一
御蔭参《おかげまい》りの年から二年は過ぎた。すなわちこの日、天保《てんぽう》三年(一八三二)の十月一日——。久吉と音吉が、田上の小作頭《こさくがしら》の家に使いに行った日のように、山にはあけびが熟し、芒《すすき》が白く輝く秋のひと日であった。
今朝、朝日が海にきらめく頃《ころ》、樋口家の持ち船宝順丸が、小野浦の沖に碇《いかり》をおろした。いつもは、碇をおろすや否や、伝馬《てんま》こみが真っ先に取り外《はず》され、帰り荷が艀《はしけ》に積みおろされる。が、今朝小野浦の浜に到着した伝馬船には、舵取《かじと》りの万蔵《まんぞう》が長々と横たわっていた。万蔵は昨夜、突如卒中《とつじよそつちゆう》で倒れたのである。万蔵の傍《そば》には、その息子|唐蔵《とうぞう》が不安げに見守っていた。十七歳の唐蔵は宝順丸の炊《かしき》であった。
万蔵が戸板で自分の家に運びこまれたあとは、何事もなかったかのように、浜はおろし荷で賑《にぎ》わった。樋口家の材木置き場に、天城欅《あまぎけやき》や女竹がうず高く積み終えられた頃は、もう正午を過ぎていた。
樋口家の広い台所では、水主《かこ》や下働きの男たちが、振る舞い酒に酔っていた。その中で、一番大きな声で話しているのは久吉だ。
「全く、胸がすーっとしたで。何せ、一着やからなあ。一着やでえ」
久吉は得意そうに目の前の音吉を見た。音吉の傍《そば》には、琴が下働きの女と一緒に給仕をしていた。
久吉は去年から宝順丸に乗りこんでいる。音吉も去年は二度|程《ほど》船に乗った。が、今年は船主の源六が音吉を重宝《ちようほう》がって、自分の傍《そば》から放さなかった。
「来年は音も十五やからな。そしたら、船に乗せてやるでな」
源六はいつも弁解するようにそう言った。今年久吉は十五、音吉は十四だが、肩幅も広く、背丈も五尺を越えている。琴の肩にも娘らしい丸みが出、頬《ほお》から首にかけて、ふっくらと色白な娘となっていた。
「一着か。大したものだなあ」
音吉が相槌《あいづち》を打つ。
「おう、大したものよ。何せ大坂から江戸まで、たったの四日だでな」
久吉は骨太くなった指を四本突き出して、男達や下働きの者たちを見た。
「へえー、四日なあ。大坂から江戸までは、半月もかかると聞いとったが……」
男の一人が、空《から》になった徳利《とくり》を耳の傍《そば》でふりながら、感心したように言う。
「何せ新酒番船の競争だでな」
音吉はおとなしくうなずく。新酒番船には、新酒を積みこむ。新酒は前年度に仕込まれた寒中酒だ。この新酒を積みこんだ何|隻《せき》もの千石船《せんごくぶね》が大坂を出る時は、三味線《しやみせん》や太鼓《たいこ》で、賑《にぎ》やかに見送られる慣いだった。着荷が早ければ早いほど、江戸の問屋は、酒の値を吊《つ》り上げることができる。通常二週はかかる江戸までの船路を、風が幸いすれば三日で着くこともあった。第一着の千石船は、見送りの時にも劣らぬ賑《にぎ》わいのうちに迎えられる。船頭はこれも慣わしの赤襦袢《あかじゆばん》一つで、手ぶりもおかしく踊りながら繰りこみ、祝い酒と金一封を振る舞われるのだ。
この一着を、今年は宝順丸が勝ち取ったのだ。が、その時の無理が、舵取《かじと》りの万蔵の上にかかったことを、久吉は知らない。久吉は只、一着になったことが無性《むしよう》にうれしいのだ。
「船頭さんはなあ。踊りがうまいでえ。赤襦袢一つでよ。こうやってなあ」
立ち上がって久吉は、片足を高く上げ、両手をかざし、首を傾けてみせた。琴や女たちがおかしそうに笑った。久吉は得意になって踊ってみせる。音吉も笑った。と、その時、
「音吉」
と、あけ放した次の間から源六が大声で呼んだ。一瞬、誰もがしんとした。ふだん源六は、滅多に大きな声を出さない。いつも穏やかにものを言う。
「はい」
音吉は坐《すわ》りなおした。源六は盃《さかずき》を置きながら言った。
「音吉、宝順丸から病人が出た。それは知っとるな」
「はい、知っております」
「宝順丸の水主たちは、わしの家族も同然や。それも知っとるな」
