13
約二年ぶりに帰郷したはる子を加えて、室伏家の法事は、ひっそりとごく内輪だけで行なわれた。
内輪とはいえ、焼香には南部斉五郎や雄一郎の勤務している小樽車掌区の人々、それに塩谷駅の元の同僚たちが集まってくれた。
岡本良平が来たのはもちろんだが、新平爺さんが法事の終る間際に来て、一言も口をきかず焼香をして行ったのが印象的だった。
寺での法事を終え、客のすべてが帰ってから、雄一郎、有里、はる子、千枝の四人は久しぶりに水入らずで両親の墓に詣《もう》でた。
紀州の須賀利《すがり》にある本家の墓に分骨はしたが、日頃、香華《こうげ》をたやさぬために、父親が歿《な》くなった時にたてたこの墓も、そのままにしてある。
「雄ちゃん、あんたが釧路へ転勤になったら、このお墓どうする……?」
墓の周囲の草をむしりながら、はる子が言った。
「ああ、そのことは俺も考えたんだ……いっそ釧路へ移そうかとも思ったんだが、ここ当分は転勤が続くだろうし……」
「そうねえ、鉄道員はどうしても転勤が多くなるわね……」
「うん、そのたびごとに移すのもなんだから、当分ここへ置いておこうと思っている」
「そのほうがいいかもしれないわ……」
「どうせ転勤てったって札鉄管内だから、どこへ行ったって、このお墓の供養は忘れないよ、姉さんは安心してお嫁に行ってくれよ」
「ありがとう……せいぜいお言葉に従うようにするわ」
はる子は楽しそうに笑った。
「姉ちゃん、伊東さんといよいよ結婚するんだって……?」
千枝が聴いた。
「ええ、そのつもりよ……」
「いつ……?」
「いつって……本当はこの秋にもと思っていたのだけれど、尾形さんのご病気がもう少しよくなって下さらないとねえ……」
「結婚したら、伊東さん、札鉄へ帰ってくるのかい?」
「そうね……できればそうしたいって言っていたわ」
「きっと今度帰ってくるときは管理局へ勤めるようになるかもしれんな」
「さあ……栄吉さんは現場で働きたいって言っていたけど……」
「みんなで北海道で暮らせるなんて、ほんとに夢みたい……」
有里が歌うように呟《つぶや》いた。
雄一郎が掃き集めた落ち葉に火をつけた。
それで線香に火を移し、雄一郎はみんなに少しずつ分け与えた。
有里が持参の菊と桔梗《ききよう》の花を墓前に供えると、雄一郎から順に進んで両手を合せた。
おわると、みんな崖《がけ》っぷちに立って塩谷の海を眺めた。
雄一郎、はる子、千枝の三人は此所《ここ》に生れ、育ち、そして両親と別れた土地である。
有里にとっては、又、たった一人で嫁入って来た、思い出深い場所だった。
しかし、間もなく此所ともお別れだ。
みなそれぞれの感慨をこめ、いつまでも海をみつめていた。
家へ帰ると、東京の伊東栄吉から手紙が来ていた。
尾形清隆の容態があまりかんばしくないため、二、三日遅れてもと思っていた北海道行は完全に中止せざるを得なくなった。残念だが仕方がないと書かれてあった。
それを読んだはる子は、予定を二、三日繰り上げて横浜へ帰ると言い出した。
「折角いらっしゃったんだから、やはり予定通りなさったら……」
と有里は引きとめるのを、
「どうせ、結婚したら、ずっとこちらに住むのですもの……」
はる子は笑ってとりあわなかった。
いよいよ明日、はる子が横浜へ帰るという夜は、雄一郎も勤務を早目に終えて帰宅した。
すでに売店をやめている千枝も家に居たし、その千枝も、南部斉五郎の口ききで、雄一郎夫婦が釧路へ転勤した後は、機関手の吉川の家へ家事の見習のため預けられることがきまっていた。
いってみれば、この夜は、三人きょうだいが生れてはじめて、完全にばらばらになる別れの宴でもあったのだ。
それぞれの膳《ぜん》には、浜から買って来た新鮮な毛ガニ、秋イカ、サンマなどの料理が載っていた。
この夜だけは、有里は財布の底をはたいても、精一杯の御馳走《ごちそう》を出したかった。
女たちは盃《さかずき》に二、三杯の酒で、たちまち頬を桜色に染めた。しかし、三人の中では千枝が一番酒に強く、いつの間にか手酌で飲みはじめて、はる子を心配させた。
「千枝……あんた今日は好きなだけ飲ませてあげるけど、吉川さんのお宅へうかがったら、どんなことがあってもお酒なんか飲むんじゃありませんよ」
「わかっとる、わかっとる……」
千枝はすでにかなり酔っているらしく、呂律《ろれつ》があやしかった。
「千枝……それからお嫁に行ってからもお酒は駄目よ」
「なんして……なんでいけないんだい……」
