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有里と秀夫が尾鷲から戻り、親子三人の平穏な日々が続くかに見えた雄一郎にとって、この年、昭和六年五月の減俸騒動は、まさに青天の霹靂《へきれき》にも似ていた。
減俸騒動というのは、時の若槻《わかつき》内閣が官吏たちの給料を値下げすることで、国の赤字財政から約一千万円を浮かそうとしたのに対し、鉄道員たちが団結して反対したことをいう。
新聞の発表によると、まず内閣総理大臣は年俸一万二千円を一万円に引下げ、各省大臣は八千円を七千円、枢密院議長の七千五百円を六千五百円、局長クラス五千二百円を四千五百円などからはじまって、下は月給百六十円のものなら百五十円、百円の者なら九十五円というように、月給五十五円の者まで四分から二分の切り下げを行なうものであった。
鉄道員には月給百円以下の下級官吏が非常に多い、現場で働いている人間の大半がそうであった。月給五十五円で親子五人暮しなども珍しくない、ただでさえ軽い財布から五円もさし引かれるとあって、大さわぎになりだした。
減俸反対の運動は、たちまち全国の鉄道員の間にひろがり、もし月給を下げたら辞職するということで、北海道の雄一郎や良平までが辞職願いを書いて上司に預けた。
有里や千枝たち、鉄道員の妻たちの不安は大変なものだった。夫は勝手に辞職だ退職だと騒いでいるが、もし本当に辞職するようなことになったら、すぐ生活に影響する。おまけに、各地で警官の干渉がはじまり、検挙者もかなり出たらしいという噂《うわさ》もあった。
しかし、結局大事には至らず、五月十九日に始った減俸騒動は、二十一万六千人の鉄道員総辞職という危機をはらんで、遂に二十五日夜、鉄道大臣江木|翼《たすく》と、四人の鉄道側を代表する統制委員の間で、最終的な妥協案にこぎつけた。
それは、退職金は従来通り、諸給与も減額しない、積極的な人員整理もしないなどで、平山孝、江口|胤顕《たねあき》、片岡|謌郎《うたお》、河崎精一ら統制委員は、これに、百円以下は減俸しないことをつけ加えて、減俸運動、同盟罷業はとり止めることを約束したのだった。
雄一郎や良平たちはもとより、一番ほっとしたのは有里や千枝たちだった。
この年の九月一日に、清水トンネルの工事が完成し、上越線が全通するという明るいニュースがあった。
同じ九月十日には、春の減俸騒動で疲れきった、鉄道大臣江木翼が退職し、拓務大臣の原脩次郎が後任にきまった。
そして九月十九日、号外の鈴の音は、満州で日本と中国の軍隊が激突し、戦闘が開始されたことを告げた。
いよいよ日本が、あの果てし無い戦争の泥沼の中にはまり込んでいく序曲がはじまったのである。
しかし、そうはいっても、日本の国内はまだまだ平和そのものだった。
そんな頃の或る日、庭で有里が着物の洗い張りをしているところへ、大きな鞄《かばん》を下げた尾鷲のみちがひょっこり顔を見せた。
「あら、お母さん……」
あまり突然なので、すぐには声も出なかった。それでも、ようやく、
「電報うってくれれば迎えに行ったのに……いったいどうしたん……?」
と言った。
「それがな……ちょっとあんたや秀夫の顔が見とうなったんや……」
「だって、あんまり急でないの……」
「う、うん……それはそうやが……」
みちはどういうわけか、そわそわしていた。
「北海道は二度目やさかい、案外すらすらと来てしもうたんや……雄一郎はんは……?」
庭先から部屋の中をのぞいた。
「勤務中よ、まあ、上って……さあ……」
有里はみちの荷物を取り上げて、家の中へ早く上るよう促した。
「へえ……これが鉄道員さんの官舎かね、まるで昔の三軒長屋やないか」
「見かけよりはずっと住み心持がいいのよ、小ぢんまりとよくまとまっているから……」
「そうかのう……なんやこう猫の額みたようにせせこましい気イがするが……」
「尾鷲の家が広すぎるのよ、兄さんたち変りない?」
「ああ……」
みちの返事がちょっと曖昧《あいまい》だった。すぐ話をそらすかのように、
「秀夫は?」
と逆にきいた。
「お隣りの子供さんと近所へ遊びに行ってるの」
「そんなことさせて、大丈夫かいな、一人で外へ手放すなんて……」
「大丈夫……大きい人がついてるし、あの子、用心深くて危いことはしないほうなの……幸子さんどう、もうすっかり馴《な》れたでしょうね……そうそう、もう幸子さんでなくお姉さんと呼ばなくてはね……」
「あんた、この頃、浦辺はんとこの公一はんに逢《お》うたか?」
「いいえ、だって札幌と釧路ですもの……公一さん、大学へ残って勉強してなさるそうよ、獣医さんになるんですって……」
「はあ……」
