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黒い扇26

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:脚 光十月十八日は浜八千代の誕生日だった。例年のことで親しい友人を招待するのだが、今年は顔ぶれが少しばかり変わった。一番
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脚 光

十月十八日は浜八千代の誕生日だった。例年のことで親しい友人を招待するのだが、今年は顔ぶれが少しばかり変わった。一番最初に到着したのは、染子、客間の仕度がすっかり整った所へ演舞場の舞台を済ませた尾上勘喜郎と菊四、続いて伯父《おじ》の結城慎作がかけつけた。
「今年のお客様はこれだけかい」
挨拶《あいさつ》してから慎作は着飾った姪《めい》を眺めた。白地にバラを染めた訪問着姿の八千代は花嫁のように初々《ういうい》しく美しかった。
「本当は久子さんもお招きしたのですけれど花扇会にお出になるもんだから……」
花扇会というのは舞踊協会が主催する年に一度の各流家元交流の舞踊会で今日、Sホテルに華々しく幕があけられていた。
「すると茜ますみ女史の代役として久子さんが出演しているんだね」
「そうなの、場合が場合だから辞退したらという話もあったのだけれど、久子さんが茜流が不参加では面目にかかわるって、結局、幹部の人と相談して彼女が代役をつとめる事になったのよ。なんと言っても実力じゃ彼女が一番ですものね」
染子が説明した。
「それにしても、もう一人顔ぶれが足りんようだな」
慎作は勘喜郎と微笑しながら言った。
「わかっています。彼は撮影が終わり次第という約束なのよ。さあぼつぼつ召し上がって、今日は板前さんが腕によりをかけていますから……」
八千代は器用に料理をすすめ、染子が男たちに酒を注いだ。
「茜流といえば今度は散々だったね。おまけに今日もこんな奴《やつ》が発刊されて……とうとう三浦先生の名前まで出ちまったよ」
慎作はポケットから折った新聞紙を取り出した。三面に大きく悪女に翻弄《ほんろう》された男達、と見出しが出ている。
「三浦先生って誰《だれ》なの」
染子が訊《き》いた。
「京都のD大の教授だった人だよ。僕だの勘喜郎君だのの先輩で当時新進の演劇評論家でもあったんだ。謹厳なカトリック信者でもあった彼が茜ますみに逢《あ》ったばかりに家庭を崩壊し、遂には社会的地位まで失った」
慎作はウイスキーグラスを唇へ運んだ。
「茜ますみさんっていうのはもともとP花街のお酌さんに出ていたんですってね」
「そう、舞妓《まいこ》の彼女を見染め、その芸質に惚《ほ》れて大金を投じて水あげし、以来、掌中《しようちゆう》の玉のように愛したんだ。三浦先生のなよたけの君とか言ってね。随分有名な話なんだ。結局、大学教授ともあるものが色街の女に迷って家庭を捨てたという事がD大から追放された原因なんだが、ますみ女史は彼が失脚すると忽《たちま》ち彼を捨てた。彼女によって三浦先生は完全な踏み台にされたわけだ」
「そいじゃ、その三浦先生って人、随分|怨《うら》んでるでしょうね。今どこに居るのかしら」
染子が同情的な声で言った。
「それが問題なんだ。実を言うと僕らは三浦先生の現在を知ろうと必死になってるんだ」
結城慎作は勘喜郎と眼を見合わせた。
「それは何故なの。伯父《おじ》様はもしかすると今度の事件にその三浦先生が関係していると考えていらっしゃるんじゃありませんの」
「八千代、実をいうとね。今まではまだ話してよい段階ではなかったので言わなかったのだが、昨年の暮れに修善寺で死んだ海東英次は三浦先生の家で書生をしていた男なんだ。ますみ女史と彼とは彼女が三浦先生の持ち物だった頃から既に人目を忍ぶ仲だったんだ」
「まあ」
八千代と染子はあっけにとられた。
