一
鷹使《たかつか》いの名人で、「鷹の平八」でとおっていたおじいさんは、大声で謡《うたい》をうたいながら川岸の道を帰っていきました。空には星がちらちら光っていました。おじいさんは片手に提灯《ちようちん》をもち、片手に重箱をさげていました。重箱の中には御馳走がいっぱいはいっていました。今日は近くの村の親類の秋祭によばれて、おいしくお酒をのみ、いい気持になって、今、家へ帰っていくところです。
やがて、向うがわへわたる、石橋のところへやって来ました。そこは昔から狐が出たり河童《かつぱ》が出たり、ときには幽霊さえ出るという恐ろしいところであります。しかしおじいさんは腰に刀をさしていました。この近辺で「鷹の平八」と言えば、知らぬもののないおじいさんです。そんな、狐や河童なぞは気にもしませんでした。
と、ちょうど橋の真中まで来たとおもいますと、ふと、後ろの方でピチャピチャという、かすかな足音のようなものが聞えました。人間ならば、跣足《はだし》で歩いてる足音です。
「は、はあ。」
おじいさんは、そうひとりで言って立ちどまりました。そして後ろの暗い闇の中へ向って、おだやかな声で言いました。
「この重箱がほしいと見えるの。これはやれんのじぁ。娘がたんせいした御馳走でのう。家では孫どもが待ッとんのじゃ。」
おじいさんは狐がもう何町となく後をつけて来ているのだと、かんづいたのでした。おじいさんは百姓の家柄でも、殿様から苗字帯刀を許されている身分です。狐なぞがいたずらをするのを、だまって見すごすわけにはいきません。
おじいさんは橋の上に提灯を置き、その側へ重箱を置きました。そして腰から煙草《たばこ》入れをぬき出すと、そこにしゃがんで、カッチカッチと火打石をうちました。おじいさんは、この不心得な狐を、一つ、叱っておこうと考えたのでした。
村を通っていく他村の人でも、見知らぬ他国の人であろうとも、悪いことをしているところが目についたら、何町追いかけて行ってでも叱らずにはおけないのがおじいさんの性分でした。よく道端で、帯の結び方が悪かったり、羽織の襟《えり》が立っていたりして、おじいさんに注意される人さえありました。
おじいさんは煙草をすいながら、狐の近よって来るのを待っていました。もしかしたら狐は人間に化けて来るかも分りません。そうしたら、なおのこと叱りやすいわけであります。しかし狐もそれを知ってか、なかなか近よって来ません。
一服煙草をすうと、その灰殻をおじいさんは手の平に吹き出しました。その灰の火の消えないうちに、つぎの煙草をすいつけようとして、急いで煙管《きせる》をつめていました。するとそのときです。風も吹かないのに、提灯の火がふっと消えました。すると、おじいさんはいきなり、
「無礼ものッ。」と、大声でどなッて、刀のつかに手をかけました。近くに狐のけはいでもしたら、すぐ切りつけようと、身構えをしていました。しかし、それきり何の音もしません。片手をのばしてさぐってみると、火は消えても提灯もあります。重箱も前のままです。
「いたずらは承知せんぞッ。鷹の平八を知らんのかッ。」
力のこもった声でおじいさんは言いました。すると、すぐ側で、クンクンという、犬の甘えるような鼻声が聞えました。
「野山に餌《えさ》はないのかい。」
おじいさんがききました。と、またクンクンと言いました。
「そうか。そうか。分った。分った。しかし、これはやれんのじゃ。明日まで待てい。明日になったら、家の屋敷の柿の木の下に、油揚を三枚おいといてやるでな。」
おじいさんがこう言いますと、また、二た声、三声、クンクンという声がし、ピチャピチャという足音が聞えました。狐が重箱の方へ鼻をよせて、そっと寄って来ては、またさっと飛びのくさまが、その足音や空気の動きで、手にとるように分ります。
「駄目じゃ駄目じゃ。人が言ってきかせるのが分らんのか。すなおに言うことをきくもんじゃよ。」
ここまでは静かに言いましたが、そのうちに、狐が重箱の、ふろしきのむすび目を引ッ喰わえるところが、目に見えるような気がしました。そこでおじいさんはまた大きな声をあげました。
「馬鹿ものッ。おれを平八と知ってかかるのかッ。」
ところが、その声と一しょに、川の中でドブーンと大きな音がしました。何が落ちたのでしょう。狐でしょうか。
