酔いにごま化したのかも知れないね」
当てずっぽうに言った寛の台詞《せりふ》に女中は大きく同感した。
「そうかも知れませんわ。いいえ、きっとそうですよ。だって海東先生は茜先生の部屋を出て御自分の部屋へお戻りになった時、それほどお酔いになっている風にはお見受けしませんでしたもの」
「君は茜女史の部屋へずっと居たの」
「いいえ、お酒を三度ほど運んだきりですわ。お邪魔ですものね」
「すると、海東氏が部屋へ帰った時はどうして酔ってないと知ったのさ」
寛は、にやにやと笑いながらビールを飲む。話を酒の肴《さかな》にしているという恰好《かつこう》である。
「いえね。それはちょうどその時に廊下を通りかかったんです。別のお部屋のお客様が煙草を欲しいとおっしゃったんで、それを持って行く途中でしたわ。そしたら海東先生が、私を呼び止めて自分の部屋へビールを一本持って来てくれっておっしゃったんですよ」
「へえ、ビールをね」
「もう十二時過ぎ……。一時近かったんですよ」
「君がビールを運んで行った時、海東氏は布団に入ってたのかい」
「いいえ、炬燵《こたつ》に坐《すわ》って煙草をのんでいらっしゃったわ」
若い女中はだんだん馴々《なれなれ》しい調子になった。アルコールのせいでもあろうし、寛の年齢の若さに安心しているのかも知れなかった。
「君はビールを置いて、すぐ戻ったんだね」
「そうよ。それがこの世の見納めってわけよ」
「その時、海東氏の様子になにか変わったことはなかったのかな」
寛は、必死になった。
「なんにも……ひどく酔ったようでもないし、それほど体の調子が悪いようにも見えなかったけど……でも心臓|麻痺《まひ》ってのは一瞬で片がついちゃうんですってね」
そこで女中は気がついた。
「あら、そちらの先生、なにも召し上がらないで……お給仕致しましょうか」
それをしおに寛もビールのコップを置いた。
「これは失礼、僕も飯にして貰《もら》うよ」
女中は馴れた手つきで飯茶碗《ぢやわん》を取った。
飯の給仕をして、女中は迷っている様子だった。本当なら、こういう二人連れの客の場合、給仕は女にまかせて席を外すのが宿の常識なのだが、いわゆるアベックでないと聞いているし、女の方がどうも先生扱いを受ける立場らしいので、うっかり給仕などを頼んでよいかどうかと気を使ったものだ。それに、今日は客も混雑していない。女中の立場からいうと忙しい日ではないのだ。若い女中は話好きの方でもあった。
寛は飯のお代わりをすると、思いついたように又、訊《き》いた。
「それはそうとさ。海東先生がギリシャ風呂《ぶろ》で死んでいるってのを発見したのは、やっぱりお客さんだったそうだね」
半分は八千代にも念を押している言い方である。
「そうなんですよ。この別館の方へ泊まっていらした……」
「なんですか、マージャンをやって夜明かししていた会社員の方だそうですのね。私、よそからそんなふうに聞きましたけど……」
弁解がましく八千代もつい、口を出す。
「ええ、そうなんです」
「じゃあ、マージャンのグループがぞろぞろとギリシャ風呂へ出かけて、びっくり仰天というわけか」
「いいえ、発見なすったのはお一人なんですよ。その方がみつけて、すぐに皆さんを呼んだんです……」
「驚いただろうな。一番先にみつけた奴《やつ》は……。どこの会社員なの、その連中は」
「お砂糖の会社だそうですよ。もっともそのお一人は別なんですけどね」
「別って、どういう意味さ」
「マージャンをおやりになっていたお四人さんの中の三人のお客さまが砂糖の会社におつとめで、もう一方はお連れじゃなかったんですよ」
女中はもって廻《まわ》った説明をした。
「くわしい事は知りませんけど、あの晩は確かこの桂《かつら》の間と百合《ゆり》の間にお二人ずつ砂糖の会社の方がお泊まりになり、楓《かえで》の間に男のお客様がお一人で泊まっていらっしゃいました」
「すると、楓の間のお客ってのは一人旅だったんだね」
「ええ、でも男の方が一人きりでお見えになるのも珍しくはございませんのよ。この辺は静かだものですから、物をお書きになる方なんかがよう御逗留《とうりゆう》になりますよ」
