26
昭和六年春。
有里は尾鷲の実家から、兄の勇介の結婚の知らせで、二度目の帰郷をすることになった。
勇介の結婚の相手は、村会議員浦辺友之助の娘幸子である。
今度は雄一郎の休暇がどうしてもとれず、有里一人が秀夫を連れて出掛けることになった。
最初から覚悟はして出発したものの、釧路から尾鷲への旅は長かった。
困ったのは、この前の里帰りの時は、車中で眠ってばかりいた秀夫が、なまじっかものが分りかけて来ているだけに、列車の中で少しもじっとしていないことであった。
知恵のつく盛りの年頃である、見るもの聞くものが珍しく、そのため、かなり興奮したのも又、止むを得ないことであった。
上野から東京駅へ行き、待望の特急列車『つばめ』に乗り継いで間もなく、有里は秀夫が急にぐったりしたのに気がついた。
額に手をあててみると、はっとするほどの熱である。
有里はうろたえた。
折りよく通りかかった車掌に事情を説明すると、
「そうですな……あと一時間ほどで静岡ですが……そうだ、少々お待ちください」
なにか心当りがあるらしく、大股《おおまた》に立ち去った。
間もなく、車掌は二名の医師を伴って帰って来た。
「こちらは小児科のお医者さんだそうです……あなた本当に運が良かったですよ、ちょうど大阪にお医者さんの学会がありましてね、この列車にはお医者さんが大勢乗っていらっしゃったんです」
「まあ、そうでしたの……」
有里はほっとした。
その間にも、二人の医師はてきぱきと秀夫の診察をつづけた。
「いかがでしょうか?」
「そう……だいじょうぶ、ご心配いりませんよ、きっとただの疲労ですな、悪性のものじゃないらしいです」
「ありがとうございました……ほんとにお蔭さまで……」
「じゃ、すぐ薬を届けますが、しばらく様子をみましょう……なにかあったら、この二つ先の客車《はこ》ですから、声をかけてください。もう三十分もしたら、もう一度診に来ます……」
二人の医師は去った。
走行中の列車の中で、一時はどうなることかと思った有里も、これでようやく胸をなでおろした。
それにしても、学会へ出席する医師が大勢乗車していたことは幸運だったが、それを咄嗟《とつさ》に思い出して、機敏な処置をとってくれた車掌には、それこそいくら礼を言っても言い足りぬ気持だった。
有里はすぐ夫のことを思い出した。
夫が同じ車掌という職業にあることが、なんだか嬉しく、誇らしい気持でさえあった。
医師から貰《もら》った薬をのませ、一時間もすると、秀夫の熱は嘘のように下ってくれた。名古屋までを、ぐっすり睡《ねむ》った秀夫は眼が覚めたとき、すっかりいつもの腕白坊主《わんぱくぼうず》に戻っていた。
名古屋で下車する有里たち母子に、親切な医者のグループは窓から手を振って別れを告げた。
そこから亀山へ、亀山から鳥羽へと秀夫は元気よく旅を続けた。
なつかしい尾鷲の港へ到着したのは、翌日の朝であった。
尾鷲の実家へ落着いて、有里は兄の勇介が今度の自分の結婚を、きわめてつつましく行なおうとしていることにすぐ気がついた。
披露宴もごく内輪にと考えているらしく、次々にやってくる祝い客にも、叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》して祝いものを辞退してしまう。そんな兄の姿に、有里はふと眼頭を熱くした。
妹二人を嫁がせるまでは、辛《かろう》じて保っていた中里家の体面を、今、かなぐり捨てようとしている兄の姿勢に、母にも妹たちにも知らせず、たった一人、中里家のたて直しに苦闘して来た男のかなしみがこもっているようであった。
しかし、こうした勇介のやり方に弘子は真向から反対した。
「とにかく、中里家の長男として、あんまりみっともないことはせんどいて欲しいわ、うちの人にだって、恥しゅうて顔もよう見られんわ……」
勇介がまるで取りあわないと知ると、今度は母のみちに訴えた。
