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入院十四日目に、秀夫はみちの背におぶわれて家へ帰った。
当分は家で静養ということだったが、当の秀夫はもちろん、みちの喜びようは、文字通り手の舞い足の踏むところを知らずといった有様であった。
そして、小樽の良平から、千枝が男子を安産したとの知らせが届いたのは、秀夫の退院後六日目の朝だった。
有里は秀夫を母にゆだねて、一人、釧路を小樽へ発った。
岡本家の長男の名前はすでに良平が苦心に苦心を重ねて、辨吉とつけていた。男の子だから、将来強い人間になってもらいたいと、武蔵坊辨慶の辨と西郷隆盛の幼名、吉之助の吉をとったのだそうだ。
「なんだか駅辨みたいな名だ……」
と千枝は不服そうだったが、有里が、
「立派な名前ね」
といったので機嫌を直したようだった。
ところがこの有里の留守中、釧路ではたいへんなことが起っていたのだ。
尾鷲の幸子からの電報で、勇介が警察へ検挙されたというのである。
みちは色を失った。
もはや嫁とのいざこざも、家へ帰ることへの気がねもどこかへ吹っ飛んでしまった。
その夜の列車で、みちはとび立つように尾鷲へ帰って行った。
むろん雄一郎からの連絡で、有里が直ちに帰宅し、秀夫の面倒をみられるということを何度もたしかめてからのことである。
北海道から尾鷲まで、列車を乗り継ぎ乗り継ぎ、みちは天翔《あまか》ける思いで我が家へ急いだ。
出来るだけ早く尾鷲へ着くため、いつもの鳥羽から船に乗るコースをやめて、紀勢本線を紀伊長島まで行った。
ちょうど前の年の昭和五年四月に、紀伊長島駅までが開通し、更に次の大内山駅へむけて工事が進行中であった。
紀伊長島からは材木を運ぶ馬車に乗せてもらった。
(いったいなんで、警察になんぞ挙《あ》げられたんやろう……人様の物に手をつけるようなそんな子やなし……)
もう、なりふりとか体裁をかまっている余裕はなかった。
(もしかしたら、商売上のことで何か……)
十二月の肌寒い季節なのに、みちは額に汗をにじませ、ショールを肩に巻くことすら忘れていた。
みちが尾鷲へ着いたのは、中里家が刑事たちによって家宅捜索された直後だった。
ちょうど門から、刑事たちがどやどやと出てくるのと、みちを乗せた人力車が停《とま》ったのとほとんど同時だった。
刑事たちのうしろから、おびえたような顔つきでついて来た幸子がみちを見つけて声をあげた。
「あッ、お母はん……」
「幸子はん、これはいったいどういうことなんや……勇介が何をしたというのや……」
「それが、あの……」
幸子はちらと刑事たちの方を見やった。
「うちにもよう分りませんの……」
「なんや、あんたにも分らんて……」
みちは刑事たちの中に混って、顔見知りの駐在巡査のいることに気がついた。
「ちょっと、あんた、こっちへ来なはれ……」
みちは巡査を手まねきした。
「いったいこれは何んの真似《まね》やねん?」
「奥さん、それがな……実はえらいことやね、勇介はんが京都で検挙されてしもうてな……」
「勇介がなんぞ悪いことでもしましたかいの」
「それが……思想犯の疑いやそうな……」
「思想犯?」
「そうやがな、勇介はんがアカやというのやして……」
「阿呆《あほ》らし……」
みちは立ち止まっている刑事たちに聞かせるため、わざと吐きだすように言った。
「なんであの子がアカやね、駐在はんかてそのくらいのことすぐ分りそうなもんやないか、あの子に限ってそんなこと絶対にあらしまへん」
「そらまあそうなんやが……実はな、今月の半ばに、左翼の一味が京都刑務所を襲撃して、警官一名に重傷を負わせた事件があったんや……あんた知ってなさったかね」
「そんなもん、うちとなんの関係がありますかいな」
「いや……新聞に出とったの読まなんだかね」
「新聞は肩がこるさかい、よう読みまへん」
「そうかね」
駐在巡査はちょっと言い淀《よど》んだが、
「奥さん、勇介はんが捕ったのは、その京都の刑務所を襲った左翼の一味と一緒に居ったからなんや、これにはちゃんとした証拠もある」
と告げた。
「勇介が、犯人と一緒に居たんやて……そんな阿呆な……」
「そやかて、警察が逮捕に踏み込んだ時、その主謀者の下宿に居ったんや」
「それは違いますッ……」
これまでに、もう何度も繰返したらしい科白《せりふ》を、幸子は再び口にした。
