25
両親を失って、一人ぼっちになった尾形和子について、南部斉五郎夫婦は人知れず気をつかっていた。
無論、なくなった尾形夫婦にはそれぞれ兄弟もあり、孤児になった和子を引き取ってもよいという申し出もあったのだが、これは和子のほうからきっぱりと断ってしまった。
父の清隆が急死して、思いがけない多額の借財があることが知れたとき、それまで散々厄介になっておきながら、まるで手の平を返すように薄情な態度を見せた親類に対する、和子のせめてもの抵抗であった。
世の中のすべてに対して、かたくななほど用心深くなっている和子が、南部斉五郎にだけは心をひらいて、小父様、小父様と頼りにしてくる。
そんな和子がいじらしくて、いっそ引き取って暮そうかと思いながら、南部夫婦がためらっているのは、一つには尾形の親類に対しての遠慮と、もう一つはなくなった尾形清隆と、彼らが孫娘としてこれまで育てあげて来た三千代とのつながりの秘密の故であった。
この秘密は、ごく一部の者が知っているだけで長年の間隠されて来た。
三千代と南部夫婦とは実は血のつづきは無く、昔、事情があって引き取った尾形の隠し子のそのまた子供だったのである。
三千代は南部夫婦の温い手の中で育てられ、今日に至るまで、その出生の秘密は知らなかった。
しかし、和子はもしかしたらそのことを知っているかもしれない。なくなった尾形未亡人がその秘密を和子には明していたかもしれなかった。
南部斉五郎にしても節子にしても、和子には一日も早く良い配偶者を見つけてやることが一番だと考えるようになっていた。
「ねえ、どうなんでしょうね、伊東さんが和子さんと結婚してくれたら……」
或る晩、節子が遠慮勝ちに斉五郎にきり出した。
「もともと和子さんのほうは、死ぬほど伊東さんが好きだったんだし、それに、近頃は伊東さんもかなりマメに尾形さんのところへ行っているようですよ」
「うん、俺もそれを考えんでもないさ……しかし、それじゃ、はるちゃんがあんまり不愍《ふびん》だろ……」
「でも、はる子さんはハワイで亮介さんと結婚するんじゃないんですか……?」
「本当なのか、やっぱりその話……」
斉五郎は逆に節子にきいた。
「今日、白鳥舎のおきんさんから電話がかかって来ましてね……昨日、横浜へ着いたんですって……」
「ハワイから帰って来たんだな」
「むこうでは大病して散々だったけど、すっかり元気になったそうで、相変らずの若い声でしたよ」
「はるちゃん、一緒に帰って来なかったのか」
「それがね、はる子さんはハワイのお店に残ったんですって……」
「ハワイの店……?」
「ハワイに白鳥舎の支店を出したんですよ」
「じゃ、はるちゃんは日本へは帰らんのか」
「なんだかそんな話でしたよ、広川の亮介さんが相談役で、はる子さんが支配人ってことになってるんですって……それで、行く行くは亮介さんとはる子さんを一緒にして……」
「おきんが言っとったのか、二人を一緒にするって……」
「ええ、どうもそうなりそうだっていう話でしたよ……」
「そうか……」
やっぱり本当だったのか、と南部斉五郎は思った。
実は先日、尾形未亡人の四十九日の法事で伊東栄吉と逢《あ》ったときも、その話が出たのである。
伊東は帰国したらはる子とすぐ式を挙げるつもりであった。ヨーロッパへ行く前の約束を果すことを楽しみにしていた。
ところが、帰国してすぐ横浜へ駆けつけた伊東を迎えたのは、はる子がハワイへ行ってしまったという白鳥舎の店員たちのそっけない返事であった。
その間の事情は、南部未亡人がくわしく、はる子は和子の自殺を見て、自分から身を引く決心をしたのだという。前々から、白鳥舎の女主人の弟との縁談があったので、この機会にきっぱりと伊東との結婚を諦《あきら》めてハワイへ永住する決心をしたというのだった。
