北海道の室伏雄一郎の家が、中里家の人々を迎える準備に大童《おおわらわ》の最中、尾鷲の側では、弘子が母親のみちと妹の有里と共に東海道を東へむけて、のんびりと旅を続けていた。
雄一郎の許へ出した手紙では、弘子とみちの二人だけということだったのが、出発間際になって急に有里を加えることになったのは、思ったよりも荷物が増えてしまい、到底、弘子とみちの手には負えなくなったからだった。
荷物持ちというこの割の悪い役柄を押しつけられたことを、有里は嫌な顔もせず、むしろいそいそと引き受けた。
まだ見ぬ北海道という土地にたいする憧《あこが》れもあったが、それよりも、正直にいって、有里は竹の林で出逢《であ》った青年に、素朴な好意を持っていた。あのときの胸のときめきを、有里はまだ忘れていない。しかし、彼が姉の見合の相手だということも有里はけっして忘れなかった。
心の奥に永遠にしまい込まなければならない、雄一郎へのときめきと知っていて、有里はそれでも、彼と逢うことに心がはずんだ。
普通、尾鷲から東京方面へ行くには、船で鳥羽《とば》へ出るのだが、弘子が船酔いするというので、馬車をやとって三瀬谷《みせだに》へ出た。
当時、紀勢本線は、まだ三瀬谷駅までしか開通していなかったのである。
三瀬谷から相可口《おうかぐち》(今の多気《たき》)へ出て、そこから亀山《かめやま》へ、亀山から東海道を熱海へというのが、第一日目の旅程だった。
翌日は東京へ出て、市内見物、買物をしたり芝居を観たりして時をすごした。
みちは東京は二、三度来ていたが、弘子も有里も生れてはじめての上京で、見るもの聞くもの、ただ眼を見張るばかりだった。
ことに、去年の関東大震災で東京の町は廃墟《はいきよ》と化したと聞いただけに、そのすばらしい復興ぶりには、三人とも、ただ眼をみはるばかりだった。
弘子も有里も、学校は京都の女学校へ行った。だから、西洋風の建築物も、市電もべつに珍しくはなかったが、町全体から吹きあげてくるような熱っぽい活気には度肝を抜かれた。
宿屋の二階から見回しても、見えるのは家々の屋根と電柱ばかりで、緑の山も煌《きらめ》く海も見えないのが、なんとも奇妙な感じだった。
「やっぱり東京やなあ……」
有里はため息ばかりついていた。
「あんまりキョロキョロせんといて、うちらまで田舎もんと思われて恥かしいやないの」
弘子はそんな有里を見て眉《まゆ》をしかめた。
その弘子だが、尾鷲に居るときもそうだったが、旅に出てから、まだ一度も雄一郎のことを口にしたことがなかった。
(北海道へ先方の家や土地の下見をしに行くというのに、そんなことでいいものだろうか……)
有里は不思議でならなかった。
(こういう時は、女はもっと夢と期待に胸をふくらませているものではないのか……)
弘子は汽車の中でも、宿屋でも、彼女の好きな啄木《たくぼく》の歌集ばかり読んでいた。
「北海道って、なんやロマンチックな土地《ところ》らしいわねえ、石川啄木の歌に北海道をうたったものが随分あるわ……」
「どんなの、教えて……」
「そうね……うす紅《あか》く雪に流れて入日影、曠野《あれの》の汽車の窓を照らせり……ああ、これは小樽の歌だわ、かなしきは小樽の町よ、歌うことなき人人の声の荒さよ……どうも人柄が小樽は悪いらしいわね……」
「でも、それは啄木がそう思っただけでしょう」
「これなんかどう……?」
弘子はちらと有里を見て、眼のすみで笑った。
「うたうごと駅の名呼びし柔和なる、若き駅夫の眼をも忘れず……」
「もう一遍……」
有里は雄一郎のことを思い出しながら言った。
「うたうごと駅の名呼びし……」
弘子は有里のために、もう一度その歌をよみあげた。そして、
