二、三日して、雄一郎は昼休みに千枝と待ち合せて、手宮《てみや》機関区へ向った。
岡本良平に、アンパン好きの機関手を探して貰《もら》うためである。
「なあ、兄ちゃん、岡本さんてどんな人?」
「いい奴さ……仕事熱心で、いつ行っても真黒になって働いとる」
「そいでも、雇員《こいん》試験に落ちてばっかしいて、まだ、釜《かま》たきにもなれん人でしょう」
「試験が苦手らしいな……、つまり勉強は嫌いだが実地で働くのは好きというタイプなんだな……」
雄一郎は、通りすがりの機関手に良平を呼んでくれるように頼んだ。
千枝は機関車に見とれている。
「兄ちゃん、日本で機関車がはじめて走ったのはいつ?」
「明治五年十月十四日、東京、横浜間が最初だ。イギリスやアメリカはそれより四十年くらい前から鉄道があったそうだ」
「北海道では、この手宮が最初なんだってね」
「うん、明治十三年の、ちょうど今頃の季節に、手宮、札幌間が開通したんだ。その頃は駅も、たった四つしかなかったそうだよ、手宮、開運《かいうん》町、銭函《ぜにばこ》、札幌……」
「ふうん、その頃からこの機関車が走っとったの?」
「ちがう、ちがう、最初のはアメリカ製のモーグル型という奴だったんだ。形もずっと小さくて、煙突の大きな奴さ。一番最初に走ったのが義経号……源義経の義経号さ、二番目が弁慶号、三番目が比羅夫《ひらふ》号、四番目が光圀《みつくに》号、五番目が信広《のぶひろ》号、六番目がしづか号だ」
「しづか号って、静御前の静だね」
「面白い話があるんだ。明治十八年の冬、義経号と弁慶号が張碓《はりうす》のトンネルの近くで大雪のため立往生したとき、この手宮の機関区から、しづか号が救援に駈けつけたんだとさ」
「へえ、まるでお芝居みたいだねえ……」
そんな話をしているところへ、良平がひょっこり顔を出した。
今日はまた一段と真黒で、眼ばかりぎょろぎょろしている。
「やあ、先日のアンパンの奴のことでね、妹を連れて来たんだが……」
「こんにちは……」
千枝も雄一郎のうしろから挨拶《あいさつ》した。
すると、良平が急にそわそわと落着かなくなった。
「今、ちっといそがしいんじゃ……又にして下さい……いそがしいんでのう……」
あたふたと消えてしまった。
雄一郎があっけにとられていると、千枝がケタケタ笑い出した。
「なんじゃ、今の人、真っ黒くろ助で、まるで南洋の土人じゃ……」
だが、途中でふっと笑いが止まった。
「おかしいなあ、どっかで見たような顔なんじゃが……」
その夜、偶然早番同士だった雄一郎と千枝は、誘い合せて、良平の家を訪ねた。
良平の家は、手宮駅構内の引込み線大踏切のすぐ近くにあって、煤煙《ばいえん》ですすけた、いわゆる汽車長屋と称される路地の一角にあった。
近くの線路を、石炭を満載した貨車が通るたびに、地響をともなって、激しく家が揺れる。
しかも、手宮は道内一の石炭積出港なだけに、貨車の往来が頻繁で、そのはげしさも又格別だった。
二人は最初玄関から声をかけたが、返事が無いので裏口へ回った。
「こんばんは……」
千枝が案内を請うと、今度はすぐがらりと裏の戸が開いて、割烹着《かつぽうぎ》姿にシャモジを持った男が首を出した。
「なんだい……」
その男の顔を見たとたん、
「あら……あんた……」
千枝の唇から、奇妙な声が迸《ほとばし》った。
「あっ!」
良平も眼をむいた。
が、次の瞬間、彼は足許の手桶《ておけ》を引っくりかえして、その辺を水びたしにした挙句、家の中へ逃げ込んだ。
「馬鹿にしてるわ、機関手だなんて嘘《うそ》ついて、万年|釜《かま》たき見習いのぺいぺいじゃないのさ……」
腹だちまぎれに千枝が怒鳴った。
「この大嘘つき——女誑《おんなたらし》——」
「おい、よせよ、みっともないぞ……」
雄一郎は慌てて千枝を制した。
「隣近所に筒抜けじゃないか」
「いいんだよ、あんな奴……」
千枝の機嫌は容易になおりそうもなかった。
「まあ、そういうなよ、あいつだって悪気で嘘をついたわけじゃないんだから」
途々、歩きながら、雄一郎は千枝を宥《なだ》めるのに一苦労した。
「あいつの気持はわかるんだ……俺だって小倉服《こくらふく》の駅員見習の時分は、若い女の子にじろじろ見られるのが、きまり悪かったもんだ」