「はい」
「知っておればよい。自分の家族に急病人が出た時、余り大声で笑わぬものじゃ」
「はい。すまんことをしました」
音吉は素直に詫《わ》びた。大声ではしゃいだのは久吉だ。ひょうきんに踊って笑わせたのも久吉だ。が、源六は久吉を咎《とが》めず、音吉を咎めた。その心を音吉はすぐに悟《さと》った。ふだん源六は音吉に言い聞かせているからだ。
「目下《めした》の者の手柄《てがら》は、目下の者の手柄だ。自分の手柄も目下の者の手柄だ。但《ただ》し、目下のあやまちは自分の責任じゃ。お前が、お琴のあやまちをかぶったのと、同じことじゃ。これが上に立つ者の第一の心がけじゃ」
源六は音吉を、将来の船頭船主として育てていた。音吉自身、幾度そう言われてみても、自分より年上の水主《かこ》たちを、自分の部下と思うことはできなかった。だが今、大勢の前で、源六から咎められた時、音吉は、将来少なくとも、久吉の主《あるじ》になるのだということは、わかったような気がした。水主たちはお互いに顔を見合わせた。と、源六がつづいて言った。
「音吉、万蔵が倒れ、唐蔵も船をおりる。それでな音吉、お前を唐蔵の代わりに乗せることにした。みんなもわかったな」
「へえーっ」
一同が頭を下げた。
「だがのう。舵取《かじと》りの代わりは、すぐにはみつからん。十月十日には、御用米を熱田で積んで、江戸にまわらねばならんでな。困ったものじゃ」
「ほんまに困ったこっちゃなあ、親方さま」
水主の利七が答えた。まだ二十歳になったばかりの、元気のいい若者だ。
「こんな時に、岩松がいたらなあ」
顔も体も細い三四郎が言った。船頭の重右衛門がうなずいて、
「全くよのう。岩松っちゅう男は、変屈者だが、仕事の出来る男だでなあ」
「あいつ、御蔭参《おかげまい》りに脱《ぬ》け出してもう二年。そのまま梨《なし》の礫《つぶて》や」
勝五郎が言った。
「あいつは確か、熱田の宮宿だと聞いていたが……」
重右衛門が、盃《さかずき》を口に運びながら言った。
「宮宿と言うても、広いでなあ」
利七が言った。
「誰か、岩松の家を知らんかのう」
重右衛門が真剣な顔をした。江戸への航海に、腕利きの舵取《かじと》りが必要なのだ。
「知らんなあ」
「俺も知らん」
「あいつは変わりもんだったでな。家のことなど聞いたこともない」
口々に言った時、音吉がはたと膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「久吉、お前確か岩松さんの家を知ってたな」
「本当か、久吉!?」
久吉が答えるより先に、重右衛門が体を乗り出した。久吉は首をかしげて、
「岩松? そんな男、知らんがな」
「知らんことないやろ。お前、熱田の橋の上で、川に投げられそうになった時……」
言いかけた音吉に、
「なんや、あの男か! そう言えば岩松とか言うたな。知っとる、知っとる。七里《しちり》の渡《わた》しのすぐ傍《そば》や」
久吉の言葉に、一同が色めき立った。
「おう! 久吉が知っておるのか。七里の渡しと言えば、今度米を積む港だ。久吉、その男の家を、はっきりと知っておるな」
源六が念を押した。
「知っとるどころか、目をつぶってでも行けますで、親方さま」
久吉は目をつぶって、にやっと笑ってみせた。先程《さきほど》源六にそれとなく咎《とが》められたことを、久吉はもう忘れている。
「音吉つぁん」
琴が音吉の袖《そで》を引いた。音吉がふり返ると、琴が目まぜをし、すっとその場を立って行く。しばらくしてから、音吉はさあらぬ態で席を立った。琴が門の前の楠《くす》の木の下に立っている筈《はず》なのだ。門を出ると、案の定《じよう》琴が木の下に頼りなげに佇《たたず》んでいた。
「音吉つぁん、船に乗るの?」
琴が不安げに言った。
「なんや、お琴、泣くことはあらせん。ほんのひと月もすれば、すぐに帰るでな」
「でも……」
「みやげを買ってくるで。赤いかんざしでも買って来ようか」
音吉は大人びた口調で言った。が、琴は激しく首をふって、