「あの方も、この歌の駅員さんくらいロマンチックならねえ……いつも電信柱みたいに突っ張りかえって、ろくに口をきけんのよ、きっと、いつもプラットホームでライオンのように吠《ほ》えとるんと違うかしら……」
弘子は可笑《おか》しそうに笑った。
有里はそんな姉をじっと見つめた。
(こんなことでいいんだろうか……こんなことで結婚してしまって……)
有里は急に不安になった。
「お姉さま……」
「なあに……?」
弘子は読みかけの箇所の頁を探していた。
「お姉さま、あの方のこと、どう思っていらっしゃるの」
「あの方って、室伏さん……?」
「ええ、……今度の縁談、真面目に考えていらっしゃるんですの」
「私、いつだって真面目よ……」
ちらと、その眼に有里をからかうような色が浮かんだ。
「でも、どの縁談も本気ではないわ」
「お姉さま……」
「あなただって知ってるでしょう……、私、結婚するのなら、文学と結婚するわ……」
「だって、そんな……」
弘子は京都の女学生時代、文学に親しみ、ことに詩歌は自分でもよく作った。尾鷲のものだが、短歌の雑誌の同人にもなっていた。
「私ね……、お針をしたり、お料理を作ったりすることになんの意義も認めないの、夫に仕え、子供を育てて、平凡な忍従の一生を送るなんて真ッ平よ。そんなものに、なんの価値があると思うの。ただもう、毎日を※[#「てへん+屋」]促《あくせく》と暮して、気がついた時にはお婆さんになっている……。ごめんだわ、そんな女の一生……」
「そうかしら……、夫にしろ、子供にしろ、愛するものたちのために尽すのは仕合せなんじゃないかと思うけれど……」
「それはね、才能もなんにも無く生れたのなら仕方がないかもしれないわ……でも、私は文学が好きなのよ……、私は美しいお歌にふれたり、すばらしい文章を読んだりすることに生甲斐《いきがい》を感じるの。京都の女学校で学んでいた時、国語の先生がおっしゃったわ、あなたの才能を大事にするようにって……でも駄目ね……」
弘子は本をぱたんと閉じた。
「いくら才能があったって、あんな田舎に暮していたのじゃどうにもなりはしないわ」
「そんなことはないわ」
有里は慌てて言った。
「お姉さまが雑誌に投稿なさったお歌は、みんな尾鷲の美しい自然が生き生きしていて、私、好きですもの」
「あなたに好かれたって仕様がないわ。もっと、東京のえらい先生がたに認められでもしないかぎり……」
「じゃあ、お姉さまは一生結婚なさらないおつもり……?」
「そうもいかないわね」
口許《くちもと》に微笑を浮かべた。
「いつまでも嫁に行かず、あの家に居すわっていたら、お兄さまが嫌なお顔をなさるし……、今だってもう邪魔にされているんですもの、これでお兄さまにお嫁さんでも来たら、どんなことになるかしら……」
弘子は立ちあがって窓辺へ行った。
「女って、つまらないものね。結婚しないで生活できたら、どんなにいいかと思うか……」
ガラス越しに、夜の東京の町の灯をぼんやりと眺めていた。
有里は畳の上の歌集を手にとり、ぱらぱらとページを繰った。
活字を見なくとも、先刻弘子がよんでくれた若い駅夫の歌は思い出せる。
(うたうごと駅の名呼びし柔和なる 若き駅夫の眼をも忘れず……)
有里の眼には、あのときの青年の姿がありありと浮かんできた。そして、雄一郎をまったく無視した姉の態度に、有里は小さな抵抗をさえ感じた。
また、自分勝手で、結婚というものになんの夢も、努力も持とうとしない姉と見合のつづきをさせられている室伏雄一郎に、ひどく済まないような気がした。
(お姉さまが、もっと真剣にあのかたのことを考えてくださればいいのだけど……)
弘子の後姿を眺めながら、有里はふとそう思った。
翌日、東京での滞在予定を終り、宿を出たときには、山のような母と姉の買い物が、ほとんど有里の荷物になっていた。