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黒い扇25

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:消える京都の撮影が済んで、能条寛が帰京する日、前もって知らせを受けた八千代は羽田まで迎えに出かけた。羽田着十三時十五分の
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京都の撮影が済んで、能条寛が帰京する日、前もって知らせを受けた八千代は羽田まで迎えに出かけた。
羽田着十三時十五分の予定というのに、八千代は朝から落ち付かず空港へ到着したのは十二時半を少し過ぎたばかりだった。
それでもロビーは十三時発の大阪行や十二時四十五分の札幌《さつぽろ》行を待つ搭乗客や、少し前に到着した機の客が手荷物を受け取る時間を待ってショーウィンドーを覗《のぞ》いたり、出迎え人に挨拶《あいさつ》したりで、かなり混雑していた。
八千代は時間をもて余し、国際線のロビーへ上がってみた。ここは閑散としている。
窓ぎわに寄ると海とそれに続く白い滑走路に太陽が光っていた。
(寛ったら、早く帰ってくればいいのに)
空を仰いだ。彼を乗せた飛行機は今頃《いまごろ》、浜松上空辺りか、それとも大島の近くまで来ているのだろうか。
(どうぞ、事故なんかありませんように)
正直なもので、いつもは先祖の仏壇の前でも滅多に合わせない手をそっと胸の前で揃《そろ》えて祈りたくなったりする。
再び階段を下りてくると赤電話が目についた。退屈しのぎにダイヤルを回す。そんな時の相手はいつも染子にきまっている。
「ああ、八千代ちゃん、ますみ先生のゆくえがわかったの」
あたふたと染子の声が訊《たず》ねる。
「そうじゃないの。私こそ、なにか情報が入ったかと思って電話してみたのよ」
「なあんだ。そうなの」
染子の声は明らかな落胆を響かせていた。
「相変わらず手がかりはないのね」
「勿論《もちろん》よ。五郎と二人でどこへシケ込んでるのかしら。無責任にも程があるわ」
「五郎さんと一緒かどうかはわからないでしょう。まだ……」
「一緒にきまってるわよ。殆《ほと》んど同時に消えちまったんだもの。道行を洒落《しやれ》てるにしては少し念が入りすぎてるわね」
「そうなの。うちでもそう言ってるわ」
「いっそ警察にとどけたほうがいいんじゃない。色気だけで二人がいなくなったってのは可笑《おか》しいもの」
「でも、茜流の幹部では万一の時の外聞を気にしてるのでしょう」
辺りに人はいないが八千代は要心して声をひそめた。
「警察に失踪《しつそう》届けを出したあとで、五郎と二人でぬけぬけと温泉へ行ってたのよ、なんて言って帰って来られたら困るってんでしょうけどねえ。そりゃあ前にもますみ先生は稽古《けいこ》が嫌になったりするとすっぽかして男の人と旅行へ出かけたりって例がないじゃないけど、今度は少し長過ぎるものね。今日で一週間位になるんじゃないの」
染子の声にも、かなりな不安が感じられた。ただごとでないと思うのは多少でも彼女が昨年の暮れから茜ますみの周囲に発生したいくつかの事件について、八千代から予備知識を得ているせいである。勿論《もちろん》、八千代自身は茜ますみと五郎とが続いて失踪《しつそう》したというニュースが入ったとたんに黒い疑惑に怯《おび》えた。
単なる恋の逃避行と幹部の人たちが考えている事も歯がゆかった。
「一週間どころか、なんだかんだで十日位になるのよ。もっともさわぎ出したのはつい三日程前なのだけれど……」
「どうして、そんなにのんきだったのよ」
「東京の人たちは知らなかったのよ。てっきり大阪の稽古《けいこ》に行っているとばかり思っていたのですって。東京へお帰りになる予定の日が来ても一向に帰っていらっしゃらないし、連絡もないので、久子さんが心配してホテルへ連絡したら、いらっしゃらない。お稽古にも出ていない。それから慌《あわ》てて心当たりを全部しらべたけれど……」
「どこにも居なかったわけね」
