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「まさか」の人に起こる異常心理69

时间: 2020-01-31    进入日语论坛
核心提示:電話恐怖症の父、茂吉 私が一人っ子から抜け出し、少しましな少年になったのは、一九二五年(大正十四年)に妹が生まれ、続いて
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電話恐怖症の父、茂吉

 私が一人っ子から抜け出し、少しましな少年になったのは、一九二五年(大正十四年)に妹が生まれ、続いて弟(北杜夫)が、さらに妹が生まれ、下に三人のきょうだいができてからである。それより前の二四年暮れには、祖父が院長をしていた東京・南青山にあった青山脳病院が自宅とともに全焼した。ヨーロッパ留学から焼け跡に帰ってきた両親とともに住み、食事も同じちゃぶ台でするようになり、一挙に貧乏生活に落下したことも役に立ったのかもしれない。
経済のことなどさっぱりわからない父が、すっかり落胆してもうろくした祖父にかわって、全国に借金の行脚をしたり、私が寝ているすぐそばで、父が電話で盛んに謝っている(あとで考えると、高利貸しからの借金返済の催促に謝っていたのかもしれない)姿を見て、これはたいへんなことと、危機感を持ったのかもしれない。
その父が二七年(昭和二年)に祖父にかわって院長職についたあと、電話恐怖症に襲われている。父は『フォビア・テレフォニカ』という随筆を書いている。つまり「電話恐怖症」だ。「大正十四年から大正十五年昭和二年三年あたりにかけ、私は電話の鈴の響が恐ろしくて為方のなかったことがある」という書き出しである。
 その恐ろしい事の一つは、夜半過ぎなどにかかる電話の多くは大抵病院の事故で、その事故の大部分は患者自殺の報告であったからである。……夜寝てから電話が鳴ると、もう動悸がし出して来る。……次の日も次の日も同じ電話が来る。そして少し経ったところが、『近々差押といふことにいたしました』とか、『それではいよいよ弁護士を向けますから』とかいふ。……
この二つの電話でいぢめられたものだから、私はひどく電話の音が恐ろしくなって何とも為方がなかったものである。たまに信州に萬葉の話などに行って、電話の無い山中に寝たりすると、実に名状することの出来ない心の安定をおぼえたものである。
などと書いている。
前にも書いたが、一九二四年(大正十三年)暮れ、父は青山脳病院の焼け跡にヨーロッパ留学から帰ってきた。それから数年間、すっかりぼけた祖父にかわって病院再建に努力し、金策に困り、ついには高利貸しに借金するという苦境に追い込まれ、二七年(昭和二年)に祖父にかわって院長に就任し、全責任を負うことになったころの話である。
私が戦後初めて世田谷の代田で開業のまね事をしようとしたときに、父は「電話をつけるな」などと非常識な無理を言ったが、この文章を読むと、神経質な父の気持ちがわからぬでもない。
しかし、高所恐怖症、不潔恐怖症など数ある恐怖症は、自己防衛の一環としてあらわれるとも考えられる。高所恐怖症がなければ高所から墜落することがふえるだろうし、不潔恐怖がなければ伝染病や食中毒がふえるだろうし、尖端恐怖がなければ刃物でけがをする人がふえるだろうし、だ。
あたりまえのことを病的に恐れるのを生来的なものとすると、もう一つ、いわば後天的なものが考えられる。フロイト流の精神分析学の解釈に従えば、後天的なものは、観念と感情の分離、抑圧(いやなことを忘れようとする)が完全に行われずに一部が意識に入り込んできたときに発生する。
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