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黒い扇23

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:円山公園Mホテルから能条寛と浜八千代を乗せたタクシーは青蓮院《しょうれんいん》の門前を抜け、知恩院のふちを通って円山《ま
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円山公園

Mホテルから能条寛と浜八千代を乗せたタクシーは青蓮院《しょうれんいん》の門前を抜け、知恩院のふちを通って円山《まるやま》公園へ入った。
車を下りて砂利道を少し行くと茶屋風の家が並んでいた。白い旗が入口に立っている。「いもぼう」の文字が優雅だった。
「お二人さんどすか」
迎えた女中の言葉がやんわりと京風だった。祇園《ぎおん》が近いせいか、京都の雰囲気が濃い。
細長い家の造りだった。暗い。座敷はまだそれほど混んではいないようである。
寛は定食のいもぼう料理を註文《ちゆうもん》した。
「えび芋《いも》を使った田舎《いなか》料理のようなものだよ。ま、『浜の家』のお嬢さんの舌勉強だね」
蒸しタオルで顔を拭《ふ》きながら寛は嬉《うれ》しそうだった。
「ホテルで少しは眠れたかい。四時間ばかりあったけど……」
「それがね。ぐっと勉強ぶりを発揮しちゃって……寝る所のさわぎじゃないの」
「どこかへ見物に行ったのかい」
「とんでもないわ」
八千代は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「京都まで来た目的を果たして来たのよ」
「目的……?」
「そう」
運ばれて来た料理を食べながら八千代は赤坂のニューセントラルアパートで有田いねと逢《あ》ったこと、彼女の口から剥《は》がされた写真が細川昌弥のS小学校卒業の際の記念写真であるのを知った事などを説明した。
「早速、ヒロシに話してあげようと思って撮影所へ電話したら京都のロケだっていうんでしょう。ぼんやりして家へ帰ったら、今しがたまでいらっしゃったって聞いて……。あんな情ない想いをしたのははじめてよ」
「そうだったのか。僕も羽田へ車をとばしながら、すれちがいくらいに君が帰って来てるんじゃないかなと思ったんだが……」
寛は山芋《やまいも》を器の中でかき回しながら言った。
「剥がされていた写真は卒業式のだっていうのは確かなんだろうね」
「確かよ。アルバムにも昭和十八年三月二十五日、講堂にて、という傍書があったの、黒い地紙に墨で書いてあったので、ちょっと気がつかないんだけど」
「S小学校というのは京都なんだね」
「そう。北白川のそばよ。京子さんの伯母《おば》さんから聞いて来たの」
「そこへ行ってみたのかい」
「ええ、卒業写真をみせて貰《もら》ったわ。昭和十八年の……」
「手まわしのいいことだ」
寛は笑った。
「細川昌弥君の少年時代、どんな顔してた。今と変わらないようかな」
いもぼう料理というのはすべての材料の基礎が芋《いも》であった。煮つけは鱈《たら》とえび芋、椀《わん》も焼物にも芋が巧みに加工されている。
八千代は料理屋の娘らしく、一つ一つをじっくり味わいながら箸《はし》を運んでいる。
夕闇《ゆうやみ》がすだれ越しにしのび込んで来ていた。どこかで蚊《か》やりの香がする。
細川昌弥の少年時代の写真顔に成人後の面影があるかという寛の質問に八千代は首をふった。
「それが駄目なの。なにしろキャビネ判に五十人からの生徒と先生が入っている記念写真でしょう。おまけに古くて黄ばんでいて、どの顔もみんな似たりよったりなの」
「わからなかったのかい」
「でも、その中に細川昌弥さんが居ることは間違いないわ。写真の下に生徒名簿が出ているの。その中に細川昌弥さんの名前もあったわ」
八千代は帯の間からメモ帳を取り出した。
「もしかしてなにかの手がかりになるかと思って、生徒名簿を写して来たのよ」
ぎっしり写された姓名と住所のメモを眺めて、能条寛は流石《さすが》に感心した。
「君は全く、マメな人だね」
