「兄ちゃん、おやつ。」と、さけんで、三平が庭へ駆けこんでいきますと、
「馬鹿ッ。だまってろ。今、おれ、魔法を使ってるところなんだぞ。」
兄の善太が手を上げて、三平をとめました。
「魔法?」
三平は何のことだか解らず、ただびっくりしましたが、善太は大得意で、ひげをひねるような真似をして言いました。
「へん、魔法だぞう。」
「魔法って何さ。」
「魔法を知らないのかい。童話によく出てくるじゃあないか。魔法使いっていうのがあるだろう。人間を羊《ひつじ》にしたり、犬にしたり、それから自分で小鳥になったり、鷲《わし》になったりさ。鷲になるのいいなあ。飛行機のように空が飛べるんだ。」
「ふうん、それで兄ちゃん、今、鷲になるところなの。」
「そうじゃあないよ。まあ、いいから兄ちゃんが見てる方を見ていなさい。」
それで三平は黙って、日の静かに照っている庭の方を眺めました。そこにはけしの花が咲いていました。真紅な大きなけしの花。黄色な小さなけしの花。白い白いけしの花。何十と列んで咲いていました。
その花の上を一羽の蝶が飛んでいました。小さな、白い、五銭玉のような蝶々です。ひらひら、ひらひら。紅い花のまわりを飛んでいるかと思うと、もう白い花の上の方へ。黄色の花の中へもぐりこんだかと思うと、もう三メートルも四メートルも上の空へ舞い上り、ちらちら、ちらちら。今度は葉っぱの中へもぐりこんで、どことも知れず見えなくなってしまいます。しかし、またいつの間にか、どこからかしら舞い出て来るのでありました。
「兄ちゃん、もう魔法使ったの。」
また三平がききました。
「黙ってろ。」
そこで三平は目の前の蝶を眺めました。蝶は今けし坊主の上にとまっております。けしの花は美しくても、このけし坊主は気味の悪いものであります。まるで花の中に河童の子が立って列んでいるように思えます。その坊主の上で蝶々は羽根を開いたり閉じたりしていました。
そこで三平は顔を近よせて、その蝶の羽根を詳しく見ようとのぞきこみました。その羽根には不思議なことに、眉毛のついた、目のような模様が一つずつ奇麗についていました。
「兄ちゃん、蝶には羽根に目があるのね。」と、三平が言いました。
「馬鹿。蝶だって、目は頭についてるよ。」
「だってさ。」
そう言って、三平がもう一度顔を近よせようとしたとき、蝶はひらひらと舞い立って、三平の鼻や目の上を、その小さな翼でたたくようにして飛んでいきました。三平が口を開けていたら、その中へ入ってしまったかも分らないくらいでした。
三平は驚いて、顔をそむけ、手をあげて蝶をたたこうとしましたが、蝶はやはりひらひらひらひらと、見る間に空の上にのぼり、それからどことも知れず、見えなくなってしまいました。そのとき、はじめて、
「あああ、とうとう飛んでってしまった。」と善太が大息をついて言いました。しかし、それは何のことでしょう。三平は不思議でならず、また聞いてみました。
「今のが魔法なの。」
「そうさあ。」
「ふうん。」と言ったものの、やはり三平には分りません。
「どうして魔法なの。」
「分んない奴だなあ。」
そう言ってるところへ、またさっきの蝶が舞いもどって来ました。
「しッ。」と兄ちゃんが言いますので、三平はまた黙って蝶のとぶのを見ていました。すると蝶はまたけし坊主の上にとまりました。そこで三平はまた顔を近よせました。どこに魔法があるのか、よく見たいと思ったからであります。しかし蝶の方では見られては困るのか、羽根を急がしく開いたり閉じたりしたとおもうと、またひらひらと三平の顔とすれすれに空へ飛んでしまいました。すると善太が話し出しました。
「三平ちゃん、魔法教えてやらあ。」
「うんッ。」
三平は大喜びで、兄ちゃんの側へよって来ました。
「どうするの。」
「まあ、ききなさい。僕ね、さっきここへやって来るとね。けしの花がこんなにたくさん咲いてるだろう。これを見てると、何だか、こう魔法が使えそうな気がして来たんだよ。それでね、まず第一に蝶をここへ呼び寄せることにしたんだよ。ね、目をつぶってさ、蝶よ、来いって、口の内で言ったんだよ。それから、もういいかなあと思って、目をあけたら、ちゃんと蝶が来て花の上を飛んでんのさ。」
