それから四、五日たった、眩《まばゆ》いばかりの五月晴《さつきばれ》の日、浦辺と久夫は、中里家の客間でみちと勇介と向い合っていた。
勿論、有里と雄一郎の縁談をすすめにやって来たのである。
「まあ、弘子はんと縁談のあったもんが、妹はんをというのも可笑《おか》しなもんやけど、こういうことは世間にもよくあるこっちゃし……何事も縁や思うて、前の話はなかったことにして、あらためて今度の話を考えてみて欲しいのやけどなあ……」
浦辺がまず話の糸口をつくった。
「おっしゃることは、ようわかりました。そんなふうにおっしゃって頂くと、うちらのほうも話がしやすうなります、な、お母さん」
勇介はみちの顔色をうかがった。
「さあ、どんなもんでしょうねえ、私どもじゃ、この前、弘子との縁談の時に、わざわざ北海道くんだりまで行って、やっぱりあかんと思うて話をとり止めて来たんですから、今更、有里のほうをというて来られても……結局、おんなしことですわ」
「けど……、小樽が寒いさかい、あかんと言わはったのは弘子はんのほうで、有里はんのほうは……」
久夫は、今日は甥《おい》のために、中里家から良い返事が聞けるまではたとえテコでも動かぬ気構えだった。
「有里かて、おなじですねん」
みちの答えは簡単だった。
「そいでも、有里はんと雄一郎はんとは、ずっと手紙を出し合うてなさるいうことじゃし……」
「それは……、あちらさんから何度か手紙をお寄越しになったそうですが、若い娘には迷惑な話ですから、有里にもお断りするようきっぱり言いきかせました。今年になってからは、まだ一度も文通して居りませんよ」
「いや、そんなことはおへん」
久夫がすかさず言った。
「小樽からよこした手紙にも、有里はんとは今でも手紙を出したり、もろたりして居るっちゅうことだす」
「まさか、そんな……ふしだらなことを……」
「お母さん、とにかく一遍、有里の気持をきいてみようじゃありませんか。弘子は弘子、有里は有里です。弘子が断ったからって、なにも有里もお断りするとは限らんでしょう」
「あの子は私の子なんです。弘子にしても、有里にしても、あの子たちが何を考えてるのかくらい、私はよう知っとります。第一、姉と縁談のあった者が、姉に断られたからって、すぐ妹の方に乗り換えるなんて、まあ、ようそんなことを……、お話の外ですわ」
「お母さん、だから、前の話は無かったもんにして、と室伏さんも言うてなさいます」
「そうはゆきませんよ。弘子の断ったもんを有里にだなんて、それじゃ有里が可哀そうじゃありませんか……」
「…………」
どうやっても、みちの気持は変りそうもなかった。一座の空気は次第に重苦しいものになって行った。
「ま、とにかく、無駄かもしれんが、当人の気持を聴いてみては……」
浦辺が結論を出し、みちもしぶしぶその意見に従うことになった。
女中を呼び、すぐ有里を此処《ここ》へ連れてくるよう言いつけた。
やがて、有里がやって来た。
「お母さま、何か……」
「ええ……」
みちは、ちょっと躊躇《ためら》った。
「あなた、まさか、まだ北海道の室伏さんと文通しているわけじゃないでしょうねえ」
「…………」
「実はね、北海道の室伏さんのお宅から、弘子のかわりに、あなたを嫁に欲しいといって来なすったんだよ、失礼な話じゃないか……、姉が駄目なら妹でもいいだなんてさ、まるで人を馬鹿にしている、……」
「お母さん……」
勇介はみちを制した。
「それは違いますよ、先方では有里が気に入ったから、弘子との話は無いものとして、改めて有里を嫁にもらえないかと言って来ていなさるんです。だから……」
今度は有里を見た。
「お前も姉さんの見合の相手だということは忘れて、この話を考えていいんだよ」
「はい……」
「有里、言っときますがね、私はこの縁談には反対です……」
「お母さま……」
有里の眼に哀しみの影がさした。
「お前だって、一緒に行ったのだから、よく知っているでしょう、一年中、冬みたいな暗い土地、頭から圧さえつけられるようなどんよりした空。おおいやだ……、思い出してもぞっとするよ、第一、あんな遠い所へ行ったら、めったに里帰りも出来やしない、汽車と船と、乗りつづけて行ったって、まるまる三日もかかるところじゃないか、そんなところへ大事なお前を出せるもんかね」
「そのことは……」
有里は眼を伏せたまま口を開いた。
「私もよく考えています……」
「そうだろうとも」
みちは大きく顎《あご》を引いた。
「なんていったって、女には実家《さと》がいざというとき一番の頼りなんだからね。なにも好きこのんで北海道くんだりへ嫁入ることはないさ」
「いえ、私だけなら、そのことは覚悟が出来ています、ただ……」