染子は投げたように言った。
「とにかく、そろそろなんとかしないと手遅れになるんじゃない。実話雑誌なんかにカギつけられても大変だし……」
「本当よ」
門下生にとって流儀のスキャンダルも不快だが、八千代はそれ以上に悪い予感がしてならなかった。
「とにかく、なにか聞いたら、知らせるわ。染ちゃんもお座敷かなんかで情報が入ったら知らせてね」
ロビーで場内アナウンスが聞こえて来たので八千代は急いで電話を切った。
定刻より五分遅れて着陸した機から、寛は一番先にタラップを下りて来た。すぐ後に付き人の佐久間老人が続いている。
寛はロビーに立っている八千代を目ざとく発見したようであった。一層、大股《おおまた》になる。
八千代は胸の中が熱くなった。この前、京都で別れたときは、まだ夏服でも暑かったのに、もう半袖《はんそで》では肌寒いような朝夕の季節である。そろそろ初秋とは言え今年の気温は少し低目なのだと気象庁では報じていた。
「お帰りなさい」
「お待ち遠さん」
向い合った二人は甘く微笑し合ったが、すぐ真剣な眼になった。
「君からの速達読んだよ。例の二人、まだ行方はわからないのかい」
「そうなの。お知らせした通りの状態よ」
「まずいなあ」
寛が腕を組んだとき、漸《ようや》く佐久間老人が追いついて来た。
佐久間老人は八千代に挨拶《あいさつ》してから寛へ告げた。
「葉山君が来てまっせ」
佐久間老人が手をあげると、葉山は急ぎ足で近づいて来た。
「若旦那、お帰りなさいまし」
葉山は寛の父の尾上勘喜郎のお抱え運転手である。
「只今《ただいま》、僕の車、持って来てくれたね」
「はい、あちらに……」
ふり返った駐車場に、寛の愛用車ジャガーの二四サルーンが横づけになっていた。
「有難う。それじゃ済まないが、佐久間のおっさんは荷物を受け取って、葉山君とタクシーで家へ帰ってくれないか」
「へえ、よろしゅうおます。そんなら嬢はん、ぼんをおたのみしますで……」
佐久間老人は人の好い微笑を残して葉山運転手と共に手荷物引換所へ入って行った。
「さ、行こう、やっちゃん」
寛は葉山から受け取った車の鍵《かぎ》を掌《てのひら》で鳴らして大股《おおまた》に歩き出した。
「車、わざわざ持って来させたの」
エンジンがかかってから八千代は訊《たず》ねた。
「うん、大阪から電話で頼んどいたのさ。君とこうしてドライブ出来るようにね」
用意周到だろう、と寛は笑った。
「つまり、二人だけの秘密会議をするためだわね」
片目をつぶってみせて八千代はすぐ真剣になった。
「ね、どう思う。ますみ先生と五郎さんの失踪《しつそう》事件……」
寛はうなずいた。
「君の手紙を読んで、とにかく驚いたよ。完全に虚を突かれた感じだ」
前方を見たまま続けた。
「君が特急列車のビュッフェで二人を見たのが最後という事になるんだね」
「なんだか妙な気がするわ。あの翌日から大阪の稽古《けいこ》がはじまったのでしょう」
「二人が稽古場へ顔を出したのは何日間なんだろう」
「丸二日だけですって、三日目からばったり音沙汰《おとさた》なしになったのだそうよ」
「よくさわがなかったものだね。師匠が稽古場に来ないというのに……」
「それがね、三日目の朝、稽古場へ五郎さんから電話があって、急な用事で九州のほうへ行かねばならなくなったから、お名取りさんの代稽古で済ませるようにって知らせて来たんですって」
「五郎君から……」
「そうなの。大阪にも代稽古の出来るお名取りさんが三人居るんだけど、月に五日は東京からますみ先生がお稽古にくるしきたりだったのよ」
八千代は先刻《さつき》の染子への電話より、はるかにていねいな説明をした。
「五郎君から電話がねえ……」
ハンドルを握ったまま、寛の表情は一層、難しくなった。
「大阪のホテルを引き払ったのはいつなの」
「稽古日《けいこび》二日目ですって」
「二人一緒かい」
