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しかし、岡本良平と千枝が手に手をとって駆け落ちしたのはその翌日だった。
一番最初にそれに気がついたのは良平の父親、新平爺さんで、彼は仕事を終えて帰宅し、居間のテーブルの上にのせてある良平の書き置きに気がついた。不審に思って開けてみて流石《さすが》に蒼《あお》くなった。
すぐ雄一郎の所へかけつけ、手紙を見せた。
「た、た、大変だ……あんたとこの千枝さんとうちの良平の奴が、一緒になれんのを悲しんで、心中しに行ったベサ」
「ええッ、心中……」
読んでみると、なるほど良平の書き置きには、心中をほのめかしたような箇所がある。
まさかとは思うものの、雄一郎も途方にくれた。
こんな事もあろうかと、千枝には売店を休ませ、一歩も外へ出るなと命令しておいた。有里も千枝の監視をするように言っておいたのだが、僅《わず》かの隙《すき》に出て行ってしまったものらしかった。
そして更に、その有里までもが責任を感じてか、近所の者に言付《ことづ》けして千枝と良平を探しに行ってしまったらしいのだ。
良い智慧《ちえ》も浮かばないまま、とにかく警察へ届けるという新平爺さんを宥めているところへ、たまたま東京から帰ったばかりという南部斉五郎がやって来た。
雄一郎にとって、この時の南部は、ちょうど地獄で仏に逢ったようなものであった。
雄一郎から事情を聞いた南部は、
「なに、心中……馬鹿《ばか》な、あの二人が心中なんぞするもんか……」
二人の心配を一笑に付した。
「だっても駅長さん、人のこんだでそんなこと言ってるが……」
新平は不満そうに言った。
「自分のこととなったらそうはいかんがのう……」
「うん、それはそうだ……」
南部は真顔になって頷《うなず》いた。
「そんな馬鹿な真似はせんと思うが、放《ほう》っとくわけにも行かんな……」
「新平爺さんは警察へ届けるというてますが……」
「警察……そりゃアまずい、こんなせまい土地でつまらん噂はすぐひろがる……下手をして良平が鉄道に居れんようになっては可哀《かわい》そうだ……」
南部がふと眼をあげた。
「待てよ……あの二人が家出したのは今日の何時頃かわかっとるのか?」
「機関区の吉川さんが昼すぎに塩谷の駅で良平君と逢ったそうです」
「良平一人か?」
「はあ、その時は一人だったらしいです」
「吉川君は機関区へくる途中か」
「はあ……」
「すると、上り列車だな……」
南部は駅長時代の癖が出て、馴《な》れた仕草《しぐさ》で懐中時計をちらと見た。
「あの時刻だと……」
「下り六八列車、札幌行です」
雄一郎が即答した。
「それに吉川君が乗った……で、次の上りは……?」
「上りは一〇一列車、普通です、函館行十二時四十八分塩谷発……」
「む……次の下りは……?」
「四二列車、旭川行、午後一時五十六分……」
「すると一時間八分の間があるな……」
ちょっとむずかしい顔つきをしたが、すぐ、
「下りじゃあるまい、まず上りだ……一時間も塩谷の駅でうろうろして居ってはすぐ人目につく。まず、上り一〇一列車に乗ったんじゃろう……」
との判断を下した。
「とにかく、このことは外部へは洩らすな、俺がこれと思う駅へ内緒で問い合せてみる……まず、上り一〇一列車に乗ったとして……函館まで行ったか、それとも岩内《いわない》線にのりかえたか……」
「千枝は函館の湯ノ川温泉へ行ったことがあります」
「よし、俺にまかせろ……どうも、良平と千枝ちゃんの縁談のもつれの原因には、俺のところも一枚からんでいるらしいからな……」
ちらと新平に視線を投げた。
「駅長さん……、おらは何も……」