「海東先生をギリシャ風呂で発見したのは、その……一人旅の男だったんだね」
女中はこともなげに答えた。
「ええ、楓の間のお客様です」
それから親切につけ加えた。
「そのお客様の事やなんか、もっと詳しくお知りになりたいのでしたら、明日にでも文子さんにお聞きになるといいですよ。あの事件の時は、この別館の係りが文子さんだったから……」
若い女中が何気なく洩《も》らした「文子」という名前に、寛も八千代も思わずとびつきそうな身がまえを見せた。
「文子さんっていうと、そのかたはやっぱりこちらの……」
八千代はうっかり女中さんという言葉を口にしかけて慌てて中止した。近頃《ちかごろ》の若い人は女中という名詞を非常に嫌うのだと、こんな場合に思い出したものだ。ひょんなことでこの若い女中さんの気色を損じたくない。
しかし、八千代が懸念するまでもなく、こういう旅館では、都会の普通の家庭へ奉仕する若い女性と違って、それ程、女中という語に神経質ではないらしい。
「文子さんですか。ええ、ここの女中さんしてたんですけどね、ちょいと神経痛の持病があるもんですから、今はここの家で経営しているお土産《みやげ》物の店の方へ行ってますよ。温泉町のバスの乗り場のすぐ前なんです。明日でも、お帰りの時にお寄りなすったら……」
「そうだね」
寛は意識して、あまり気のなさそうな応じ方をした。
食事が済むと、寛はテレビをひねった。連続ドラマの途中である。見るのか見ないのかわからないような恰好《かつこう》で、寛は煙草を吸い、お茶を一杯だけ飲んで、後片づけの女中が部屋を出るのと一緒に腰をあげた。
「それじゃ、おやすみなさい。どうもお疲れさまでした……紫先生」
もう廊下へ出た女中へ聞こえよがしの声で挨拶《あいさつ》してから、小さく八千代の耳許へ呟《つぶや》いた。
「おやすみ、やっちゃん、話は明日にしようね」
あっさり立って、玄関風に造ってある入口の所で、送って来た八千代に微笑した。
「入口の鍵《かぎ》を忘れないでね。ちゃんと閉めておやすみ……」
階段を上がって行く足音に耳をすませてから八千代は鏡台のある部屋へ戻った。髪をとかしている中に、女中が夜具の仕度をする。
「ごゆっくり、おやすみなさいまし」
女中が去ると、八千代はテレビを消し、バスルームへ下りて行った。
一人きりの湯の宿はなにがなしに物さびしい。湯殿の下を水の流れる音がした。くもった窓ガラスに指をこすりつけて外を覗《のぞ》く。向かいの部屋の湯殿の窓が見えた。その下方がギリシャ風呂《ぶろ》という見当である。太い湯気出しの気孔が八千代の眼の下から白い気体を吐き出している。直径一メートルもある太い気孔が闇《やみ》の中にグロテスクな感じであった。
湯から出て宿の浴衣《ゆかた》に手を通す。腕時計はもう十一時近かった。食事が遅かったし、手間どってもいる。それにしても東京の、銀座の十一時なら……。八千代はにぎやかな「浜の家」の光景を瞼《まぶた》に描いた。
階段を足音が下りて来た。八千代は反射的に体をかたくする。が寛のスリッパは廊下を通ってギリシャ風呂の方へ下りて行った。
 修善寺の朝はよく晴れていた。雲も淡い。身じまいを終えると、八千代は庭下駄を突っかけた。朝らしい空気の冷たさである。三か月前に来たときは、修善寺の朝の記憶がなかった。
海東英次の死体発見が明け方で気が転倒している中に昼になってしまったようだ。
庭のすみに昨夜、バスルームの窓から見えたギリシャ風呂の湯気出しの孔が盛んに白い煙を辺りへ漂わせている。
庭のすみという見当なのだし、昨夜もそう見たのだが、近づいてみると崖下《がけした》だった。
つまり、八千代の部屋から続いている庭は一応、竹の荒い垣根で区切られ、垣の向こうが五メートルばかりの崖になっていて、ギリシャ風呂はその窪地《くぼち》に出来ている。八千代が立っている垣根のすぐ下が、ギリシャ風呂の高窓の高さであった。
八千代が、ぼんやりとその高窓を眺めていると、不意にギリシャ風呂の内部から窓が開いた。眼鏡《めがね》をかけた男の顔がのぞく。
