二
今日も朝から冷たい雨が柾《まさ》屋根に音を立てている。午後になっても降り止まない。
「滅法《めつぽう》寒いのう。まだ十月やというのに」
岩松の父の仁平が、火鉢《ひばち》に汚点《しみ》のある手をかざして呟《つぶや》く。
「ほんとに寒いねえ。今年は春も夏も、ええ天気が少なかった」
母の房が、頼まれた仕立物を膝《ひざ》の上にひろげた。岩松は、絹の膝に膝|枕《まくら》をしながら、心地よさそうに耳の垢《あか》を取ってもらっていた。
一昨年。御蔭参《おかげまい》りに熱田に帰って以来、岩松は二度と千石船《せんごくぶね》に乗ろうとしなかった。朝に夕に、同じ長屋の銀次という若者が、自分の留守中出入りしていたことを知ったからだ。岩松は、以前仁平に見習って働いたことのある瓦《かわら》屋根の職人になった。岩松は元来《がんらい》器用な男で、する気になれば、大工でも左官でも、玄人《くろうと》裸足《はだし》の仕事をした。
岩松が家に居つくと知って、間もなく銀次は他の長屋に越して行った。それでもたまに岩松の留守中立ち寄ることはあるらしい。
岩松が瓦職人になってから幾日も経たず、絹が妊《みごも》った。そして生まれたのが岩太郎だった。岩松はよく働き、他の職人より給金がよかった。だが今年は、夏を過ぎてからめっきり仕事が減った。物の値が上がって、家を建てる者が少なくなっていたからだ。いたしかたなく、近頃《ちかごろ》では岩松は漁師を始めていた。
だがこの二、三日、何となく気が向かず、家の中にごろごろしていた。
「惜しいことをしたなあ」
ぽつりと岩松が言った。
「惜しいこと?」
絹が、手をとめずにやさしく聞きかえす。
「鼠小僧《ねずみこぞう》を仕置きにしてしまってよう」
「あら……」
絹はふと笑った。また始まったと思う。鼠小僧次郎吉が江戸で処刑されたのは二か月前のことだ。東海道の宿場である熱田には全国の出来事が何かと早く伝わって来る。
「何やら、俺と兄弟のような気がしてな」
岩松は、傍《かたわ》らにすやすやと眠っている岩太郎の寝顔に目をやりながら言う。
「そんな馬鹿な」
絹が言い、房も、
「またいやなことを言うで」
と、眉《まゆ》をひそめた。仁平が岩松を見て笑った。火鉢《ひばち》の炭が小さく跳《は》ねた。と、岩太郎が目をさまし、むっくりと起き上がると、小さな両手を前にのべて、絹の背にもたれた。
「ようし、起きたな」
寝起きのいい岩太郎を、岩松は起き上がって高く抱き上げた。岩太郎が喜んで、その柔らかい足で岩松の肩を蹴《け》った。
「こいつ!」
笑って見上げた岩松の顔に、小便がかかった。
「や、や、や、や、や」
岩松が笑い、
「あら、まあ」
他の三人も一緒に笑った。岩松の笑顔が最もうれしそうであった。
絹が岩太郎のむつきを取り替えた時だった。
「ごめんやす」
と、戸口に声がした。入って来たのは船頭の重右衛門と久吉だった。
「おう、これは親方、久しぶりやなあ」
岩松もさすがに驚いた。
「久しぶりやなあ、ほんとに。お前をずいぶん探したぜい。あれから二年になるなあ」
土間に立ったまま言う重右衛門に、房がその肥った体をかしこまらせて言った。
「ま、そんなところでは、話も何ですがな。ちょっとお入りやす」
言われるままに重右衛門は茶の間に上がった。久吉も重右衛門の後について上がった。
「へえー、宝順丸の船頭さんで……。その節は岩松がえろう迷惑をおかけしまして」
仁平はいんぎんに挨拶《あいさつ》した。房も絹もていねいに頭を下げる。
「今日はなあ、岩さん。早速だが頼みがあって来たでなあ」
重右衛門は言いながら、土産《みやげ》の菓子を差し出した。岩松は礼も言わずに、
「親方ぁ、千石船《せんごくぶね》に戻《もど》れと言う話なら、ごめんだで」
と、にべもない。
「お前そんな……」
房はあわてて、
「岩松、よう話を聞いてからお答えせんかいな」
「しかし、親方ぁ俺は船に乗る話なら、きっぱり断る。見てのとおり、年取った親父《おやじ》とお袋がいるだでな」
「なるほど、なるほど。だがのう、実はわしらもほとほと困ったことになってな。ほら、岩さんも知っての万蔵な、あいつが突然卒中で倒れてよ」
「万蔵?」
岩松の顔が動いた。万蔵は気のいい男で、岩松にも何かと親切にしてくれた男だ。
「うん。万蔵や。あいつが舵取《かじと》りをしていたんやがな。あれに倒れられて困っとるんや。長く乗ってくれとは言わん。あとひと往復か、二往復や。助けると思って、舵取りをやってくれんかのう」