有里は、今度も母が話題を変えたことに気がついていた。
(きっと尾鷲の家で何かあったんだわ……)
すぐそう感じたが、それは表情には出さなかった。
「でもまあ、ほんとにいい時に来て下さったわ、北海道はこれからがいいのよ、紅葉がまっ赤で……それでいて寒くもなし、暑くもなし……この前来たのは何月だったかしら……」
「あれは……十一月の末やったな……」
「今度は何日ぐらい泊っていけるの」
「そう……何日ぐらいちゅうてもなあ……」
「折角遠いところを来たのだから、ゆっくりしていらっしゃいよ、どっちみち、ご隠居さんで暇なんでしょう」
「別に、暇っちゅうこともないけど……」
そういいながら、みちはどっこいしょと立ち上り、有里が放り出しておいた襷《たすき》を取っていきなり庭へ出た。
「ここにあるの、はり板へはってもええのやろ」
「ええ、でもいいのよ、お母さんは疲れているんだから、ゆっくり休んでいて……」
「なに、どうせ手があいているんやから……」
みちはさっさと布をはり板へ張りはじめた。
「これ、あんたの袷《あわせ》やったなあ、縫い直しかの?」
「ええ、あんまりよく着たもんだから、少し膝《ひざ》が出てしまってね」
「ほう、こらえらいわ、こんなになる前に洗い張りせなあかんよ」
「ええ……」
有里はあっけにとられてみちの仕事ぶりを眺めていた。
普段、こんなことは女中にまかせ、自分ではめったにやったことがない。何故そうするのか、有里は首をかしげた。
翌朝も、六時起きで、みちは外の道の掃除をはじめた。尾鷲では、割合寝坊の方なのである。
しかし、掃除どころか、その次は、みちは雄一郎の靴を磨きはじめた。
有里も雄一郎もそのことに気がつかなかったが、ちょうどそこへ、隣りの岡井よし子が醤油《しようゆ》を借りに来て、玄関先で大声を張り上げた。
「あれ、あれ……室伏さん、駄目だねえ、遠いところからはるばるみえたというお母さんに掃除だの靴磨きなんどさせてえ……親にこんなことさせたら罰が当るよう……」
岡井夫人には、今朝家の前で有里がみちを紹介してあった。
「そんでも、まあ、よく気のつきなさるお母さんだこと……」
よし子はひどく感心している。
みちのほうがかえって照れて、
「いえ、ちょっと運動せんと、御膳《ごぜん》がよう頂けんでのう……」
と弁解した。
いずれにしても、このみちの働きぶりは少し異常だった。
だが、その理由もやがて判った。
尾鷲の中里勇介から速達が来たのである。
それによると、みちは嫁の幸子と近頃折合が悪く、その日も無断で家を出てしまったのだそうだ。どうせ行先は釧路と見当をつけているが、もしそちらに行っていたら、なんとかうまくこちらへ戻るよう説得して欲しいと書いてあった。
その話を有里から聞いた雄一郎は、
「なにしろ、嫁と姑《しゆうとめ》の関係っていうものはむずかしいもんだそうだからな……」
もて余したような苦笑を浮かべた。
「直接のきっかけは、兄が中里家の経済を母から取り上げて、幸子さんにまかせようとしたことらしいんです……兄にしてみれば、結婚してもまだ母に財布を握られていては、なにかとやりにくいのだろうし、逆に母としてみれば二人に邪魔にされたと感じてしまったらしいのね……」
「なるほど……それでか……」
彼にもみちの不可解な行動の意味がのみこめたらしかった。
「だけど、兄も幸子さんも、母が家を出てしまったことをとても苦にしているらしいのよ……それにね、母ったら、中里家の実印を持ち出しているらしいの……」
「実印……?」
「ええ……」
「そりゃあ、実印がなくては、兄さん困っとられるだろう……」
「やっぱり私から母に、帰るように言ったほうがいいかしら……」
「しかしなあ……」
雄一郎は眉《まゆ》を寄せた。
「うっかりお母さんが臍《へそ》を曲げて、この家から他所《よそ》へとび出されては俺たちも困るし、そのまま尾鷲へ帰るかどうかもわからんじゃないか……」
「それが一番心配なの……母にも体面というものがあるだろうと思うしねえ……かといって、いつまでも家に居られても困るのよ」
「俺はかまわんよ、気持が落着くまで、もう少しそっとしておいてあげたらどうなんだ」
「でも、母ったらあなたの身の回りのこと、世話をやきすぎるのよ、私のすること、みんなしてしまうんですもの……あなただって、母とばかり喋《しやべ》っていて、近頃、私には知らん顔でしょう」
「馬鹿、お前のお袋さんだから、なるたけ話相手になってるんだぞ、それを文句言われちゃ立つ瀬がないぞ」
「あら……」
有里がやっと気がついたらしく首をすくめた。
「馬鹿……お袋さんを妬《や》くやつがあるか」
雄一郎に笑われて、有里は頬《ほお》を染めた。