奈津子の去った室伏家には、又、新婚当初の穏やかな生活が戻って来た。
しかし、一日中、どこに居ても子供の声のしていた家が、或日、ふっつりその声が聞えなくなった虚《むな》しさは、雄一郎も有里も千枝も当分の間、いやというほど思い知らされた。
なんとなく気勢のあがらぬ雄一郎の許へ、そんなものを一度に吹きとばしてしまうような、喜びにあふれたはる子の手紙が舞い込んできた。
『お手紙ありがとうございました。皆さんそろって変りなくお暮しの由、なによりでございます。私もどうやら仕事にも、横浜という土地にも馴れ、毎日夢中ですごしております。洗濯屋の仕事もようやく面白く感じられるようになりました。こちらでは、ラシャ服や毛織物もどんどん洗える薬や機械があります。それでも、まだまだ研究不足のこともあって、時々|天手古舞《てんてこまい》を致します。先月もドイツ人の奥さんが、蝉《せみ》の羽のように薄い布地で何段にも縫ってある服をお持ちになったのですが、取扱いがむずかしくて困りました。
でも、一回一回ごとに新しい方法をみつけたり、苦心したことが成功したりするのは、とても仕合せなものです。
このお店の御主人は女の方ですし、南部駅長さんの従兄妹に当る方なので、お顔にもどこかしら、南部駅長さんと共通した感じがします。気性のさっぱりした、とてもいい方です。私を信用して、なにもかもまかせて下さいますので、私もなんとか御期待に添いたいと一生懸命です。
そういえば、つい先日、東京から伊東栄吉さんが、お店へわざわざ尋ねて来てくださいました……』
ここまで雄一郎が読みすすむと、食事中だった有里も千枝も思わず箸《はし》をとめた。
「伊東さんが姉ちゃんとこへ行ったのかい?」
千枝は箸と茶碗《ちやわん》を放り出すように置いて、雄一郎の横へいざった。
「早く読んでよ、その先……」
「お姉さま、嬉しかったでしょうね」
有里も早くその先が知りたそうだった。
はる子の手紙は遠慮がちに、栄吉との再会を述べていた。
それによると、栄吉は、はる子にお互の手紙が届かなかったことと、その理由を説明して、遂に尾形の邸を出たこと、今、日本橋に下宿していることなどを告げた。
「そんなことをしていいの、栄吉さん……」
はる子が不安がると、栄吉は、
「なに、心配しなくていい……、それより、はるちゃん……許してくれないか」
と言った。
「許すって、何を……?」
「もう、何年放っといただろう……はるちゃんに嫁に来てくれって頼んでからさ……」
「あら……」
はる子は不意をつかれて、赤くなった。
「あれは……あの時、私がお断りして……」
「断られたなんて思ってないさ……俺、一遍定めたことは、めったには変えないんだ……」
「…………」
「はるちゃん……今、俺が、はるちゃんに嫁に来てくれっていったら……どうする、来てくれるかい……?」
「伊東さん……」
はる子は急に胸が熱くなった。伊東の顔が次第に、ぼーっと霞《かす》んできた。
「たのむ、はるちゃん……俺の嫁さんになってくれ……」
はる子は、初めて伊東の胸の中で涙をこぼした。
こんなに嬉しかったことはない、まるで夢のようだった、とはる子は最後の行につけ加えていた。
「これじゃ、当分、姉さん帰って来れそうもないぞ……」
雄一郎は手紙を畳んで、封筒へ収めた。
「しかし、姉さんが帰ってこんとなると……一遍、横浜へ行って来なきゃならんかな、姉さんの様子を見がてら、千枝の縁談のことも相談せんならんし……」
「二人で行っといでよ、新婚旅行のかわりに……」
千枝がすすめた。
「馬鹿、お前のことだぞ……第一、俺はそうそう休みはとれん……千枝が行くか……」
雄一郎は逆に千枝に言った。
「あたいも先週からずっと売店休んでしまったし……それに姉ちゃんとこへ行くの怖いよ……」
「なんで怖いんだ」
「姉ちゃん、札幌の警察のこと言ったら怒るよ……」
「そりゃそうだ……うんと怒られてこい」
「もう、兄ちゃんに散々怒られたからいいよ……それに、あたいきまりが悪くって……」
「きまりが悪いって柄か……」
雄一郎が笑った。
