瓢箪《ひようたん》から駒《こま》が出る、という。
歿《な》くなった母が、いつ、そんな依頼を伯父夫婦にしたのか、雄一郎には想像もつかなかったのだが、この人の好い伯父夫婦はすっかり雄一郎を気に入って、この甥《おい》の嫁の世話は、なんとしても自分たちの手で、と思いこんでしまっていた。
話は、雄一郎の知らない所でどんどん進んだらしく、翌日、尾鷲《おわせ》へ出かけた伯父は、やがて鬼の首をとったような勢いで帰って来た。
「先方は大乗気でのう、とにかく、見合だけでもと言うてなさるんや。なんなら、明日にでも、お屋敷の方へというて来たが……」
「冗談《じようだん》じゃありませんよ、見合だなんて……そんな……」
雄一郎は口をとがらせた。
「まあ、そう言いなさるな、中里はんというたら、尾鷲一番のええお家や……山林をようけに持っとってのう、大阪中の材木問屋のあらかたと取り引きがあんなさるそうや……縁談のおかたは、その中里はんの上の娘はんでのう、年は二十三、ちいっとあんさんより年上じゃが、世間にはよくある例やし……お家柄じゃけん、お人柄もおっとりしていて、なかなかいい器量の娘はんや……」
伯母にそう言われると、雄一郎としても絶対にいやだとは言えなくなる。
「実のところをいうとのう、ほんまなら、とても、うちとこなんぞに縁談の来る相手やあらへん……けど……その中里はんが、ちょうど五年ほど前に先代はんが急死されて、そのあと、御当代はんはまだお若いよってに……悪い番頭がいいように帳簿をよこしましてしまいよってのう……そいで、少々、身代が悪うなってしもうたんやね……ま、悪うなったというても、うちとこなんぞとは桁《けた》違いの大金持やで、なんということはあらへん……それと……上の娘はんは子供のころに病気がちやったとかで、ちっと縁談が遅うなっとってのう……兄さんに当る御当代はんが、ま、身分なんぞより、人物のしっかりした相手と早う縁組させたい言うてはるもんやさかいに……騙《だま》された思うて、いっぺん逢うてみ。見合いうたら大袈裟《おおげさ》やけんど、ただお座敷へ挨拶《あいさつ》に行って、娘はんの顔見てくるだけやと思うたらええんや、な、そうしてえな、お前が行ってくれはらへんと、間に立ってくれた人にわしの顔がたたんよってな……」
伯父に掻口説《かきくど》かれて、雄一郎は途方にくれた。
翌日、雄一郎は紋付羽織|袴《はかま》に威儀を正した伯父に連れられて、なかば強制的に尾鷲へ向った。
無論、結婚の意志はまるでない。
雄一郎の胸には、幼馴染みで、塩谷の南部駅長の孫娘三千代への失恋の痛手が、まだ、くすぶっていたし、まして、今日の相手が尾鷲一の名家の令嬢と聞いてはそれだけで、自分とは無縁の存在に思われた。
(まあ、いいさ、どんな令嬢があらわれるか、見るだけはみてやろう……)
塩谷で待っている姉や妹へ、愉快な土産話が出来る。雄一郎は、ふてぶてしく構えていた。
尾鷲へは船に乗る。
伯父の家の若い衆が櫓《ろ》を漕《こ》いだ。
「うっかりして訊《き》くのを忘れたんやが、現在のところ、好きな女子《おなご》や約束した女子はおらんのやろな……」
伯父が心細そうな声を出した。
いままでは夢中で見合の段取りにとび回っていたが、急にそのことに気がつき、はっとしたらしい。迂闊《うかつ》といえば、こんな迂闊な話はない。
雄一郎は、わざとそれには答えず、苦笑していた。
「え、どんなんや……そんなもんあらへんのやろ」
「はあ……別に……」
「そうか、そうか……」
伯父はほっとしたように相好をくずした。
「たぶんそうやろうとは思うたんじゃが、なんだか急に心配になりだしたもんでのう……」
雄一郎は黙って眼を沖に向けた。
水平線の上に、まるで春のような雲が浮いている……。