「彼だけじゃない。ますみ女史のパトロンの岩谷忠男、それから横浜で轢死《れきし》した小早川喬、彼らも三浦先生の門下生だったんだ。もっとも岩谷は途中から経済学を志して東京の大学へ変わったが、それまでは文科の学生だったんだ。大学を卒業と同時に父親の関係している大東銀行へ入行し出世街道を驀進《ばくしん》した。三浦先生が失脚した頃《ころ》彼はもう銀行家としてかなり手腕を発揮していた。茜ますみを東京へ連れ出して先代の茜流家元、茜よしみの内弟子にし、よしみのパトロンを籠絡《ろうらく》して二代目家元を継がせるように工作したのも全部岩谷の才覚だ。パトロンが死んで彼は正式に、というと可笑《おか》しいが天下晴れてますみのパトロンに居直ったわけさ」
「すると、ますみ先生が岩谷さんにそむいて結婚しようとした小早川さんは岩谷さんの後輩というわけね」
染子が感心して呟《つぶや》いた。
「その三浦先生という方、京都の大学時代はどこに住んでいらしたの」
「左京区さ、南禅寺《なんぜんじ》の近くなんだ。勿論《もちろん》、そこは大学を辞任すると同時に引き払ってしまったらしいがね」
「南禅寺というと岡崎の付近ね」
八千代は細川昌弥を思い出した。彼の生家は岡崎である。そう言えば昌弥の妹の京子の話では兄と茜ますみとの交際は京都時代に家が近かった故《せい》だといっていた。
「伯父《おじ》様、その三浦先生はますみ先生を御自分の家へ連れて来たの。まさか奥さんと同居させたんじゃないでしょうね」
妾《めかけ》と本妻を一つの家に住まわせるという男の例を八千代は話に聞いた事がある。
「いや、三浦先生の場合は最初は落籍した彼女をどこかアパートへ囲っていたらしいが、連日そっちへ入りびたりなので奥さんが怒って実家へ帰ってしまった。その留守に南禅寺の本宅へますみ女史を引っぱり込んでしまったのだそうだ」
慎作は眉《まゆ》を寄せて盃《さかずき》の中へ眼を落とした。
「あきれたもんね。それで大学の先生なんだから……男って仕様がないわね」
染子が慨嘆した時、勢よくドアが開いて能条寛が顔を出した。
「おそいぞ。二枚目、八千代ちゃんがお待ちかねだ」
菊四が笑いながら盃を上げた。
「やあ、どうも……」
寛は軽く笑い返したが、すぐに真剣な表情になると八千代へ近づいた。
「君に聞きたいことがあるんだ。例の海東先生が歿《な》くなった晩、久子さんは君と染ちゃんの部屋で寝たんだね。笹屋旅館の……」
「ええ」
八千代は相手の剣幕に気を呑《の》まれた。
「その晩、彼女は何時|頃《ごろ》に部屋へ戻って来たか覚えてるかい」
「そうねえ。私達がピンポンして帰って来たのが九時前、それから染ちゃんとお風呂《ふろ》へ入って戻って来たら久子さんが居たのだから」
「十時|頃《ごろ》でしょう。きっと」
染子と八千代はこもごもに答えた。
「それまで久子さんはますみ先生のお世話をしていたのよ。一人でお風呂へ入って来て、布団へ入ったのが十時半、その時、染ちゃんはもう眠っていたわ」
「その後に久子さんが部屋を出た形跡はないかな」
「そうねえ、私もすぐ眠っちゃったし……」
八千代がいうと染子が思い出したように、
「そう言えば夢うつつの中で久子さんが部屋を出て行くような気配がしたわ。トイレへ行ったんだなと思って……こっちも眠くてしようがないんだから気にもしなかったけど」
「戻って来たのは……」
寛は追及した。
「知らない。私がはっきり眼をさましたのは夜明の三時過ぎ、その時は久子さん布団に居たわ。私がスタンド点《つ》けて煙草吸ってたら、廊下ががやがやし出したんだもの」
「そうか……」
寛が考え深そうな眼をしたので八千代はさいそくした。
「なにかあったの。久子さんに……」
「とんだ事に気がついたんだよ」
寛はポケットからくしゃくしゃの新聞を取り出した。茜ますみの過去の男達の記事が出ている例の実話新聞だ。結城慎作がさっきみんなに見せたのと同じである。
「この三浦という先生の住所、勿論《もちろん》その当時のなんだけど、この住所が、八千代ちゃんの写して来た京都のS小学校の、細川昌弥のクラスメートの中の一人と同じなんだよ」
