35
雄一郎夫婦にとって、奈津子を東京へ帰すことは、どうにも気がすすまなかった。
といって、生みの母親が返せといって来ているものを、返さずにおくわけにも行かなかった。
しかし、母親の瀬木千代子が自身で迎えに来たのならともかく、年端《としは》も行かぬ奈津子を一人で汽車に乗せて、東京まで返すことは、どうしても出来ないと有里は主張した。
結局、隣家の岡井亀吉が雄一郎の勤務時間とにらみ合せ、雄一郎が釧路から函館までを乗務する列車に奈津子を乗せ、雄一郎は函館で乗務を終り、そこからは休暇をもらって奈津子を東京まで送って行くことにした。
幸い、函館の車掌区に岡井亀吉の旧い友人が居り、事情をきいて協力してくれることになった。
朝の列車で、奈津子は釧路を発つことになった。
駅へは、有里と秀夫とそれに岡井よし子が送って行った。
別れ際に有里は、奈津子の手に一枚の葉書を握らせた。
「この葉書には、ちゃんと釧路の住所が書いてありますからね、もし何かあったら、この裏へ赤い丸を書いて、奈っちゃんの居る場所を仮名で書いてポストに入れるのよ。そしたら小母さん、なにをおいても奈っちゃんのところへとんで行きますからね、わかったわね……」
有里は昨夜、身を切られるような思いで、奈津子に自分が本当の母親でないことを話してきかせたのだった。
「体に気をつけるんだよ、ほらこれを持って行ってお食べ……一人で寂しいだろうが、車掌の小父さんが時々見にくるだろうからね」
よし子は茹《ゆ》で卵やチョコレートを入れた袋を奈津子の手に持たせた。
「途中で具合でも悪くなったら、すぐ車掌さんに言うのよ」
有里も重ねて言った。
「体に気をつけてね、小母さんはいつでも奈っちゃんが仕合せになるように祈っていますからね……」
奈津子が大きな瞳で、じっと有里を見つめた。
「小母さん……あたし……あたし、もう、小母さんに逢えないの……?」
「そんなことがあるもんですか……」
有里の胸に、不意に熱いものがこみ上げた。
「東京へ着いたら小父さんが奈っちゃんのお母さんとよく話して、年に一度くらいは北海道に来られるようにしてもらってあげるからね……」
「ほんと、お母さん……」
お母さんと呼んではいけないと有里に言われていたので奈津子はあわてて、
「小母さん……」
と言い直した。
「本当よ、奈っちゃんのほうから来られないときは、なんとかして逢いに行くから……元気を出して……病気なんかしないようにね……」
有里の声は途中からかすれた。
溢《あふ》れてきた涙を、あわててのみ込んで、有里は肩のショールをはずした。
「寒くなったら、これにくるまるのよ、いいわね……」
奈津子がこっくりと頷《うなず》いた。今度は秀夫に、
「秀ちゃん、さようなら……」
小声で言った。
釧路に居たわずかの間に、奈津子は秀夫の面倒を良く見た。本当の弟と思い込んでいたのか、釧路に置いてもらわないと困ると思ったのかは知らぬが、一度など、秀夫が近所の男の子たちにいじめられた時、身をもってかばって、彼等の袋叩《ふくろだた》きにあったこともあった。秀夫も、奈津子にはよくなついた。
「奈っちゃん……きっと、また来いよ……」
「うん……きっとね」
奈津子がはじめて嬉しそうに、にっこりした。
発車のベルが鳴り、いよいよ汽車が動きだしたとき、奈津子は窓から身をのりだして、
「お母さん……お母さん……お母さん……秀ちゃん……さよなら……」
と叫んだ。
午前中に釧路を発つと、函館到着は翌日の早朝である。
夜、雄一郎は何度となく奈津子の様子を見に行った。だが、そのたびに、有里のショールを抱きしめるようにして睡っている奈津子の姿を彼は見た。
函館では事情を聞いている車掌区の人たちが親切に雄一郎と奈津子を迎えてくれた。
雄一郎が乗務の引き継ぎをしている間、奈津子は函館従事員詰所のストーブのそばで、餅《もち》を焼いてもらって食べた。
雄一郎はここで勤務を終了し、午前九時二十分に函館を発つ青函連絡船に奈津子と共に乗り込んだ。