「冷やかすのは止めてちょうだい。これでも一生懸命なんですもの」
寛はメモを丹念に眺め、食後の茶を飲みながら、もう一度、繰り返した。
「左京区岡崎法勝寺町、細川昌弥君は岡崎に住んでいたのか。S小学校は北白川だから、ちょっと遠いな」
箸《はし》を膳《ぜん》へ置いた八千代へ言った。
「岡崎付近から通っている生徒は案外、少なかったんだね。細川君を入れて十人足らずだ。岡崎町から一人、岡崎法勝寺町から四人、岡崎通りから二人、岡崎南御所町から二人、そんなものだよ」
寛はメモの住所から岡崎の地名を探しては八千代にしめした。男が八人、女が一人だった。
「まず、この九人から当たってみるか」
寛はあくまでも、細川昌弥が大阪のSホテルから帰宅して京子に思いがけない所で思いがけない人に逢《あ》ったといいながら古いアルバムをみていたという、その思いがけない人を卒業写真の中の誰《だれ》かに違いないと推定しているようだ。
「どうして昌弥さんの近所に住んでいる人から調べるの」
八千代の問いに寛は笑った。
「五十人からいるクラスメートなんだよ。十七年も経って、名前や顔を記憶しているというのは余《よ》っ程《ぽど》、仲良くしていた人間でもないと難しいんじゃないのかい。とすると、小学校時代の親友というのはどうしても家が近所の者同士というのが普通だろう」
小学校時代の仲良しは家が近所の者同士がそうなり易いという寛の説には八千代も同感だった。
机が隣同士だったから友達になるというのもあるが、それでも家が逆の方角だったりすると学校だけのつき合いに終わりがちだ。同じ町内に住んでいて通学の往復も一緒、帰宅して遊ぶのも一緒というようなクラスメートのほうが遥《はる》かに親友となる確率は高いし、想い出の中にも残るものだ。
「明日、岡崎を訪ねてみるわ。九人の人たちの現在を調べればいいのね」
「九人がそっくりその住所に今も住んでいると話は簡単だがね」
寛は眉《まゆ》をしかめた。
「それに、果たしてその九人の中に目的の人間がいるかどうか。岡崎法勝寺町に近いのは、今、並べた町名だけじゃない。東天王町、高岸町、南禅寺町なんてみんな隣合わせの町だもんな。数え出したらきりがないよ」
「随分、町名に詳しいのね」
八千代は驚いて言った。まるでその近所に長く住んでいたようである。
「岡崎付近の地図、町名に詳しいのはね。僕の親父《おやじ》が若い時分、岡崎に下宿していたんだよ」
「ああ、D大の学生さんだった頃《ころ》でしょう。この間、NHKの�私の秘密�で御対面をなさったお婆さんが小父《おじ》様の下宿先の奥さんだったんですってね」
八千代は一か月ばかり前のテレビを想い出しながら言った。
「そうなんだ。あの山崎はつ代さんという人ね。この間、漸《ようや》く御対面でめぐり合えたんだけど、ずっと行くえが知れなかったんだよ」
「小父様、おっしゃってたわね。京都へ行くたびに心がけて探していたのだって」
なつかしさの余り、真実、眼に涙を浮かべて山崎はつ代の手を握りしめていたテレビの尾上勘喜郎の姿に、八千代は母と茶の間で観ていて、つい眼頭を熱くしたものだった。
「親父は自分で探すだけじゃ物足りなくて、僕が映画の仕事で京都へ行く度に、岡崎辺を聞いてみてくれって頼むんだよ。三十年も昔にそこに住んでいた人のことなんぞ、いくら古くさい京都の話でも手がかりがつく筈《はず》がないとは思ったんだがね。親父の命令だし、まあ気休めのためと考えて、暇にまかせてあの付近をよく歩き回ったんだ。それでなんとなく覚えちまったんだろう」
寛はさばさば笑ってのけたが、昔の恩人に逢《あ》いたいという父親の気持ちを推量して必死に訊《たず》ねて歩いたに違いないと八千代は悟った。二度や三度、調べて歩いただけではとても町名なんぞ記憶出来るものではない。
のんきな顔をしているくせに、いざとなると、とことんまでやってみなければ気のすまない寛の気性なのである。
いもぼうを出たときはもううすぐらかった。円山公園の外灯が美しい。
「少し散歩しようか」
寛が八千代の顔をのぞくようにして訊《き》いた。
「ええ、でも、誰《だれ》かにみつからないかしら」