寛はもう一方のポケットからいつぞや八千代が渡したメモ帳を取り出した。細川昌弥の卒業写真に並んでいた生徒の名簿のうつしである。
「左京区南禅寺福地町××三浦田鶴子」
寛は声に出して読み上げた。
「そりゃあ三浦先生の娘さんだよ。保護者の名前は三浦|呂舟《ろしゆう》になっている筈《はず》だ」
慎作が口を入れた。
「そうです。つまり細川昌弥の同級生に三浦先生の娘さんが居られた。僕が発見したのはこの事なんです」
寛は興奮を無理におさえつけるようにしながら喋《しやべ》った。
「八千代ちゃんは知ってるね。細川昌弥が今年の正月五日に大阪のSホテルへ行って翌日、妹の京子さんに思いがけない人に逢《あ》ったと言いながら卒業写真を見ていたということ。実はあの夜、僕はSホテルに泊まっていてロビーでますみ先生の内弟子の久子さんに逢った。彼女はますみ女史の部屋で男客が彼女と逢い引きしているため、その男の帰るのをロビーで待っていたわけだ。ますみ女史の所へ来ていた男客、これがどうも細川昌弥らしい。もし彼だったとすると、彼は帰りがけにロビーに居た久子さんと偶然に顔を合わせないとは限らない。まだ、あるんだ。細川昌弥が殺された十四日、赤坂のますみさんの家の女中さんの話だと久子さんは夜の十一時半|頃《ごろ》に帰宅している。つまり大阪を四時三十分発の特急で発《た》って来たと言っている。これだと十一時に東京着だ。しかし、こうも言える。大阪の伊丹を九時五分発の日航機に乗れば十一時前に羽田へ着く。タクシーをとばせば十一時半過ぎに帰宅出来る。従って彼女が午前十一時過ぎに神戸で細川昌弥と逢《あ》い、その死体を夜の八時|頃《ごろ》に三の宮のアパートへ運んでから帰京する事も可能と言えるんだ」
「何故《なぜ》、彼女がそんな事をする必要があるの」
たまりかねて八千代は叫んだ。
「もう少し聞いてくれよ。もう一つ、僕はうっかりしていたのだが、例のPホテルのプールの一件ね。あの夜、僕は京子さんのアパートへアルバムをみせて貰《もら》いに行く約束だった。細川昌弥君が思わぬ人に逢ったと言って眺めていたやつだ。八時という約束の時刻に僕は行かれなかった。そしてその夜、京子さんは何者かに殺され、アルバムから一枚の写真が剥《は》ぎ取られた。例の昌弥君の卒業写真だ。言いかえれば犯人はその写真を僕に見られたくないため、それが昌弥君の死の原因をあばく鍵《かぎ》である事のために京子さんを殺し奪ったに違いないのだが、そいつは少なくともその夜八時に僕が彼女のアパートを訪問する事を知っていたという事になる。どうして知ったのか。京子さんがうっかり話したとも考えられる。しかし、僕は気がついた。僕が京子さんへその約束の電話をかけたのは築地の天春からなんだ。お父さんがNHKの�私の秘密�に出演してその帰途、天ぷら屋へ寄った。そこからかけたのだが、僕のそばには誰《だれ》も居なかった。が、その時、京子さんの部屋には来客があった。彼女はその人の名を僕に言った。その来客は僕と京子さんの約束の電話を、京子さんのそばに居て聞いていた」
「誰なのよ。誰なのその人は……」
たまりかねたように染子が叫んだ。彼女だけではなくその部屋の人間の全てが寛の口許に集中している。
「あの時の京子さんの電話の台詞《せりふ》を僕ははっきりと思い出す事が出来る。京子さんはこう言った筈《はず》だ。今、ここに久子さんが見えてます。あなたの車のことでことづけを頼まれて毎日アパートへお寄りになったんですって、私、箱根へ旅行していて今日戻って来たんです、とね。それからアルバムの話をした」
「車のことって、例の晩、京子さんの部屋へ車の鍵《かぎ》を忘れてしまって、車をアパートの駐車場へあずけて帰ったことでしょう」
染子は八千代と寛との間の誤解の種となったジャガーの二四サルーンの車を思い出した。
「僕は翌日、車を取りに行ってそこで久子さんに逢《あ》った。彼女は京子さんとは最近、親しくしているから車のことはことづけてあげると言ってくれたんだ」