「ひと往復か、二往復?」
岩松の目が絹に向けられた。絹は岩松を見たが、すぐに伏し目になった。絹も、岩松が船に乗るのを喜ばない。が、仁平が言った。
「岩松、お前もそのぐらいのことをする義理はあるやろう。御蔭参《おかげまい》りで、突然|脱《ぬ》けてしもうたでな」
房も言った。
「ほんとや、ほんとや。その節《せつ》は岩松がえろうすまんことをしましたな、親方さん」
重右衛門が大きく手をふって、
「いやいや、御蔭参りは天下御免《てんかごめん》だでな。只《ただ》な、突然の病人が出たで、わしらもあわててな」
と岩松を見た。岩松は、
「一度乗ると、またずるずると乗ってしまうかも知れせん。悪いが、やはり断るわ」
と、そっ気ない。絹は重右衛門と久吉の前に茶を出した。そして、
「あら!?」
と、軽く驚きの声を上げた。絹は、二年前の久吉を思い出したのだ。毎日のように久吉は、この長屋の小路をうろついていた。久吉はそれと気づかれて、
「えへへ」
と笑って首をすくめた。岩松はその久吉を怪訝《けげん》そうに見たが、
「なんや、あん時の餓鬼《がき》か。もうすっかり大人やないか」
と、笑顔になった。その岩松の膝《ひざ》の中に、岩太郎がすっぽと腰をおろした。
「ええ坊ややなあ」
重右衛門が手を伸ばすと、岩太郎は岩松にしがみついた。が、久吉が手を伸ばすと、すぐに久吉の膝に移った。それを眺《なが》めながら、重右衛門は重ねて言った。
「なあ、岩さん。今回|只《ただ》の一回きりや。熱田から米を積んで三日後には出るんや。何とか助けてもらえんかのう」
岩松は腕組みをしたまま、返事をしない。その岩松を、仁平、房、絹がじっとみつめた。
「そうかあ。やっぱりいかんか」
重右衛門はがっかりしたように言い、
「どうしてまたあんなに船の好きなあんたが、船を見限ったものかのう。いや、えらい邪魔をした」
と立ち上がった。
「えらいすまんことで」
仁平と房が額を畳にすりつけた。久吉は岩太郎を岩松に渡そうか、絹に渡そうかと戸惑った末、岩松に手渡した。岩松は岩太郎の頬《ほお》に、自分のひげ面をすり寄せながら、不意に言った。
「親方、今度一度だけなら、乗ってもいいで」
「滅法《めつぽう》寒いのう。まだ十月やというのに」
岩松の父の仁平が、火鉢《ひばち》に汚点《しみ》のある手をかざして呟《つぶや》く。
「ほんとに寒いねえ。今年は春も夏も、ええ天気が少なかった」
母の房が、頼まれた仕立物を膝《ひざ》の上にひろげた。岩松は、絹の膝に膝|枕《まくら》をしながら、心地よさそうに耳の垢《あか》を取ってもらっていた。
一昨年。御蔭参《おかげまい》りに熱田に帰って以来、岩松は二度と千石船《せんごくぶね》に乗ろうとしなかった。朝に夕に、同じ長屋の銀次という若者が、自分の留守中出入りしていたことを知ったからだ。岩松は、以前仁平に見習って働いたことのある瓦《かわら》屋根の職人になった。岩松は元来《がんらい》器用な男で、する気になれば、大工でも左官でも、玄人《くろうと》裸足《はだし》の仕事をした。
岩松が家に居つくと知って、間もなく銀次は他の長屋に越して行った。それでもたまに岩松の留守中立ち寄ることはあるらしい。
岩松が瓦職人になってから幾日も経たず、絹が妊《みごも》った。そして生まれたのが岩太郎だった。岩松はよく働き、他の職人より給金がよかった。だが今年は、夏を過ぎてからめっきり仕事が減った。物の値が上がって、家を建てる者が少なくなっていたからだ。いたしかたなく、近頃《ちかごろ》では岩松は漁師を始めていた。
だがこの二、三日、何となく気が向かず、家の中にごろごろしていた。
「惜しいことをしたなあ」
ぽつりと岩松が言った。
「惜しいこと?」
絹が、手をとめずにやさしく聞きかえす。
「鼠小僧《ねずみこぞう》を仕置きにしてしまってよう」
「あら……」
絹はふと笑った。また始まったと思う。鼠小僧次郎吉が江戸で処刑されたのは二か月前のことだ。東海道の宿場である熱田には全国の出来事が何かと早く伝わって来る。
「何やら、俺と兄弟のような気がしてな」
岩松は、傍《かたわ》らにすやすやと眠っている岩太郎の寝顔に目をやりながら言う。
「そんな馬鹿な」
絹が言い、房も、
「またいやなことを言うで」