「まあ、ヒロシ……」
能条寛は指を唇に当ててみせた。静かにしろという意味である。
驚いたことに、そのまま高窓を上がってくるのだ。窓枠によじのぼり左右を見回す。
八千代も慌《あわ》てて辺りを窺《うかが》った。
「誰《だれ》もいないかい」
「ええ、誰も……」
寛はにやりと笑って身軽く窓を出た。垣根を乗り越えて庭へ立つ。はだしである。
「どうだ。うまいもんだろう」
「いやだわ。まるで泥棒みたい」
眉《まゆ》を寄せて、八千代は又、周囲を見た。見とがめられたら、なんという心算《つもり》だろうと、寛の行動が恥ずかしい。
「僕が泥棒なら、君は見張り役という所さ。いずれ一つ穴のムジナだよ」
「馬鹿《ばか》にしている、そんなの」
それでも八千代は甲斐甲斐《かいがい》しく寛のために庭下駄を取りに走り、タオルで足のうらを拭《ふ》いてやった。
「なんで朝っぱらからギリシャ風呂へなんか行ってたの。寛の部屋はバス(風呂)付きじゃないの」
八千代は真顔で聞いた。そう言えば昨夜も食事の後、寛はギリシャ風呂へ続く階段を下りて行った様子だ。
「部屋専用のバスルームはあるよ。この別館の離れは全部、バストイレ付きになってるそうだ」
「じゃ、寛は海東先生がギリシャ風呂でなくなったから、その現場を見に行ったわけね」
「まあね。本当はやっちゃんと一緒に行ってみるとよかったんだが、男女混浴がお気に召さないらしいんで、ご遠慮申し上げたんだが、流石《さすが》に笹屋旅館の自慢だけあって、でっかい風呂だな。昨夜は人もいなかったんで、温泉プールのつもりでじゃんじゃんおよいじまった」
ギリシャ風呂で泳いだという寛の言葉に八千代はあきれた。
「のんきなもんね。第一、気持ちが悪くなかったわね。あのお風呂で人が死んでるのに」
「女中くんが言ったじゃないか。三か月も前だしもう、よく洗って神主さんがおはらいまでしたって。広くって気持ちよかったぜ。君も来て泳ぎゃよかったんだ。恥ずかしがるけど、ギリシャ風呂なんて、もうもう湯気が立っているから、三メートルぐらい離れてしまうと顔も見えないんだよ」
「馬鹿ばっかし……」
八千代は少しばかり赤くなった。庭下駄を鳴らして部屋へ戻りかける。
「そんなにお気に召したんで、今朝も又、泳ぎに行ったの」
寛の顔を横眼に見た。朝風呂に入ったばかりという顔色ではない。
「なに、今朝は昨夜、泳ぎながら思いついた可能性を実験したまでさ」
自分の部屋の沓脱《くつぬぎ》へ上がりかけた八千代を呼んだ。
「おいおい、朝の食事は僕の部屋へ用意させといたよ」
寛の部屋へは建物だと階段を上がるのだが、庭続きだと、なだらかな坂になっている。八千代は植込みを寛の後に従った。
別館にある離れ造りの部屋は全部で四つ、庭続きになっているようだ。
「なによ、或《あ》る可能性って……」
「つまりだね」
寛は植込みの間で急に足を止めてふりむいた。足元ばかり見て歩いていた八千代は、うっかり寛にぶつかりそうになった。顔と顔がおたがいの眼の前にある。八千代と寛が一足ずつ退いたのは同時だった。なんとなく恰好《かつこう》が悪い。
「そのさ……」
寛がどもりながらもぞもぞと続けた。
「ギリシャ風呂《ぶろ》へだよ。廊下を通らなくても行けるってことさ。この離れの人間ならば」
「泥棒みたいに垣根を乗り越えて、窓からしのび込めばね……」
八千代は微笑した。
「但《ただ》し、かなりの運動神経の発達した奴《やつ》でないとギリシャ風呂の内から高窓にとびつくまでが容易じゃないんだ」
寛は少しばかり得意な顔をした。スポーツできたえているのと、子供時代から父親の弟子の歌舞伎《かぶき》畑の連中とトンボを切ったり、ニセウチ、ギバなど歌舞伎独特の訓練をしているせいで、寛はひどく身が軽い。普段でも少し調子に乗ると鴨居《かもい》にとび上がったり、天井にはってみたり、忍者めいた真似をして八千代を驚かす癖がある。
「寛って本当にガラッ八ね。私たちはなにも捕物帖を地で行ってるわけじゃないのよ。海東先生が忍術使いにでも殺されたって言う気かしら」