「あんたは雄ちゃんに似てお酒が強いらしいから……夫婦で飲んでいたら、良平さんがどんなに働いたって追っつかない」
「イヤーダ……千枝、身上《しんしよう》つぶすほどなんて飲まないよ」
「駄目、絶対にお酒はいけませんよ。今迄は、なんといっても雄ちゃんや有里さんが蔭になり日向《ひなた》になって千枝をかばってくれた……吉川さんご夫婦はいい方だけど、それは何といっても他人様なのだから、あんたが余《よ》っ程《ぽど》気持を引き締めていないと、とんだ恥をかくことになるのよ」
「そうだ、吉川さんはお前が機関手の妻として、ふさわしいかふさわしくないか試験をするわけだからな、吉川さんに見放されたら、お前がどんなに良平の女房になりたくとも、鉄道のほうでお断りだ……」
「千枝さん、なにかあったら、すぐ電報うってくださいね、私、いつでもすぐとんできますから……」
有里も、千枝をたった一人で塩谷に残して行くのが気懸りの様子だった。
「けっして遠慮はしないでね」
「うん……それでも、有里姉ちゃんもだんだんお腹が大きくなると動かれんようになるもんね……」
「あら……」
有里がはる子と顔を見合せた。
「千枝……」
はる子が千枝をたしなめたが、時すでに遅く、
「なんだ……いったい……?」
雄一郎が不審そうに聴いた。
「駄目ねえ、千枝は……有里さんが話すまで黙っているって約束だったのに……」
「ごめんネ、うっかりしちゃった……」
「いいのよ、私じゃなんだか恥かしくて、とっても話せそうもないし……」
「なんのことだ、はっきり言えよ……」
「実はね、有里さん、さっき病院へ行って来たのよ、あんたが帰ってくる少し前に帰って来たの……」
はる子がかわりに言った。
「病院……?」
雄一郎にはその意味がまだのみ込めず、有里を上から下へと眺め回した。
「お前、どっか悪いのか?」
「違うよ、兄ちゃん、有里姉ちゃんに赤ン坊が出来たんだよ」
「ええッ……」
「おめでとう、雄ちゃん……これからは有里さんを大事にしてあげなくては駄目よ」
「有里ッ……」
一瞬、狐《きつね》につままれたような顔をして、雄一郎は有里を見た。
有里は含羞《はにか》んで眼を伏せた。
「おい……本当なのかッ……」
「……もう三月にはいってるんですって……」
「いつ、生れるんだ……」
「四月の末の予定なんです」
「それでどっちだ、赤ん坊は……女か男か……」
「何を言ってるの……」
女たちが笑いだした。
「馬鹿だなあ、兄ちゃんは……そんなことがまだわかるわけがないでしょう……」
千枝にまで馬鹿にされて、雄一郎は頭をかいた。
「そうか……だけど、そうだったのか……」
「だけど雄ちゃん、引越しのとき、重いもの持たせたらいけないのよ、今月一杯が殊に大切なのだから……」
「ああ、荷物運びは俺がやる」
「千枝もやるよ、釧路の家の掃除もみんなやってやる……こんなときに役に立たなくちゃ、有里姉ちゃんにすまんもんね」
「千枝さん……」
有里は何といって自分の気持を表現していいかわからなかった。
ただ嬉しさが、胸一杯こみ上げていた。
「そのかわり、今度千枝が赤ン坊産むときはお願いね……」
「ええ、それはもう……まかしといてちょうだい……」
ポンと胸を叩《たた》いて笑った。
明るくて、気さくな室伏家の色に有里もいつの間にか染っていた。
「心配するな千枝、先輩面して、いまにいらん世話までやくようになるぞ……」
「あら……そんな……」
有里が雄一郎をにらむと、それがおかしいと言って、千枝とはる子は又笑った。
「でもさ、有里姉ちゃんだってまだ子供が出来るし、千枝のお産と有里姉ちゃんのお産とかち合ったら困るわね……」
「困らないわよ、千枝、そんなときは私が駆けつけてあげますよ」
「だって、そんなこといったって、はる子姉ちゃんだってお産するかもしれないんだよ」
「まあ……」
はる子はみるみる真赤になった。
「よおし、今夜は飲むぞ……」
雄一郎は張り切って叫んだ。
この夜の室伏家には、仕合せがあふれていた。
多少の屈折はあっても、間もなく、はる子も千枝も、心から愛し合える人と結婚への道を歩きだすことが予想されていた。
そして、雄一郎と有里の間には、来年四月、北海道に遅い春が訪れる頃、可愛い赤ン坊が生れてくる。
ささやかな仕合せを、このつつましい家族は胸一杯に吸い込んだ。
小さな、この仕合せをそれぞれに大事にみつめていた。
明日の日は知らなくとも、この夜、室伏家は、たしかに仕合せが匂《にお》いこぼれるようであった。