「いいえ、夕方にますみ先生がお帰りになって、すぐ又、外出、続いて五郎さんが帰って来てフロントでますみ先生の外出したことを聞くと、彼は部屋へ戻らずに外出して行ったのですって。それから夜の十一時|頃《ごろ》に五郎さんだけが戻って来て、急に予定が変更になったからと言ってフロントにチェックアウトを頼み、荷物をまとめ、お勘定を済ませて行ったというのよ。これは幹部の人が大阪のSホテルへ電話して確かめた事なの」
「なるほど……」
車の多い京浜国道を寛は巧みに愛車をさばいて五反田へ出た。
「そういう詳しい事情を茜流の門下生はみんな知ってるのかい」
「幹部級の数人だけよ。必死でかくしてるわ。外部へ知れたらみっともないし、どんなゴシップ種にされるかわからないでしょう。私は偶然、失踪《しつそう》の三日前、特急列車で二人と乗り合わせたという話をしたものだから、幹部の人がその時の二人の態度や会話になにか今度の失踪の心当たりになるような事はなかったかってしつっこく聞かれたのよ。その折に、私だけ詳しい様子を教えて貰《もら》ったの」
八千代は少しばかり得意そうな微笑を作った。八千代の巧みな誘導尋問で、聞き役の側の幹部連中は結局、大阪で聞き出した二人の失踪の経過を洗いざらい、八千代へ話してしまったのだ。
「でもね。お弟子さん達もなんとなく気づいているのよ。ますみ先生と五郎さんとに、なにかがあったらしいということぐらいはね」
「警察のほうへはまだなんだろうね」
「ええ、でも捜索願いを出すのも今日明日じゃないのかしら。単なる恋愛逃避行とはもう誰《だれ》も考えていないようよ」
「そうだろうね」
寛は沈黙し、八千代もそれに従った。彼の思索の邪魔をしないつもりである。
寛が車を止めたのは田村町の大きな中華料理店の前だった。
ナイトクラブに似た入口にドアマンが立っている。はいって来た寛をみて愛想のいい挨拶《あいさつ》をしたのから察すると、馴染《なじ》みの店なのだろう。
入口をはいった所にクロークがあり、その向こうはテーブルが八卓くらい置いてある。外人客が二組、食事をしていた。
「奥に致しましょうか」
黒い背広に黒い蝶《ちよう》ネクタイを締めた中年のボーイがうやうやしく訊《たず》ねた。
二人が案内されたのは一坪くらいの個室だった。支那風の椅子《いす》とテーブルが配置よく置かれている。
「どうして私がお腹ぺこぺこだとわかったの」
何品かの注文を受けてボーイが下がって行くと八千代は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「早く家を出て来過ぎたと言ったじゃないか。銀座から羽田まではタクシーでも三十分以上かかるだろう。どうだいこの思いやり」
寛は笑った。
「でも、寛はお午《ひる》、済んでるんでしょう」
十三時過ぎに羽田着の便なら、機内で軽食が出る筈《はず》である。
「足りるもんか、雀《すずめ》寿司の一本ぐらいで……」
運ばれたフカのヒレに目を細くして寛は言った。
「それに、ここなら密談にも最適だろう」
八千代はうなずいた。小ぢんまりしているし、隣室との境は壁だから話し声も聞こえない。
「まず八千代ちゃんから話し給え。この間の京都の調査のこと、君が帰る時は撮影が抜けられなくて発車寸前にかけつけて手をふっただけだったし、この間の手紙にも書いてなかったけど……」
「あの時は本当にごめんなさい。送って下さらなくていいってあれ程申し上げたのに、わざわざ来て下さって……でも、うれしかったわ」
八千代はフカのヒレのスープを寛のために小どんぶりに取り分けてやりながら言った。
「でもね。京都はなんにも収穫がなかったのよ。細川昌弥さんの同級生の人、二人ばかり訪問してみたのだけれど、めぼしい話はなにも……。彼は小学生の時から友人と親しくなりにくい性質でいつでも一人ぼっちだったという事くらいよ。クラスメートの中では殊に親友というような仲の友人は一人もなかったのですって……」
「そりゃあ、くたびれもうけだったね。でも僕は君が小学校で写して来た彼と同級の生徒の名簿、あれはなにか役に立つような気がするんだ」
寛は八千代を慰めた。
「その代わりと言っちゃあ可笑《おか》しいけど、僕のほうにはちょいとした収穫があったんだよ。彼に関してさ」
「どんなこと……」