八千代の冷やかしにも寛はまともに応じた。
「たいてい忍術使いか、化け物みたいなもんだよ。計画的な殺人犯って奴《やつ》は……そう思って間違いはないのさ」
植込みを抜けると離れ造りの玄関が見えた。「楓《かえで》の間」と札が出ている。八千代が泊まっている「桂《かつら》の間」とは真向いであった。今日は新婚夫婦が入っているらしく、カーテンを開いたベランダ風の場所にピンクのカーディガンを着た女の背が見えた。
「この楓の間っていうのに泊まっていた男の人が海東先生の死体を発見したんだわね」
八千代は昨夜の女の話を思い出して言った。
「そいつが、ちょっと忍術使い、でなけりゃ余《よ》っ程《ぽど》の変わり者だと思うんだがね」
「やっぱり、ヒロシもクサイと思ったのね。昨夜の話で……」
八千代は歩き出した寛の厚い肩幅を眺めながら続いた。
「でも、変わり者っていうのは、どういうわけなの」
「変わり者って言って可笑《おか》しければ、物好きか、まめな男と言うかな」
「どういう意味よ、それ……」
「考えてもごらんよ。この離れはどの部屋も風呂がついているんだぜ。タイルばりの洒落《しやれ》た形の、湯も水もたっぷり出るいい風呂だ。そうだったろ」
八千代は寛を見上げた。なにを言い出すのか解らないから、うっかり返答が出来ない。
「それが、どうしたのよ」
「楓《かえで》の間の客は、わざわざ風呂付の部屋に泊まりながら、なんでギリシャ風呂まで出かけたんだい」
「だって、ギリシャ風呂はこの旅館の名物ですもの。ちょっと入って見ようって気になったんじゃない」
「それにしてもだよ。別に病気に特効があるわけじゃなし、ただ、だだっ広いだけの風呂なんだからね。一度は見物がてら入浴しても、そう何度も行くだろうか。ギリシャ風呂まで行くには階段をかなりな数、上り下りしなけりゃならないんだ。若い人間でも風呂帰りは相当シンドイぜ」
「ヒロシ、どうして一度ならとにかくなんて事が言えるのよ。人はそれぞれ勝手なもんだから、何度だってギリシャ風呂が気に入れば階段を下りても行くでしょうし、心臓が丈夫なら、寛みたいにフウフウ言って階段を上がらなくても済むでしょうし、それに、もしかしたら海東先生の死体を発見したとき、はじめてギリシャ風呂へ入ってみたのかも知れないし、ねえ、そうじゃない」
「だから、物好きか、マメな男だと言ったんだよ。念のため申し上げとくが、僕は別にフウフウ言って階段を上がって来たおぼえはないよ。やっちゃんだったらアゴを出すだろうという話さ」
寛が泊まった離れの玄関を入ると、女中が愛想のよい笑顔で迎えた。
この離れも八千代の泊まった桂の間と殆《ほと》んど同じような間どりである。テーブルの上には朝食が並んでいる。
「お散歩でございましたか」
寛はのんびりと応じた。
「ああ、いいお天気だね」
女中は茶を注ぎ、御飯|櫃《びつ》を引きよせた。
「お給仕は私がしますわ。朝はお忙しいのでしょう」
八千代は気をきかして言った。女中に傍らに居られたのでは、又、今朝も肝腎《かんじん》な話が出来ない。女中はお願いします、と下がって行った。二人っきりの差し向かいになると、なんとなく面映ゆい。二人で向かい合って食事をしたことは、今までにも何回となくあるくせに、やはり温泉宿にいるという意識があるせいだろうか。
「やっちゃん」
食欲に集中していた風な寛が不意に言ったものだ。
「海東先生の死体発見者は、翌日、警察の取り調べに立ち会ったんだろうね」
「さあ」
八千代は箸《はし》を止めた。
「よくは憶《おぼ》えてないけど、なにしろ旅館のお客さんの事だから旅館側でも随分、気を使ってたし、それに他殺じゃない……少なくとも毒殺や凶器によって殺されたっていう現場じゃないでしょう。田舎《いなか》の警察だし、それほど発見者を重要視しなかったと思うわ。おまけに海東先生は私たちみたいなお連れがあったんだしね。あれが一人旅だったら、もっとめんどうだったでしょうけれど」
