22
秀夫の生れた翌年の秋十一月、雄一郎は有里と秀夫を連れて尾鷲《おわせ》へ発った。
姉の弘子と大阪の薬種問屋の若主人との間に縁談がととのい、その結婚式に出席するためである。
式は大阪で行なわれるのだが、その前に、有里は結婚以来初めての里帰りをすることになったのだった。
有里の体中に、嬉《うれ》しさが匂《にお》い立つようだと、雄一郎は妻を眺めていた。
今度の帰郷については、実際それだけの喜ぶ理由があった。
第一に姉の結婚、第二に初めての里帰り、そして第三に、これらのことを母が自分で直接手紙に書いて来たことであった。
有里の結婚当時のみちの仕打ちについては、彼女自身かなり気がとがめているとみえ、あの時の弘子の立場を考えるとああせざるを得なかったとか、家業が思わしくなかったので、浦辺友之助などにたいし、つい感情的になってしまったことなどのことが弁解がましくくどくどと書かれており、最後に初孫の顔が見たいから、どうしても一緒に連れて来て欲しいと繰返し述べられていた。
姉の結婚で、はじめて生みの母から許されて、夫と共に里帰りが出来ることを、素直に喜んでいる妻を、雄一郎は愛《いと》しいと思った。不愍《ふびん》でもあった。
平気な顔はしていても、やはり、いつもそのことで秘かに胸を痛めていたのだろう。
とにかく、雄一郎にとっては四年ぶり、有里にとっては、三年ぶりの尾鷲であった。
その三年のあいだに、紀勢本線も相可口《そうかぐち》から南へ徐々にひらけ、結婚したころは三瀬谷《みせだに》までだったのが、今では滝原《たきはら》、伊勢柏崎《いせかしわざき》、大内山《おおうちやま》と三つの駅が新しく開通していた。
長いこと難航した弘子の結婚話がまとまったのと、可愛い初孫の顔を見た嬉しさで、雄一郎に対して、ひどくそっけなかった母のみちも、今度ばかりはまるで人が変ったように振舞っていた。
最初から雄一郎に好意的であった勇介は、わざわざ駅まで出迎えてくれたし、二人の訪問を心から歓迎してくれたのはもちろんである。
弘子の婚礼を明日にひかえて、中里家の中はどこもかしこもざわついていた。
応接間には、ひっきりなしに祝い客があるらしく、勇介はもっぱらそれの応待にかかりきりの様子だった。
あらためて、雄一郎は尾鷲の中里家の格式というものを考えていた。傾きかかっているとはいえ、とにかくこれだけの大身代なのである。
有里が北海道の一鉄道員の許へ嫁入って来たということが、どんなに勇気を要することだったか、あらためて考えさせられた。
雄一郎は、竹の林ではじめて有里と逢った日のことを思い浮かべた。
竹の精かと思うほど、可憐《かれん》で、すがすがしい印象だった有里。しかし、その気持はいまでもまだ雄一郎の胸の中から消え失せてはいなかった。
金とか地位とか名誉とか、およそ人間の欲しがるものに、有里はあまり強い執着を示さない。それが良いことか悪いことかは別として、有里ほど純粋できれいな心を持つ女は少ないのではないかと思う。
(不思議な女だ……)
太く黒びかりした柱、磨きぬかれた廊下、手入れの行き届いた庭園、そうしたものを眺めていると、余計そんなことを思ってみないわけには行かなかった。
それにひきかえ、姉の弘子の嫁入りは、如何にも尾鷲の中里家の長女にふさわしい豪華なものであった。
嫁入り仕度はすでに船で大阪へ送られ、尾鷲での最後の夜を、弘子は美しく着飾って、別れの宴にのぞんだ。
昔ながらの飲めや歌えの一夜が明けて、弘子は母や兄、それから雄一郎夫婦らと共に、大阪へむかった。
大阪には、弘子の嫁ぎ先の吉田屋から大番頭たちが出迎え、あらかじめ用意してあった宿へ案内した。
式は翌日の夕方、太閤館《たいこうかん》という料亭を買い切って行なわれる筈であった。
宿へ着くと、有里は早速秀夫を夫に預け、荷ほどきの手伝いに姉の部屋へ行った。
「有里……ほな、そっちの長持の花嫁|衣裳《いしよう》出して衣桁《いこう》にかけて欲しいね……」
みちが有里や勇介を指図して、明日になってあわてないよう、衣裳や道具の整理を始めた。
「弘子、あんたも坐っとらんと、そっちの荷ほどいてえな……」
部屋の隅に坐《すわ》ったきり、何もしようとしない弘子に言った。
「そやかて、なんや、うち疲れてしもうて……」
「疲れとるのはお互いさまや……あんたには道中、荷物も持たせず、みんなが気イ使うて来たやないか……そんなことで嫁に行ったら、あんじょう出来るかいな」
「だって、治夫さんが言うてなしたわ……芦屋《あしや》のお家では、古くから居る女中はんが何もかもしてくれるさかい、なんにもせんでええのやと……」
治夫というのが、今度弘子が嫁入る相手の男である。大阪の商家の息子《ぼんぼん》にしては、三十過ぎまで独身でいたという変りだねで、文学が好きで自分でも小説の何本かは書いたことがある。弘子にも結婚してからもずっと歌を続けることを許したのだそうだった。
「そらそうかもしれんけど、せめて治夫さんの身の回りのお世話くらいは、あんたがやらんわけには行かへんよ。ええな……家にいるのとは、わけが違うのやさかいな……」
しかし、弘子はそれには答えず、次の間で花嫁衣裳を取り出している有里に言った。
「有里、あんたとこ今、お給料なんぼくらい貰《もろ》うてるの……?」
「夜勤手当も含めて、大体六十七、八円てとこかしら……」
有里は素直に答えた。