「神戸でのロケが四日ばかりあったんだよ。それで前から考えていた事を実行に移したんだ。細川昌弥君の死体、警察では遺書やその他の状況で自殺と断定してしまったが、その彼の死が発見された日の前日、つまり一月十四日に彼はそれまでかくれていた須磨《すま》の大日映画社長の別宅を出て、十二時大阪発の東京行きの列車に乗る予定だった。それは熱海で彼の恋人の一人のりん子という芸者と逢《あ》い、別れ話をつけるためだった」
寛は雄弁に喋《しやべ》った。
「所が彼はその列車に乗らず、りん子という女性は約束の熱海駅で完全に待ちぼうけを喰《く》わされてしまった。失望した彼女へもたらされたのは細川昌弥の死を報ずるニュースだったというわけだ。ところで昌弥君の妹の、京子さん、あの人から生前聞いた話では、十四日の朝、細川君は電話で二時|伊丹《いたみ》発の飛行機の搭乗券を予約している。これに乗ると、羽田から横浜へタクシーをとばし、そこから熱海へ逆戻りすれば、どうやらりん子との約束の時間に間に合うんだ」
寛は新しい料理の皿へ箸《はし》をのばし、一息ついた。八千代は熱心に耳を傾ける。
「要するに、昌弥君は十一時に須磨のかくれ家を出て、午後二時に伊丹へかけつけるまでの三時間足らずの間になにかしなければならないことか、もしくは逢《あ》わねばならない人が出来たと想像出来る。それで僕は考えたんだ。まず彼の足取りをね。須磨を出てからどこへ行くにしろ歩くか、乗り物に乗るかだろう。彼の性格から言っても商売柄考えても歩く、バス、電車の三つよりタクシーを利用する度合は大きいんじゃないか。殊に時間の余裕もあまりなかったのだ。僕は彼がまずタクシーを拾ったと仮定して神戸のタクシー会社を当たらせたのさ。須磨のかくれ家の付近から十四日の午前十一時|頃《ごろ》、サングラスをかけた細川昌弥らしき人間を客にした運転手はいないかとね。勿論、素人《しろうと》の僕じゃとてもそんな調査は出来ない。幸い、付き人の佐久間のオヤジね、彼の次男が神戸の新聞社に記者づとめをやっている。その彼が快く調査をしてくれた。深い事情は打ちあけなかったのだが、ジャーナリストの勘でなにかを悟ったのかも知れない」
八千代は箸《はし》を動かすのを止めた。
「わかりましたのね。細川さんを乗せたタクシーの運転手さんを……」
寛は大きく顎《あご》を引いた。
「随分な苦労だったらしいけど捜し当てたんだよ」
「どこへ行ったの。細川さんはタクシーで」
八千代はせき込んだ。もう食事どころではない。
「それが……まずいんだ」
寛は頭に手をやり、苦笑した。
「細川君を乗せたタクシーは須磨から神戸へ向かい、湊川《みなとがわ》神社の横で彼を降ろした」
「湊川神社って楠木正成《くすのきまさしげ》と正季《まさすえ》兄弟を奉《まつ》った神社ね」
「そうだ。須磨と神戸の三の宮との間の位置にある。そこで彼はタクシーを降りた」
「そこから……そこから彼がどこへ行ったかはわからないの」
「運転手君を追及しての話なんだが、湊川神社の境内へ入った所に女性が立っていたというんだ。和服姿でサングラスをかけた」
和服でサングラスをかけた女というのは、万事が開放的な神戸という都市でも、かなり目立つ恰好《かつこう》だったらしい。運転手はそれがどうも自分の乗せて来た客の待ち人のようだと気がついて好奇心も手伝ったのか、すぐに車を走らせないで、なんとなく眺めていた。
「距離のある事だし、大通りだから騒音もあって声は聞きとれないが、女がなにかを細川君に話し、やがて二人は神社の正面横へ駐車していた車に乗ったというんだ。そこまで見て運転手君は自分の商売を思い出し、ハンドルを握り直して出発した。だから、彼らを乗せた車がどこへ行ったかは知らない」
「なあんだ」
八千代はがっかりした。思い直して訊《たず》ねた。
「でも、その車ね。二人が乗って行った車はどういうのだったの。自家用車、それとも」
「流石《さすが》は八千代ちゃん、いい所へ目をつけたね」
若鶏のからあげを噛《か》みながら寛は笑った。
「冷やかさないで、質問にお答えなさい」