二人を乗せた列車は定刻通り、翌日の午前九時に上野駅に到着した。この列車に奈津子と雄一郎が乗っていることは、すでに有里が釧路で瀬木千代子に知らせてある。
雄一郎はホームに迎えに出ているはずの千代子の姿を探し求めた。
「どうだ、お母さん見つかったか?」
「ううん……」
「なにしろ、人が多いからな……」
雄一郎は窓から首を引っ込めた。
「とにかくホームへおりようか……」
その時、まだ母の姿を探していた奈津子が声を出した。
「あれッ……お店の小母さん……」
「なんだ、知ってる人が居たのか?」
雄一郎が再びのぞいた時は、既にそれらしい姿は雑沓《ざつとう》の中にまぎれて見えなかった。
「誰だい?」
「お母さんと同じお店で働いている小母さん……だけど、どんどん行っちゃった……」
「そうか、残念なことをしたな、その人に案内してもらえばよかった……」
「なんだか、こっちを見たら急にあわてて行っちゃったみたい……」
「ふうん」
結局、千代子は来ていなかった。
東京の地理に明るくない雄一郎は、止むなく駅長に相談することにした。例の奈津子の貼り紙の一件もあるので、その礼ものべたかった。
駅長は雄一郎の話を聞くと、すぐ佐伯という男を道案内につけてくれた。佐伯はずっと上野駅に勤務していて、この周辺の地理にくわしいという。
しかし、瀬木千代子の家を見つけるのに、思ったよりも時間がかかった。彼女の家がアパートで、駅の裏手のごみごみした場所にあったからである。
ドアを叩《たた》くと、寝巻に羽織をひっかけた千代子の青白い顔がのぞいた。
廊下に居るのが雄一郎だと知ると、すぐドアを開けて奈津子の姿を見つけ、不審そうに言った。
「あら、どうしたの、三千代さんと一緒じゃなかったの?」
「三千代さん……?」
雄一郎が聞きかえした。
「ええ、私がちょっと風邪をこじらせてしまったもので……お店のお友達にかわりに駅へ行ってもらったんですけれど」
「小母さん、来てたよ……だけど、いなくなっちゃったの」
奈津子が言った。
「変ね、どうしたのかしら……」
「ホームが混雑していたから、たぶん見つけそこなったんでしょう」
「ええ……」
千代子は奈津子の手を取った。
「どうぞお上りください……取りちらかしていますけど」
六畳一間という小さな部屋に、いままで千代子が寝ていたらしい布団《ふとん》が敷かれていた。それを手早く片附けて、千代子は両手をついた。
「このたびは、いろいろとご迷惑をおかけしまして……」
「いや、今度のことは奈っちゃんの思い違いでああいうことになったと思うんですが……わたしからも、家内からもよく言いきかせておきました……」
「申しわけございません……実は私のほうもあれから事情があって主人とも別れ、ずっと私が働いて、この子と二人の暮しを支えて来ましたので、いつもこの子には独りぼっちのさびしい思いをさせてまいりました。そんなこともいけなかったのだと思います……」
千代子は奈津子の手を取ると膝《ひざ》に抱き寄せた。
「奈津子、ごめんなさいね、母さんが悪かったのよ……でもね、あんたのお母さんは私なのよ、本当に私がお母さんなの……それだけは疑わないで……母さん、この上あんたに疑われたら、生きている甲斐もないわ……ね、奈津子……」
奈津子は黙って俯向《うつむ》いている。しかしその眼は、かならずしも有里に見せたような親しみのこもったものではなかった。
やがて、千代子は奈津子を連れて外へ出て行った。帰って来たときは千代子一人で、
「お待たせしました、奈津子、管理人さんのところへ預けて来ました。いつも、お店へ行くときそうしてるんです……」
と言った。
「でも、よかった……一時はどうなることかと思いましたよ……」
「いいえ、駄目です、あの子は私の言葉なんか信じちゃいません……私を本当の母親だなんて夢にも思っちゃいませんの」
「いや、そのことは私達もとっくり話しておきましたから……」
「いくらお話くださっても無駄ですわ、あの子、納得したんじゃありません、諦《あきら》めただけなんです……」