「大丈夫さ。暗いし、この公園を散歩しているアベックは誰も自分達のことに熱中してるから、他人のアベックなんぞに眼もくれやしないよ」
歩き出した寛に八千代は寄り添った。恋人同士というにはなんとなく面映《おもは》ゆい。
「円山公園も久しぶりだわ。こうして歩くのは……」
池があった。周囲のベンチはアベックが占領している。池の水を眺めて八千代は呟《つぶや》いた。
「この前はいつ頃《ごろ》、来たの」
「昨年の春だったかしら。都踊りをみに来て、あの時は染ちゃんと一緒だったわ」
「円山公園を歩いたのも染ちゃんと一緒かい」
「ええ、そうよ。どうして……?」
八千代は怪訝《けげん》な顔で寛を見た。
「染ちゃんと二人だけかい」
「勿論《もちろん》よ」
「それで安心した」
冗談めかして寛が笑ったので漸《ようや》く八千代は彼の言う意味を悟った。
「嫌だわ。寛ったら……御自分こそちょくちょくどなたかと散歩なさるんでしょう。この辺りを……」
言ってしまってから八千代は急に嫉妬《しつと》がこみあげて来た。実際、寛が別の女とこの円山公園を何度も歩いているように思えてくる。
「残念ながら、一度、祇園《ぎおん》で宴会があった後に案内されて来たきりだよ」
「きれいな舞妓《まいこ》さんとご一緒に……」
はしたないと思いながら八千代は言わずにはいられない。
「舞妓も芸者もいたけど、付き人の佐久間も一緒だし、あいつが睨《にら》みつけるもんで僕のそばへは誰《だれ》も寄りつかないのさ」
「さあ、どうかしら」
八千代はなんとなくわびしくなった。恋とは厄介なものである。言葉の上の冗談が、いつか本気になってしまう。
「馬鹿《ばか》だなあ。なにを怒ってるんだい」
寛がそっと八千代の肩に腕をかけた。
「知らないわ」
そっぽを向こうとしたとたん、鯉《こい》がぴしっとはねた。
「まあ、鯉がいるのね」
「そうさ。池のまわりにゃコイビトが並んでみせつけるんだもの。鯉もはねるさ」
下手な寛の軽口につい八千代が笑い出した。橋を渡って歩き出す。
橋の向こう側のベンチにアベックが坐《すわ》っていた。楽しげに顔を寄せて話し合っている。女も男も和服である。通りすがりに八千代はちらとその二人をみた。声をあげた。
「染ちゃん、染ちゃんじゃないの」
八千代の声に女がふりむいた。あっと眼を見はる。染子だった。
「八千代ちゃん、あんた、いつ……?」
立ち上がった染子の背後に男の顔があった。
「菊四君」
中村菊四は照れくさそうに寛を仰いだ。
「君も来ていたのか。京都へ。……」
「僕は仕事だが、菊四ちゃんは……」
「うん、病院を退院してから、どうせぶらぶらしているのなら、親父《おやじ》が今月から大阪の芝居に出ているんで、勉強のつもりで一週間ばかりこっちへ来てみたんだ」
「そうだったのかい。テレビの仕事は大丈夫なのか」
春から夏にかけて頻《しき》りとテレビの仕事に執着していた菊四である。
「断ったんだよ。僕はやっぱり歌舞伎《かぶき》の女形《おやま》だ。僕の行く道は舞台以外にないということを漸《ようや》く悟ったのさ」
菊四は真っ直ぐに寛を見て微笑した。
「菊ちゃん、あの事件以来すっかり心を入れかえたのよ。大阪へ来てからってものは毎日お父さんの身の回りの世話をしたり、舞台|袖《そで》でお父さんの舞台を一生懸命見ているの。この人、きっといい役者になるわ。私、こっちへ来て心からそう思ったもの」
「染子……」
しゃべっている染子を菊四はたしなめた。二人は眼を見合わせ、二人だけの微笑をかわした。
「ねえ、あのこと、いいチャンスだから、今、寛さんに言いなさいよ」
染子は菊四の耳もとにささやくとぼんやりしている八千代の手を引いて、少しはなれた池の汀《みぎわ》へ連れて行った。
「八千代ちゃん、あんた、いつ東京から来たのよ」
「今朝よ。一番早い特急で……大文字屋さんへ電話したら染ちゃんはもう帰ったんだときかされてがっかりしていたんだわ」
「どこへ泊まるの今夜……」
「Mホテルよ。いつものように」
「一人……」
「当たり前よ。なぜ……」
八千代は頬《ほお》を赤くした。
「染ちゃん、あんたこそどこへ行ったの。東京へ帰ったんじゃなかったの」
問いつめられて染子はうつむいた。