「ふうん。」
三平は感心してしまいました。
「そうかあ。それが魔法か、目をつぶって、蝶よ来いって言うんだね。なあんだ。僕んだって出来らあ。」
これを聞くと、善太が笑い出しました。
「駄目だい。三平ちゃんなんかに出来るかい。僕なんか、魔法の話をずいぶん読んでるんだもの。アラビヤン・ナイト、グリム童話集、アンデルセン、何十って知ってらあ。知っているから出来るんじゃあないか。三平ちゃんなんか、何も知らないんだろう。」
「いいや知らなくたっていいや。目をつぶって、言いさえすりゃいいんだもの。ようし、やろうッ。——小さい蝶々、もう一度出て来うい。来ないと、石ぶつけるぞう。」
「来るかい、そんなことで。蝶々、来ちゃ駄目だぞう。来たら、棒でたたき落すぞう。」
とうとう魔法の喧嘩《けんか》になって、二人でこんなことをさけび合いました。それから二人は、蝶が来るか来るかと待っていましたが、蝶は中々姿を見せません。ただ、けしの花ばかりが静かな日光の中に、美しく咲いているきりです。
「そうらね。兄ちゃんが言う通りだろう。魔法の蝶なんだもの、来るなって言ったら、どんなことがあっても来やしない。だって、あの蝶、人間がなってんだぞ。だから、人間の言葉が分るんだぞ。」
善太は得意になりましたが、三平はききません。
「嘘だい。蝶は毛虫がなるんじゃあないか。」
「嘘なもんか。そんなこと言うと、三平ちゃんだって、直ぐ蝶にしっちまうぞ。」
これを聞くと、三平がかえって喜んでしまいました。
「うん、蝶にしてよ。すぐしてよ。僕、蝶大好きなんだ。」
今度は善太の方で困ってしまいました。そこで言いました。
「だって、蝶んなったら、もう人間になれないんだぞ。」
「いいや。空が飛べるからいいや。」
「家になんぞ帰れないぞ。」
「いいや。飛んで帰ってしまうよ。」
「帰ったって駄目だ。蝶だもの。だれも相手にしてくれりゃしない。追い出せ、追い出せッて、たたき出してしまうさ。」
「いいや。いいから蝶にしてよ。すぐしてよ。」
三平がそう言って、善太の手を引張っているときでありました。垣根の外を一人の坊さんが通りかかりました。坊さんは黒い着物に黄色い袈裟《けさ》をかけていました。それを見ると、善太が小さい声で言いました。
「三平ちゃん、見な。あすこを坊さんがいくだろう。ね。あれを僕今、蝶にしてみせるから。」
「うん、すぐして。すぐしてみせてよ。」
「待ってろ。待ってろ。」
「ならないじゃあないか、兄ちゃん。早くしないと、あっちへいっちゃうじゃあないか。」
そう言ってる間に、坊さんは向うへいってしまいました。
「とうとう行っちゃッた。駄目だよ、兄ちゃんなんか。早くしないからいっちゃったじゃないか。僕、人間が蝶になるところが見たかったんだ。」
「だって、そりゃ駄目だ。あの人、蝶にするって言ったら怒っちまうだろう。だから、分らないようにして、やるんだ。どこにいたって出来るんだから、目の前にいない方がかえっていいんだよ。」
ちょうどそう言ってるところでした。一羽の黒|あげは《ヽヽヽ》がひらひらと風に乗って飛んで来ました。
「そうらあ、来た、来た。」
善太がそれを見て、大きな声を出しました。
「ね、これ、今の坊さんなんだよ。もう蝶になって飛んで来ちゃった。早いもんだ。」
これで三平も少し不思議になって来ました。ほんとに、このあげはの蝶と、今の坊さんと、どこか似たところがあるようです。そこで聞いてみました。
「ほんとう、兄ちゃん。ほんとに魔法使ったの。」
「そうさあ、大魔法を使ったんだ。」
「ふうん、いつ使ったの。」
「今さ。」
「今って、何もしなかったじゃあないの。」
「それがしたのさ。三平ちゃんなんかに分んないようにやったんだ。だから魔法なんだ。」
「ふうん、そうかねえ。」