八千代はあの時の茜ますみの手ぎわのいい采配《さいはい》ぶりを思い出した。素早く金を使って、海東英次の死があれ以上、さわぎ立てられないように食い止めたし、死体を直ちに自動車で東京へ運び、葬式を済ませるまで、女と思えないほどにてきぱきと要領よくやってのけた。警察側としても酒を飲んで風呂へ入っての心臓|麻痺《まひ》とあっては疑意のはさみようもなかったのだ。温泉宿には、ままある事件でもある。
十一時近くなって、寛と八千代は笹屋旅館を出た。折角、来たのだから修善寺近郊の古跡を散策してみようと言うわけだ。寛は修善寺は初めて、八千代は二度目だが、この前は全く見物どころではなかった。
「修善寺まで来たけれど、結局、なにも解んなかったわね」
梅の林を横眼に見て、八千代は少しばかりがっかりして言った。
「君は何もわかんなかったかも知れないが、僕は随分、新しい発見をしたと思うな。百聞は一見にしかずとは全くだね。海東先生の死のかげに動いているものの気配をたしかめただけでも最高の収穫だよ」
だらだら道は、どこまで行っても梅の香が追って来た。柔らかな匂《にお》いのある風が時折り、八千代の顔をかすめて吹く。
白梅も、紅梅も今が盛りであった。
「第一にだよ。海東先生の死体を発見したのは今まで砂糖会社の団体客だとばかし思っていたのが、実は一人旅の男で楓《かえで》の間に泊まっていた。これが一つ。ギリシャ風呂へは階段を下りて行く以外に、別館の離れの庭からも無理をすれば行かれる。それが二つ……」
寛は春の光にまぶしげな目を向けた。
「いい天気だな。実に絶好の旅|日和《びより》だね」
「話を逸《そ》らすのは止めてちょうだい。肝腎《かんじん》の第三以下は、どうなのよ」
「第三以下の新発見か……そいつは……」
片目をつぶって笑った。
「おあとのおたのしみさ」
「ずるいわ。そんなの……」
八千代はポケットからチューインガムを掴《つか》み出した。
「正直におっしゃい。第三以下の新発見は、文子さんという女中さんに逢《あ》ってみなければの事だって……」
「図星だね」
寛は八千代の手からチューインガムを奪って口へ放り込んだ。
細い田舎《いなか》道を当てずっぽうに歩いて行くと石の小さな碑《ひ》があった。源|範頼《のりより》朝臣《あそん》の墓と矢じるしがしめしてある。
「範頼って言えば頼朝の弟だろう」
「そうよ。義経《よしつね》の兄さんだわ。あんまりぱっとしない人だけど……」
頼朝の歴史的存在価値と、義経の大衆的人気の間にはさまって、かすんでしまったような範頼の墓が修善寺にあるとは、八千代も寛も、ついうっかりしていた。
「そう言えば�修禅寺《しゆぜんじ》�のなかの夜叉王《やしやおう》の台詞《せりふ》に、範頼公といい、頼家公といい、修禅寺は源家二代の血が、なんていうのがあったっけ」
寛の言葉で八千代もふと、寛の父の尾上勘喜郎|扮《ふん》する夜叉王の名台詞を思い出した。
矢じるしは狭い石段を指している。椿《つばき》の花が落ちている道を二人は前後して登った。茶屋のような葭簀《よしず》ばりの家があり、線香を売っている。石だたみの突き当たりに丸い石の墓が見えた。
八千代は線香の束を買い、寛が先に立って墓石に近づいた。わきに由緒《ゆいしよ》書きみたいな立て札がある。
八坂本平家物語によると範頼は兄頼朝へ叛意《はんい》ありとされて、この修禅寺へ幽閉され、建久四年、頼朝の討手|梶原景時《かじわらかげとき》の兵のために攻め殺されたとある。
「戦争には弱いし、年中、兄さんの顔色ばっかり窺《うかが》って、くよくよ、おどおどしてて結局、殺されちゃうなんて全く、あわれな人ね」
寛がマッチで火をつけた線香の束を墓前に供えながら八千代は同情的な表情になった。
春風が線香の煙を横へなびかす。
神妙に手を合わせている八千代へ寛は微笑した。
「むかしも今も……さ。善良で臆病《おくびよう》な人間が虫けらのように殺される。人間なんてかわいそうなもんさ」
「悟ったような事を言ってるわ」
手を合わせた儘《まま》、八千代は反撥《はんぱつ》した。