「未練がましいことは言いたくありませんが、正直な話、僕はなんだか、女というものが嫌になりそうです……」
伊東はその時南部に言った。
「親父さん、ひょっとすると、僕は一生結婚せんかもしれません……なんだかそんな気がするんです……」
「そんな馬鹿な……はるちゃんがそんなことをするものか……」
その時は一笑にふしたものの、もし節子の言うように、おきんが直接そう言ったというのなら、斉五郎もあらためて、そのことについて考え方を組み直さねばならなかった。
それは節子にしても、同じ考えだったらしく、
「今までは、はるちゃんのことがあったから、私も和子さんを可哀《かわい》そうだとは思いながら、どうしてあげようもなかったんですけど……もしはるちゃんがそんな具合なら、伊東さんと和子さんのことだって、あなた、望みなきにしもあらずなんじゃありませんか……」
と言った。
「あなたからも一遍、伊東さんに話してみてくださいよ、伊東さんだって知ってるんでしょう、伊東さんが欧州へ行っている最中に、和子さんが他の縁談を嫌って自殺しかけたってこと……可哀そうじゃありませんか、それほど思いつめてるっていうのに……」
節子は、あいつぐ不幸に同情してか、急に和子の味方になったような口ぶりだった。
「しかし、元はといえば、和子さんのその一件ではるちゃんはハワイへ行く気になったんだろ……恋をゆずる気になって……」
「そりゃそうですけど……そんなこといってたら、いつまでたっても堂々めぐりですよ、人間、思い切るところはきっぱり思い切らなけりゃあねえ……とにかく、若い娘をいつまでも一人にしておくことはいけませんよ」
「そうかもしれん……」
その点に関しては斉五郎も同感だった。
「三千代がいつも言ってますよ、和子さんつとめて明るく振舞ってはいるものの、やっぱり淋しそうだって……」
「三千代は和子さんとちょくちょく逢うのか」
「そうらしいですねえ、和子さんのお勤めしてる保育園のそばに、三千代の行っているレストランもあるらしいんですよ」
「大丈夫かな……」
「なにがです?」
「三千代をあんまり和子さんに近づけん方がいいんではないのかな」
「そりゃ、私も考えていますけど……でも、和子さん、知ってるんですか、三千代のあのこと……」
「どうかな、未亡人は知っとったが……」
「案外、お母さんから聞いていたかもしれませんね……でもね、和子さんは利口なお人だから、知ってても三千代に言うことはないと思いますよ」
「そう……俺もそう思う。しかし、和子さんの周囲の人間が危い……」
「他に誰か、三千代の秘密を知ってる人があるんですか?」
「ないとは言えんよ、尾形君は太っ腹な人物だったが、それだけに人を信用しすぎるうらみがあった……ま、とにかく用心しよう、せっかく今日が日まで、三千代になにも知らせず育てて来たんだ、知らせずにすむことなら、一生知らせんほうがいいのだ……」
「そうですねえ……」
節子も強く頷《うなず》いた。
しかし、南部夫婦が一生知らずにすむなら知らせずに、と願っていた三千代の素性がふとしたことから、明らさまになる日がそれから間もなく来てしまった。
それは、両国の川開きの夜であった。
三千代は尾形和子と伊東栄吉の三人づれで、大川端の料亭へ花火見物に行った。
「玉屋ア……鍵屋《かぎや》ア……」
のかけ声と共に、暗い空にたて続けに打ち上げられる色とりどりの閃光《せんこう》に、思わず息をつめて見守るうち、突然、隣りの席との境の衝立《ついたて》がこちらへ倒れて、それまで、かなり派手な悪ふざけをしていた芸者と客がこちらへなだれ込んで来た。