寛はゆっくりと一座を見渡した。
「僕が京子さんに電話をした時、久子さんはそばに居た。電話が済んでからアルバムを見せるというのはどういうわけかと京子さんにさりげなく訊《たず》ねる事も可能だ。京子さんにしても久子さんの前歴は知らない。茜ますみの内弟子ということでなにかの役に立つ、情報を聞き出すに便利な相手と思ってつき合っていたのだろう。二人が知り合ったというより、近づいたのは昌弥君の死後の事だからね」
「待ってちょうだい。寛、どうして久子さんが……そんな怖しい……理由がないじゃありませんか。寛のいうのを聞いていると細川昌弥さんと京子さんの兄妹を殺した犯人は久子さんということになりそうじゃないの。何故《なぜ》、彼女がそんな事をしなけりゃならなかったの」
「細川兄妹だけじゃない。海東先生も小早川喬も、そしておそらく茜ますみも高山五郎も彼女によって殺されているんだ」
「寛さん」
染子が金切り声をあげた。
「久子さんが何故、彼らを殺したか。理由はこれなんだ」
寛は手品師のように、再びポケットへ手をやった。二枚の写真だった。一枚は卒業記念写真。S小学校で八千代が見たのと同じものだった。細川京子のアルバムから犯人が剥《は》がして行ったと推定されるのと同じものでもある。
「どうしてこれを手に入れたの」
「君が東京へ帰った後でS小学校へ行き、頼んで複写させて貰《もら》っといたんだ」
もう一枚を手に取った。一人の女生徒の顔が拡大されている。
「卒業写真の中にある三浦田鶴子の顔を拡大してみたんだ。たった今しがた撮影所でやって貰ったんだよ。この新聞の記事から思いついてね。その顔、誰《だれ》かに似ていると思わないかい。八千代ちゃん、染ちゃん……」
写真を覗《のぞ》き込んで八千代と染子は同時に言った。
「これ……ひ……久子さんじゃあ……」
「なんだって……」
慎作は手を伸ばして写真をひったくった。
「すると、なにか、茜ますみの内弟子の久子という人が、三浦呂舟先生の娘の田鶴子さんだというのか」
流石《さすが》に顔色が変わっていた。
「そうなんです。そう考える時、すべてがはっきりするんじゃありませんか」
寛が言った。慎作と勘喜郎とは茫然《ぼうぜん》と顔を見合せたきり声も出ない。
「ちょいと、八千代ちゃん思い出したわ。ほら小早川が死んでお葬式の晩、変な電報が来たじゃないさ。ツツシミテオクヤミモウシアゲマス、ロシウってのさ。あのロシウってのは、その三浦呂舟って先生のことじゃない」
「そうだわ。本当にその通りだわ」
改めて八千代も悟った。茜ますみがその弔電の差出人の名をみて真蒼《まつさお》になった意味である。皮肉な嫌がらせの電報だったのだ。
事件の外貌《がいぼう》が漸《ようや》く浮き上がって来た。
「八千代、その久子さんって人は今日、Sホールで踊りの会に出ているって言ったね。もう終わってるだろうか」
慎作に訊《き》かれて八千代は時計を見た。
「プログラムの終わりから三番目だから、まだの筈《はず》よ。今頃《いまごろ》お化粧中かしら」
「よし、すぐ行こう。もし、寛君の推定が事実なら僕らは三浦先生の門下の一人として、彼女に自首をすすめなければならない」
慎作が立ち上がった。悲壮な表情である。
「車は僕のがありますよ」
寛が玄関へ走り出した。
「とにかく、みんな一緒に行きましょう。ここに居るのはなんらかの形で今度の事件にかかわりあいのある人間ばかりだ」
車に乗りこんでから勘喜郎は例の新聞を未練がましく拡げた。
「ねえ、結城君、先生も共犯なのだろうか」
沈痛な声だった。
「さあ、女一人ではねえ……」
慎作の表情も暗い。新聞には三浦呂舟の写真も出ていた。その下に海東英次、小早川喬、岩谷忠男の写真が並んでいる。ますみと関係のあった男たちというわけであろう。何気なく写真を見ていた染子が八千代を突いた。
「八千代ちゃん、この三浦って先生、どっかで見たような顔ねえ」
勘喜郎が聞きとがめた。