三平はすっかり感心してしまいました。それから善太は通る人ごとに魔法を使って、トンボにしたり、バッタにしたり、蝉《せみ》なんかにまでしてしまいました。自動車を運転手ごと魔法をかけたら、これはカブト虫になって、樫《かし》の木の枝の上にとまりました。運転手がいないのでさがしていたら、その角の先に油虫のような小さな虫が乗っかっていたので、それだということにきめました。
背の途方もなく高いチンドン屋が通ったので、それに魔法をかけたら、それはカマキリになって、いつの間にか、けしの花の葉っぱの中にぶら下っていました。三河屋の小僧はイナゴにし、肉屋の小僧はミミズにしてやりました。ところがミミズにした肉屋の小僧は、土の中にいるので、とうとうさがし出せませんでした。
二人は、そのカブト虫やカマキリやバッタやトンボをつかまえて来て、縁側に行列をつくらせておやつを食べ食べ遊びました。
ところで、その翌日のことでありました。善太が学校へいく前に言いました。
「三平ちゃん、僕今日学校から魔法を使って帰って来るぞ。」
「ふうん、じゃア、トンボになって来るの。」
「トンボになんかなるかい。」
「じゃア、蝶がいいよ。奇麗な奇麗な蝶々。」
「駄目だい。蝶なんかきらいだよ。」
「じぁア、何になるの。」
「そうだなあ。僕、もしかしたらつばめになるかも分んないよ。早いからね。空を一飛びだ。つうッ。」
善太はもう両手をひろげて、つばめの飛ぶ真似をしはじめました。そして座敷を一廻りするとまた言いました。
「もしかしたら、鳩だ。白鳩。伝書鳩。パタパタッ、パタパタッ、飛行機より早いんだぞ。」
今度は鳩の飛ぶ真似をして座敷を廻りました。一ど廻ると、また言いました。
「でも、家へ入って来るときは三平ちゃんに分んないように、門のとこから蟻《あり》になってはって来るかも知れないよ。そして、そうっと三平ちゃんの背中へはい上って、手の届かないところをチクッとさしてやるんだ。わあ、面白いなあ。」
それを聞くと、三平も黙っていません。
「蟻なんかなら何でもないや。すぐ着物をぬいで、指でひねりつぶしてしまうから。」
「だったら蛇になって来る。三平ちゃんが庭へ出てるところへ、はっていって、ガブッと手でも足でもかみついてしまうぞ。そうら、蛇だ、蛇だあ。」
今度は善太は蛇のような真似をして、三平を追い廻しました。
その日の午後のことであります。三平は庭へ出て兄ちゃんを待っていました。魔法を使って帰って来るというのだから、何になって帰って来るかと、それが楽しみで、空の方を見たり、道の方を見たり、樫や檜《ひのき》の茂みの中をさがし廻ったり、けしの花の中をのぞきこんだりしていました。蝶が飛び立つと、もしかしたら、それかも分らないと追っかけてみたり、道から犬が駆けこんで来ると、これも怪しいと、捕えてみたりしました。
「こら、兄ちゃんだろう。僕には分ってるぞう。」
こんなことを言ってみました。しかし、犬はただ不思議そうに目をパチクリさせ、何か食べものでもくれるかと、尾っぽをしきりに振り立てました。放してやると、大急ぎでどっかへ駆けてってしまいました。
そのうちに、三平は庭の隅でデンデン虫を見つけました。それを見ると、また、もしかしたらと考えて、話しかけてみました。
「こら、兄ちゃんか。もう逃しっこはないぞ。」
そしてそれを捕えると、縁側へ持って来て、
「槍《やり》出せ、角出せ。」と、いじって遊びました。いつの間にか魔法のことも忘れて、大分久しく遊んでいました。と、玄関で、兄ちゃんの声がしました。駆けてってみると、兄ちゃんが靴をぬいでいます。
「兄ちゃん、魔法は。」
「あっ、魔法か。今、門まで風になって吹いて来たんだけど、門からもうやめて入って来たんだよ。」
しかし兄ちゃんが何だか、くすぐったそうな顔をして、ニコニコ笑っているので、
「嘘だい。」と、三平は言ってしまいました。すると、
「ほんとうは兄ちゃんは風なんだよ。それが魔法を使って人間になってんだよ。」
そんなことを言って、兄ちゃんがハッハッ笑うので、とうとう嘘だということが分りました。
「やアい、嘘だい嘘だい。」と、三平がとびかかっていきました。それで二人は座敷で大相撲をはじめました。