「あたしね。菊四ちゃんに逢《あ》いに来たのよ」
「菊四さんに……」
八千代はまじまじと染子をみつめた。
「あの人ったら、修業のやり直し、人生のやり直しをするんだって、もの凄《すご》い息ごみでね。大阪へ来たのよ。テレビのいい条件の仕事をみんな捨てちゃって……」
染子の眼にちらと女らしい恥じらいが浮かんだ。
「あたし、あの人と夫婦約束したのよ」
中村菊四と夫婦約束をしたと言い切ってしまって、染子は首筋までピンク色になった。
「夫婦約束……」
そんな古風な言い方が染子と菊四の場合、なんだかぴったりするようだと八千代は思った。
「可笑《おか》しいでしょう。あんなに菊四を軽蔑《けいべつ》していた私が……」
染子は足の爪先《つまさき》で石をころがした。
「でもね。あの人、家庭のことやなにかで少し心がひんまがっていたんだけど、根はいい人なのよ。私ね病院へお見舞いに行って、あの人の世話をしてやっている中にそれがわかったの。はじめは、なんだか彼があわれで女の同情で看病してたんだけど」
染子は八千代に、はにかんだ笑いを向けた。
「八千代ちゃん、ほだされるって感情はこんなものだと思うのよ」
「染ちゃんは、菊四さんを信じたのね」
「そう、あんたには不可解でしょ」
「解らなくない事もないの。確かに菊四さんは変わったわ」
八千代は寛と話している菊四の後姿を見た。少なくとも一か月ばかり前に、八千代を神田の割烹《かつぽう》旅館へ連れ込んだ時のようないやらしさはきれいさっぱり彼から消えていた。
「彼、今、必死なの。人間として駄目になるかならないかの瀬戸際だと自覚してるのよ。私ね、彼の必死の手助けがしたくなって来ちゃったのよ。お母さんに嘘《うそ》ついて……」
染子の顔に或《あ》る翳《かげ》が流れた。女の勘にそれが響いた。
「染ちゃん、あなた……」
八千代のおずおずとした問いに染子はうなずいた。
「あたし達、もう他人じゃないの」
八千代は絶句した。
「八千代ちゃん、あたしを軽蔑《けいべつ》する……?」
八千代は辛うじて首をふった。
「でも軽はずみだと思ってるでしょう」
染子は単衣《ひとえ》の袂《たもと》をなぶった。女らしさが匂《にお》うようなそぶりである。
「私たち、仕方がなかったの。おたがいの感情がそこまで昂ってしまって、他に避けようがなかったのよ」
八千代はそっと染子の肩へ手をかけた。
「染ちゃんを信じるわ。そして……菊四さんを私も信じるわ」
「有難う」
染子の眼から涙がほろっとこぼれた。思いつめた女のいじらしさを、八千代はふと羨《うらやま》しいと感じた。
橋のわきでは男達が向かい合っていた。
「今ね。実は染子と君たちの話をしていたんだよ。寛君、君には長い間、本当に済まなかった。許してくれ」
菊四は寛をみつめ、頭を下げた。
菊四は微笑している寛をみつめ、せき込んだ調子で言った。
「僕は君に逢《あ》ったら、どうしても話しておきたい事があったんだ。入院中もそればっかり考えていたんだが、君に話そうとすると傍に看護婦やうちの者が居たりして、今までチャンスがなかったんだ」
「僕に話……」
寛は真顔で相手の熱心さを受け止めた。
「八千代ちゃんのことなんだ」
「彼女の……」
「僕が、あの人を神田のみずがきっていう割烹《かつぽう》旅館へ連れ込んだ時のことだ」
菊四は緊張で額を青白ませていた。
「もし、あの事で君が八千代ちゃんの……あの人の潔白を少しでも疑っているのだったら……僕は告白する。僕はあの人に卑劣な真似をしかけたのは事実だ。しかし、あの人は僕から逃げて……」
寛はゆっくりと菊四の肩を叩《たた》いた。
「もう、いいんだよ。そのことなら……」
「いや」
菊四は必死な眼をした。
「聞いてくれ。僕は人間の風上にもおけない奴《やつ》なんだ」
策を設けて八千代を割烹《かつぽう》旅館へ連れて行ったことから、離れの老人客に八千代が助けられるまで菊四は必死になって喋《しやべ》った。
「だから、みっともない話だけれど僕が八千代ちゃんになにもしなかった、出来なかったってことは、いつでもみずがきのマダムや女中が証人になってくれる。それからその八千代ちゃんを連れて行った老人なんだが……」