「今、住んでるのが鉄道の官舎でしょう、お家賃が一銭もかからないの……食費が月三十五円くらいかかるし、うちの人のお昼代が一日十五銭くらいで四円五十銭、それから新聞雑誌に一円とちょっと……お風呂代が月二円……衣類などに五、六円から十円くらい……それに交際費なんかがあるから、なかなか貯金が出来なくて……」
「まあ、あんた、よくそうすらすらと数字が出てくるもんやなあ……」
そばで聞いていたみちが眼をまるくした。
「だって、家計簿つけてるんですもの……」
「家計簿……?」
「そう、家計簿つけて余程計画的にやらないと、すぐ赤字になってくるんよ……それでも、うちの人|煙草《たばこ》吸わないでしょう、その分だけ、吸ったと思って秀夫の名前で積み立ててるの……」
「へえ……それで、月にどのくらい貯《たま》るん?」
弘子はあまり興味のなさそうな表情できいた。
「二円……」
「そうすると、一年で二十四円……十年で二百四十円やないの……阿呆《あほ》らしい……」
「ま、阿呆くさいっていえば阿呆くさいけど、それでええのや……塵《ちり》も積れば山となるいうてな……」
みちは慰め顔に言った。
「お金が有ろうと無かろうと、その心掛けは大切やで……弘子、あんたも嫁入ったら少しは家の経済いうことも考えなあかんで……」
「あら、クリームが無いわ……」
弘子が不意に声を上げた。
「どうしたんやろ、たしか、ここへ入れて来たと思ったの……」
「なんや、又、忘れものかいな……」
「うち、うっかりしてクリーム忘れて来てしもうた、どないしょう……」
「お姉さんのクリーム、桜屋のでしょう……」
「ふん……」
「私、買うて来てあげる……薬局へ行けば売ってるわ……」
「すまんなあ……」
「ううん……どうせ襟《えり》を拭くベンジンも買わんならんし……」
「そうか……ほなら頼むわ……」
「ほんまにまあ……」
みちがあきれたように言った。
「おんなし姉妹なのに、なんでこうも似とらんのかいな……有里は随分マメなのに、お前は縦のもん横にもしくさらん……」
「うちは、お母はん似なんよ……」
弘子はおどけたように言って、首をすくめた。
翌日、弘子の結婚式は予定どおり、なんの故障もなく行なわれた。
嫁ぎ先の吉田屋は、江戸時代からの老舗《しにせ》だけあって、つき合いも広く、招かれた客の中には、東京からわざわざこの披露宴に出席するために来阪した代議士の顔も見えた。
さいわい、好天に恵まれ、何もかも順調だった。
披露宴を終えて、有馬《ありま》温泉へ新婚旅行に出発した新夫婦を見送って、雄一郎たちが宿へ帰りついたのは、その夜の十時近かった。
雄一郎が風呂を浴びて部屋へ戻り、しばらくして、ようやく有里がみちの部屋から戻って来た。
「お母さんのほう、すんだのか?」
「ええ、今、着換えてお風呂へ……ごめんなさい、あなたの方、なにもしてあげられなくて……」
「なあに……」
雄一郎は兵児帯《へこおび》を結び終ると、結び目をぐるりとうしろへまわした。
「したけど、お母さん、ひどくがっかりしてなさったようだなあ……」
「姉さんを嫁に出すまではって気だったから……なんだか急に風船玉がしぼんだようになってしまったんだわ」
「秀夫、兄さんの部屋に寝てるそうだな」
「ええ、尾鷲からついて来てくれた小作人で加吉さんという人がいたでしょう……あの人がうまくあやして寝かせてくれたらしいの……もう少したったら、こっちへ連れて来ます」
「うん、兄さんに迷惑かけるといかんからな……」
有里は今日着ていた着物の襟を拭《ふ》いている。雄一郎はそんな妻の横顔をじっと見つめた。
「有里……お前も疲れたろう……」
「いいえ、あなたこそ……」
「立派な結婚式だったなあ……」
「ほんとう……」
有里は手をとめて今日の結婚式を思い出すような眼つきをした。
「御披露宴も立派だったわね……姉さん、とっても仕合せそうだったわ……今夜は有馬温泉に泊って、明日から天《あま》の橋立《はしだて》のほうへ廻《まわ》るんですって……」
「そうだそうだな……」
「私、大阪の老舗のご主人というから、姉さん、さぞ大変だろうと思ったら、芦屋の別宅のほうに住むようになるんですって……それだったら、むずかしいお店のしきたりや、使用人たちに気をつかうこともなくてほんとに良かった……お母さんも安心していたわ……」
有里はしんから嬉しそうだった。
「有里……お前、後悔していないか?」
雄一郎が突然言った。
「なにを……?」
「つまり……姉さんの結婚式があまり立派だったからさ……お前だって、その気になれば……」
「まあ、何んのことかと思ったら……」
有里が顔を赤くした。
「だって……私はあなたが好きだったんですもの……」
「有里……」
「しかたがないわ、今更後悔したってあとの祭よ……」
悪戯《いたずら》っぽい目つきで、ちらと雄一郎を見た。
「こいつッ……」
「お互いさまよ、あなただって、潰《つぶ》れかかった家の娘を無理して貰うより、もっとお金持か、鉄道のえらい人の娘さんと結婚すれば得だったのに……」
「馬鹿……」
「ほら、その……人のこと馬鹿、馬鹿っていうのが玉に瑕《きず》よ、それさえ言わなきゃ満点なのに……」
「そうか……したが、いい女房だ、お前という奴は……」
「ほんのお世辞……?」
「馬鹿……」
「ほら、また……」
「あ、そうか……」
二人は顔を見合せ、思わず一緒に笑い転げた。