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大阪での弘子の結婚式がすむと、雄一郎と有里はそのまま、尾鷲へは寄らず、真直ぐ釧路へ引返した。
雄一郎の休暇が、もはや残り少なくなっていたためである。
大阪から東海道を上り、上野から仙台を経て青森へ、そして青函連絡船という乗り継ぎ乗り継ぎの旅だったが、有里は仕合せであった。
ずっと心にかかっていた姉の結婚が無事にすみ、母に叛《そむ》いて嫁いだという重荷も、今度の里帰りできれいさっぱりなくなった。
ただ一つ気になったのは、秀夫を抱いて眼を細めていた母の髪に、めっきり白いものが目立ちはじめているということだった。
二人の娘を二人ながら嫁がせて、すっかり気落ちがしたような母との別れに、ふと、あまりに遠く離れて暮す親不孝が思われた。
「女って、嫁に行ってしまうと自分の家ってものが変るのね……娘の頃は、京都の女学校の寮でどんなに長いこと暮していても、家といえば尾鷲の我が家だったのに……今度久しぶりで里帰りしてみて、なんだかさっぱり落つかないの、懐しいことは懐しいのだけれど……もう、自分の家ではないのね……」
有里は釧路の家へ戻って来た晩、雄一郎にしみじみと言った。
「そういうものかな……」
「海を渡って、北海道が見えてくると、ああ、我が家が近くなったんだなって感じるの……」
「そうすると、親なんてあわれなもんだな、赤ん坊の時から大事に大事に育てあげて、あげくの果に赤の他人にくれてやり、その娘から、もはや実家は我が家ではないみたいなこと言われてさ……」
「あら、そんな……」
「いずれ、もし俺たちに女の子が生れたら、いつか又、そういう親の悲哀をたっぷり味わわされるだろうな、因果はめぐる小車の……か」
雄一郎が真面目《まじめ》とも冗談とも受取れるようなことを言った。
「仕方がないわ、子供というのは男の子でも女の子でも、親を乗り越えて行くものじゃないかしら……また、乗り越えられないような子では困ると思うわ」
「フム……しかし、お袋さん、今度はだいぶ気が弱くなっていたな、別れがとてもつらそうだった」
「発車間ぎわまで秀夫を抱いてはなさないんだもの、返してくれないんではないかと思って、ひやひやしたわ」
「俺はつくづく気がとがめたよ……可愛い娘を北海道くんだりまで奪って来てしまったんだものな」
「あのね……」
有里はくすりと笑った。
「母ったら単純なこと言ってるのよ、もうすぐ紀勢本線が尾鷲まで開通するようになるから、そうしたら、あなたに北海道から尾鷲へ転勤して来てもらえないかですって……」
「なるほど、紀勢本線か……」
「そんなこと出来ないっていったら、おなじ鉄道の中なのに、なんで出来んのかって……」
「そりゃあそうだ、出来んことはないさ……」
「あら、出来るんですかッ……?」
有里は眼をまるくした。が、すぐ元の表情にかえった。
「出来ても、あなたは札鉄以外のところへは行かないわよね……」
「どうして……」
「だって、あなた、札鉄を出るの嫌なんでしょう」
「別にそんなこともない……もっとも今は駄目だが……」
「知っています、関根さんと北海道の鉄道のために、なにか企んでいるんですものね」
「おいおい、企むとはなんだ、まるで俺たちが謀反をおこすみたいじゃないか」
「ごめんなさい……」
有里は自分でも気がついておかしそうに笑った。
「でも、あなたと関根さんのお話しているの、いつもひそひそ、いかにも密議をこらしてるって感じですもの」
「そうかなあ……」
雄一郎は意外そうな表情をした。
最近、釧路の運輸所長として東京から転勤して来た関根重彦は、雄一郎と相談して、ひそかに北海道の鉄道のスピード・アップの計画をねっていた。
一口にスピード・アップといっても、それにはいろいろな方法が考えられ、また、それの実行にともなう種々の困難な壁があった。
例えば、無駄な時間、つまり停車時間とか列車相互の交換時間をきりつめるとすると、それによって生じる危険性をどうするか、単線を複線にするための経費をどうするか、又、列車の速度を増した場合に生ずる燃費増加の問題……。
到底、一人や二人の知慧《ちえ》や努力ではどうにもならないことのようではあったが、関根も雄一郎も、敢《あ》えてこの問題に情熱を燃やしていた。
出来る、出来ないはともかく、たとえ何十年かかったとしても、これはやらねばならない事だったからである。
釧路へ帰った翌日から、雄一郎は疲れもみせず勤務についた。
ぼつぼつ、一年の終りに近づいて、貨物も旅客も増える一方である。
のんびりと家でやすんでいる暇は無かった。