「見憶《みおぼ》えがあるかい。それは今から二十年も前の写真だから、今なら六十過ぎ、髪も白くなっているだろう。童顔だったから案外、お若く見えるかも知れないが……」
「この顔がもう少しお爺さんになって……」
あっと八千代は声をあげた。
「この人だわ。この方だわ」
「八千代、お前、三浦先生を知ってるのか」
助手席から慎作がふり返った。
「染ちゃん、菊四さん、見てちょうだい。あの方じゃない。ほら神田の『みずがき』の」
八千代は流石《さすが》に周囲を意識して口をにごした。菊四の面目を考えた為である。
「そうよ。そうだわ。違いないわ」
染子が太鼓判をおし、菊四も頭をかき乍《なが》ら、
「僕もそう思うよ。とんだ所で旧悪露見だ」
八千代は慎作へ言った。
「伯父《おじ》様、もし八千代の知っている人が三浦先生なら、その人は今、タクシーの運転手をしているのかも知れないわ。この間、田村町の中国飯店の前でそれらしいタクシーの運転手さんをみかけたのよ。あれは確か個人営業のようだったけど……。なんにしても私、その人から名刺を頂いた筈《はず》よ」
そそくさと財布を出し、八千代は一枚の名刺を出した。みずがきで貰《もら》ったものだ。
「三浦兼吉、住所は渋谷か……どうする、こっちへ行ってみますか」
勘喜郎が名刺を眺めて言った。
「いや、やっぱり久子さんのほうを先にしましょう。タクシーの運転手をしているのなら今時分、家に居るかどうか危いものだし……」
場所から言っても大手町のSホールの方が近かった。
「わかった」
運転している寛がハンドルを握った儘《まま》、どなったので一同はびっくりした。
「久子さんのお父さんがタクシーの運転手だとすると細川昌弥君の殺し方が解ったよ」
寛は正面を向いた恰好《かつこう》で喋《しやべ》らなければならないのがもどかしそうであった。
「湊川神社の所で昌弥君を迎えた女は勿論《もちろん》、久子さんだ。二人が乗った車の運転手が三浦先生に違いない。車は彼のものさ」
「東京から運転して来ていたわけね」
「久子さんが前もって連絡して呼び寄せたんだろう。昌弥君は運転手と久子さんが父娘《おやこ》だとは知らない。適当な所へドライブしながら久子さんは昌弥君に催眠薬の入ったジュースかウイスキーかなんかを飲ませて彼の自由を奪い、人目のない所へ運んで仮死状態の彼を車の下にある排気孔《マフラー》へ口を当てさせた。マフラーからはガソリンとオイルを気化した強烈なガスが出る。昌弥君は一たまりもない。その死体を再びタクシーでアパートへ運び、ガス栓をあけてガス自殺を装ったんだよ」
寛の説明をみんなは黙念と聞いた。口をはさむ余裕すら失っている。
信号が青になり、寛の運転する車はSホールの玄関前へすべり込んだ。
「楽屋はこっちよ」
八千代を先に立てて、階段を上がった。頭上から華やかな三味線の音が流れている。
楽屋番に菊四が近づいた。岸田久子さんの部屋はどこですかと訊《き》いている。
「わかりましたよ。奥の三番だそうです」
戻って来て言った。
「伯父《おじ》様、私、染ちゃんとここに居ます。もし万が一、久子さんがそうだったら、なるべく人目に立たないように、ね。手荒なことなどなさらないでね」
八千代は伯父に哀願した。
「わかっているよ」
慎作はうなずいた。
「僕は残っていますよ。あまり大勢では……」
菊四が言った。結局、慎作、勘喜郎、寛の三人がさりげなく久子の楽屋ののれんをくぐった。
久子はもう化粧を済ませ、衣裳《いしよう》を着ていた。かつらだけ、まだかけていない恰好《かつこう》で鏡の前に坐《すわ》っていた。そばに茜流の幹部の名取りが二、三人いたが、部屋の中はひっそりとしている。隣近所が踊りの会の楽屋らしくにぎやかな笑い声や華やかな色彩、人の出入りに取り巻かれているのに、この部屋だけが奈落《ならく》のように暗い。
茜流控室とはり紙の出ているのれんを見て廊下でささやいている人も多かった。茜ますみの失踪《しつそう》はもはや舞踊関係ではもちきりの噂《うわさ》話になっている。