「いらん、うち、音吉つぁんと離れとうないのや。ほんの一時《いつとき》だってな」
白桃のような頬《ほお》に、涙がこぼれ落ちた。
今朝、朝日が海にきらめく頃《ころ》、樋口家の持ち船宝順丸が、小野浦の沖に碇《いかり》をおろした。いつもは、碇をおろすや否や、伝馬《てんま》こみが真っ先に取り外《はず》され、帰り荷が艀《はしけ》に積みおろされる。が、今朝小野浦の浜に到着した伝馬船には、舵取《かじと》りの万蔵《まんぞう》が長々と横たわっていた。万蔵は昨夜、突如卒中《とつじよそつちゆう》で倒れたのである。万蔵の傍《そば》には、その息子|唐蔵《とうぞう》が不安げに見守っていた。十七歳の唐蔵は宝順丸の炊《かしき》であった。
万蔵が戸板で自分の家に運びこまれたあとは、何事もなかったかのように、浜はおろし荷で賑《にぎ》わった。樋口家の材木置き場に、天城欅《あまぎけやき》や女竹がうず高く積み終えられた頃は、もう正午を過ぎていた。
樋口家の広い台所では、水主《かこ》や下働きの男たちが、振る舞い酒に酔っていた。その中で、一番大きな声で話しているのは久吉だ。
「全く、胸がすーっとしたで。何せ、一着やからなあ。一着やでえ」
久吉は得意そうに目の前の音吉を見た。音吉の傍《そば》には、琴が下働きの女と一緒に給仕をしていた。
久吉は去年から宝順丸に乗りこんでいる。音吉も去年は二度|程《ほど》船に乗った。が、今年は船主の源六が音吉を重宝《ちようほう》がって、自分の傍《そば》から放さなかった。
「来年は音も十五やからな。そしたら、船に乗せてやるでな」
源六はいつも弁解するようにそう言った。今年久吉は十五、音吉は十四だが、肩幅も広く、背丈も五尺を越えている。琴の肩にも娘らしい丸みが出、頬《ほお》から首にかけて、ふっくらと色白な娘となっていた。
「一着か。大したものだなあ」
音吉が相槌《あいづち》を打つ。
「おう、大したものよ。何せ大坂から江戸まで、たったの四日だでな」
久吉は骨太くなった指を四本突き出して、男達や下働きの者たちを見た。
「へえー、四日なあ。大坂から江戸までは、半月もかかると聞いとったが……」
男の一人が、空《から》になった徳利《とくり》を耳の傍《そば》でふりながら、感心したように言う。
「何せ新酒番船の競争だでな」
音吉はおとなしくうなずく。新酒番船には、新酒を積みこむ。新酒は前年度に仕込まれた寒中酒だ。この新酒を積みこんだ何|隻《せき》もの千石船《せんごくぶね》が大坂を出る時は、三味線《しやみせん》や太鼓《たいこ》で、賑《にぎ》やかに見送られる慣いだった。着荷が早ければ早いほど、江戸の問屋は、酒の値を吊《つ》り上げることができる。通常二週はかかる江戸までの船路を、風が幸いすれば三日で着くこともあった。第一着の千石船は、見送りの時にも劣らぬ賑《にぎ》わいのうちに迎えられる。船頭はこれも慣わしの赤襦袢《あかじゆばん》一つで、手ぶりもおかしく踊りながら繰りこみ、祝い酒と金一封を振る舞われるのだ。
この一着を、今年は宝順丸が勝ち取ったのだ。が、その時の無理が、舵取《かじと》りの万蔵の上にかかったことを、久吉は知らない。久吉は只、一着になったことが無性《むしよう》にうれしいのだ。
「船頭さんはなあ。踊りがうまいでえ。赤襦袢一つでよ。こうやってなあ」
立ち上がって久吉は、片足を高く上げ、両手をかざし、首を傾けてみせた。琴や女たちがおかしそうに笑った。久吉は得意になって踊ってみせる。音吉も笑った。と、その時、
「音吉」
と、あけ放した次の間から源六が大声で呼んだ。一瞬、誰もがしんとした。ふだん源六は、滅多に大きな声を出さない。いつも穏やかにものを言う。
「はい」
音吉は坐《すわ》りなおした。源六は盃《さかずき》を置きながら言った。
「音吉、宝順丸から病人が出た。それは知っとるな」
「はい、知っております」
「宝順丸の水主たちは、わしの家族も同然や。それも知っとるな」
「はい」
「知っておればよい。自分の家族に急病人が出た時、余り大声で笑わぬものじゃ」
「はい。すまんことをしました」
