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室伏家の法事は九月二十二日ときまった。
まだそれほど寒くもない頃だし、その日がちょうど雄一郎の非番の日だったからである。
法事といっても親類は遠いし、特に来てもらうほどの知人もないので、ごく内輪だけのささやかなものになる筈《はず》であった。
それでも有里は、久しぶりに帰郷するはる子のことを考えて、あれこれと心を配った。
その中で、有里が一番心を痛めていたのは千枝の縁談であった。
はる子が帰ってくる前に、なんとか岡本新平の誤解をといて、円満に結婚話を進行させておきたかった。
新平爺さんのところへは、実はあれから何度も有里は足を運んでいる。しかし頑固《がんこ》者で名の通っている新平は、有里がどんなに説明しても、頼んでも首を縦に振らなかった。
そうこうしているうちに、良平と千枝の縁談にとって、決定的とまでいえる不利な条件が現われてきてしまった。
それは、雄一郎の釧路《くしろ》転勤がいよいよ本決りとなったことである。
雄一郎たちが釧路へ行ってしまえば、良平と千枝は今より更に逢う機会が少くなるし、新平爺さんの誤解をとくこともむずかしくなるだろう。
有里はいろいろ考えた末、遂に或る方法を思いついた。
ちょっと荒っぽいようだが、早急に新平爺さんの首をたてに振らせるには、これ以外に手がないと思った。
「ねえ、あなた、私も千枝さんと良平さんのことでは随分考えてみたんですけど……」
或る晩、有里は夫に切りだした。
「いっそ、あの二人を駆け落ちさせたらどうでしょう……」
「えッ、駆け落ち……?」
雄一郎は眼をまるくした。
「良平さんも千枝さんもお互いに好きなのに、新平爺さんが頑固だから結婚できないでいるんでしょう……。そりゃア、理屈に合った頑固なら、何とでも怒りのとけるのを待つってこともあるでしょうけど、理屈もなにもない頑固さなんだから、少しおどかしてみてもかまわないんじゃないかしら……」
「ふーん……駆け落ちか……」
雄一郎が溜息《ためいき》をついた。
「いけませんか?」
「呆《あき》れたよ……」
「え?」
「お前がそんなことを考えるなんてな……お前って、案外、無茶苦茶《むちやくちや》なところがあるんだな」
「あら……」
有里があわてて頬を押えた。
妻が顔を赤くしたのを見て、雄一郎は笑いだした。
このしっかり者で健康優良児的な妻が、どこにそんな茶目っ気と冒険心を持ち合せていたのかと思うとおかしかった。
他方、室伏一家が塩谷を去るかもしれないという話は、親孝行でのんびり屋の岡本良平をあわてさせた。
もはや、彼としても、そのうち親父の誤解もとけるだろうなどと気楽なことをいって居られない心境に追い込まれたのである。
良平は有里と雄一郎との間に交わされた話は知らなかった。
彼は塩谷の浜辺で二時間あまりも千枝と相談したあげく、彼としては一世一代の大決心をして、雄一郎の家へやって来た。
「俺……雄一郎さんに頼みてえことがあって来たッす……」
ひどく改まって坐った良平に、有里と雄一郎は顔を見合せた。
「俺んとこの親父様は知っての通り頑固者だで、一ぺん、つまらん噂《うわさ》をのみ込んだら、なかなかうまいこと吐き出したがらんでよ、まごまごしとると、千枝さんに嫌われるで、いっそ駆け落ちサしてみせたら親父様の頑固の角も折れるんではねえかと思って……」
「駆け落ち……」
雄一郎はあらためて有里をふりかえった。
有里は自分がそそのかしたのではないというように、首を振った。
「俺もいろいろ考えたけんど、それしか方法が無えべさ」
「しかし、……そりゃ、君のほうの都合はそうだろうが、こっちにとってはたった一人の妹だからな……なにも駆け落ちなどという真似《まね》までさせて嫁に出さんでも……」
「兄ちゃん、あたい良平さんの嫁さんになりたいんだよ、他の人じゃ嫌だ……」
千枝は雄一郎をにらみつけた。
「この人親切だし、まめしいから、千枝をきっと大事にしてくれるよ……」
「千枝……」
「雄一郎さん、千枝ちゃんを俺の嫁っこにくれ……な、お願いします。きっと、仕合せにするでよ、俺……千枝ちゃんの他に好きな女なんぞ一人も居ねんだ……」
「兄ちゃん、兄ちゃんだって自分の好きな嫁さんば貰《もら》ったでないの……したから、良平さんが、好きな嫁さん貰いたいっていうの反対なんぞせんでよ」
良平と千枝の攻撃を受けて、雄一郎はたじたじだった。
しかし、ようやく態勢をたて直し、
「反対はせんよ……しかし、駆け落ちはいかん……」
これは台所の方へ立った有里にも聞かせるつもりで、声を張り上げた。
「そんなこといってると、千枝、いつまでたっても良平さんの嫁さんになれんで、おばあさんになってしまうよ。兄ちゃん、千枝が一生嫁に行かんで、いつまでも兄ちゃんの厄介者になってもいいのかい」
「なあ、雄一郎さん、俺を信用サしてけれ……信用して駆け落ちサさしてけれ……」
「いかん」
「兄ちゃん……」
「岡本……お前そんなはんかくさいこと考えとるんか……お前ら二人が駆け落ちして、そんで、あわてて結婚を許すような新平爺さんと思っとるのか……よしんば、新平さんをおどかして結婚したとして、それで嫁と舅《しゆうと》の間がうまく行くと思うか……親を欺《だま》してまで、あわてて結婚せんならんのか」
「雄一郎さん……」
良平はいまにも泣きそうな顔になった。
「兄ちゃん……」
千枝が前に進み出た。
「あたいと良平さんの話がこわれたのは、兄ちゃんのせいじゃないか、兄ちゃんが三千代さんなんぞとつき合うから……」
「千枝さんッ……」
台所から出て来た有里があわてて止めたが間に合わなかった。
「岡本……帰ってくれ……とにかく、今後、話がすっきりするまでは、千枝に近づかんでくれ……千枝もいいな……」
「兄ちゃん……」
「帰れよ、良平……」
「ああ帰るでよ……」
良平も中腹で立ち上った。
「良平さん……」
雄一郎と良平の間で、千枝はおろおろするばかりだった。
「千枝……すわってろ、見送るでない」
「それだって……」
口をとがらす千枝に良平は、
(千枝さん、黙ってろ、逆らうでないよ……)
と眼で合図を送った。
千枝はその意味が判ったらしく、不服そうではあったが、上げかけた腰をおろした。
有里が一人で良平を戸口の外まで送って行った。
「岡本さん……うちの人は決してあなたのこと反対してるわけではないのよ。ただよかれと思ってああ言ってるんです……わかってくださいね……」
「はあ……」
良平は曖昧《あいまい》に答え、視線をそらした。
「それじゃ、おやすみ……」
いそぎ足で暗闇《くらやみ》の中へ消えて行った。
(困ったわ……ますますこじれてしまった……)
有里はそっと空をふり仰《あお》いだ。
ぼんやりとした月のまわりに、大きなまるい暈《かさ》が出ていた。