「へえ、内弟子さんがますみさんの代役をするの」
などと聞こえよがしの声も通った。
しかし、鏡の中の久子の顔はむしろ生き生きとしていた。飽かず自分の舞台姿に見入っている。
のれんを入って来た勘喜郎を目ざとくみつけた。
「まあ、音羽屋の師匠、ようこそ……」
楽屋見舞いに来たと解釈したらしかった。いそいそと座布団をすすめる。
「どうでございましょう。この衣裳……」
袖《そで》を拡げたポーズにも晴れがましさがあった。勘喜郎は沈鬱《ちんうつ》にうなずいた。
「演目《だしもの》はなんですね」
「地唄《じうた》の葵《あおい》の上《うえ》ですわ」
ふと入口に立っている寛と慎作に気づいた。怪訝《けげん》そうに見る。慎作は意を決したように内部へ入った。勘喜郎は紹介の形を取った。
「これは僕のD大時代からの友人で結城という者です。貴女《あなた》に折入ってお話したいことがあるのです。僕も同様です。失礼ですがそちらの方々に少し席をはずして頂けませんか」
D大という言葉に久子はぎくりとしたようだった。
「もうすぐ舞台なのですけど、終わってからではいけませんかしら」
「お手間は取らせません」
結城はきっぱり言った。様子をみていた茜流の幹部達は席を立った。
「すみません。どうぞ客席のほうでごらんになっていて下さい」
久子は丁寧に送り出した。席へ戻った。
「なんでございますの、お話とおっしゃるのは……」
落ち付いて結城を見た。勝気そうな眼がきらきらと輝いている。
「三浦呂舟先生のお嬢さんですね」
ずばりと結城は言って久子を見つめた。久子は視線を逸《そ》らさない。
「僕は京都のD大の出身で三浦先生の後輩に当たる者で在学当時は先生とかなり親しくしていました。卒業後、新聞社へ入り、南方へ従軍記者として配属されたりして先生との音信も絶えたのですが、昨年、偶然に再会の機会を得ました。暮の十二月六日です」
思いがけない慎作の言葉に、寛は眼を見はった。十二月六日は海東英次が修善寺温泉で急死した日である。
「その日、僕は京都からの帰途、友人と二人で急行列車の食堂へ行きました。そこで三浦先生とお目にかかったのです。先生の容貌《ようぼう》は白髪こそ多かったが若々しく昔のままと言ってよい程でした。食堂で僕は友人の河野という男を紹介し、また、先生に今どこに住んでいるかとたずねられて渋谷区代々木初台××番地と答えました。食堂車で先生と別れたのは静岡を過ぎた頃《ころ》です。僕らは食堂に残り先生だけが客車に戻りました。後で考えると先生は次の停車駅沼津で下車するために急いで客車へ帰られたのではないかと思います。沼津からは修善寺行と連絡があるはずです」
慎作は一語一語よどみなく続けた。
「十二月の半ば過ぎに僕の家へ名宛《なあて》人不明の郵便物が来たのです。僕は社へ行っていて女房が郵便屋と応対したそうです。住所は明らかに僕の家で名前が河野秀夫、内容物は眼鏡《めがね》という事でした。差出人は修善寺の笹屋旅館で女房は心当たりがないと言って郵便屋を帰したのです。その話を聞いて僕は修善寺の笹屋旅館へ問い合わせました。すると十二月六日の夜、僕の住所で名前が河野秀夫という男が確かに笹屋旅館に泊まっていたのです。年頃《としごろ》、容貌《ようぼう》をきいてみるとどうも三浦先生のような気がする。但《ただ》し三浦先生は眼鏡をかけていない。笹屋旅館に泊まった男は黒ぶちの眼鏡をかけていて、しかもそれを帰りに忘れて行った」
楽屋の中に重い空気が立ちこめていた。久子は表情も変えず慎作と向かい合っている。頬《ほお》がかすかにけいれんしていた。
「忘れていったという事で僕はその男が普段は眼鏡をかけていないのではないかと思ったのです。老眼鏡や近視の場合、眼鏡を忘れるということはあり得ない。僕は暇をみて修善寺へ出かけました。笹屋旅館でその眼鏡を見せてもらうと果たして素通しでレンズには度がありません。伊達《だて》か変装用に眼鏡を用いたという想像は容易に成り立ちます。念のため若い日の三浦先生の写真を番頭に見せました。髪を白くし眼鏡をかけさせると十中八九、間違いはないということでした」