「まあいい、まあいい、話は二人がみつかってからだ、俺は駅へ行くぞ、君たちは勤務に戻れ……駆け足イ……」
久しぶりで南部斉五郎の号令を聞き、雄一郎はもちろん、新平爺さんまでが思わず固い表情をくずした。
その頃、良平と千枝は、岩内の宿屋でそれぞれ別々に部屋をとり、駆け落ち最初の夜を迎えようとしていたのだ。
良平は案外落ついていたが、しかし、千枝は女だけに、さすがに心細くなって、そろそろ後悔しはじめていた。
布団《ふとん》に這入《はい》っても、目先に兄や有里の顔がちらついてどうしても眠れない。
なんだか、ものすごく大それたことをしてしまったような気がして、恐《こわ》かった。
塩谷を立つときまではそれほど感じなかった不安が、いまでは支えきれないほどの重みとなって千枝の上にのしかかっている。
千枝はなんだか涙があふれそうになったので、あわてて頭から布団《ふとん》をすっぽりかぶった。生温いものが眼尻《めじり》をつたって枕《まくら》にしみた。そのときだった。廊下の外で女中の声がした。
「あいすみません……お連れさまがお着きでございます……」
「お連れさま……?」
千枝は布団をはねのけた。
(誰かしら……)
咄嗟《とつさ》に頭に閃《ひら》めいたのは、自分たちを連れ戻しに誰かが此所《ここ》へやって来たということだった。
(大変だ……どうしよう……)
千枝はおろおろと布団の上を這《は》い廻《まわ》った。
「お客さん、開けてもいいかね……」
廊下の外から、女中がまた言った。
「ちょ、ちょっと待って……」
さっき、良平が這入《はい》って来ない用心に女中から借りて襖《ふすま》に支《か》っておいた心張り棒を、もう一度しっかりと入れ直した。
そうしておいて、千枝は手早く着物に着換えた。
「千枝さん……」
廊下の外から、今度は女中でない女の声がした。
「千枝さん……あたしよ……」
「あッ、有里姉ちゃん……」
千枝は声をあげると同時に、心張り棒にとびつくようにして襖を開けた。
「千枝さんッ」
「有里姉ちゃんッ」
二人はしっかりと手を取り合ったまま、崩れるように坐った。
「よかった、よかったわ……」
有里は千枝をようやく探し当てた喜びを全身で示していた。
「ずいぶん探したのよ、あっち、こっちと……まるで気違いみたいに……千枝ちゃんにもしものことがあったら、あたしどうしようかと思った……」
「ごめんなさい……」
そんなに心配してくれていたのかと、胸が熱くなった。
「よく分ったね。ここが……」
「最初、塩谷の駅できいたのよ……そしたら、ホームで草むしりしてた小母さんが、たしか上りに乗って行ったというので、そのまま家に連絡もしないでとび乗ってしまったのよ。そしたらそれが小沢止りだったの……小沢の駅で函館行に乗ろうか、それとも岩内線かと随分迷ってね……」
「結局岩内線に乗ったんだね」
「それはまあそうだったんだけど、その前に、もしやと思ってホームの売店で千枝さんと良平さんのこと聞いてみたのよ」
「ああ……私たちあそこでアンパンとラムネ買った……」
「そうなのよ、たしか岩内行の発車間際だったって言ったんで、私も岩内線に乗ってまず終点から調べてみるつもりだったの……運が良かったわ、最初の所で逢えたんだから……でも旅館を一軒一軒探してたんで足が棒のようになってしまったわ……」
「ごめんね、有里姉ちゃん……」
「ううん、そんなこといいのよ……ただね、今頃みんな心配してると思うの、出来ればこれからすぐ塩谷へ帰ったほうがいいわ……」
「帰ったら、怒られるだろうねえ」
「それは……でも帰らなかったらもっと悪い結果が出ると思うの……」
有里はふとしんみりした表情になった。