「でもさ。同じ殺されるんなら義経の方が利口だな。華々しいし、後世、芝居の二枚目にして貰《もら》っておまけに静御前《しずかごぜん》みたいな美人にしずやしず、しずの小田巻くりかえし、なんて恋いこがれられちまってさ。範頼にはそういうロマンスはなんにも伝わってないだろう」
「わかんないわよ。案外、かくれたるラブロマンスがあったかも知れないわ」
「有名人は恋愛も自由でないってのは昔も今もかな」
「なによ。それ……」
「平凡な一市民の方が、ワルイ事が出来るって話さ」
寛は線香を直している八千代のワンピースの衿《えり》もとからのぞける首筋を見た。白い滑らかな肌に桃の実のようなうぶ毛が光っている。
石段を下りて、再び石ころだらけの道を折れた。猫が悠々と道の真ん中を歩いている。
「ね、ヒロシ、海東先生は、やっぱり誰《だれ》かに殺されたんだろうか」
八千代は落ち付かない顔で言った。
「わからないね」
寛はチューインガムをくしゃくしゃと噛《か》んだ。
「海東英次が死んで得をする人間は誰だい」
「得をする……」
眼を落として八千代は首をふった。
「誰も得なんかしないでしょう」
「海東氏の奥さんはどうだい」
「事実上、別居していたけれど、月々の仕送りはちゃんとしてらしたし、海東先生がなくなったらかえって困ってしまうでしょう。実際、最近は生活も楽じゃなくて、どこかのバーへ勤めてるって話ですもの」
「亭主が死んだら相続出来るような財産は」
「それが、なんにもなかったんですって。まあ芸人ってのは外見が派手だから、まとまったお金なんてなかなか残らないものでしょう。おまけに海東先生ってのは派手好きだったし、もともとが苦学して音楽学校を出て、漸《ようや》く世間に認められたのはこの四、五年ですものね。貯金も僅《わず》かばかりで、お葬式やその他の支払いは全部、茜《あかね》ますみ先生が始末したんだって、内弟子の久子さんが言ったわ」
「損得の方でないとすると、色恋じゃどうだい。恋の怨《うら》みは怖しいぜ」
八千代は眉《まゆ》をしかめた。
「海東先生の恋人は勿論《もちろん》、茜ますみ先生だけど、その他に三角関係みたいな女性はないわ。茜ますみ先生との事は、もう四、五年も前からだし奥さんだって割り切ってた筈《はず》よ」
「割り切ったようで割り切れないのが女心って奴《やつ》だそうだよ。しかし、僕がいうのは、むしろ男の方さ。海東英次が邪魔になる、つまり茜ますみを独占したいと願う男性はいないかね」
道が広くなったと思うと川が流れていた。土産《みやげ》物の店がそこから下流へ向けて並んでいる。寛はその一軒へ近づいた。笹屋旅館の経営している土産物屋を尋ねているらしい。
「もっと下の方の、バスの停留所の近くだってさ。ハイヤーの営業所も近くにあるそうだよ」
戻って来た寛は、しいたけの籠《かご》を二つ下げていた。
「買ったの」
「ああ、親父《おやじ》の好物なんだ。君ん所へも一つ買っといたよ。料理屋じゃ珍しくもないだろうが……」
しいたけの籠を下げて道を下るとドテラ姿のアベックが橋の上で写真をとっていた。女の笑い顔が屈託ない。
笹屋旅館の経営している土産物屋は、かなり大きかった。店内には小さいが喫茶室もある。とりあえず、ジュースを頼んであまり上等でない椅子《いす》に腰を下した。
「あの、この店に文子さんって人がいるだろ。笹屋旅館の女中さんをしていて……」
水を運んで来た女の子は簡単にうなずいた。
「その人、ちょっと呼んでもらえないかな。訊《き》きたい事があるんでね。すまないけど」
女の子は、それにも簡単に、はいと応じて売り場の方へ行った。
入れ違いにやって来たのは二十三、四の色の白い、痩《や》せた女だった。神経痛と聞いていたので、もっと年配の女を想像していた八千代は、あっけにとられた。
「文子ですけど……」
固い表情で言った。
「君が文子さん……わざわざ呼び立てて悪かったんだけど、昨夜、笹屋旅館で君の名前を聞いたもんで……」
ぶきっちょな寛の話の中途から文子の表情がくずれた。
「ああ、そうですか。あの楓《かえで》の間に泊まったお客さんの事を聞きたいとおっしゃる方ですのね」
寛が今度は、あっけにとられた。
