第二次大戦で日本の運命を決したのはヤルタ会談だが、これと匹敵するのが第一次大戦のあとのパリ講和会議(一九一九年一月)だといわれる。この会議の決定が、やがてヒトラーを生み、第二次大戦の遠因ともなったのだ。
ジークムント・フロイトに『T・W・ウィルソン大統領その心理的肖像』という著書がある。フロイトによれば、ウィルソン大統領の父親はきわめて優秀で、彼は常に父に頭が上がらなかった。母親は彼を過保護に育て甘やかした。後年、彼は母親とそっくりな女性を妻に選んだ。フロイトは彼を「典型的なマザー・コンプレックス」と言っている。
ウィルソン大統領はアメリカ代表としてパリ講和会議に臨んだが、彼の言動には分別を欠いたものがあり、その後もアメリカの国際連盟の加盟を拒否したりした。こうしてアメリカの世界平和構想は失敗の方向へ湾曲していった。極端な言い方をすれば、ウィルソンの政策の失敗がヒトラーの台頭にまで及んだのだ。
一九二三年(大正十二年)の十一月八日、ドイツ・ミュンヘンに初雪が降った。亡父、茂吉はミュンヘンに留学中だった。英貨一ポンドの為替相場が二万七九三〇億マルクという大インフレで、ドイツ人は生活苦にあえいでいた。茂吉は夕食後、学会に出席したあと停車場前に来ると、広場は大群衆で埋め尽くされていた。異様な雰囲気がみなぎっていた。
その日の夕刻、ビュルガー・ブロイケラーというビアハウスの大広間で執政官カールの施政演説の最中、アドルフ・ヒトラーとその一派が侵入して革命政府の樹立を宣言した。しかし、翌日事破れてヒトラーは逮捕されたのであった。一九一八年十一月、帝政がくずれ去った革命以来ちょうど五年目だった。
ミュンヘンには戒厳令が敷かれ、午後八時以後は外出禁止となった。そして茂吉は「ミュンヘンを中心として新しき原動力は動くにかあらむ」と詠んだ。
千年は続くとヒトラーが豪語していた壮大な第三帝国がわずか十二年でくずれ去る寸前に、みずから生命を絶ったヒトラーの晩年のニュース映画を見ると、彼が心臓病と高血圧、動脈硬化からきたパーキンソン病であったことがわかる。背中を丸めた彼の姿は哀れみさえ感じさせる。
母親が乳ガンで死んだため、彼はひどくガンを恐れていた。またフロイトのいう肛門期性格を有し、潜在的同性愛者、マゾヒスト、女性的性格の持ち主であった。彼はマザー・コンプレックスといってよく、自己中心、動作がドラマチックで、他人への暗示性に富み、カリスマ的で負けず嫌い、自分がキングでないと気がすまず、流行を追い、挫折したとき自己を励ます能力が強く、強敵を抹殺しないと恐怖におののくという性格の所有者だった。
この性格は総じてヒステリー性格といってよく、アウトバーンの建設、フォルクスワーゲンの開発という建設的な大仕事の反面、ユダヤ人(強敵)の大虐殺に通じるのだ。ヒトラーを滅ぼした要素の一つに、短絡性をあげなければならない。
ここで私は突如として織田信長を想起するのである。彼の若いときの突飛な服装、奇矯な行動、綿密な都市計画、比叡山の大虐殺、ドラマチックな最期など、なんとヒトラーと類似点が多いことか。
たとえば大きな悲しみに襲われたとき、意識を失い、卒倒する人はヒステリー性格の持ち主に多いが、一九一八年、ドイツの敗北を認めることへの拒否としてヒトラーが一過性の失明状態に陥ったことも、彼がヒステリー性格であったことの有力な証左となる。
ヒトラーは父親の影響をすべて拒否し、自己に絶えず疑いを持っていた。自己不確実性の持ち主といえよう。父親への敵意を秘めていたことは、マザー・コンプレックスの存在を十分推定しうるところだ。ユダヤ人の大量虐殺の心理がここに源を持つことも考えられる。
珍説と言われるかもしれないが、織田信長は脳梅毒ではなかったか。信長が安土城を築いた晩年、「余は神だ」と言ったひと言が私には引っかかるのだ。やはり「余は神だ」と言ったニーチェの晩年に似ている。
ご承知のように、梅毒は一四九二年コロンブスが西インド諸島を発見したあと、新大陸からヨーロッパに持ち帰られ、たちまちヨーロッパ全土に広がり、フランスでは敵国の名をつけてイタリア病と呼んだりした。一五〇二年には中国に渡来したとみえて、広東病などという病名がつけられたが、十年後の一五一二年には琉球病という記載がある。
その梅毒が日本に上陸したのは、それからたった三年後の一五一五年である。やがて近畿から中国地方、関東へと広がった。信長が生まれたのは一五三四年であるから、そのころは梅毒がかなり蔓延していたはずである。信長が梅毒に罹患していないという証拠は何もない。梅毒が体に入ってから病原体が脳に侵入して脳細胞を破壊し始めるまで十年から十五年かかるので、通常は中年になってからの発病が多いのである。