慎作は静かに言葉を継いだ。
「三浦先生が変装して笹屋旅館に泊まった夜に同じ旅館に茜ますみが海東英次と門下生とを連れて来ています。しかもその夜明け、笹屋旅館の名物ギリシャ風呂《ぶろ》で海東英次が急死しています。彼は昔、三浦先生の書生をしていて、先生の愛人だった茜ますみと先生の眼をかすめて関係を持った男です。こう考えてくると海東の死をただの心臓|麻痺《まひ》として片づけるには偶然が多すぎます。まだあるのです」
ポケットから眼鏡のサックを取り出した。眼鏡は黒ぶちである。
「笹屋旅館で貰《もら》い受けて来たものです」
慎作の指はサックの中から小さな紙片を出した。鉛筆の走り書きで「今夜二時、海東を部屋へ誘います。田鶴子」
流石《さすが》に久子の顔色が変わった。
「あなたはこれを廊下のすれ違いかなんかにあなたのお父さんである三浦先生に渡した。先生はそれをうっかり眼鏡のサックへはさんだ。宿の浴衣丹前《ゆかたたんぜん》の恰好《かつこう》だとポケットがないし、サックへはさんでおいて後で破いて捨てるつもりだったのでしょう」
「止めて下さい」
久子が叫んだ。
「商売違いでしょう。新聞屋さんというのは刑事の真似もするんですか、第一、私が三浦呂舟の娘だなんて、証拠があるとでもおっしゃるんですか」
「田鶴子さん……」
ずばりと慎作は言った。一世一代の彼のはったりであった。
「僕は或《あ》る所でお父様に逢《あ》いました。三浦先生はすべてを僕に話してくれましたよ」
「父が……」
信じられないというように久子は慎作を仰いだ。
「あなた方が海東英次、小早川喬、茜ますみたちに報復の念を持たれたのは無理のないことと思います。彼らは人間の道をふみはずした破廉恥《はれんち》な奴《やつ》らです。恋という名にかくれて醜い浅ましい行為を敢《あえ》て世に恥じない。しかし彼らを糾弾《きゆうだん》するにあなた方のとられた方法というのは決して妥当とは言えない。少なくとも現代人の常識をふみはずした方法に違いないと言えるでしょう。まして手段のため、自己防衛のために細川さん兄妹を殺し、利用した高山五郎までを……」
その時、久子の顔が激しくゆがんだ。
「あの男は……五郎さんは殺す理由があります。あの人は私を裏切った。なにもかも捧《ささ》げつくした女の愛情を泥足でふみにじって捨てたのです。男なんてみんな……みんな……けだもの……」
ううっと嗚咽《おえつ》を喉《のど》に伝えて久子は片手を畳へ突いた。肩が荒々しく波立っている。
のれんから若い男が顔を出した。
「茜さん、そろそろ出番ですよ」
久子はふっと顔をあげた。
「はい、仕度は出来ています」
男の顔がひっこむと、久子は坐《すわ》り直し慎作を見上げた。
「お話はよくわかりました。そして、父は今どこに居りますのでしょう」
見事な逆襲だった。寛はどきりとした。三浦呂舟の居所はまだつきとめたわけではない。が、結城慎作は微動もしなかった。
「さる所であなたの来るのを待っておられます。我々は先生の名誉を出来得る限り尊重したいと願っているのです」
久子の顔に淡い微笑が上った。
「有難うございます。この舞台が済むまでお待ち頂けませんか。一生一度の晴れのステージを、せめて心おきなく舞わせて頂きたいのです。ほんの十五分の御猶予をおすがりしたいのです。心ならずも御恩を受けた茜流の最後の奉仕に致したいのです……」
慎作は勘喜郎と顔を見合わせた。晴れの舞台を前にしてもっともな望みだと思う。しかし危惧《きぐ》も湧《わ》いた。
「私を信用して預けませんか。舞台が済み次第、どこへなりとお供を致します」
「…………」
「私、随分長いこと茜流の内弟子として舞の修業を致しました。けれど、晴れの舞台にこうして出るのは今日がはじめてなのでございます。こんな衣裳《いしよう》もかつらも……」
ふっと自分の晴れ姿に眼をやった久子の表情に女の悲しさがのぞいた。眼のすみに浮かんだ涙を見ると慎作は遂に言った。