「だったら、うんと勉強してラシャ服着れるようになったらいいじゃないの、嘘つくなんて卑怯《ひきよう》よ……」
そんな千枝の様子を眺めながら、雄一郎は、
(くろんぼとアンパンの恋、此処《ここ》に畢《おわ》る、か……)
心の中でつぶやいて、苦笑した。
(いま頃、良平の奴、どんな顔をしてるかな……)
雄一郎は、そのときふと、なんの脈絡もなしに、尾鷲の竹林の娘の面影を思い浮かべた。
(たぶん、あの娘とは二度とめぐり逢う機会はないだろう……あの、姉の弘子と結婚でもしないかぎり……)
雄一郎は急に、胸を締めつけられるような哀しみに襲われた。
三千代の時とは違う。
三千代が結婚のため、東京へ去るのを見送ったときのそれは、悔恨《かいこん》であった。手を伸ばせば届いたものを、自分の臆病《おくびよう》さから逃がしてしまったことへの憤りであった。
今度の、中里有里に対する雄一郎の気持はそれとはまったく違っている。
有里は、雄一郎にとって、手の届かない存在だった。家柄が違う、距離が遠い、姉の弘子との縁談は、更に二人を結びつける可能性を薄くしていた。
そして、竹林で見た有里の美しさは、時がたつにつれ、雄一郎の胸の中で永遠化され、非現実化されて行った。だが、それとは逆に、夜、夢の中で逢う有里は、雄一郎と談笑し、時として、彼の腕の中でやさしい愛の言葉を囁《ささや》きかける……。
雄一郎は、自分の心の中に生じた、この二つの世界の矛盾に悩んだ。
(俺は案外、嫌な人間なのかな……)
雄一郎は自分で自分を持て余した。
このところ、しばらく晴天の日が続き、雪が消えて夜道が歩きいい。
雄一郎と千枝が家に帰りつくと、
「雄ちゃん、大変……大変なのよ」
はる子がとび出して来た。
「なんだよ姉さん、眼の色かえてさ……」
「この手紙見てよ、尾鷲の中里さんからなのよ……」
「へえ、何んだって……」
雄一郎は、姉の差出す手紙をちらと眼のすみに入れただけで、囲炉裏端《いろりばた》に腰をおろした。
「十三日に尾鷲を発って、こちらへおいでになるんだって……」
「十三日……」
「北海道は初めてだし、女ばかりなので、出来れば函館《はこだて》まで迎えに出てくれないかって……」
「勝手だなア……随分……」
それは雄一郎の本音だった。
尾鷲でも、ずいぶん向うの我儘《わがまま》勝手に腹を立てたが、北海道へ来てまでそれをされるのはたまらない。
「俺《おれ》は行かないよ」
不機嫌な顔をして言った。
「そうはいきませんよ、あちらは、はるばる紀州から出ていらっしゃるんじゃないの」
「十三日尾鷲を発つとなると十五日か……、俺ちょうどその頃勤務があるんだ」
はる子は手紙を読みかえした。
「函館着は十七日の午後になっているわ」
「十三日に尾鷲を発って、十七日に函館……おかしいじゃないか」
「途中、熱海《あたみ》で一泊、東京で二泊、仙台の温泉で一泊なさる御予定なんですって」
「まるで物見遊山だな」
「お年寄がご一緒ですもの」
「ええッ、お袋も一緒に来るのか」
「当り前よ、お嬢さん一人をこんな遠くまで出せるものですか」
雄一郎はうんざりした。
「そうすると、十七日は夜勤あけだから、十八日がおやすみだし、よかったわ……」
はる子はひとりで決めてしまった。
「ほんとは私も行くといいんだけど、大急ぎで客布団の仕上げをしなきゃならないし、畳の裏がえしも頼まなければならないから……千枝ちゃん、あんた行きなさい、売店お休みとれるんでしょう」
「とれんこともないけど……」
千枝はまだ機嫌がなおらず不貞腐《ふてくさ》れている。
「千枝なんて来たって仕様がないよ」
雄一郎は、つまらなそうに、その場にごろりと横になった。
「まあまあ、いったいどうしたっていうの、二人ともいい歳して、喧嘩《けんか》ばかりして……さっさと洋服着換えなさい」
はる子は、二人が帰宅の途中喧嘩でもして来たと思ったらしい。まるで母親のような口ぶりで、二人を炉端から追い立てた。
「いますぐ食事の仕度するからね……」
はる子が台所へ去ると、千枝が雄一郎を見て、くすりと笑った。
「姉ちゃん、喧嘩したと思ってるんだ……」
「うん……」
「そんならそれで……そう思わしておこうよ、心配するからね」
「ああ」
雄一郎と千枝は、もう一度顔を見合せて苦笑した。
「お風呂へ入らないんだったら、手と顔を洗っておいで……」
台所で呼ぶはる子の声が聞えた。