「本当のこと言うと、最初私も駆け落ちに賛成だったのよ……でも、今日それがいけないってことが良く分ったわ、駆け落ちはやっぱり卑怯《ひきよう》よ」
「だども、ほかに方法が無かったでよ……」
いつの間にか、良平が襖のかげに立っていた。
「こうするより仕方なかっペサ……」
「いいえ、正面から何度でもぶつかるべきだったんだわ……」
「お父《どう》は頑固もんだで……」
「頑固なら、余計そうよ。逃げては駄目《だめ》……とにかく家へ帰りましょう、ね……」
有里は自分が千枝のことを心配してみて、はじめて駆け落ちの非を認めざるを得なかった。
大事なのは、逃げることではなくて、二人が一緒になることが、二人にとってどんなに大切であり、またプラスであるかを根気よく周囲の者に知らせることであった。
駆け落ちは一見情熱的でロマンチックではあるが、それによって必ずしも二人の愛の強さ、確かさを証明できるわけではない。
むしろ逆に、衝動的であるとか我儘《わがまま》であるとか思われる方が多かった。
有里はこれらのことを二人に説明してやった。又、二人の意見も聴いた。
「帰ろうか……」
ようやく千枝がその気になりだした。
「したが、お父はおっ怖《か》ねえでよ、すぐ俺の横っ面ひっぱたくでなア……」
良平は憂鬱《ゆううつ》そうに顔をしかめた。
「乱暴はしないように、私からもよく頼んでおいてあげるわ……」
「有里姉ちゃん。お願いね……」
千枝が心細そうに言った。
宿屋から塩谷の駅へ電話をしてもらい、雄一郎に二人が無事であることを知らせるよう依頼して、有里は二人と一緒に下り列車に乗った。
塩谷にたどりついたのは、夜半に近かった。
宿屋から連絡があったので、新平爺さんも雄一郎の家で待っていた。
「お父……俺《おれ》が悪かっただ、家出してお父に心中するなんて嘘《うそ》の手紙サ書いたのは、俺が悪い……俺が千枝さんを誘ったんで、千枝さんに罪はねえでよ……だども……それもこれも、みんな千枝さんと一緒になりてえばっかりに仕組んだことだで……な、お父、堪忍《かんにん》してけれ……どうか、どうか千枝さんを嫁にもらってけれ……」
「お願いします、あたしきっといい嫁さんになります。悪いところは叱《しか》ってもらって……一生懸命にやりますから、どうか、あたしを良平さんの嫁さんにして下さい……」
良平と千枝はかわるがわる新平の前に両手をついた。
「岡本さん、私からもお願いします。どうか結婚させてあげてください……」
有里もそばから口を添えた。
しかし新平は口を固く結んだまま、一言も発しようとしなかった。
「お父……なんとか言ってけれ……な、お父……」
「嫌だ……」
「お父……」
「良平ッ……」
新平がはじめて良平のほうに向き直った。
「いいか……俺がこの縁談に不承知なのは、だいたいお前たち二人の了見が気に入らんからだ……今のような了見でいっしょになったとて、どうせうまく行く筈はねえ」
「岡本さん、それはたしかにその通りです。私たちも含めて、若い者は考えなしの不了見とお叱りをうけるのもよくわかります。しかし、夫婦ってものはお互いに欠点だらけの人間がいっしょに生活し、怒ったり泣いたり笑ったり喜んだりして、だんだん一人前になるんじゃないでしょうか……。良平君にしても千枝にしても、まだまだ至らない人間かも知れません。しかし、いっしょにしてやることで一足ずつ成長して行くということは考えられんでしょうか……」
雄一郎が適当な言葉を少しずつ捜しながら、新平の機嫌をそこなわないように取り成した。
「室伏さん、あんたのいうのはまだまだ先のことだべ……」
じろりと白い眼をむいて新平は言った。
