16
雄一郎夫婦が釧路へ引越しの日は、朝からよく晴れた。
九月下旬、北海道はもう秋であった。
山ぞいでは、ぼつぼつ赤く色づいた梢もみられるし、吹く風も肌寒い、なによりも群青《ぐんじよう》に深く澄んだ空が秋の色であった。
小樽から札幌へ出て岩見沢《いわみざわ》、滝川《たきがわ》、富良野《ふらの》、帯広《おびひろ》、池田、浦幌《うらほろ》と列車は東へ東へと進んで行く。狩勝峠《かりかちとうげ》の絶景は、有里も千枝も声もなくみとれた。
(これが北海道だ……)
と有里は思った。
山も海も、見馴《みな》れた小樽より更にきびしく、それでいて、地の底から湧《わ》き上ってくる北海道の夢があった。
釧路の官舎は、駅のすぐ近くにあった。
三軒が一棟になっていて、釧路駅の助役の桜川孝助が左隣り、右隣りは雄一郎の上役に当る釧路車掌所の主任、岡井亀吉であった。
おどろいたことに、雄一郎夫婦と千枝が到着してみると、官舎は岡井亀吉の妻のよし子の指図で釧路車掌所に勤務する人々のかみさん連中が総出で、すみからすみまで掃除が行き届き、すでに到着していた家具類もほとんど荷がほどかれて、今にも運び込めるような状態で待っていたことである。
挨拶《あいさつ》もそこそこに、有里も千枝も身仕度をした。しかし、手を下すことはほとんどなかった。
箪笥《たんす》はそこに、布団は押入れにと指図だけをしていれば、すべてがあっという間に片づいた。
おまけに、一段落した時、岡井の妻は大きなヤカンに焙《ほう》じ茶をいれ、にぎり飯を山のように作って届けてくれた。
彼女は体格もいいが、仕事も人一倍よくする。何かしていないと気がすまない性質らしく、いつも人々の先頭に立って、声をからし、くるくるとよく動き回った。
「さあさあ、みんな一休みしましょうよ、ご苦労さんでしたね……」
有里が言うことを自分が言って、さっさとみんなに握り飯をくばった。
「まあ、すみません、こんなことまで……私、ぼんやりして居りまして……」
有里はあわててお茶をついだ。
「なにを言ってるんだね、郷に入らば郷に従えってね、まかせておくもんだよ、さあ、いくらでも食べてちょうだいよ、うまいむすびだよ……」
よし子は自分から先にむすびを取った。みんなが遠慮しないようにとの配慮である。
それから、そこに集った車掌所の女房たちの紹介をはじめた。おかげで有里は、すぐみんなの中にとけ込むことが出来た。
「ところで、あんた実家はどこかね?」
「紀州の尾鷲《おわせ》です」
「そりゃア遠いねえ……したが、遠い親類より近くの他人さ、これからはなんでも相談して下さいよ、これでも、あんたよりは長いこと世の中を生きてきているんでね、亀の甲より年の功……まあ、力になってあげられると思うがね……」
それから声を低めて、
「奥さん、あんた一休みしたら、隣の桜川さんとこへ挨拶に行って来たほうがいいよ……もうぼつぼつ、旦那さんも事務所から帰ってくるだろうが、なるたけ、早いほうがいいでね」
と言った。
「はい、すぐに行ってまいります……」
「あのねア……余計なことかも知れんけど、わたしらはがさつ者でざっくばらんの性質だから、どうということもねえけんどよ……お隣の奥さんはそういうわけに行かねえで、気イつけるんだよ」
「はア……」
「まあ、何かあっても、わたしらがついているで、別に心配せんでもいいがね……」
そこにいる女房たちも、なんとなく眼でうなずきあっているようである。
(何もかも、うまくは、仲々いかないものだ……)
有里はちょっと気が重くなった。
よし子の顔色から推しても、隣りの桜川夫人はかなり気むずかしそうである。
荷物が片付き、車掌所の女房連中が引き上げて行ってしまうと、有里はすぐ、千枝を連れて隣の家へ挨拶《あいさつ》に赴いた。
「あの……お隣りに引っ越してまいった室伏の家内でございますが……」
おずおずと声をかけた。すると、中から岡井よし子とはまったく対照的に、痩《や》せて眼鏡をかけた五十がらみの婦人が出て来た。
「どうぞ……おはいりくださいまし……」
声はとてもやさしい。
二人は土間へはいった。
「ごめん下さい、申しおくれました。私、今日お宅さまの隣りに引っ越して参りました室伏雄一郎の妻、有里でございます……」
「妹の千枝です……」
「ふつつか者でございますが、今後ともよろしくお願い致します……主人もあらためてご挨拶に参ると存じますが、只今《ただいま》、車掌所の方に挨拶に行って居りますので失礼いたします……」
有里は言葉の端々にまでも気を配って、叮嚀《ていねい》に頭を下げた。
それを桜川夫人、民子は黙って聞いていたが、
「まあまあ、ご挨拶がよく出来ましたこと……」
にこやかに言って頷《うなず》いた。
「あなたさま、失礼ですが、どちらのお生れ……?」
岡井よし子と同じことをきいた。
「紀州の尾鷲でございます……」
「おや、それはまあ……あの、失礼でございますが、あなた、お学歴は……?」
「は?」
「いえ、あの……どちらの学校をお出になられたの……?」
「ああ……それでしたら、京都の白川女学校を卒業いたしました……」