菊四は神の前で懺悔《ざんげ》する者のような思いつめた表情だった。なにから何まで、洗いざらい告白してしまわなければ気がすまないと言った恰好《かつこう》である。
「その時の僕は、とんびに油揚さらわれたような口惜《くや》しさで、八千代ちゃんとその男のあとを追ったんだ。その男がどこへ八千代ちゃんを連れて行くのか気にもなったし、心配だった。後をつけて行くと神田の表通りで染子がタクシーから八千代ちゃんを発見した。もういけないと思って、僕はそこからみずがきへ引き返したんだ」
体裁も悪いが、腹も立って、菊四はみずがきの女中に、八千代を連れ出した男の名を聞いたが、これは聞くほうが野暮で女中はこういう所へのお客の名などには口が固い。
その日はあきらめて、翌々日、菊四は彼に多少、気のあるみずがきの女中を外へ呼び出して、言葉巧みに訊《たず》ねた。
「その男の名は、旅館では三浦と呼んでいるそうだ。月に二回か三回、必ず来る。相手はいつもきまっていて二十四、五歳の女性だというんだ。別々に来て別々に帰る」
池で鯉《こい》がしきりにはねていた。池のふちの恋人たちはひっそりと夏の夜の情緒を楽しんでいる。
声をひそめて菊四は続けた。
「若い女と毎月二、三回やってくると聞いて僕は言ってやったんだ。いい年齢《とし》をしてご盛んな親父《おやじ》だとね。すると、その女中が言うには、そいつはどうも色気であの旅館へ来てるんじゃないらしいってんだ。男と女があんな場所へ来て色気でない筈《はず》がないと僕は笑ったんだが、聞いてみるとまんざら、嘘《うそ》でもないらしい。いつも二人でしんみり食事をし、女中を遠ざけて話し込んで行くだけだ。つまり隣の部屋を使った形跡がないっていうんだよ」
菊四は困ったように頭をかいた。
「君に、こんな話をするのは変だけれどさ。ああいう家はみんな隣室に夜の用意がしてあるもんだろう。それを彼ら二人は全く使用しないようなんだって女中が言うんだよ。それと、女中の感じではその二人は恋仲じゃない。そういう関係の男女だったら一目でわかるんだってね。商売柄だろう。その二人は親しげだがいわゆる恋人同士じゃ絶対にないって主張するんだ。世間からかくれてゆっくり話をするために、あんな場所を利用しているとみんなは解釈しているらしいよ。例えば、昔の恋人の娘と逢《あ》って、若き日の恋人の面影をしのんでいる老人とか、女中たちは小説まがいな空想をしている」
そこで菊四は苦笑いした。
「話がとんだ横道にそれちまったけど、とにかく、僕と八千代ちゃんの間にはなんにもない。八千代ちゃんは潔白だ。彼女はもし僕が強引な行為に出たら、命がけで身を守ったに違いない。あの人は最後まで余裕を失わなかった。智恵《ちえ》と勇気、僕は八千代ちゃんには完全に負けたんだ。負けてあの人を尊敬した。しかし、僕の不心得のために、君があの人に疑いを持って、そのためにあの人が不幸になるような事があったら……」
「菊四君」
寛は菊四が驚くほど明るく大きな声で遮った。
「その心配はいらないよ。僕は八千代ちゃんをけしつぶほども疑ったことはない。僕は子供の時から八千代ちゃんを知っている。愛して来た。あの人の清浄をもし疑うような奴《やつ》があったら、いつでもそいつと決闘するよ。あの人の誇りのためにね」
二人は眼を見合わせた。
「寛君、君は素晴しい恋人を持って幸せだ」
「それだけかい」
寛は笑った。
「なぜ、僕も同様に幸せな恋人を獲得したんだと白状しないのかい」
「遅ればせながらね」
菊四は真実、嬉《うれ》しそうに笑った。
男たちの様子をみて染子と八千代が近づいて来た。菊四は笑いを収めると決心したように寛へ言った。
「寛君、僕の横っ面を一つ、なぐってくれ」
「そんな必要はないよ」
寛は穏やかに笑った。
「僕は何度も言うようだが、八千代ちゃんを一度も疑いはしなかった」
「しかし、それじゃ僕の気持ちが済まないんだ」
「私が寛さんのかわりに殴ってあげるわ」
いきなり染子が進み出たので、八千代が慌《あわ》てて叫んだ。
「止めて染ちゃん」
ぴしりという音が菊四の頬《ほお》で鳴った。染子の平手打ちである。染子はその手を菊四の手に添えて、今度は自分の頬へ力一杯|叩《たた》きつけた。
