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海嶺117

时间: 2020-03-18    进入日语论坛
核心提示:二 岩松は、音吉の寝床に腹這《はらば》いになって、そっと墨を磨《す》っていた。今夜は、男たちも女たちもくたくたに疲れて眠
(单词翻译:双击或拖选)
 岩松は、音吉の寝床に腹這《はらば》いになって、そっと墨を磨《す》っていた。今夜は、男たちも女たちもくたくたに疲れて眠っている。いつもより大きないびきが、あちこちの幕越しに聞こえてくる。男たちは昨夜夜中に漁に出かけ、午後になって帰って来た。まれに見る大きな鯨《くじら》を仕とめて来た。その鯨の処理で、男も女も忙しかった。他の家の者たちも手伝いに来た。アー・ダンクも白い歯を見せて機嫌《きげん》よく笑っていたし、ヘイ・アイブもまたいつもより明るい笑顔を絶やさずに仕事をしていた。
遅い夕食が終わると、男たちは死んだように眠りはじめた。岩松が案ずるようなことは、何一つ起こらなかった。が、岩松は内心ひやひやしていた。男たちの留守中、懸硯《かけすずり》の中から半紙と筆と墨硯を盗み出したことが、いつ発覚するか、わからないのだ。昼間のことを思うと、思い出しても冷や汗が出る。音吉と久吉を竹馬に乗せ、女子供たちを外に誘い出させた。竹馬を見た者は誰もいない。家の中にいた女たちから年寄りまで、外に出て眺《なが》め興じた。子供たちは興奮して、大声で騒いだ。他の家々からも駈《か》け集まった。その間に、岩松は素早く盗み出したのだ。そして音吉の寝床にそれらを隠したのだ。三段ベッドになっているその一番上に、音吉の寝床はある。そこが格好の隠し場であった。そこまで目の届く大男はいない。
(万事うまくいった)
そう思って梯子《はしご》から降りかけた時、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブが梯子の下に立って、岩松を見上げていた。
(しまった!)
岩松は見られたと思った。が、つとめて平然と梯子を降りた。ヘイ・アイブは、いつもの深い眠りから覚めたようなまなざしを岩松に向けたまま、身動きもしない。
(俺は何も悪いことはしていない。墨も硯も、元々は俺たちの物だ)
岩松は自分自身に言い聞かせて、ヘイ・アイブを見返した。ヘイ・アイブの目に、複雑な微笑が浮かんだ。未《いま》だ見せたことのない微笑であった。
(いま、ぬすむところをみていたわ)
その目はそう言っているように見えた。が、そうでないかも知れない。確かにこの自分が、音吉の寝床に上がるまで、家の中には人は一人もいなかった。揺籃《ゆりかご》の中に赤子が二人眠っていただけだ。
岩松はそう思いかえして、ヘイ・アイブから視線を外《そ》らした。と、ヘイ・アイブが何か言った。短い言葉だった。音吉の寝床に上がって、何をしていたのか、と尋《たず》ねられたような気がした。岩松は黙って首を横にふった。ヘイ・アイブの血色《けつしよく》のいい口もとがかすかにほころび、白い歯が見えた。ヘイ・アイブは素早くあたりを見まわし、岩松の頬《ほお》に唇《くちびる》を寄せた。あっと言う間もなかった。一歩岩松が退いた時、入り口に人影がさした。化粧の厚い、岩松の一番|嫌《きら》いな女だった。音吉が意識を失って家の中に運びこまれて来た時、一心に看護した女|祈祷師《きとうし》クワー・レス(鶴の意)である。目鼻立ちの整った、豊満な体の女だった。目の光が強かった。それがこのクワー・レスを妖しくも、美しくも見せていた。美しさから言えば、ヘイ・アイブより上かも知れない。が、岩松の肌《はだ》には合わなかった。
女祈祷師クワー・レスは、意味ありげに岩松とヘイ・アイブを見くらべた。ヘイ・アイブは小声で岩松に何か言った。岩松は黙って突っ立っている。クワー・レスは両手を腰に置き、甲《かん》高い声を上げて笑った。その笑い声は長過ぎるように思われた。クワー・レスは岩松を指さし、ついでヘイ・アイブを指さし、ひとこと鋭く何か言うと、そのまま炉端《ろばた》のほうに去って行った。ヘイ・アイブもさりげなく岩松の傍《そば》を離れ、岩松だけが外へ出た。
今、墨を磨《す》りながら、岩松はその昼の出来事をくり返し思っていた。ヘイ・アイブに、盗みの現場を見られたかも知れない。ヘイ・アイブが自分の頬に唇を寄せたことを、クワー・レスに見られたかも知れない。そう思うと、岩松は自分が逃れようのない所に追いこまれたような、胸苦しさを感じた。