「まあまあ、女学校を……」
民子は大袈裟《おおげさ》に首を振ってみせた。
「それは結構でございますこと……やはりネ、ちゃんと学問をなさった方とそうでない方とは、お言葉遣いからして違いますものね……」
眉《まゆ》をひそめて、声を低めた。
「……どうも、この辺の方はお言葉が悪くて……私、子供の教育のことを考えると、いつも途方にくれて居りますの……あなた、お子さんは……?」
「はあ……あの……」
「お腹ん中に一人……まだ、三か月ですけど……」
千枝がかわりに答えた。
「まあまあ、それは大事になさいませんと……お気をつけなさいませ、三か月が一番難かしい時期だと申しますからねえ」
「はい、ありがとうございます」
「実は今日、お手伝いにあがろうと思っておりましたのですけれど……」
民子はそっと上眼遣いに有里を見た。
「なんですか、岡井さんあたりが朝から騒いでいらっしゃるようなので、私どもはご遠慮申しましたのよ、ごめんなさい……」
「いいえ、とんでもございません」
有里はあわてて首を振った。
「あの……余計なお節介かもしれませんけど、岡井さんにはお気をつけなさいまし……あちらは大層な世話焼さんでしてね、あなた、おとなしくしてらっしゃると、とんだことになりますわよ」
「はア……?」
「ま、あなたもネ、お住みになるといろいろのことがおわかりになってくるでしょうけれど……」
民子は鶴のように細い首を振った。
「とにかく、お気をつけあそばせ……」
「はあ……」
有里は早々に桜川家から退散した。
どうやら、今度引っ越した家の両隣り、岡井よし子と桜川民子とは犬猿の間柄らしいことが、有里にも朧気《おぼろげ》ながらわかりだした。
夕方、帰宅した雄一郎に千枝が早速この話を持ち出した。
「右隣りの主任さんとこの奥さんは、すごくざっくばらんな人だけど、こっちの隣りはなんだかややこしいよ」
「なんか言われたのか……?」
「挨拶に行ったら、有里姉ちゃんのこと……まあ、ご挨拶がよく出来ましたこと……だってさ……」
「桜井さんの奥さんは昔、小学校の国語の先生をしとられたそうだ……」
苦笑しながら、雄一郎が言った。
「へえ……道理で……」
「今日、車掌所で注意されたよ、桜川助役さんと岡田主任さんとこは、かみさん同志仲が悪いから、真ん中に入って苦労するってさ……」
「やっぱり……」
千枝が不安そうに有里の顔をのぞき込んだ。
「なんだか面倒なことになったね……どうする……?」
「大丈夫、なんとかなるわよ……」
しかし、有里にもあまり自信はなかった。
既に引っ越して来てしまった以上、他の家へ移るわけにも行かない。
「まあ、なんとかやってくれ……」
雄一郎は無責任なことを言って、ごろりと横になって新聞を読みはじめた。
そのとき、
「こんばんは……」
玄関の方で声がした。
「あッ、岡井さんだわ……」
有里がすぐ腰を浮かした。
「なに、岡井さん……?」
雄一郎も起き上った。
二人|揃《そろ》って玄関へ出て、あらためて、今日の礼を述べた。
「なあに、家の中のことは旦那さんに関係ないでね……礼なんか言われるほどのこともないよ……」
よし子は照れくさそうに笑った。
「うちの奴は世間知らずなもんで、いろいろご迷惑をかけると思いますが、どうかよろしくお願いします……」
「はいはい……まだ若いんだもの……二十歳やそこらで世間知りになっちまったら、とんだすれっからしだわね。それでなくたって浮世の風は冷めたいからねえ……」
しんみりとした表情になったが、途中でふと気がついて、
「そうそう、奥さんが三か月だっていうから、知りあいの産婆さん頼んどいてあげましたよ……いつなんどき世話になるか知れないし、知らない土地で心細い思いをするといけないからねえ……」
と言った。
「えッ、お産婆さん……?」
有里は吃驚《びつくり》した。
たしかに有難いには違いないが、今日引っ越して来て、識り合ったばかりというのに、産婆さんの世話をするというのは、いくらなんでも気が早すぎる。
しかし、よし子はそんな有里の驚きをよそに、片手の土瓶《どびん》をさし出した。
「それからこれ、煎《せん》じ薬ね……引っ越しで疲れたりすると流産しやすいっていうから……これ、疲れにとてもよく効くんだよ、まあ騙《だま》されたと思って、飲んでごらんなさいよ。じゃ、おやすみ……」
言うだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。
「へえ……ききしにまさる世話やきだな……」
雄一郎が溜息《ためいき》をついた。
「でも良かったわ、親切な人がお隣りに居て……」
「親切なのはいいが……度がすぎて迷惑にならんといいがな……」
「もしかするとね……」
有里も雄一郎と同意見だった。
「えらいところへ引っ越して来ちまったねえ……」
千枝が深刻な表情で言ったので、二人は思わず吹きだした。
しかし、ほんとうは笑い事ではないと、有里は思った。
「私、どちらの悪口も言わないように気をつけるわ……」
よし子の持って来てくれた煎じ薬を台所へ仕舞《しま》いに立ちながら、有里は誰へともなく言った。