八千代に睨《にら》まれて寛は骨を捨てた。
「運転手君はその車のナンバーを記憶していないが、確か東京の車のようだったというんだよ。珍しいと思ってナンバープレートを見たが、数字は忘れてしまったらしい。運転台には人がいたというんだ」
「東京の車ねえ。型は?」
「国産車だ。近頃《ちかごろ》、よくタクシーに使っているT社の中型」
「ありふれた車だったのね」
ナンバーさえ運転手が覚えていてくれたら、と八千代は口惜《くや》しくなった。東京の車を神戸で見たと言っても、最近のように素人《しろうと》の自動車旅行が流行していては日本国中どこでも自家用族が走り回っている。タクシーの遠出も増えている。東京の車らしいというだけでは雲を掴《つか》むような話だ。
「がっかりだわ。それじゃ駄目じゃないの」
「そうでもないさ。細川君が湊川神社から和服の女性と二人車でどこかへ行った。これはビッグニュースだぜ」
寛は胸をそらせた。
「もう一つおまけがあるんだ。三の宮の細川君が死んでいた彼のアパートの部屋を見て来たよ。現代だね。人が死んだ部屋なんてのは、とかくケチがついたり、気味悪がられたりしてなかなか後へ入る人がないだろうと思って行ったら、もうちゃんと後釜《あとがま》が入っているのさ。神戸の一流キャバレーにつとめている女の子だっていうんで、全く驚いたんだが、その彼の部屋ね、すこぶるうまい位置にあるんだ」
アパート全体が近頃《ちかごろ》、流行の団地アパート的に入口がいくつもあり、外からの出入りは玄関もなにもない。いきなり各部屋、部屋に通ずる階段になっているのだ。
「しかも、細川君の部屋はその階段の右側でそっち側には彼の部屋一つしかない。おまけに入口が曲がり角にかくれるような形になるんだよ」
誰《だれ》にも見られずに彼の部屋へ出入りしようと思えば、部屋の鍵《かぎ》さえ自由になればそう難しい事ではないのだ。
「おまけにね。その高級アパートの住人は大抵が水商売、キャバレーやバーの女の子なんだね。細川君の隣の部屋を借りていて、十五日朝、ガス臭いとさわぎ出した人間もなんとかいうキャバレーのナンバーワンなんだそうだ」
「それじゃまるでキャバレーづとめの女性用のアパートみたいね」
「なにしろ月々の部屋代が最低三万、五万、最高は十万というのだからサラリーマン風情《ふぜい》が住むべき場所じゃないよ。自然、特殊な職業の人間が集まるんだろうけど、彼らの生活は朝も夜も遅い。夜の帰宅は十二時過ぎが当たり前だ。出勤は五時から六時の間、となると夕方の七時から夜十一時すぎまでというのは殆《ほと》んどの部屋から人間が居なくなる時刻なんだよ」
寛の言葉に八千代は再び目を輝かした。
「わかったわ。その時間にもし昌弥さんが自分の部屋へ入れば、誰にもみつからないのが当たり前だというんでしょう」
「細川君でない誰かが、彼の部屋へ入ったとしても同様だね」
「でも、彼は自分の部屋で死んでいたのだわ。一度はアパートへ帰って来なければ……」
「自分の意志で歩いて来たとは限らないだろう。死体となった彼を誰かが運んで来るとも考えられる」
「まさか……」
「八千代ちゃん、僕はどうも細川君はあのアパートの彼の部屋で死んだのではないような気がするんだ。どこかで殺されて、誰かが彼を運んで来て、自殺と見せかける状況を作った……」
寛は白いテーブルクロースへ視線を止めた。
「理由は二つある。彼の妹さんも言ってたように自殺する理由がない。彼には表向きはT・S映画と大日映画にはさまれて葛藤《かつとう》と苦悩の中に身を置いたようになっていたが、世間に発表出来ない内幕を覗《のぞ》けば、大日映画社長の令嬢と結婚、はっきり言えばその女性との間にベビーが生まれるような状態にあったんだ。どう転んだって、行きづまりじゃない。大日映画でも彼と令嬢との結婚、及び、彼のスターとしての再出発には種々のプランを練っていたというし、彼も好意的な大日映画の態度に感激し、人生にも、生活にも再スタートを決意していたという。そんな張り切っていた人間が一朝一夕に自殺なんぞするだろうか。しかも人生に絶望したなどという遺書を残してだよ」