ヘイ・アイブが盗みの現場を見たとしても、アー・ダンクには告げ口はすまいと思う。ヘイ・アイブが自分に好意以上のものを寄せているのは確かだ。頬に、ヘイ・アイブの柔らかい唇《くちびる》の感触がまだ残っている。が、女のことだ。いついかなることで夫のアー・ダンクに告げないわけでもない。
しかし、それはまだ大きなことではない。もっと恐ろしいのは、あの女祈祷師クワー・レスだ。クワー・レスは、ヘイ・アイブが自分に唇を寄せるところを見ていたかも知れないのだ。気がついた時には、クワー・レスは戸口に立っていた。
(もし、見ていたとしたら……)
あの女は必ずアー・ダンクに知らせるような気がする。
(いや、見ていなくとも……)
ヘイ・アイブは余りにも自分の傍《そば》に寄り過ぎていたと思う。クワー・レスが大声で笑ったのは、あれは何であったのか。
(いつ、アー・ダンクに殺されるか、わからぬぞ)
岩松は身の危険を感じた。硯《すずり》や筆は、使ったあと再び返しておけばそれでよい。としても、人目のある時に返すわけにはいかない。それもまたひと苦労だ。あれこれ考えると、墨を磨る手に力が入らない。
(とにかく、今夜のうちにこれを書かなければ……)
男たちのいびきが間断《かんだん》なく聞こえる。高いいびきが、はたと止まる。と、そのいびきは低く変わる。それらを耳に集めながら、岩松はそっと半紙を伸べた。腹這《はらば》いになったまま筆を持つ。淡い灯影が土間を照らしてはいるが、手もとが暗い。岩松は目をかっとひらいて、書きはじめた。
〈日本 天保《てんぽう》三|辰年《たつどし》十月十一日志州鳥羽浦港出ず尾州尾張国廻船《びしゆうおわりのくにまわりせん》宝順丸重右衛門船十四人乗り熱田宮宿岩松〉
息を詰めるようにして、岩松は一気にこう書いた。岩松たち水主《かこ》にとって、何月何日誰の船で、どこを出たかという事実の記録は、最も重要な記録であった。それは言わば、自分自身の手形とも言えた。書きながら、尾州尾張国という字が、岩松の胸を熱くした。
〈十四人中十一人死にて岩松久吉音吉の三人残る 嵐に遭《あ》いて一年二箇月漂流したればなり 今異国に捕らえられ難儀して居り何方様《いずかたさま》にてもこの文読み次第助けて下され 命危し 至急助けて下され〉
ここまで書いた時、がたんと大きな音がした。岩松はあわてて筆をとめた。誰かが何か言っている。男の声だ。岩松は耳を澄ました。が、声はそのあと聞こえない。どうやら寝言らしい。岩松は再び筆を固く握りしめて書いて行く。
〈必ず必ず日本に帰りたし 助けて下され 疾《と》く疾く助けて下され
[#3字下げ]天保五年一月五日 岩松書く〉
書き上げた書状を岩松は読み返した。これをバンクーバー島から来る男に渡そうと岩松は思った。そうすれば、この書状は誰かの目にふれる。誰かはまた誰かに手渡してくれるにちがいない。この字が人に読めるかどうかは、岩松には問題ではなかった。自分のひたすらな願いが通じない筈《はず》はないと、岩松は確信に満ちて、危険を顧みずに書いたのだ。それは滑稽《こつけい》なことかも知れなかった。無駄《むだ》なことかも知れなかった。が、書かないよりはましだと岩松は判断したのだ。
岩松は、更にまた一枚半紙をひろげた。
〈日本 天保三年十月十一日志州鳥羽浦港出ず 尾州尾張国廻船宝順丸重右衛門船十四人乗り熱田宮宿岩松より
父様母様絹へ
岩松は疾《と》うに死にたりと諦《あきら》め暮らし居るや わしは異国に生きて居る 家を思わぬ日一日もなし 足一本手一本になりても必ず必ず帰る故《ゆえ》待ちて下され 必ず待ちて下され 異国は言葉も通ぜず恐ろしき所なり 熱田神宮に朝夕祈って下され 父様母様達者で居て下され
岩太郎 わしのこと覚えて居るか 胸|掻《か》きむしらるる思いなり〉
うす暗がりの中で、紙の音をさせぬように、一字一字書いて行くのだ。ひどく疲れる仕事であった。書き終わると、岩松は激しい疲れを覚えた。二通をそれぞれ半紙に包み、枕《まくら》もとに置いた。
(あとはこの硯《すずり》と墨をいつ返すかだ)
岩松は迷った。昼間は人目がある。再び竹馬騒ぎを起こすわけにもいかない。思い切って、今返すべきか。今ならば誰も彼もぐっすり寝こんでいる。だがそれは、余りに危険であった。酋長《しゆうちよう》とその妻が寝ている傍《かたわ》らに懸硯はある。その引き出しをあけるのは、余りに無謀なことであった。
(と言って、万一ないことがわかれば……)
岩松はそう思ったが、
「わかったらわかった時のことだ」
低く呟《つぶや》いて、寝床の上に仰向けになった。しんしんと夜が更けていく。打ち寄せる波の音が急に大きくなったような気がした。
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