音吉は素直に詫《わ》びた。大声ではしゃいだのは久吉だ。ひょうきんに踊って笑わせたのも久吉だ。が、源六は久吉を咎《とが》めず、音吉を咎めた。その心を音吉はすぐに悟《さと》った。ふだん源六は音吉に言い聞かせているからだ。
「目下《めした》の者の手柄《てがら》は、目下の者の手柄だ。自分の手柄も目下の者の手柄だ。但《ただ》し、目下のあやまちは自分の責任じゃ。お前が、お琴のあやまちをかぶったのと、同じことじゃ。これが上に立つ者の第一の心がけじゃ」
源六は音吉を、将来の船頭船主として育てていた。音吉自身、幾度そう言われてみても、自分より年上の水主《かこ》たちを、自分の部下と思うことはできなかった。だが今、大勢の前で、源六から咎められた時、音吉は、将来少なくとも、久吉の主《あるじ》になるのだということは、わかったような気がした。水主たちはお互いに顔を見合わせた。と、源六がつづいて言った。
「音吉、万蔵が倒れ、唐蔵も船をおりる。それでな音吉、お前を唐蔵の代わりに乗せることにした。みんなもわかったな」
「へえーっ」
一同が頭を下げた。
「だがのう。舵取《かじと》りの代わりは、すぐにはみつからん。十月十日には、御用米を熱田で積んで、江戸にまわらねばならんでな。困ったものじゃ」
「ほんまに困ったこっちゃなあ、親方さま」
水主の利七が答えた。まだ二十歳になったばかりの、元気のいい若者だ。
「こんな時に、岩松がいたらなあ」
顔も体も細い三四郎が言った。船頭の重右衛門がうなずいて、
「全くよのう。岩松っちゅう男は、変屈者だが、仕事の出来る男だでなあ」
「あいつ、御蔭参《おかげまい》りに脱《ぬ》け出してもう二年。そのまま梨《なし》の礫《つぶて》や」
勝五郎が言った。
「あいつは確か、熱田の宮宿だと聞いていたが……」
重右衛門が、盃《さかずき》を口に運びながら言った。
「宮宿と言うても、広いでなあ」
利七が言った。
「誰か、岩松の家を知らんかのう」
重右衛門が真剣な顔をした。江戸への航海に、腕利きの舵取《かじと》りが必要なのだ。
「知らんなあ」
「俺も知らん」
「あいつは変わりもんだったでな。家のことなど聞いたこともない」
口々に言った時、音吉がはたと膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「久吉、お前確か岩松さんの家を知ってたな」
「本当か、久吉!?」
久吉が答えるより先に、重右衛門が体を乗り出した。久吉は首をかしげて、
「岩松? そんな男、知らんがな」
「知らんことないやろ。お前、熱田の橋の上で、川に投げられそうになった時……」
言いかけた音吉に、
「なんや、あの男か! そう言えば岩松とか言うたな。知っとる、知っとる。七里《しちり》の渡《わた》しのすぐ傍《そば》や」
久吉の言葉に、一同が色めき立った。
「おう! 久吉が知っておるのか。七里の渡しと言えば、今度米を積む港だ。久吉、その男の家を、はっきりと知っておるな」
源六が念を押した。
「知っとるどころか、目をつぶってでも行けますで、親方さま」
久吉は目をつぶって、にやっと笑ってみせた。先程《さきほど》源六にそれとなく咎《とが》められたことを、久吉はもう忘れている。
「音吉つぁん」
琴が音吉の袖《そで》を引いた。音吉がふり返ると、琴が目まぜをし、すっとその場を立って行く。しばらくしてから、音吉はさあらぬ態で席を立った。琴が門の前の楠《くす》の木の下に立っている筈《はず》なのだ。門を出ると、案の定《じよう》琴が木の下に頼りなげに佇《たたず》んでいた。
「音吉つぁん、船に乗るの?」
琴が不安げに言った。
「なんや、お琴、泣くことはあらせん。ほんのひと月もすれば、すぐに帰るでな」
「でも……」
「みやげを買ってくるで。赤いかんざしでも買って来ようか」
音吉は大人びた口調で言った。が、琴は激しく首をふって、
「いらん、うち、音吉つぁんと離れとうないのや。ほんの一時《いつとき》だってな」
白桃のような頬《ほお》に、涙がこぼれ落ちた。