そして本能寺の変で、信長が命を失ったのは四十八歳だったのだ。
ジークムント・フロイトに『T・W・ウィルソン大統領その心理的肖像』という著書がある。フロイトによれば、ウィルソン大統領の父親はきわめて優秀で、彼は常に父に頭が上がらなかった。母親は彼を過保護に育て甘やかした。後年、彼は母親とそっくりな女性を妻に選んだ。フロイトは彼を「典型的なマザー・コンプレックス」と言っている。
ウィルソン大統領はアメリカ代表としてパリ講和会議に臨んだが、彼の言動には分別を欠いたものがあり、その後もアメリカの国際連盟の加盟を拒否したりした。こうしてアメリカの世界平和構想は失敗の方向へ湾曲していった。極端な言い方をすれば、ウィルソンの政策の失敗がヒトラーの台頭にまで及んだのだ。
一九二三年(大正十二年)の十一月八日、ドイツ・ミュンヘンに初雪が降った。亡父、茂吉はミュンヘンに留学中だった。英貨一ポンドの為替相場が二万七九三〇億マルクという大インフレで、ドイツ人は生活苦にあえいでいた。茂吉は夕食後、学会に出席したあと停車場前に来ると、広場は大群衆で埋め尽くされていた。異様な雰囲気がみなぎっていた。
その日の夕刻、ビュルガー・ブロイケラーというビアハウスの大広間で執政官カールの施政演説の最中、アドルフ・ヒトラーとその一派が侵入して革命政府の樹立を宣言した。しかし、翌日事破れてヒトラーは逮捕されたのであった。一九一八年十一月、帝政がくずれ去った革命以来ちょうど五年目だった。
ミュンヘンには戒厳令が敷かれ、午後八時以後は外出禁止となった。そして茂吉は「ミュンヘンを中心として新しき原動力は動くにかあらむ」と詠んだ。
千年は続くとヒトラーが豪語していた壮大な第三帝国がわずか十二年でくずれ去る寸前に、みずから生命を絶ったヒトラーの晩年のニュース映画を見ると、彼が心臓病と高血圧、動脈硬化からきたパーキンソン病であったことがわかる。背中を丸めた彼の姿は哀れみさえ感じさせる。
母親が乳ガンで死んだため、彼はひどくガンを恐れていた。またフロイトのいう肛門期性格を有し、潜在的同性愛者、マゾヒスト、女性的性格の持ち主であった。彼はマザー・コンプレックスといってよく、自己中心、動作がドラマチックで、他人への暗示性に富み、カリスマ的で負けず嫌い、自分がキングでないと気がすまず、流行を追い、挫折したとき自己を励ます能力が強く、強敵を抹殺しないと恐怖におののくという性格の所有者だった。
この性格は総じてヒステリー性格といってよく、アウトバーンの建設、フォルクスワーゲンの開発という建設的な大仕事の反面、ユダヤ人(強敵)の大虐殺に通じるのだ。ヒトラーを滅ぼした要素の一つに、短絡性をあげなければならない。
ここで私は突如として織田信長を想起するのである。彼の若いときの突飛な服装、奇矯な行動、綿密な都市計画、比叡山の大虐殺、ドラマチックな最期など、なんとヒトラーと類似点が多いことか。
たとえば大きな悲しみに襲われたとき、意識を失い、卒倒する人はヒステリー性格の持ち主に多いが、一九一八年、ドイツの敗北を認めることへの拒否としてヒトラーが一過性の失明状態に陥ったことも、彼がヒステリー性格であったことの有力な証左となる。
ヒトラーは父親の影響をすべて拒否し、自己に絶えず疑いを持っていた。自己不確実性の持ち主といえよう。父親への敵意を秘めていたことは、マザー・コンプレックスの存在を十分推定しうるところだ。ユダヤ人の大量虐殺の心理がここに源を持つことも考えられる。
珍説と言われるかもしれないが、織田信長は脳梅毒ではなかったか。信長が安土城を築いた晩年、「余は神だ」と言ったひと言が私には引っかかるのだ。やはり「余は神だ」と言ったニーチェの晩年に似ている。
ご承知のように、梅毒は一四九二年コロンブスが西インド諸島を発見したあと、新大陸からヨーロッパに持ち帰られ、たちまちヨーロッパ全土に広がり、フランスでは敵国の名をつけてイタリア病と呼んだりした。一五〇二年には中国に渡来したとみえて、広東病などという病名がつけられたが、十年後の一五一二年には琉球病という記載がある。
その梅毒が日本に上陸したのは、それからたった三年後の一五一五年である。やがて近畿から中国地方、関東へと広がった。信長が生まれたのは一五三四年であるから、そのころは梅毒がかなり蔓延していたはずである。信長が梅毒に罹患していないという証拠は何もない。梅毒が体に入ってから病原体が脳に侵入して脳細胞を破壊し始めるまで十年から十五年かかるので、通常は中年になってからの発病が多いのである。
そして本能寺の変で、信長が命を失ったのは四十八歳だったのだ。