「これでいいのよ」
染子が晴れやかに言った。
「私達は約束したの。これから先はなんでも二人なの。菊四が悪いことをしたら、私も罪は半分、私が失敗したら菊四もその償いを半分背負ってくれるの。いい時も悪い時も半分ずつ、そう約束したのよ」
菊四を見上げる染子の目には愛情があふれていた。
「僕には過ぎた女房なんだ。幸せものだよ。僕は……」
菊四は寛と八千代へ微笑すると染子へ感謝に満ちた目差しを向けた。
京極《きようごく》へ出て買い物をするのだという菊四と染子に別れて、二人は円山公園を歩いた。夜風が涼しい。
「染ちゃん、幸せそうね」
八千代が呟《つぶや》くように言った。
「菊四君も幸せそうだったよ。あいつがあんな明るい顔をしているのを、僕は初めて見たくらいだ」
「そうね。でも……」
八千代はうつむいた。染子がもう菊四と他人ではないのだと打ちあけた言葉がひっかかるのだ。
(結婚前にそんな軽はずみを……)
と案じる心と、別に、
(そこまで二人の愛がたかめられている)
ということへ羨《うらやま》しさも湧《わ》いた。若い男女が愛し合ったら、そこまで行くのが当たり前かとも思われる。
(寛はまだ一度も、そんなそぶりさえ見せてくれない……)
自分への愛情が、八千代はふと不安になった。
Mホテルの前まで送って、寛は再びタクシーへ乗った。これから夜間撮影にかけつけるのだ。
「あんまり無理をしないでね」
「大丈夫だよ」
走り去るタクシーを見送って八千代は胸がしめつけられる想いがした。
 ホテルのフロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取って、八千代はロビーのほうへ歩いて行った。
一人っきりの部屋へ戻る気になれない。旅先という淋《さび》しさの他に恋人と別れた後の空虚さが彼女の心を占めていた。
ロビーにはテレビが映っている。連続ドラマらしかった。
所在なく、八千代はロビーのクッションに身体を埋めてテレビを眺めた。
ふと、八千代は頬《ほお》に誰《だれ》かの視線を感じた。誰かが自分をみつめている。顔をあげた。
壁ぎわの席に一人の老紳士がブランデーグラスを掌《てのひら》に温めながら八千代へ微笑している。品のいいグレイの背広にきちんとネクタイを結んでいる。英国風な、きっかりした身だしなみである。
八千代は立ち上がった。いつぞや、菊四に神田の割烹《かつぽう》旅館へ連れ込まれた時、逃げこんだ部屋の老紳士である。温厚な、それでいてどこか神経質そうな風貌《ふうぼう》を八千代は忘れていなかった。
老紳士は近づいた八千代を迎えるために椅子《いす》をはなれた。
「思いがけない所でお逢《あ》いしましたね」
八千代は深く頭を下げた。
「その節は、とんだ御迷惑をおかけ致しまして……」
「いやいや」
老紳士は手をふった。
「その話は止めましょう。あなたにとっても忘れたほうがいい思い出ですからね」
改めて八千代に椅子をすすめ、自身も腰かけた。
「京都へ、お仕事でございますの」
「仕事という程のことではありません。大阪までの用事があって出てきたついでに、立ち寄って見たのですが、古い都も年々に変わって行きますね」
老紳士の言葉に昔を偲《しの》ぶ響きがあった。
「京都へお住いになっていらっしゃいましたのですか」
なにげなく八千代は訊《き》いたのだが、老紳士は強く否定した。
「そうではありません。好きで度々、遊びには来ますが……」
「そうでしたの」
うなずきながら、八千代は直感的に老紳士は以前、京都に住んだ事があるのだが、なにかの理由でそれを言いたくはないのではないかと思った。
三十分ばかり、とりとめのない話をして、八千代は老紳士に別れて部屋へ戻った。
可笑《おか》しな日だと思った。円山公園で染子と菊四と逢《あ》い、ホテルで例の老紳士と逢う。偶然が結んだ縁の上に八千代自身が立っているようだった。
(今頃《いまごろ》、染子と菊四は……撮影所の寛は)
京都の夜と向かい合いながら、八千代はいつまでも窓のそばを離れなかった。
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