「うちの人は商売の用事で京都へ行ったんです、そんな人などとなんの関係もありません、きっと何かの間違いです、お願いですから、うちの人を早く帰してください……」
「そんで、駐在はん、勇介はいったいなんと言うとりますね、自分はアカやと白状しましたんかいな」
「いや、息子はんの言うところによれば、一味の首謀者、水橋という男は学校時代の同輩で、たまたま町を歩いとって出逢うたため、懐しさのあまり、誘われるままにそ奴の下宿へ行ったところを警察に踏み込まれたと弁解しとるそうな……」
「それやったら、やっぱり勇介になんの罪もないやないか……そら巻きぞえや、あの子がアカやないことくらい、親の私が証明します、そら勇介の言うんが正しい、絶対に間違いや」
「まあ、わしらも勇介はんの人柄は知っとるで間違いやろうとは思うとるが……こうなった以上、当局のほうでも、一応は調べてみんことには裏づけがとれんでな……」
「だいたい、なんの罪もない者を牢へ入れるなんて、警察も少しそそっかし過ぎるやないか、中里家いうたらな、先祖代々、尾鷲一の名家や、その昔、かしこくも後鳥羽天皇様の熊野詣《くまのもうで》の御砌《おんみぎり》、お供をいたしたほどの家柄や……それを間違うて牢へ入れるなんて、あんたらも、余っ程の間抜けやないか」
感情が激してくると、みちは持ち前の気性がむくむくと頭をもたげだした。
「さあ、すぐ勇介を釈放しなはれ、すぐ牢屋から出しなはれ、さもないと、逆にあんたらを牢屋へぶち込んだるで……」
「お母さん……」
幸子があわててみちを押えた。
「まあ、間違いか間違いやないか調べればわかるこっちゃ、間違いやったらそのうち釈放されるやろ、いずれにしても、そんな場所に居ったんが身の不運や……」
刑事の一人が嘲笑《あざわら》うように言った。
「おい、行こう……」
他の刑事たちをうながして歩きだした。
「待ちッ、ちょっとあんたら、待ちいな」
みちが叫んだ。
「間違いやったらそのうち釈放されるとはなんという言葉や、そんな無責任なことってあるかいな」
「まあまあ……」
駐在所の巡査もみちをなだめた。
「今はあんまりそないに言わんほうがええ、わしからもあんじょう有利なように報告しておくさかい……」
「そんなのんびりしたこと言ってられますかいな、うち、これからすぐ京都へ行って来ます、行って勇介の身柄を引き取って来ます」
「お母はん、今日はお疲れやさかい、明日にしてください……」
幸子はあわててみちをとめた。
こんなに興奮しているみちを京都へやったら、それこそ帰れるものも帰れなくなってしまいそうだし、旅の疲労と気疲れで、きっと病気になってしまうことだろう。
「それがいい、それがいい、どうせ明日はわしも向うへ出掛ける用事があるさかい、なんなら一緒に行ってやるで……」
人のよさそうな老巡査も言葉をそえた。
が、結局、勇介はみちが京都へ押しかけるまでもなく、水橋らの証言で、彼が事件に無関係なことが立証され、無事尾鷲に戻ることが出来た。
「ほんまに阿呆《あほ》な子や、いい年して、友だちの下宿なんぞへのこのこついて行くさかいアカなんぞと間違われるんやし……」
「いや、まさか水橋がそんな大それたことをしていたなんて、夢にも思うとらなんだもので……久しぶりに逢うたんで懐しかったんや、それがこんなことになるとは……」
勇介は母と妻の前で笑いながら頭をかいた。
「だいたいあんたは、子供んときから田舎芝居《いなかしばい》の行列について行って迷子になったり、富山の薬売りのあとについて山一つむこうの村へ行ってしもうたり、どのくらい親に心配かけたか知れへん、ほんまに気イつけなあかんえ……」
みちには、いつまでたっても勇介が頼りなく見えるらしかった。妻の幸子までが、
「あんた、今度は何を言うてもあかんわ、こんなにお母はんにご心配おかけしてしもうたんやし……」
みちの味方をした。
「そらまあそうやな……ほんまに、えらいすみませんでした」
勇介は完全に兜《かぶと》を脱いだ恰好《かつこう》で頭をかいた。
しかし、この事件も満更《まんざら》悪いことばかりではなかった。
喧嘩《けんか》をしてとびだしただけに、すっかり戻りにくくなっていた尾鷲の家へ、みちは大手を振って帰ることが出来るという結果になったからである。
勇介も幸子も口には出さないが、そのことを心から喜んでいるようであった。