「細川昌弥さんが自殺でなかったのではないかという想像は私も賛成だわ」
八千代は寛へうなずいた。
「あの遺書のことね。前にもヒロシに話したと思うけど、私は彼の手紙の一部じゃないかと考えたのよ。りん子さんの所へ彼がよこしたラブレターというのを染ちゃんが見せて貰《もら》ったことがあってね。その文章を私も彼女から聞いたのだけれど、年中、人生に絶望したとか孤独に堪えられないとか、死にたいとか、そんな深刻な文句ばかりが並んでいるんですって。女は深刻な文章にヨワイと思ってるのねって染ちゃん笑ってたわ」
寛は苦笑した。
「そのことも君から聞いた。僕もそれは同感だ。もう一つ、時間の問題があるんだよ」
寛はテーブルの上に煙草の箱の白い部分を出し、そこへ万年筆で十一と書いた。
「十一時に須磨の家を出て、湊川神社から或《あ》る女と車でどこかへ行った。それからアパートへ帰ったのが夜の八時以後だとすると、細川昌弥はその九時間をどうしていたのだろうということさ」
「女の人と、どこかに居たのじゃあないの」
「しかしね。八千代ちゃん、昌弥君は二時伊丹発の飛行機を予約しているのだ。その女性との用談はせいぜい一時間か二時間で済む筈《はず》じゃなかったのか」
「話がこじれて遅くなったのじゃないの。もし、その女の人との話が恋愛問題で、別れるとか別れられないとかの相談ならば、女の人が別れないといい出したりして時間がすぎてしまうとか……」
「それは僕も一応は考えた。彼は大日映画の社長の令嬢と結婚する前に、今までの女性関係を全部、清算しなければならなかった。りん子ちゃんと熱海で逢《あ》うのも最後の別れのためだった。だからその出発前に慌しく逢わねばならなかった女というのは、やっぱり愛情関係の女だと想像したのだが、もし、そう推定した場合、話がこじれて熱海へ行けなくなるというのはどうだろうか。細川君は他の女性はともかくりん子ちゃんにだけはかなり本気だった。おそらく一番、愛していた女性がりん子ちゃんだったのだろう。将来の野望のために彼女と別れる決心はしても、未練たっぷりだった。彼女には済まないと思っていただろう。だからこそ危険をおかしても熱海で彼女との別れのチャンスを持とうとした。それまでの相手をみすみす熱海で待ちぼうけくわせるだろうか。もし、話がこじれて二時の飛行機に乗れなかったら、電話なり電報なりでりん子ちゃんと連絡を取ったのじゃないかな。いくらなんでもそのくらいの余裕はある筈《はず》だし、女がつきまとっていても、ごま化して電話をかける時間を取るのなんか昌弥君に出来ないわけはないと思うんだよ」
寛は熱心に続けた。
「昌弥君の死体に対する警察医の所見では死後推定二十時間以内という事になっているそうだ。つまりアパートの隣室の人がガス臭いようだとさわぎ出したのは翌朝の八時|頃《ごろ》、昌弥君は前夜の十時から夜半の中にガス自殺したと想像されているのだが、僕は彼が殺されたのはもっと早く、少なくとも十四日の夕刻前だと思う。それまで彼は彼の自由にならぬ所へ軟禁されていたのじゃないだろうか。犯人は或《あ》る場所で彼をガスによって殺し、時刻をみはからってアパートに人のいない十時前後に彼の死体を部屋へ運び、自殺したように情況を装った……」
「鍵《かぎ》はどうしたのかしら。部屋の鍵は……彼は部屋に鍵をかけて死んでいたのでしょう」
八千代は反問した。
「それなんだ。部屋の鍵は昌弥君のポケットに入っていた。部屋へ入る時に犯人はその鍵を使って内へ入った。鍵は死体のポケットへ入れておく。出る時はどうしたのか。これもアパートの部屋を見れば簡単なんだ」
「どういうわけなの」
「ドアの造りがね。最新式のホテルなんかでよく使っている奴《やつ》、つまり内部からドアのノブについているボタンを押しておいて外へ出てそのままドアを閉めると自然に鍵がかかるというあれなんだ。犯人は首尾よく鍵なしで外へ出て鍵穴に紙くずをつめガス洩れを防いで逃走したということになる」
「誰《だれ》なの、昌弥さんを殺したのは……」
たまらなくなって八千代は訊《たず》ねた。