その客の顔を見たとたん、伊東と和子は顔を見合せた。
それは以前、尾形の秘書をしていた大原だった。又、芸者のほうは、いつか大原がそっと教えてくれた、尾形の隠し子で菊竜とかいう女である。
大原も菊竜もかなり酔っていた。
「なんだ、君か……」
彼もようやく周囲の人物が誰なのか判ったらしい。酔眼朦朧《すいがんもうろう》とした眼を伊東に向けた。
「こりゃあ、尾形さんのお嬢さん……」
「ごぶさたしております……」
和子は皮肉な調子で言った。
「こちらこそ……そうそう、奥さんが歿《な》くなられたそうですな、つい、忙しくておくやみにもうかがわず失礼しました……」
さすがに気がとがめたらしく、大原は遅ればせに頭を下げた。
「あら、この方が尾形さんのお嬢さん……?」
傍から菊竜が頓狂《とんきよう》な声を張り上げた。
和子に無遠慮な視線を走らせてから、
「どう、オーさん、あたしとこのお嬢さんと、どこか似ている……?」
「そうだな……そういえば、どこか似ているような、似てないような……」
「似てない筈はないでしょう、れっきとした姉妹ですものね」
「姉妹?」
和子が眉《まゆ》をひそめた。
「こら、菊竜ッ……」
あわてて大原が制したが、その時はすでに遅かった。かなり酒を飲んでいるらしい菊竜の眼がすわっていた。
「いいのよ、今更、姉妹のなんのと名乗って出て、手切金をもらおうというわけじゃなし……ただね、自分の父親がふしだらで生れた姉妹を、芸者はさも人間のくずみたいな眼つきで見てるのが気に入らないのさ、お嬢さんだろうと、芸者だろうと、元は一つの蔓《つる》から生れた唐茄子《とうなす》かぼちゃじゃないか……」
「やめなさいッ……」
伊東が呶鳴《どな》った。
「君は酔っているんだ、すこし向うへ行ってやすみたまえ……」
「あら、あんた……ずっと前、オーさんから尾形さんの娘を嫁にしてくれって頼まれていた人じゃないの……ねえ、オーさん、そうでしょう……」
「ああ、そうだよ……」
大原も度胸をすえたらしかった。
「結婚したの、このお二人……」
「いや……」
「そう……そうでしょうね、お父さんが鉄道省のおえらがたなら嫁にも貰おう、婿にもなろう……親が死んじまって、つながる縁で出世したくも出世できない……持参金もない……それじゃ今更、結婚したってはじまらないものねえ……」
「ま、そういうなよ……」
大原がにやにやしながら言った。
「そこまで言っちゃ可哀そうだ……」
相手が酔っているので、何を言われても我慢していた伊東もさすがに顔色を変えていた。
和子はうつむいて、じっと菊竜の辱《はずか》しめに耐えている。
事の一部始終を見ていた三千代は、その時たまりかねて腰を上げた。
「伊東さん、和子さん、参りましょう……こんな酔っ払いを相手にしてたってしようがないわ……さあ……」
「あんた、誰さ……」
菊竜が三千代の前に立ちふさがった。
「誰だっていいでしょう……大原さん、あなたも随分男らしくない人ですのね、あなたが何処《どこ》で、どんな恥しらずなことをなさろうと、私たちの知ったことじゃありません……けれど、この場所は私たちがお金を払って、花火をたのしみに来ている場所なんですよ。衝立一つでも隣りは隣りでしょう、もうすこし差別《けじめ》ということをお考えになったらいかがですか」
「なにイ……」
大原は眼をむいたが、酔っているので凄味《すごみ》はない。逆に三千代から、
「そういう人だから、大恩受けた尾形さんの奥さまがなくなられても、お線香一本たむけにも来ない……芸者さんに悪ふざけする暇はあっても、お墓まいりの暇はないんでしょ」
と決めつけられた。
「三千代さんお止しなさい、そんなこと言ったってわかるような相手じゃない……」