「知ってるんですか」
「今朝、千代子さんが寄って話して行ったんですよ。海東先生とお知り合いだった雑誌の方なんでしょう」
「そうなんですよ、海東先生の御生前には、なにかとお世話にもなっていたのでね。おなくなりになった夜、ギリシャ風呂で死体を発見なすった方に一度、お目にかかってその時の様子なんかを聞きたいと思っているんですよ」
「それだったら駄目ですわ」
文子はエプロンのはしをつまんで、はっきりと答えた。
昨夜、食事の給仕をしてくれた女中が、気をきかして文子に声をかけておいてくれたのらしいが、いきなり駄目だときめつけられて寛も流石《さすが》に慌《あわ》てた。
「駄目って、どういう意味ですか」
「お客さん達は、海東先生の死んでいらっしゃるのを発見したお客さんと話してみたいとおっしゃるんでしょう。でも、それが駄目なんですよ。笹屋旅館の宿帳に書いてある住所が違うんです」
「住所が違うって、楓《かえで》の間のお客のかい」
「ええ」
「どうして、そんな事がわかったの」
文子は椅子《いす》へ腰を下した。
「あの事件の翌朝ですか、楓の間のお客様がお発《た》ちになってから眼鏡《めがね》をお忘れになったのに気がついたんです。本当はお客様が御出発になると、すぐにお部屋をお調べしてお忘れものがないかどうか気をつけるのですけれど、あの日は、もう家中がてんやわんやしていたので、眼鏡を見つけたのは夕方近くなってお部屋の掃除に入った時なんです」
「ふむ、なるほど……」
寛は思わず自分の眼鏡に手をやり、八千代は横眼でそれを睨《にら》んだ。
「それで、私、楓の間のお客様の住所を宿帳で調べて書留でお送りしました。笹屋旅館では確実にそのお客様のお品とわかっているお忘れ物はそうするようになっているんです」
「眼鏡がその楓の間のお客のものだとは、はっきりしていたんだね」
「ええ、黒の太いふちの、目立つ眼鏡でお食事の時もずっとかけていらっしゃったのを、私、おぼえていたもんですから、間違いはありません」
文子は、きっぱりと答えた。年齢の割にはしっかり者らしい。
「その書留でお送りした眼鏡が宛先《あてさき》不明で戻って来てしまったんです。だから、楓の間にお泊まりになったお客様の住所は分かりません。宿帳の御住所のところへいらっしゃってもその方にはお逢《あ》いになれないと思います」
「眼鏡が戻って来たんですか」
寛は唖然《あぜん》とした。
「その……楓の間に泊まった人の住所……つまり宿帳に記載してあった住所はどこだったか憶《おぼ》えていませんか。大体でもいいんですがね」
文子は気軽に立った。
「眼鏡の小包の方は笹屋旅館の支配人さんにおあずけしてしまいましたけど、書留を郵便局へ出しに行った時の受け取りが、たしかお財布にある筈《はず》ですわ。ちょっとハンドバッグをみて来ましょう」
奥からビニールの黒いバッグを持って来た。手ずれのした財布を出す。小さな薄い紙切れをつまみ出した。
「これですわ」
文子の差し出した受取書を手にとって寛は流石《さすが》に緊張した。唇のすみがぴくりと動く。
「宛先《あてさき》人、東京都渋谷区代々木初台××番地、河野秀夫……か」
声に出して読み上げ、寛は口の中で再び反芻《はんすう》した。
「渋谷区代々木初台って、どこかで聞いたような住所だけれど、やっちゃん、憶えがないかい」
寛がふりむいた時、八千代は唇まで白くしていた。
「どうしたんだい。え……」
首をふったきり答えない八千代の様子で、寛は傍に立っている文子を意識した。
「この受取書、もし御入用ならさし上げましょうか」
文子は遠慮そうに、しかし気をきかして言った。
「そうして頂ければ有難いんですが」
「どうぞ、お持ち下さいな」
「そうですか、じゃあ貰《もら》っときます」
現金に寛は薄いぺーパーを大切そうに財布にしまった。
「おかげでいろいろな事がわかりそうです。ぼくらは海東先生には非常な御恩を受けた者なので、是非とも先生のお歿《な》くなりになる直前のことなどを少しでも詳しく知りたいと思っていたのですが……」
