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僅《わず》かな雲の切れ間から月が覗《のぞ》いた。
広い原野の中に、銀色に光るレールがゆるいカーブを見せている。
あの激しい風雨が、まるで嘘《うそ》のようだった。
雄一郎はときどき立ち止り、うしろから来る三千代を待った。
「三千代さん、もうすぐですよ。宿へついたら、とにかくその濡《ぬ》れた着物を取りかえましょう」
雄一郎は月明りに時計を透かした。
彼が乗務する旭川《あさひかわ》発午前六時二十分の列車まで、あとわずか一時間四十五分しかなかった。
「寒いですか?」
「…………」
三千代は首を振った。
「宿でひと休みしたら、僕の乗務する小樽《おたる》行の列車で札幌《さつぽろ》へ帰ってくださいよ、いいですね」
「嫌だと申しましたら……」
「たとえどんな事があっても、僕はあなたを札幌まで連れて行きます」
「ずいぶん強引なかたね……」
口許《くちもと》で薄く笑った。
「いずれにしても、旭川の駅からお宅の方へ連絡をしておきましょう、少しでも早くあなたが無事であることをお知らせして、安心させてあげなくては……」
雄一郎は手をのばして三千代の腕をとった。
「さア、すこしいそぎましょう、もうあまり時間がありませんから……それに体も温まりますよ」
何をされても、三千代は逆らわなかった。
つい先刻《さつき》までその瞳《め》の中にはげしく燃えていた炎が、今ではすっかり消えていた。それどころか、三千代の体がふるえているのが、濡《ぬ》れた衣服を通して雄一郎にもはっきり感じ取れた。
雄一郎はちらと三千代を見た。
その横顔は青白く、まるで仮面をかぶったように表情が無かった。
(三千代さん……何故自殺だなんて馬鹿な考えを起したりしたんだ……)
訊《き》いたところで三千代は答えはしないだろう。また訊けもしなかった。
その原因の一つに自分が含まれているらしいことを、雄一郎は漠然とではあるが感じていた。
幼な馴染《なじ》みの三千代が、それほどまでに追いつめられたのは哀《あわ》れだと思う。しかし、雄一郎はそれにたいして特別に何もしてやれない。恐らく将来も何もしてやれないだろう。
彼が三千代にしてやれることといったら、宿屋について濡れた着物を着換えさせ、札幌の南部宅に送り届けることくらいだった。
そんな事なら、アカの他人でもする。
あとは、三千代の心の傷の癒えるのを手を束《つか》ねて見守るより仕方がなかった。
(すこし無責任すぎはしないだろうか……)
雄一郎はひどく惨《みじめ》な気持がした。
(もし俺《おれ》が現在独身だったとしたら……三千代さんに対してどういう態度をとっていただろう……)
雄一郎はもう一度三千代の横顔を盗み見た。
少しいそいだせいか、三千代の頬《ほお》にうっすらと紅《あか》みがさしている。歩くとき、足許《あしもと》にまつわりつく濡れた裾《すそ》の乱れをしきりに気にしていた。
(もう大丈夫《だいじようぶ》……)
雄一郎はほっとした。
「さっきは済みません、あなたを撲《なぐ》ったりして……つい夢中であんなことをしてしまったんです、ご免なさい……」
「いいえ、いいんですの……」
三千代は雄一郎のほうは見ないで、ただ首だけ振った。
「私……おかげで夢から覚めましたわ……」
「申しわけありません……」
「私、我儘《わがまま》でした、祖父や祖母のこともちっとも考えなかったんですものね」
「はア……」
三千代は自分から雄一郎の手をはずした。
「危いですよ、いいからおつかまりなさい」
「いいえ、もういいんです。一人で歩けます……」
「そうですか……」
雄一郎は淡白に言って手を引っこめた。
まったく三千代の言葉ではないが、先刻《さつき》の事がまるで夢のようだった。
『雄一郎さん、もう探さないでください、お願いです、私の好きなようにさせてください。いつまでもお仕合せに、さようなら……三千代』
テーブルの上にあった三千代の走り書を見たとたん、雄一郎は折からの激しい風雨の中へとび出して行った。
三千代はなかなか見つからなかった。
ゴーゴーと音をたてて逆巻《さかま》く河の流れを見るたびに、雄一郎は胆を冷やした。この流れの渦の中にとびこんでしまっていたら、そのときは最早《もはや》絶望である。
彼は三千代の無事を神に祈りながら、河岸にそって走った。
しかし三千代の姿はおろか、遺留品らしいものも見あたらない。
(駄目《だめ》だ、彼女は死んでしまった……)
半ば諦《あきら》めて、雄一郎は岸辺に立ちつくした。
三千代の子供のころや少女時代の面影が、次々と彼の脳裏をかすめた。