そのとき、一緒になって笑っていた有里が、ふと立って外へ出て行った。
「なんだろう、お姉さん急に外へ出て行ったよ、お客さんかね……」
千枝が不審そうに言った。
「よし、ちょっと俺が見てくる……」
雄一郎は腰を上げた。
戸を開けると、家の前に、有里がしょんぼり佇《たたず》んでいた。
「どうした、有里……」
「なんだか、奈津子の声がしたような気がして……」
聞きとりにくい声で言った。
「やっぱり空耳でした……」
「うん、なんにも聞えん……」
雄一郎は、そっと妻の横顔を覗《のぞ》いた。
彼はこのところ毎晩、夜中に有里が布団に起き上り、何か物思いにふけっているのを知っていた。
声をかければ、余計奈津子のことを思い出させることになる。雄一郎は、いつも有里の気持の静まるのを待った。それが一番良いのだと信じていた。
「気のせいだったんですね……」
有里がぽつりと言った。
「今頃、あの子、なにをしているでしょう……」
有里は空を見上げた。
「心配するな……生みの母親のそばに居るんだ」
「そうでしたわね……」
空には、まるい月が出ていた。
岡本良平と千枝の縁談の相談やら、秋にひかえた母の法事のことやら、又、はる子自身、伊東栄吉とのことをどう考えているかなど、さまざまの問題をかかえて、結局、有里が一人で横浜へ発つことになった。
一つには、旅をすることで、丸一年余、我が子同様に育てた奈津子との別れによって、心の中に、ぽっかり穴があいたような有里の気持の転換になるのではないかという、雄一郎の心遣いでもあった。
その頃、横浜では、はる子と伊東栄吉とが休みを利用しては、頻繁に逢瀬《おうせ》を重ねていた。
二人は港の見える外人墓地を、しばしば肩を並べて散歩した。
「今日はずいぶん、港に船が這入《はい》っているわ、ほら、ほら、あの白いお菓子のような船……イギリスの船でしょう……」
はる子の眼には、まわりのあらゆるものが、初夏の明るい陽射《ひざ》しに輝きわたって見えた。
「こうやっていると、小樽を思い出すねえ……小樽の港にも、よく外国船が這入っていた……」
栄吉も、いつの間にか洒落《しやれ》た白い麻の夏服が、ぴったりと身につくようになっていた。
「そういえば、いつか、小樽の公園で栄吉さんを待たせたことがあったわ……雪の寒い日だったのに、あんな吹きさらしの場所で……まるで子供みたいに気がつかなかったのね……」
「寒いなんて、一度も思ったことないよ……どうやってはるちゃんに、自分の気持を話そうかって、そんなことばかり考えていた……」
「お蕎麦屋《そばや》へよく行ったわね……男の人と二人きりでお蕎麦食べたの生れてはじめてだったわ……」
「俺だってそうだ……今でもあの頃のことよく思い出すよ」
「そうね……私も……」
以前はこうした思い出はすべて哀しみに通じていたのに、今は、昔の思い出が、まるで浜辺で桜貝を拾う時のように楽しかった。
だが、そうした中で、はる子は時々或る不安に襲われた。
「栄吉さん……」
「ん……?」
「いいの、尾形さんのお邸を出てしまって……」
「仕方がないさ……恩は恩……」
「尾形さんは、栄吉さんをお嬢さんのお聟《むこ》さんにって考えていたんじゃないのかしら……」
「さあ、どうかな……だが、俺みたいな田舎者は東京育ちのお嬢さんとじゃ、合いっこないよ」
「でも……」
はる子は眼を伏せた。
尾形の娘と結婚すれば、伊東の将来の出世の途は間違いなくひらけるのだ。
それを思うと、はる子はいつも気が重かった。
「はるちゃん、俺、機会を見て、北海道へ帰りたいと思っているんだ……実際、北海道へ転勤させてもらうよう頼んでもある。はるちゃんと一緒に北海道へ帰りたいんだ……」
「栄吉さん……」
「俺はね、はるちゃん、北海道の鉄道員だ……同じ骨になるなら、札鉄《さつてつ》の骨になりたいんだよ……」
はる子と栄吉は、あらためて互の愛を確かめ合うように微笑した。
ようやく二人の上にも、仕合せな日がめぐって来たかのようだった。
それは長い苦労の末、ようやくかち得た幸福だった。
(もう、絶対に離しはしない……)
はる子は眼をつぶり、心の中に誓った。