と、眉《まゆ》をひそめた。仁平が岩松を見て笑った。火鉢《ひばち》の炭が小さく跳《は》ねた。と、岩太郎が目をさまし、むっくりと起き上がると、小さな両手を前にのべて、絹の背にもたれた。
「ようし、起きたな」
寝起きのいい岩太郎を、岩松は起き上がって高く抱き上げた。岩太郎が喜んで、その柔らかい足で岩松の肩を蹴《け》った。
「こいつ!」
笑って見上げた岩松の顔に、小便がかかった。
「や、や、や、や、や」
岩松が笑い、
「あら、まあ」
他の三人も一緒に笑った。岩松の笑顔が最もうれしそうであった。
絹が岩太郎のむつきを取り替えた時だった。
「ごめんやす」
と、戸口に声がした。入って来たのは船頭の重右衛門と久吉だった。
「おう、これは親方、久しぶりやなあ」
岩松もさすがに驚いた。
「久しぶりやなあ、ほんとに。お前をずいぶん探したぜい。あれから二年になるなあ」
土間に立ったまま言う重右衛門に、房がその肥った体をかしこまらせて言った。
「ま、そんなところでは、話も何ですがな。ちょっとお入りやす」
言われるままに重右衛門は茶の間に上がった。久吉も重右衛門の後について上がった。
「へえー、宝順丸の船頭さんで……。その節は岩松がえろう迷惑をおかけしまして」
仁平はいんぎんに挨拶《あいさつ》した。房も絹もていねいに頭を下げる。
「今日はなあ、岩さん。早速だが頼みがあって来たでなあ」
重右衛門は言いながら、土産《みやげ》の菓子を差し出した。岩松は礼も言わずに、
「親方ぁ、千石船《せんごくぶね》に戻《もど》れと言う話なら、ごめんだで」
と、にべもない。
「お前そんな……」
房はあわてて、
「岩松、よう話を聞いてからお答えせんかいな」
「しかし、親方ぁ俺は船に乗る話なら、きっぱり断る。見てのとおり、年取った親父《おやじ》とお袋がいるだでな」
「なるほど、なるほど。だがのう、実はわしらもほとほと困ったことになってな。ほら、岩さんも知っての万蔵な、あいつが突然卒中で倒れてよ」
「万蔵?」
岩松の顔が動いた。万蔵は気のいい男で、岩松にも何かと親切にしてくれた男だ。
「うん。万蔵や。あいつが舵取《かじと》りをしていたんやがな。あれに倒れられて困っとるんや。長く乗ってくれとは言わん。あとひと往復か、二往復や。助けると思って、舵取りをやってくれんかのう」
「ひと往復か、二往復?」
岩松の目が絹に向けられた。絹は岩松を見たが、すぐに伏し目になった。絹も、岩松が船に乗るのを喜ばない。が、仁平が言った。
「岩松、お前もそのぐらいのことをする義理はあるやろう。御蔭参《おかげまい》りで、突然|脱《ぬ》けてしもうたでな」
房も言った。
「ほんとや、ほんとや。その節《せつ》は岩松がえろうすまんことをしましたな、親方さん」
重右衛門が大きく手をふって、
「いやいや、御蔭参りは天下御免《てんかごめん》だでな。只《ただ》な、突然の病人が出たで、わしらもあわててな」
と岩松を見た。岩松は、
「一度乗ると、またずるずると乗ってしまうかも知れせん。悪いが、やはり断るわ」
と、そっ気ない。絹は重右衛門と久吉の前に茶を出した。そして、
「あら!?」
と、軽く驚きの声を上げた。絹は、二年前の久吉を思い出したのだ。毎日のように久吉は、この長屋の小路をうろついていた。久吉はそれと気づかれて、
「えへへ」
と笑って首をすくめた。岩松はその久吉を怪訝《けげん》そうに見たが、
「なんや、あん時の餓鬼《がき》か。もうすっかり大人やないか」
と、笑顔になった。その岩松の膝《ひざ》の中に、岩太郎がすっぽと腰をおろした。
「ええ坊ややなあ」
重右衛門が手を伸ばすと、岩太郎は岩松にしがみついた。が、久吉が手を伸ばすと、すぐに久吉の膝に移った。それを眺《なが》めながら、重右衛門は重ねて言った。
「なあ、岩さん。今回|只《ただ》の一回きりや。熱田から米を積んで三日後には出るんや。何とか助けてもらえんかのう」
岩松は腕組みをしたまま、返事をしない。その岩松を、仁平、房、絹がじっとみつめた。
「そうかあ。やっぱりいかんか」
重右衛門はがっかりしたように言い、
「どうしてまたあんなに船の好きなあんたが、船を見限ったものかのう。いや、えらい邪魔をした」
と立ち上がった。
「えらいすまんことで」
仁平と房が額を畳にすりつけた。久吉は岩太郎を岩松に渡そうか、絹に渡そうかと戸惑った末、岩松に手渡した。岩松は岩太郎の頬《ほお》に、自分のひげ面をすり寄せながら、不意に言った。
「親方、今度一度だけなら、乗ってもいいで」