阿寒の頂きは、雄一郎夫婦が釧路へやってきて、もう二度目の雪に白く覆われていた。
そして、そのころ……遠い海のかなたハワイでは、はる子が此処へ来て初めての冬を迎えていた。
以前横浜に居たころ、話には聞いていたが、此処には本当に冬という季節感はなにもなかった。
空は夏の空の青さであり、太陽の光も強く眩《まぶ》しい。
又、此処には、衣がえという日本のあの情緒的な風習もなかった。
「もうすぐ、お正月が来る……」
ペンキのにおいが強い白鳥舎の建物の中で、はる子はそっと心のカレンダーをめくった。
十二月、北海道の山々はもうまっ白な冬仕度の筈である。
ニセコアンヌプリもイワヌプリもチセヌプリもワイスホルンも目国内《めくんない》岳、岩田岳、そして雷電山も……。
はる子の眼に北海道の山並みが浮かんだ。
そして、それは忘れることの出来ない伊東栄吉の面影に続いていた。
日本へとっくに帰っているはずの伊東からは、一通も手紙が来なかった。
そのかわり、和子の母親の尾形未亡人からたびたび手紙が来て、和子がその後、順調に回復に向っていること、はる子のとってくれた今度の行為に対し、筆では記せないほど感謝していること、又、まことに申しわけないが私たち親子を助けると思って、もうしばらくこのままの状態を続けていて欲しいこと、そのかわり、あと半年もすれば必ず和子の気持を変えさせ、良き配偶者に妻《めあ》わせてから、伊東にはそれまでのすべての事情を打ち明けて許しを乞《こ》うつもりであることなどが綿々と書き記されてあった。
更に、伊東にはもちろんだいたいの説明はしてあるので、心配しなくていいとも書いてあった。
伊東から直接手紙が来ないことは寂しかったが、そのかわり、彼の消息は尾形未亡人が知らせてくれた。
伊東は帰朝するや、東鉄の運転所長結城慎一郎の懐刀《ふところがたな》として、いよいよ東京・大阪間に特急列車を運転する下準備にはいったということだった。
はる子は、蔭ながら東京の伊東栄吉の成功を祈った。
ハワイの白鳥舎の店を閉める夕方から、はる子は欠かさず病院に伊吹きんを見舞った。
容態の悪い時期には、病院へ泊りこみで看病したが、熱が下ってからは病院の規則に触れないように、夜の一時《ひととき》を病人と共にすごした。
はる子はハワイへ来て以来、白鳥舎の仕事に全力をそそいだ。
機械の配置、店員の人選から店の造作、ペンキの色までこまかく気をつかった。
そして、そんなはる子に、きんの弟の亮介はまったく色気ぬきの協力ぶりを示した。
「やっぱり君が来ないと駄目《だめ》だな、店員もよく働くし、お客もどんどんついた……」
亮介はあらためて、はる子の仕事ぶりに感嘆の声をはなった。
「別に、私のせいではありませんわ……おかみさんとあなたがちゃんと下ごしらえをしておいて下さったから……」
はる子は恥かしそうに言った。
「姉も、あなたのお蔭で、ここんとこ調子がいいらしい……食欲は相変らず無いようだが、気力はすっかり回復したね」
「でも、お医者さまはなんとおっしゃってますの?」
「熱がずっと続いたので、心臓がかなり弱っているそうだ……当分はまだ病院ぐらしが続くらしい……」
「無理をしてはいけませんわ、病気って治りぎわが肝心ですもの」
「ああ、こうなったら医者の言うとおり、ゆっくり静養する他に手はないのだが……実はそのことも含めて、今日、姉と話して来たんだよ、君のことをね……」
「私のこと……?」
「なにしろあの時は姉が危篤状態だったし、おまけに譫言《うわごと》で君の名前を言い続けだったから、前後の見境もなく、君に来てくれと頼んだのだが……とにかく、いつまでもハワイにいてもらうわけにも行くまいと思ってね……許婚の人、もう日本へ帰っているんだろう……」
「ええ……」
「姉にも話したんだ……これ以上君に迷惑をかけるわけには行かん……姉の病気も、もう大丈夫だ、船の都合もあるが、なるべく早く帰国するといい……切符は僕が手配するよ」
「いいんです……私……」
「いいって……どうして?」
「私、まだ当分は日本へ帰りません……」
「そんな馬鹿な……君は本当ならとっくにあの許婚の人と結婚している筈だったじゃないか……」
「それが、当分日本へ帰れないわけが出来てしまったんです……」
「じゃ、やっぱり……君をハワイへ呼んだのがいけなかったんだね」
「いいえ、違います、そんなことじゃないんです」
はる子はつらそうに顔をそむけた。
「伊東さんがご恩になったお方のお嬢さんのことで、どうしても、当分はこちらに居なくてはいけないんです……それが、やっぱり人間の道だと思うんです……」