29
有里はこの事件を、小樽から戻った翌日知った。
みちは例によって、
「そら、たしかに洗濯物を落したんは悪いかもしれん、けど、なにもわざとしたわけやなし、小さな子供のそそうやないの、それをねちねちといやらしい……こっちは洗い直しさせてもらいますと、詫びているのに、ほんまに好かん……」
被害者はむしろ自分だと言いたげな口ぶりである。
「そりゃあねえ、お母さんは好かんですむかもしれないけれど、私たちは隣りに住んでいるんですからね……」
そんな有里の言葉には耳もかさず、
「かまへん、顔合せたら、そっぽ向いとればええやないか、あんたかてちっともびくびくすることあらへん、こっちが間違ごうとるんやないさかいにな、そうやろ……」
と、まるで強気だった。
結局、いつでも詫《わ》びて回るのは有里の役目である。
困ったことだとは思いながら、やはり血の続いた仲であってみれば、つい人情で母親をかばってしまう。
桜川夫人からは、子供の教育に悪いとはっきり言われるし、有里は途方にくれてしまった。
といって、この年老いて愚痴《ぐち》っぽくなっている母を、素気《そつけ》なく尾鷲へ追い返すのも本意ではなかった。
それから二、三日たったある晩、なんだか秀夫が元気がないようなので、額にさわってみたが別段熱もない。はなも咳《せき》も出ていないので、昼間の遊び疲れかなにかだろうと気楽に考えていたら、
「どないしたん、秀夫……」
早速、みちが騒ぎだした。
「なんだか元気がないんだけど……別に熱もないようだから……」
「いいや、子供の病気は気イつけなあかん、勝負が早いよってな……」
おぶって寝かそうとしている有里の背中から無理に秀夫をおろして、額にさわったり、口をあけさせたりしている。
「だいじょうぶよ、お母さん……」
「こりゃ一遍お医者さんへ連れて行ったほうがいいかもしれんよ」
「でも、熱もないのに……」
有里は心中おだやかでないものを感じていた。夫とも相談して、秀夫をなるべくたくましく育てたいと思っていたし、このところ、みちのお蔭で、秀夫が少し我儘《わがまま》になっていると他人から指摘され、有里もそう考えていたからである。
「子供の病気は熱がのうても油断はできん……どうも様子がおかしいで……」
みちがそういうと、すぐそれにつられて、秀夫がメソメソしはじめた。
「いつもの我儘ですよ、睡《ねむ》くなると愚図るのよ」
「いいや……有里、ちょっと秀夫を私におぶわせてんか……」
「お母さん……」
「早よせんか……」
みちはさっさと秀夫を背負うと、
「ほなら、ちょっと行ってくるわ……」
そそくさと外へ出て行ってしまった。
このところ毎度のことながら、有里は主婦の座を母に侵害されたような気がして不愉快だった。
(やっぱり尾鷲へ帰ってもらおう……)
有里はやっと心を決めた。
ところが、それから約一時間ほどして隣りの桜川家へかかって来たみちの電話で、そんな決心はたちまち影も形も残さず吹っ飛んでしまった。
「有里、大変やッ、秀夫はひょっとすると疫痢《えきり》やて……」
「えッ、疫痢……」
「とにかく、すぐ来てんか……もし雄一郎はんに連絡つくようやったら連絡してな、駅前の木下病院やさかい、早く……」
「は、はいッ……」
有里は驚きのあまり、声も出なかった。
疫痢の恐しさは、有里も充分すぎるほど知っている。この付近でも、夏になると何人もの幼い命が疫痢によって奪われていた。
この病気にかかると、昼間ぴんぴんしていた子供が夕方ごろから様子がおかしくなり、その晩息を引きとるといったことが稀《まれ》ではないと聞いている。
有里は眼の前が急に暗くなるような気がした。
みちは桜川家とのいきさつなど考える隙《ひま》もなく、電話をかけてきたのであろう。
有里は詰所に雄一郎の連絡を頼んで、取るものも取りあえず木下病院へ駆けつけた。
医者は、疫痢は伝染病だから避病院へ移さなくてはと言った。むろん、秀夫は重態である。
「移せるんですか、こんな状態で……移しても大丈夫なんですか……?」
「さあ、それは問題じゃが……」
医者は言葉をにごした。
すると、有里より先にみちが横から飛び出して、医者の白衣にしがみついた。
「先生、お願いです、避病院などに移さんでください……あんな容態のもん、避病院へ移したら助るもんも助りやしまへん、先生、助けておくれやす……どうか、秀夫を助けておくれやす……」
恥も外聞もない、一途なみちの頼みに医師も心を動かされたらしい、結局、秀夫は大腸カタルの名目で、そのまま木下病院に入院した。
駅からの連絡で、雄一郎が木下病院に駆けつけたときは、そうした手続きの一切がすんだあとであった。
しかし、秀夫の容態はきわめて悪く、ずっと昏睡《こんすい》状態が続いた。みちも有里も、病室に泊り込んだ。雄一郎は一日だけ、乗務を交替してもらった。
二日目の夜、みちは雄一郎夫婦を廊下へ連れだした。
「あんたら、これから家へ帰りなさい、明日おつとめがあるさかい、そう幾晩も病院で徹夜したらあかん、あとは私が責任もって看病するさかい」
と、みちは言った。
「大丈夫ですよ、一晩や二晩の徹夜くらいなんでもありません、なれてますから……」
「あきまへん……」
みちはきっぱりと言った。
「あんた、鉄道員やおへんか、鉄道員いうたら、人様の大事な命を預かる大事な仕事や……人間はなま身やさかい、一晩でも寝なんだら、それだけ神経も疲れる、無理をして万が一のことがあったらどないするねん」