「お待ちしましょう。舞台が終わるまで……」
「有難うございます」
顔を伏せて久子は暫《しばら》く動かなかった。のれんが再び開いて、かつら屋が顔を出した。
「そろそろかけましょうか」
「はい」
久子は立ち上がった。かつら屋が前に回る。
「客席で拝見しますよ。あなたの舞台を」
勘喜郎が一同をうながした。せめてもの心やりである。
「ちょっと待って下さい。八千代ちゃん達を呼んできます」
楽屋から客席へ出る通路の所へ男二人を残し、寛は八千代達を迎えに行った。
「どうだった。どうしたの」
染子がとびつくように訊《たず》ねた。寛は簡単に説明し、三人を連れて客席へ向かった。
「大丈夫かしらね。久子さん」
八千代がそっと呟《つぶや》いた。
「彼女が逃げるかってこと……」
染子がいう。
「そうじゃないの。そんなショックを胸に持っていて踊れるかということよ」
客席はかなり混んでいた。六人は後部のドアの横に立って舞台をみつめた。場内が暗くなり、幕が上がる所であった。
金屏風《きんびようぶ》を背にして久子は舞台の中央に立っていた。黒地に裾《すそ》のほうだけ葵《あおい》の花と葉を金銀で刺繍《ししゆう》した衣裳《いしよう》に朱金の帯が華麗な中にも品がよかった。着物の着つけも帯の結び方も髪型も地唄舞《じうたまい》らしく京風であった。
地唄「葵の上」は謡曲の「葵の上」から取ったもので、源氏物語の一節、源氏の君の愛を失った六条|御息所《みやすんどころ》が正妻の葵の上を嫉妬《しつと》のあまり生霊《いきりよう》となって怨《うら》みを晴らしにくるというストーリーで題名は「葵の上」だが演者は六条御息所の生霊に扮《ふん》して呪《のろ》いと怨みの舞を舞ってみせるものである。
久子の舞は凄《すさま》じかった。御息所という身分の高い性の高雅な上品さを失わず、しかも女の嫉妬の形相を舞の中へ怖しいまでに表現している。観客は息をのみ、体を固くして彼女の舞にみとれていた。
[#ここから2字下げ]
思い知らずや、思い知れ
恨《うら》めしの心や
あら恨めしの心や
人の恨みの深くして憂き音に泣かせ給うとも、生きてこの世にましまさば
水暗き沢辺の蛍の影よりも
[#ここで字下げ終わり]
地唄《じうた》の暗い音律に合わせて久子の踏む足拍子が冴《さ》え渡った。扇がさっとひるがえった。
八千代はあっと声をたてた。扇の裏側は黒一色に塗りつぶされていた。
「黒い扇……」
隣に立っていた寛の唇がかすかに呟《つぶや》いた。
「私、怖い……」
ぶるっと身ぶるいした八千代の肩を寛はそっと抱いた。慎作と勘喜郎が不安な顔を見合わせた。曲はもう終わりに近い。
不意に舞台の久子の体がぐらりとゆらめいた。足拍子が乱れている。舞の手は止めなかったが、正面にきまって観客へふり向けた彼女の顔は生ける人のものではなかった。
「しまった……」
慎作が叫んだのと、静止した久子の手から扇が音をたてて落ちるのと同時だった。久子の体はその儘《まま》の形で一瞬凍ったように動かなくなり、人形が倒れるようにがくんと舞台へ突っ伏した。
勘喜郎が草履《ぞうり》を脱ぎ捨てて横の花道へとび上がった。続いて慎作が——。客席は漸《ようや》く事態に気づいて騒然と立ち上がった。
慎作が抱きおこした時、久子の手は生きもののように舞台を這《は》っていた。
「扇……扇が……」
爪《つめ》が所作台を空しくかいて、すぐに動かなくなった。その伸びた指の五センチメートルばかり先に黒い扇が開いたまま無気味にころがっていた。
結城慎作の家の近くにある八幡神社の境内の古代住居|趾《あと》から火が出たのは、それから一時間ばかり経った時刻である。藁《わら》と丸太で作られた三角形の古代住居は忽《たちま》ち天へ凄《すさま》じい火柱をあげ、一瞬の間にあと形もなく灰となった。
その焼け跡から死体が三つ発見された。
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