「諦める……?」
「あの子、そういう子ですわ、いつでも諦めて、何んにも言わないだけなんです」
「瀬木さん、今度のことで家内とも相談したんですが、もしあなたさえよかったら、時々奈っちゃんを遊びによこしてくれませんか、両方を行ったり来たりしているうちに、奈っちゃんにも次第に本当のことがのみ込めてくるだろうし……私たちにしても時折は奈っちゃんの顔を見たい、話し相手にもなってやりたいと思っています。私達で出来ることなら、なんでもお力になりたいと考えています……」
「ありがとうございます……でも、そのことでしたらきっぱりお断りします」
千代子は急にきびしい表情に変った。
「私、あの子をもう二度とあなたがたに逢わせたくございません、あの子はもともとあなた方が本当の両親と思い込んでいます。この上、あの子をあなた方に近づけたくないのです」
「しかし、わたし達は別に……」
「どうか、お引取り下さい。奈津子のことは母親の私がついて居ります。ご心配はご無用にねがいます……」
千代子はきっぱりと言い切った。
雄一郎は最初|唖然《あぜん》として千代子を見つめていた。まさかそんな言葉を千代子の口から聞くとは思わなかったのだ。しかし、すぐに平静に戻った。
「そうですか……」
ふっと息をはき出した。
「奈っちゃんのお母さんがそうおっしゃるんでしたら、止むを得ません」
「ご迷惑をかけながら、こんなことを申しますのは身勝手だと思っております。でも……私としましては、あの子に今更変な知恵をつけて頂きたくはございません」
「変な知恵?」
「とにかく、あの子は私の娘です。どんな苦労をしても、私はあの子を手放す意志はありません。奥様にもどうかそのようにおっしゃって下さいまし……」
「そうですか……しかし、それはあなたの誤解ですよ。私たち夫婦は、別に奈っちゃんをあなたから引き離そうとしているわけではないのです。ただ、純粋にあの子が可愛いので……止しましょう、何を言ってもあなたには分ってもらえそうもない……」
雄一郎は哀しそうに言うと、挨拶《あいさつ》もそこそこに立ち上った。
そのときドアの向う側で、人のぶつかるような鈍い音がした。
「誰……三千代さん……」
千代子が耳敏《みみさと》く聞きつけてドアを開けたが、廊下には誰も居なかった。
「三千代さん……といいましたね」
雄一郎はふと、妙な予感におそわれた。
「いくつくらいの人ですか」
「さあ、二十二、三ですかしらね、ひょっとするともう少し上かもしれませんよ……でも、何故?」
「いや、ちょっと探している人と名前が同じなんです……苗字《みようじ》は知りませんか」
「さあ……」
結局、千代子の書いてくれた地図をたよりに、雄一郎はその三千代という女のつとめている『みゆき』という小料理屋へ出掛けて行った。
『みゆき』はすぐに見つかった。店の前で水をまいている女に、三千代の名前を言ってたずねると、
「ちょっとお待ち下さい……」
女は奥へ引っ込んだが、かわって四十くらいの小ぶとりの女が出て来た。
「あたしが三千代ですけれど……」
その女が言った。
「えッ、あなたが……」
雄一郎は呆然《ぼうぜん》とした。
「ええ、斉藤三千代ですよ」
彼の知っている三千代とはまるで違っていた。
「瀬木千代子さんの友人の……?」
「そうですよ、何か御用ですか」
「すみません、人違いです……」
雄一郎は早々に『みゆき』を退散した。
しかし、本当は店の裏手にある女将の部屋に、南部斉五郎の孫娘の三千代がひっそり坐っていたのである。
女将の定子は戻ってくると、
「帰ったよ、うまいこといって追っぱらってやった……あたしが斉藤三千代だって言ってやったら、鳩《はと》が豆鉄砲《まめでつぽう》くったような顔をしてね……それにしても千代子さんから連絡があってよかったねえ……」
煙草に火をつけながら笑った。
「ええ……」
本物の三千代が頷いた。だが、雄一郎が立ち去ったと聞くと、
「もう、来ないでしょうか……」
視線をそらし、ぽつんと寂しげに呟《つぶや》いた。