「お母さん……」
雄一郎は返す言葉がなかった。
「有里、あんたもや、秀夫のことは私がついとる、年はとっても三人の子を育てたんや、看病やったらお前なんぞにひけはとらん……それより、雄一郎はんにあったかい味噌汁《みそしる》でも飲ませて、元気よう送り出してやりい、それがあんたのおつとめやで……」
「でも……」
有里はさすがにためらった。
「心配せんでもええ、うちが命にかえても、秀夫は殺さへんッ……」
「お母さん……」
ちょうどその場へ来あわせた医者も、
「あんたら、お母さんの言う通りじゃ、何人ついとっても駄目なもんは駄目、助るもんは助る……あとは子供の生命力だけじゃ……さいわい手当が早かったで、もうめったなことは起らんじゃろう。それよりも、ゆっくり休んでお母さんと交替してあげなさい」
と自分の考えをのべた。
雄一郎と有里は、ひとまず家へ帰ることにした。が、有里はどうしても落つかない。秀夫のそばに居て、何もすることが無くても、やはりわが子の枕許《まくらもと》に坐《すわ》っていたかった。
夫の許しを得て、有里は再び病院へとってかえした。
秀夫の病室の前まで来て、有里はハッとした。部屋の中から、低くお題目を唱える声が聞えたからである。
有里はドアを細目にあけて、そっと中をのぞいた。
「どうか……どうか、お願い申します……婆アの命は只今《ただいま》すぐにでも差上げます、ですからどうか秀夫ばかりは……秀夫の命ばかりはお助けください……南無妙法蓮華経《なんみようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経……」
みちが両手を合せ、眼をつぶって一心不乱に祈る姿が見えた。有里にのぞかれていることも、みちはまるで気づかなかった。たぶん、有里が大きな物音をたてたとしても、みちには聞えなかったことであろう。それほど心をこめて、みちは秀夫の病気平癒を神に祈りつづけていた。
そうしたみちの心が神に通じたものか、一時は医者も匙《さじ》を投げた秀夫の容態が、三日目の夜、奇蹟的にもちなおし、秀夫はようやく昏睡《こんすい》からさめた。
「こりゃア助かるかもしれん……」
気安めでなく、はじめて医者が言い、雄一郎も有里もその言葉にしがみついた。
その間も、みちは秀夫の枕許から殆《ほとん》ど離れなかった。夜もまるで寝ない。食事も細く、それでいて、気力だけは鬼のようにしゃんとしていた。
もともと我儘なお嬢さん育ちで、言い出したらきかない気の強さも、人と妥協しにくいかたくなさもけろりと影をひそめて、今、みちを包んでいるのは、初孫の生死にただ無我夢中になっている極めて単純な祖母としての姿であった。
ひょっとしたらみちは、ベッドの上の秀夫と一緒になって、死と戦っているのではないかと思われた。
秀夫が苦しさのあまり呻《うめ》き声をあげるとき、みちの顔に脂汗が滲《にじ》んだ。どんな夜中でも、みちは秀夫のちょっとした体の動き、容態の変化をも見逃さなかった。
秀夫が身動きしただけで、みちの神経はまるで針ねずみのようにふくれ上るかのようだった。
そんなみちの看護ぶりに、有里は一途なみちの愛をみる思いがした。
このことは、有里や雄一郎が別段吹聴したわけではないのに、案外早く隣近所の者の知るところとなったらしく、みちとはあんなに仲の悪かった岡井よし子までが、わざわざ有里のところへやって来て、
「お母さん、よくやりなさるってね……入院してから一晩も寝てないんだって、うちの人がどっからか聞いて来て話してくれたのよ。普段はさア、あんたの前だが、ずいぶん気むずかしい人だと思っとったけどオ……今度という今度はすっかり見直しちまったよ……」
と眼をまるくして言った。
「ええ、秀夫の命が助かったのは、もちろんお医者さんのお蔭ですが、母の力もずいぶんあったと思うんです……本当に今度ばかりは母を有難いと思いました……」
「そういうものだよ、母親ってものは……なんのかんのと言っても、やっぱりいいもんだよねえ……」
よし子はこのあいだのいざこざなどすっかり忘れてしまったらしく、みちのことを褒《ほ》め上げて帰って行った。
ところが、続いて、民子までがやって来た。
「どう、秀夫ちゃん……?」
「ありがとうございます……どうにか命はとりとめたとお医者さんが……」
「よかったわねえ、あなた方も、そりゃ、ほっとなすったでしょう……これね、タマゴなんですけど、秀夫ちゃんに食べさせて下さいな、ほんの少しだけどね」
「まあ、それはどうも、ありがとうございます」
有里は、民子の好意の品を有難く頂戴《ちようだい》した。
すると、今度は、民子がひどく改まった表情になった。
「あの……お母さん、つきっきりだそうだけど、大事になさるように言ってくださいよ、秀夫ちゃんが癒っても、お母さんが倒れなすったら、なんにもなりませんからねえ……」
「はい……」
有里は思わず民子の顔を見た。
まさか民子がそんな事を言うとは、夢にも思わなかったからである。
有里にみつめられると、民子は急にそわそわ落つかなくなった。
「それじゃ、ごめんなさいよ」
早々に帰って行った。
その後姿を眺めながら、有里は涙が出るほど嬉《うれ》しかった。母が褒められたからばかりではない、近所の人たちの親切心と思いやり、それに、つまらぬ感情にこだわらぬ善良さが嬉しかった。
(みんな、なんていい人たちなんだろう……)
有里の胸に、熱いものが次々とこみ上げてきた。