「わしが見るところ、良平と千枝さんもちっとも足が地べたについとらん……足が宙に浮いてしまった者同志が一緒になって、どうしても一足一足歩けるもんだべ……とにかく、二人の足が地べたサついたら、そん時はわしも又考え直すかもしれん……だども……今は駄目だ……」
「お父《どう》……なんで俺の足が地べたサついとらんのだべ……俺、今までに一度だってお父に逆らったことがあったか。千枝さんとのことだって、お父がいけねえというで、我慢に我慢サしとったでねえか……けんどもよう、もう、我慢出来ねえだ……」
「辛抱サ出来ねえのなら、勝手にしたら良かっぺ……」
「お父……」
「なんにしても、今はいかん……先へ行ったらどうかしらんが、とにかく今のお前にゃ嫁さん貰《もら》う資格はねえでよ」
「そったらこといったって、室伏さんとこもうじき転勤サするっちゅうでねえか、そったらことになったら俺、千枝さんとますます逢えなくなるで、それで俺……」
「フン……」
新平は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「アメリカと日本とに別れ別れになっとったって、お互いが信じ合っとりゃ、どうということはねえ」
「そったら言ったってよ……そうはいかねえんだ……お父は若い者の気持わからんでよ……」
「良平……俺のいうこときけねえのか」
「きけねえ……俺、このことだけは、お父の言うことでもきけねえ」
良平は珍しく父に反抗した。
両肘《りようひじ》を張って、一歩も後へ退かぬ決心がありありと見えた。
新平はちょっと意外そうな表情をしたが、すぐ態勢をたて直し、息子《むすこ》をにらみつけた。
睨《にら》み合いはしばらく続いた。
雄一郎も有里も言葉を挟むことが出来ないほど、二人の表情にあらわれているものは険悪だった。
やがて、新平の方が我慢できなくなったとみえ、
「よし、そんなら出て行け、親の言うこともきけんような者《もん》と一緒に居《お》っても、腹が煮えるだけでよ」
呻《うめ》くように言って立ち上った。
「お父……」
「勝手にしろ……俺《おら》、……帰るで……」
「お父ってば……」
良平があわてて腰をあげた。
「ついて来たって、家には入れんでよ……今日からお前みたいな者、息子とは思わねえ……」
足音も荒く出て行ってしまった。
新平の剣幕のすさまじさにあきらめたのか、良平はさすがにがっくりと肩をおとした。
「どうするの、良平さん……大変だよ……」
千枝がおろおろと良平に取りすがった。しかし、良平の表情は案外静かだった。
「千枝さん……俺、覚悟サきめたでよ……俺、やっぱり家サ出て、当分鉄道の独身寮へ入るべ……お父を一人にすんのは気がかりといえば気がかりだども、俺の足が本当にお父のいうように地べたサついとらんかどうか考えてみるべ……」
「そしたら、いったい私はどうしたらいいのよ……」
「千枝さん、お願いだ、待っとってけれ……俺が嫁にもらいに行くまで待っとってけれ……。な、頼む……」
「いつ……いつまで待つのよ……」
「さあて……今すぐ答えられねえけんど……達磨《だるま》さんだって壁に向って九年たったら悟りをひらいたっていうでよ……」
「い、嫌だよ、九年もたったら千枝、おばあさんになってしまうよ……」
「俺ア……そんなにはかからんと思うでよ……」
「分らんよ、あんた、釜《かま》たきの試験、九回も落っこちたじゃないの」
「千枝……」
雄一郎がすっかり取り乱した千枝をたしなめた。
「千枝さん、ちょっとの辛抱よ、すぐ良平さんは迎えに来てくれるわ……」
有里もそっと千枝の肩を押えた。
「雄一郎さん、そいじゃすまんけんど……俺、一生懸命けっぱって働いてみるで、どうかそれまで千枝さんをお願いします。必ず迎えに行くで……」
良平は眼に涙さえ浮かべて、雄一郎夫婦の前に両手をついた。