伊東が小声で言った。
「さ、行きましょう……」
「三千代……?」
伊東の言葉を小耳にはさんだ菊竜が、あらためて三千代の顔をしげしげと眺めた。
「三千代って……オーさん、この人なの、いつか話してた……尾形さんの友だちが貰《もら》って行ったっていう、尾形の孫に当る人……」
「尾形の孫……?」
三千代が眉《まゆ》をひそめた。
「私が……?」
「違うわ、違います……」
遮るように和子が叫んだ。
「大原さん、出鱈目《でたらめ》を言うのはお止しになって……」
「ほう……和子さん、あんたが顔色を変えたところをみると、さては、あんた知ってるんだね、この人が誰の子か……」
「私が誰の子かって……」
三千代は和子をふりかえった。
「それどういう意味なの、和子さん……」
「あんたじゃないわよ、あんたのおっ母さんよ」
菊竜がおかしそうに三千代の顔をのぞき込んだ。
「よせよ、菊竜……」
口では止めているくせに、大原も結構興味深げな顔つきで三千代を見ている。
「言わぬが花だよ、今更そんなことどうだっていいじゃないか」
「いいじゃないの、事実なんだもの……ね、三千代さん、教えてあげましょうか、あんたのおっ母さんの秘密……」
「菊竜さんッ……」
和子があわてて制したときはすでに遅く、
「あんたのおっ母さんはね、ずっと昔、尾形が若い時分に、同じ職場の若い女事務員に手をつけて生ませた子なのよ」
南部斉五郎が三千代のためを思い、長い間隠しつづけて来たことを、ほんの一瞬のうちに喋《しや》べってしまった。
「そんな……」
三千代の表情に、かすかな不安の影がさした。
「尾形はね、あんたが二つか三つになった頃、そこに居る和子さんのお母さんとの縁談がおこって、女と子供を捨てたのよ……女は子供を道連れに心中をはかったの……でもね、子供だけが生き残り、その子を南部さんとかいう尾形の友だちが引取って、北海道とかへ行ったんだそうよ……それがね、あんたのおっ母さん……だからね、歳はいくらも違わないけど、和子さんや私は、あんたの叔母さんってことになるのよ……」
「まさか、そんな……そんな馬鹿な……」
三千代は吐きだすように呟《つぶや》いた。しかし、心の動揺は覆うべくもない。
すがりつくような眼差しを和子に向けた。
「ね、和子さん、嘘《うそ》よね、嘘にきまっているわよね」
「ええ……」
頷《うなず》きながら、和子はふっと眼をそらした。
「和子さん……」
三千代は食い入るように和子をみつめた。
「三千代さん、あなたのお母さんは南部斉五郎さんの子だ、あなたは南部の親父さんの孫だ……そうにきまっているじゃないですか……こんな酔っ払いどもの言葉に耳を貸してはいけません……」
そんな伊東の忠告もまるで聞えないらしく、三千代は身じろぎもしなかった。
「ねえ、和子さん、本当なの……?」
「それはね……いろいろ事情があるらしいんだけど……」
和子の眼は、明かに狼狽《ろうばい》していた。
「やっぱり……本当なのね……」
咽喉《のど》にからんだような声で三千代が言った。
「みんな私に、嘘をついていたのね……」
顔をこわばらせて立ち上った。
「三千代さんッ……」
和子の声をふり切るように、三千代は走り去った。
その翌日から、三千代は南部斉五郎の家から姿を消した。
彼女がのこした書置きには、昨夜の事柄を述べ、最後に、決して不心得な真似《まね》はしないから心配しないでください、当分好きなように暮してみたいのです、気持が落着いたら必ず帰ります。とあった。
この手紙を見た南部斉五郎は、直ちに、八方手をつくして三千代の行方をたずねたが、何処《どこ》へ行ってしまったものか、その姿は杳《よう》として知れなかった。