「それが解れば苦労はないさ。ただ昌弥君のアパートを以前にどんな人が訪問していたか。これも佐久間のオヤジの次男坊が警察から聞いてくれたんだが、最も多く訪問しているのは背の高い日本的な感じの和服の似合う垢抜《あかぬ》けた女性だったという。当然、考えられるのは茜ますみ女史だ。警察も一応その点は追及したらしい。管理人や隣室の者にますみ女史の写真をみせたら、サングラスやマスクで顔をかくしていたが確かにそうだという。しかしね。昌弥君の失踪《しつそう》した十四日中、死亡した夜半から十五日未明にかけても全部ますみ女史にはアリバイがあったんだそうだ。十四日は朝九時から京都の稽古場《けいこば》で弟子の稽古、十二時からはAホールでテレビの公開放送に出席、三時過ぎにホテルへ戻り、三十分ほど部屋にいて四時から大阪の稽古場で八時まで稽古に立ち会い、それから大東銀行の岩谷氏とナイトクラブNへ行って十一時|頃《ごろ》一緒にホテルへ帰って来て一緒の部屋で寝てるんだ」
寛はずけずけした言い方をした。
「おまけに僕は翌朝、食堂で彼女と顔を合わせている。あの時は僕も大阪公演でSホテルへ泊まっていたんだ」
「湊川神社でサングラスをかけた和服の女性が昌弥さんを待っていた。それは茜ますみ先生じゃないってことになるのね」
八千代は少しがっかりし同時にほっとした。師匠が犯人とは人情でどうしても思いたくない。
「警察も新聞社もそこでお手あげになってしまって。結局、自殺説になったらしいね。なにしろ他殺なら、そしてもし僕の推定が当たっているとしたら、よくよくあの三の宮の彼のアパートの状況を熟知している人間でないとあの犯行は難しい」
「それは寛のいうようなら女が犯人ではないわよ。女の力じゃ死体を部屋へ運ぶのはとても無理だもの」
言いかけて八千代ははっとした。いつぞや修善寺へ海東英次の死を確かめに行った時、寛は、もし犯人が二人以上なら、死体を離れの庭からギリシャ風呂《ぶろ》の窓へ入れ、風呂場で死んだように見せかける事も可能だと言った事を想い出したものだ。
「寛は共犯ということを考えているのね。だったらもしや……」
茜ますみと内弟子の五郎が八千代の脳裡《のうり》に浮かんだ。だが一月十四日、ますみには一日アリバイがあり、五郎は東京の稽古《けいこ》に残っていた筈《はず》だ。
「僕は東京へ帰ったらますみさんに逢《あ》ってみるつもりだったのだよ。今度の事件はやっぱり彼女に原因している事は疑いないんだ。直接、彼女に当たってみるより手がかりはない」
その茜ますみが五郎と一緒に消えてしまったのである。寛はふかぶかと腕を組んだ。
「さあてと、厄介なことになったぞ」
二人が中国飯店を出たのはまだ明るかった。寛が車の鍵《かぎ》をあけている間、八千代は舗道に立っていた。客をのせたタクシーが目の前へ止まった。中国飯店へ来た客らしい。釣り銭を渡し、客の出てしまったドアをしめている運転手をみて八千代はあっと声をあげた。
「あなたは……」
しかし運転手はちらりと八千代を見たきりさっさと車を走らせて去った。
「どうしたんだ。八千代ちゃん」
寛が怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。
「今のタクシーの運転手さん、ほら、いつか神田の変な店へ菊四さんに連れて行かれたとき……」
「助けてくれた人だってのかい」
「ええ、すごくよく似ていたのよ」
「他人のそら似じゃないのかな」
「でも……」
八千代は諦《あきら》めかねてタクシーの去った方角へ眼をやった。
「タクシーの運ちゃんねえ」
寛は頻《しき》りと別のことを考えるように首をかしげていた。
茜流家元、茜ますみ失踪《しつそう》のニュースは日ならずして新聞に報道された。茜流の幹部が案じた通り、実話専門の週刊誌や新聞は彼女の過去や今度の失踪原因の憶測など派手な記事をばらまいた。そうなっても茜ますみと五郎の消息は全く不明のままであった。
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