弁解がましい寛の言葉に、文子は素直な同感を示した。
「本当に……あんなお歿くなり方をなさるとお心残りでございましょうね」
重ねて礼を言ってから、寛は思いついてつけ足した。
「くどいようですが、あの事件の日、別館には楓《かえで》の間のお客さんの他に砂糖会社の人が泊まっていたそうですね」
「ええ、四人連れでお見えになっていました。お砂糖の会社におつとめの方はその中のお一人で、他の方はそれぞれ御職業がおありらしかったのですけれど、ちょうどテレビのコマーシャルの時、おつとめ先の砂糖会社のがあってその方が皆さんを笑わせるような事ばかりおっしゃって……お給仕に出ていまして私がそれを聞いて、つい同輩に話したものですから、お砂糖会社におつとめのお客様という事になってしまったのですわ」
文子は言いわけした。
「なんですか、戦地で御一緒の部隊に属していらしたグループのようでしたけれど……」
「なるほど、戦争で結ばれた友情という奴《やつ》なんだね。たまさかに誘い合わせて温泉へ出かけて来たというわけなんだろう」
微笑した寛には従軍の経験はない。
「で、マージャンをしてたという話だけれど、それは何時|頃《ごろ》までやってたの。大体でいいんだけど……」
「夕食後、すぐにおはじめになって、夜半の二時すぎまでビールを召し上がりながら……」「夜半の二時ねえ……」
寛は腹の中で計算した。その時刻、海東英次は茜《あかね》ますみの部屋から引きあげてギリシャ風呂《ぶろ》へ行った筈《はず》だ。
「もっとも、皆さんが揃《そろ》ってその時間までマージャンをおやりになっていらしたわけではございません。お一人は疲れたとおっしゃって十一時頃におやすみになってしまいました」
寛は妙な顔をした。
四人の中、一人が止めてはマージャンは出来ない。
「ええ、ですけれど楓《かえで》の間のお客様がその代わりになりましたから……。夕刻、玉突き場でお知り合いになったそうで、お砂糖会社の方がお誘いしてみてくれとおっしゃって、私がお使いになりました」
「それで、楓の間の客がマージャンの仲間入りをしたんですか」
「はあ。すぐにお出でになりました。勝負事はお好きのようでしたわ」
「夜半の二時すぎまでゲームに入っていたんですね」
寛が念を押したとき、八千代が口をはさんだ。
「その楓の間のお一人客はどんな方でしたの。年齢とか……なにか特徴みたいなもの」
文子は考える眼になった。
「別に特徴といっても……お年齢《とし》は五十歳前後でしょうかしら。ロマンスグレイっていうんですか、きれいな髪の品のよい感じの方です。お背は高いほうでした。体つきもがっしりした……でも労働者というタイプではありませんわ」
文子は店先を気にした。団体客らしいのがどやどやと入って来て盛んにコケシや名物の菓子類を注文している。店はもう一人の女店員だけで、手がまわりかねる状態だった。
「どうも長いこと引き止めてすみませんでした」
寛はやむを得ず質問を打ち切ると余分な金額をジュース代として支払い、八千代の肩を押して店を出た。そろそろハイヤーを拾わないと汽車の時刻に間に合わない。
「ヒロシ……」
人通りの少ない道へ出ると八千代が蒼《あお》い顔をあげた。彼女としては珍しく取り乱している。寛は眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたんだい。やっちゃん」
「渋谷区代々木初台××番地……」
八千代はすらすらと住所を口にした。楓の間の客の住所である。
「知ってるのかい。その住所……」
のぞき込まれて、八千代は唇をふるわした。
「結城《ゆうき》の伯父《おじ》様の所番地なのよ……」
「結城の……」
寛がすっとんきょうな声をあげ八千代は泣き出しそうになった。
「代々木初台××番地は結域の伯父様の家一軒しかないのよ……」
寛は文子から聞いたばかりの楓の間の客の人相を思い出した。結城慎作は五十一歳、ロマンスグレイで背の高い男である。
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