どのくらいそうしていたのだろう、気がつくと、雨も風もかなり小止みになっている。彼は駅へ真直《まつす》ぐ帰るつもりで、線路の上をとぼとぼ歩きだした。
その時だった。彼はふとさっきの三千代の言葉を思い出した。
「私だって鉄道員の家族です、鉄道にご迷惑をかけるような死にかたはいたしませんわ……」
それは三千代の精一杯の強がりだったに違いない。
三千代は雄一郎がこの次の小樽行の一番列車に乗ることを知っている。
(そうだ、もしかしたら……)
雄一郎は踵《きびす》をかえして、線路の上を、もと来た方向にむかって走りだした。
線路と線路の間の枕木《まくらぎ》の上で、倒れている三千代の姿を発見したのはそれから間もなくのことである。
「三千代さん、しっかりするんだ」
雄一郎に助け起されて眼をあけた三千代は、それが雄一郎だと知ると、はげしく身をもがいた。
「嫌、放《ほう》っておいて!」
強い力で雄一郎を突きはなそうとした。
「三千代さん……」
「あんたなんかに関係のないことだわ、どうせ私なんか死んでしまったほうがいいのよ」
「どうしてそんな馬鹿なことを言うんだ、あなたが死んでしまったら、南部のおやっさんや奥さんはどうなるんだ……」
「そんなこと、どうだっていいことよ、私の勝手よ」
「馬鹿《ばか》!」
雄一郎の手が三千代の頬《ほお》で鳴った。
叩《たた》いてしまってから、彼はハッとした。
三千代に済まないことをしてしまったという悔恨が、彼の全身を強張《こわば》らせた。
「み、三千代さん……」
「…………」
突然、三千代が声をあげて泣きだした。
堪《た》えに堪えていた哀《かな》しみが、急に堰《せき》を切って流れだしたかのようだった。
三千代は線路に頬を押し当て、身をよじって泣いた。
そんな三千代の姿を、雄一郎はただ呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
こんな三千代を見るのははじめてだったし、実際彼は何をしたらいいのか、まるで見当もつかなかった。彼はただ待つよりほかに方法がなかった。
しばらくすると、三千代がふッと泣きやんだ。そのままじっと動かない。
雄一郎はそっと三千代の顔をのぞき込んだ。
三千代は空《うつろ》な眼で、闇《やみ》をぼんやり見つめている様子だった。
「さ、帰ろう……三千代さん……」
雄一郎は立ち上ると、帽子をかぶり直した。
「足許が暗いから気をつけて……なんなら、僕の手につかまりなさい」
三千代は首を振ると、のろのろした仕草で身を起した。
「だいじょうぶ、一人で行けます……」
「そう……じゃア気をつけて……」
雄一郎はわざとそのまま歩きだした。
もう三千代が逃げだすことはあるまいと思った。
駅前の宿屋の主人は、真夜中のこの騒動に、ありありと迷惑を顔に出していた。
だが、制服の雄一郎が手を合わさんばかりにして頼んだのと、全身|濡《ぬ》れねずみの三千代の姿を見て半分は同情から、あとの半分は好奇心からとにかく女房の古着を出してくれたので、三千代はどうやら見苦しくない程度の形をととのえることが出来た。
その三千代の手をとって旭川の駅へ駆けつけた雄一郎は、やっとのことで乗務員点呼に間に合った。
同僚たちは、普段|真面目《まじめ》な雄一郎が女の手をひいて、しかも点呼ぎりぎりに駆けつけたことにたいして、一斉に不審の眼を向けたが、雄一郎は三千代のことを考えて、わざと弁解しなかった。
たとえ何と思われようとも、絶対に疚《やま》しいことをしてはいないのだという自信も手伝っていたのである。
旭川から札幌まで、雄一郎は客車の三千代から目をはなさなかった。
また、雄一郎が気を遣っているのを知っているくせに、三千代は一度も彼の方を見なかった。
(それでいい……人生を途中下車する気さえ捨ててくれたら、いくら彼女に恨まれたって俺《おれ》は構わない。あとはただ彼女が仕合《しあわ》せになるのを祈るばかりだ……)
雄一郎はそう思った。
(もう彼女と俺とは別々の目的地へ向って走る列車なのだ、決して後もどりするわけには行かない……俺と同じ列車に乗っているのは彼女ではなく、有里なのだ……)
彼は胸の中で、自分自身に向ってきっぱりと言い切った。
窓からは、明るい太陽の光がいっぱいに射しはじめた。その光が、寝不足の彼の眼にはひどく眩《まぶ》しかった。
雄一郎は昨夜のことを払いのけるように胸を張った。
「毎度御乗車ありがとうございます、乗車券をお持ちでないかた、乗り越しのかたはいらっしゃいませんか……」
いつもと変らぬ張りのある声で歩いて行った。