おじいさんは重箱のおいてあったところをさぐりましたが、もう重箱はありませんでした。それでは狐が重箱を川へ落したのでしょうか。おじいさんは、しばらく耳をすましていましたが、もうそれきり何の音もしません。狐も姿をかくしてしまったようでした。
やがて、向うがわへわたる、石橋のところへやって来ました。そこは昔から狐が出たり河童《かつぱ》が出たり、ときには幽霊さえ出るという恐ろしいところであります。しかしおじいさんは腰に刀をさしていました。この近辺で「鷹の平八」と言えば、知らぬもののないおじいさんです。そんな、狐や河童なぞは気にもしませんでした。
と、ちょうど橋の真中まで来たとおもいますと、ふと、後ろの方でピチャピチャという、かすかな足音のようなものが聞えました。人間ならば、跣足《はだし》で歩いてる足音です。
「は、はあ。」
おじいさんは、そうひとりで言って立ちどまりました。そして後ろの暗い闇の中へ向って、おだやかな声で言いました。
「この重箱がほしいと見えるの。これはやれんのじぁ。娘がたんせいした御馳走でのう。家では孫どもが待ッとんのじゃ。」
おじいさんは狐がもう何町となく後をつけて来ているのだと、かんづいたのでした。おじいさんは百姓の家柄でも、殿様から苗字帯刀を許されている身分です。狐なぞがいたずらをするのを、だまって見すごすわけにはいきません。
おじいさんは橋の上に提灯を置き、その側へ重箱を置きました。そして腰から煙草《たばこ》入れをぬき出すと、そこにしゃがんで、カッチカッチと火打石をうちました。おじいさんは、この不心得な狐を、一つ、叱っておこうと考えたのでした。
村を通っていく他村の人でも、見知らぬ他国の人であろうとも、悪いことをしているところが目についたら、何町追いかけて行ってでも叱らずにはおけないのがおじいさんの性分でした。よく道端で、帯の結び方が悪かったり、羽織の襟《えり》が立っていたりして、おじいさんに注意される人さえありました。
おじいさんは煙草をすいながら、狐の近よって来るのを待っていました。もしかしたら狐は人間に化けて来るかも分りません。そうしたら、なおのこと叱りやすいわけであります。しかし狐もそれを知ってか、なかなか近よって来ません。
一服煙草をすうと、その灰殻をおじいさんは手の平に吹き出しました。その灰の火の消えないうちに、つぎの煙草をすいつけようとして、急いで煙管《きせる》をつめていました。するとそのときです。風も吹かないのに、提灯の火がふっと消えました。すると、おじいさんはいきなり、
「無礼ものッ。」と、大声でどなッて、刀のつかに手をかけました。近くに狐のけはいでもしたら、すぐ切りつけようと、身構えをしていました。しかし、それきり何の音もしません。片手をのばしてさぐってみると、火は消えても提灯もあります。重箱も前のままです。
「いたずらは承知せんぞッ。鷹の平八を知らんのかッ。」
力のこもった声でおじいさんは言いました。すると、すぐ側で、クンクンという、犬の甘えるような鼻声が聞えました。
「野山に餌《えさ》はないのかい。」
おじいさんがききました。と、またクンクンと言いました。
「そうか。そうか。分った。分った。しかし、これはやれんのじゃ。明日まで待てい。明日になったら、家の屋敷の柿の木の下に、油揚を三枚おいといてやるでな。」
おじいさんがこう言いますと、また、二た声、三声、クンクンという声がし、ピチャピチャという足音が聞えました。狐が重箱の方へ鼻をよせて、そっと寄って来ては、またさっと飛びのくさまが、その足音や空気の動きで、手にとるように分ります。
「駄目じゃ駄目じゃ。人が言ってきかせるのが分らんのか。すなおに言うことをきくもんじゃよ。」
ここまでは静かに言いましたが、そのうちに、狐が重箱の、ふろしきのむすび目を引ッ喰わえるところが、目に見えるような気がしました。そこでおじいさんはまた大きな声をあげました。
「馬鹿ものッ。おれを平八と知ってかかるのかッ。」
ところが、その声と一しょに、川の中でドブーンと大きな音がしました。何が落ちたのでしょう。狐でしょうか。
おじいさんは重箱のおいてあったところをさぐりましたが、もう重箱はありませんでした。それでは狐が重箱を川へ落したのでしょうか。おじいさんは、しばらく耳をすましていましたが、もうそれきり何の音もしません。狐も姿をかくしてしまったようでした。