じっと、みちの顔をみつめた。
「いざというとき、お母さまやお兄さんのお手助けが出来ないのが、申しわけなくて……」
「そんなことどうだっていいんだ」
勇介がもどかしそうに言った。
「問題は、お前が雄一郎さんをどう思っているかだ。構わないから正直にいいなさい、兄さんはお前の気持次第でどうとでもしてやろうと思っている、嫁に行く気があるのかないのか……」
「有里、よく考えなけりゃいけないよ、女が仕合せになれるかどうかの境目なんだから……」
みちは有里の顔をのぞき込んだ。
浦辺も久夫も勇介も、じっと、有里の口許をみつめた。
しかし、有里の唇《くちびる》はなかなか開かなかった。
「お断りするんだね、有里、そうだろう……、遠慮なんかしなくたっていいんですよ、どっちみち先方が非常識なんだから……」
みちのその言葉で、ようやく決心がついたかのように、有里が顔を上げた。
「お母さま……」
「さ、言ってごらん……」
みちは、有里があの寒い遠い土地へ行くはずがないと信じていた。みちは学歴の無い鉄道員を軽蔑《けいべつ》していた。貧乏ほどつまらないものはないと思っていたし、小姑《こじゆうと》がああ多くては、気づまりで仕方がないと考えていた。そして娘も自分と同じ考えであると、勝手に決めていたのだった。
だから、有里が、
「お母さま、私、北海道へ嫁に参ります……」
と、きっぱり言いきったとき、彼女は自分の耳をうたぐった。
「有里……」
呆然《ぼうぜん》と娘の顔を眺めていた。
「私、あの方を信じているんです。あの方とご一緒なら、どんな険しい道でも、安心してついて行けます」
普段おとなしい娘だけに、有里がこれだけはっきりとものを言ったことにみんなは驚いた。しかも、自分の意志を堂々と述べている。
みちは勿論、浦辺も久夫も、勇介も、すっかり気をのまれてしまい、黙って有里の顔を見守るばかりだった。
「お兄さん、私、お兄さんが、今、どんなに苦労なさっているか知っています。この家の一番大事な時に、嫁に行ってしまうなんて、本当に勝手で申しわけないんです……、でも、私、小樽へ参りたいんです」
有里は、兄の眼にすがるように言った。
「そんな心配はいらないよ」
勇介の表情には強い感動の色があった。
「お前には、今|迄《まで》にも随分苦労をかけた。弘子と違って買いたいものも買わず、一生懸命、家のために働いてくれた。私はいつも、お前には済まない済まないと思っていたんだよ、それだけに、お前はなんとしても仕合せになってもらいたかった……、しかし、雄一郎さんなら、きっと、お前を仕合せにしてくれるだろう、兄さんも、お前の選んだ道は間違っていないと思う……」
「兄さん……」
有里が泣きそうな声を出した。
「有里」
みちが厳しい眼で有里を見た。
「お前、弘子の立場というものも少しは考えなさい。妹のあんたが姉をさしおいて嫁になんぞ行ってしまったら、弘子はますます縁遠くなってしまう、それでは、あれがあまり可哀そうじゃないか」
「お母さん、弘子は弘子、有里は有里です」
「お前は黙っていなさい、私は有里に聴いてるんです」
みちは勇介をきめつけた。
「すみません、お母さま、……そのことだけは私もつらいんです、私もいろいろ考えました……ですから、室伏さんとのお話、一応約束だけということにしておいて下すって、お姉さまの縁談がきまってからにしてもいいんです。もし、それであちらが待ってくださるんなら……」
有里がそこまで言ったとき、音もなく障子が開き、弘子が入って来た。
「お断りするわ、有里……」
弘子の顔は蒼《あお》ざめていた。
「あんまり人を馬鹿にしないでちょうだい、姉の私が嫁ぎ遅れで哀れだから、私のもらい手がみつかるまで嫁に行かないって……? 冗談じゃないわ、そんなことされたらこっちが迷惑だわ……」
「お姉さん……」
「それほどあんな男が気に入ったんなら、さっさとお嫁に行ったらいい、私に遠慮することないわ……、私は、あんな男は真ッ平だって、きっぱり断ったんですからね、捨てたものを拾うのはあんたの勝手よ」
「…………」
「そうね、そういえばあんたって、小さいときから私のものを欲しがるくせがあったわね。人形でも絵本でも、私がうっちゃっておくといつの間にか拾って大事にしてる……今度もそうなのね、驚いたわ、まさか見合の相手まで拾われるとは思ってもみなかったわ」
弘子は言うだけ言うと、有里に侮蔑《ぶべつ》のこもった一瞥《いちべつ》を投げ、部屋を出て行った。
浦辺と久夫が顔を見合せた。二人とも白けきった表情である。
「有里、気にするんじゃないよ、弘子は弘子、お前はお前なんだからね……」
勇介が慰めたが、有里は哀しそうに俯《うつむ》いたままだった。