「ねえ、お母はん……お母はんから兄さんによう言うて欲しいねん、たまさかに家へ帰って、実家の貧乏たらしいの見せつけられるのはほんまにかなわんわ……」
「そないなこと言うたかて、あんたを嫁に出したのが精一杯のところやったでなあ……勇介かて、なにも好きこのんで質素な式をあげるわけやないで……」
最近ようやく家の内情がわかりかけてきたみちとしては、弘子の言葉にもすぐは頷《うなず》かなかった。
「そやかて、お母はん、家が左前の時ほど、こういうことは派手にするもんよ、けちなことしとったら、家が潰《つぶ》れかけているのを、世間に対して自分の口から吹聴してるようなもんやないか」
「そらまあそうやけども……」
「でもねえお姉さん……お姉さんの言うのもよくわかりますけど……兄さんかていろいろ考えたすえ、ようやく結婚に踏み切ったんよ。今度は兄さんの思い通りにさせてあげたほうがいいと思うけど……なまじっか口出ししても、兄さんには何んのお役にも立たんのやし……」
有里は自分の気持を正直に言った。
弘子はそれを聞くと、明らかに軽蔑《けいべつ》の色をその表情に浮かべた。
「そら、あんたはもともと貧乏鉄道員の家へ嫁入ったのやさかい、見栄も体裁もあろう筈はないけど、うちらはそうは行かへん……うちかてあの人の手前、きまりが悪いわ。仮にも浦辺はんとこの幸子はんと結婚するいうのに、内輪だけなんて、そんなみっともない……」
(みっともない……?)
有里は唖然《あぜん》とした。
姉の気持がわからぬではなかったが、それとは別に、有里には、結婚して夫婦でありながら、お互いに見栄や体裁をそれほど重く考えねばならない姉の立場が気の毒でならなかった。
嫁に行った先で、弘子がどれほど背のびして暮しているかが眼に見えるようだった。
(私はそれにくらべれば、貧乏こそしているが仕合せだ……)
と、ふと思う。
貧乏世帯のやりくりは、毎日毎日が精一杯で、見栄も外聞もあったものではない。
結婚の夜、夫婦の間で隠し事はよそうな、と誓ってくれた夫の顔を、有里は今更のように懐しく思い出していた。
中里勇介の結婚は、彼の意志通り、尾鷲一の旧家にしては異例なほど、つつましく、内輪に行なわれた。
披露の終った翌日から、嫁の幸子は台所へ下りて甲斐甲斐《かいがい》しく働いていたし、勇介も普段とまったく変りなく仕事をはじめている。
大阪からやって来た弘子夫婦は、早々に帰って行ったし、有里も釧路へ帰る仕度をはじめた。
「なにも大阪が帰ったかて、お前までがそないに慌《あわ》てて帰らんでもええやないか……この前の時は、雄一郎はんの休みが少なかったさかい、ろくな話も出来んかったし……」
みちがいくら引き止めても、有里は、
「どうしても留守が気になって……だって一人っきりで置いてきてしまったんですもん」
滞在期間を延ばすことに同意しなかった。
「そやかて、お隣りが親切にしてくれているちゅう話やったやないか……三度の食事はそのお方たちがやってくださるから、心配せんでええって……」
「そりゃ、そうなんですけどね……やっぱり……」
「遠い所をわざわざ来たんやし、今度は又、いつ帰って来れるかわからんのやろ……」
「ええ……」
「それやったら、せめて二、三日……お前と秀夫と三人して、勝浦の温泉でも行こう思って楽しみにしてたんやし……」
「そんなこといったって……兄さん達が新婚旅行にも行かずにけっぱってなさるのに……」
「なんやね、その……けっぱるちゅうのん……」
「あら……」
有里は思わず笑いだした。
「いやだ、ついうっかり……けっぱるっていうのはね、北海道の言葉なのよ……頑張《がんば》るっていうような意味で使うの……」
「ほう……お前も嫁に行った先の言葉が出るようになれば、一人前や……」
みちは嬉しそうに眼を細めた。
いくら反対した結婚でも、娘が嫁入り先にどっかりと腰をすえてくれたほうが、母親としては安心なのである。
翌日、有里は秀夫を連れ、みちと勇介夫婦に見送られて尾鷲を発った。