柔らかく、まるいその雲の形が、雄一郎に三千代のことを想い出させた。
雄一郎が三千代に初めて会ったのは、まだ、彼が小学校の二、三年の頃だった。三千代は学校へ行くか行かない位だったろう。
三千代の母は塩谷駅長南部斉五郎の一人娘で、東京の銀行員に嫁いでいたが、夫が満洲へ転勤になるので、その前に三千代を連れて塩谷へ帰って来たのである。
雄一郎は都会育ちのこの少女に秘かに�豆狸�という仇名をつけた。
二度目に会った時、雄一郎は南部駅長の勧めに従い、塩谷駅で駅手見習として働いていた。駅手見習は無給である。毎日毎日水くみや便所掃除ばかりやらされていた。
三千代は見違えるように娘らしくなり、母の遺骨を抱いて塩谷駅に降り立った。母の静子が満洲で病気になり、東京で療養中死亡した、その死の間際《まぎわ》の遺言で塩谷に分骨することになったのだそうである。
この時は、雄一郎はつとめて駅長官舎にいる三千代を避けていた。小倉服《こくらふく》を着て、便所掃除や水汲《みずく》みをし、駅長に大飯ぐいと怒鳴られてばかりいる自分の姿を、彼女にだけは見られたくないという気持が強く働いていた。
ところが、どうしてそんなことになったのか、妙なことから、雄一郎は三千代に恋文を出す破目になってしまった。
雄一郎の小学校の友だちに遠藤という男がいて、その男が三千代にすっかり熱をあげてしまった。彼は雄一郎に恋文の代筆を頼みに来た。雄一郎は遠藤が惚《ほ》れた相手が三千代と知ると、その恋文の代筆を引き受け、自分自身の三千代への気持を綿々と書き綴ったのだ。恋文の作者が雄一郎だということは、すぐに三千代にばれてしまった。三千代に問いつめられて、遠藤が喋《しやべ》ってしまったからである。しかし、三千代は怒らなかった。それどころか、逆に雄一郎にたいして好意さえ持っているらしいことが分った。が、それも束の間、別離はすぐにやって来た。三千代は東京へ帰らなければならなくなったのだ。そのことを三千代は浜辺で雄一郎に告げ、そして泣いた。
雄一郎は言葉を失った。手をのばして三千代のふるえている肩に触れたいと思った。しかし、彼が起した行動は、足許の石を拾い、力一杯、海へ向って投げることだった。一つ、また一つ、おだやかな波の上に、石は線を引いてとび、白いしぶきをあげた。
そして三度目、恋文のことがあって五年ぶりに、三千代が東京から帰って来た。三千代は更に美しくなっていた。
雄一郎は、そのとき、通信科の試験にパスして、駅手見習ではなく、一人前の雇員として手宮駅で働いていた。彼の心には、なつかしさと同時に、五年間、心ひそかにあたためていた三千代へのほのかな愛があった。だが、三千代の態度は雄一郎の期待をよそに、どこかよそよそしかった。
三千代には、ちょうどその頃父方の祖父母のすすめる縁談が起っていた。相手は帝大を首席で卒業した秀才で、東京でも一流の銀行に就職している男だった。しかも彼の父は、その銀行の支店長だという。家柄といい才能といい申し分なかった。
しかし、三千代はこの縁談に気乗り薄だった。実は彼女もこの五年間、雄一郎の愛を心の支えにしてきたのである。が、二人とも、自分の気持を思いのままに表現するには、まだ恋の技術が未熟すぎた。
二人とも、おたがいに好意をよせ合っているのに、言葉のやりとりがつい、ちぐはぐに心を遠ざけてしまう。
三千代は遂に東京へ去った。
彼女の乗った列車が、細長く煙を吐いて、雄一郎の視界から全く消え去ったとき、雄一郎の心の中に、ぽっかりと穴があいた。
三千代が結婚したという噂《うわさ》を、雄一郎が風のたよりに聞いたのは、その翌年の春だった。
あれから、すでに一年半が経過している。
だが、このことは雄一郎にとっては、生れてはじめての失恋だったし、また折にふれて、はげしい悔恨《かいこん》をともなって疼《うず》いた。