「親はなくとも子は育つ」
ということわざを、
「親があっても子は育つ」
と言い換えたのは、坂口安吾だ。彼は、僚友・太宰治の死を悼んだエッセイ『不良少年とキリスト』の中で、こう書いている。
「親がなくとも、子が育つ。ウソです。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ」
それは、それとして、親になることは易しい。親になるだけなら、ナニさえすれば、誰にだってなれる。ま、なかには、ナニしたところで、親にさえなれない者もおりますが……。
ただ、むずかしいのは、親になることではなくて、親であろうとすることだろう。正直な話、親でありつづけようとすることは、誰にだってできる——というわけのものではない。
だったら、たまには気を抜こうよ。そんなふうに親であることにこだわりつづけるから、子供だって、なんかぎごちなくなってしまうのではないだろうか。
親離れより、子離れだ。わたしに言わせれば、上手に子離れできる親こそ、ホントの親だと思うが、どうだろう?
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