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孤独のとなり28

时间: 2020-02-23    进入日语论坛
核心提示:教師の資格先日、私は三十五年前に教えた生徒たちのクラス会に出席した。教えたといっても、僅《わず》かに小学二年の一学期を教
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教師の資格

先日、私は三十五年前に教えた生徒たちのクラス会に出席した。教えたといっても、僅《わず》かに小学二年の一学期を教えただけで、百日そこそこのつきあいであった。
何か一言といわれて、私が心から言ったのは、自分が余りにも稚《おさな》い教師で、多分私のしたこと、言ったことはあやまちだらけであったろうことへの、詫《わ》びであった。
僅か百日間でも、その間に私は、もしかしたら、子供の胸に一生残るような傷を与えたかも知れない。十九歳だった少女の私は、自分に教師の資格があるかどうか、いや、その教師の資格は何かさえ、知ってはいなかったのだと、その席に出て改めて思ったのである。
人生相談を受け持って[#「人生相談を受け持って」はゴシック体] 
 近頃、「玉木功の教育相談」という聖文舎から出版された本を読んだ。副題に、「お母さん心配無用です」とある。この本を読んで私は、自分が教師をしたことに対して、いよいよ大きな悔いを感じた。
私は小説を書くようになってから、毎日のように読者から手紙をいただく。その大方は「いかに生きるべきか」の相談である。手紙に対しては、秘書に要旨を指示して書かせてはいる。また、「主婦の友」誌に「三浦綾子への手紙」という人生相談を今年一年受け持った。
そうした数多くの相談に対する返事を書きながら、私は自分がいかにその任でないかをつくづく知らされているのである。相談の中には、
(こんなことぐらい、自分で考えたらわかるではないか)
と思うような、余りにも幼稚な質問もある。
相談に対しては、私はともすれば、自分が高い所から教えてやろうという生意気な姿勢になりやすいことを、幾度も体験した。恐らくこれは人間の問題で、私という人間は、拭《ぬぐ》っても拭っても拭いきれない傲慢《ごうまん》さがしみついているということなのだろう。そしてそれは「皇国民の錬成」を使命として、軍国主義的な教育のおこなわれた若い日に、深く培《つちか》われたものだと思う。
誤った教育[#「誤った教育」はゴシック体] 
 軍国主義とは、号令一下、その命令に従わせることである。人間が個人である前に、国民であらねばならぬ教えである。号令によって人を動かす。号令に服従する。何という誤った教育であったろう。人間は、号令によっては真に動かすことのできないものだということを、教えるのが本当の教育のはずであった。いかに大きな号令をかけられても、心にもない服従は、決してしてはならないということを教えることこそ、大きな教育のはずであった。
ところで玉木功氏の、この教育相談を読んで、教師の資格とは何かが、私は今はっきりと見えてきたような気がするのだ。氏は前がきにこう書かれている。
「本書は、私がお母さんたちのお手紙にある問題や相談に答えるのではなく、手紙にある問題に私が触発され、手紙と対話しつつ書いたというのが根本の姿勢です」
私は未《いま》だかつて、このような謙虚な姿勢をもって、相談に答えたことはなかったような気がする。相談を受けるということは、自分が触発されることである。つまり自分が学ぶことである、という姿勢は、何とすばらしい姿勢であろう。
その前がきどおり、この本は実にその姿勢に支えられた、あたたかさ、深さ、そして優れた識見に満ち満ちている。いささかも、「教えてやる」という思い上がった姿勢がない。
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