一
九月も半ばに入った。即《すなわ》ち三人がフォート・バンクーバーに来て、三か月は過ぎようとしていた。九月に入るとフォート・バンクーバーの風は、俄《にわか》に寒くなった。それは涼しいというより、やはり寒いといったほうが適切なほどの冷たさであった。およそ北緯四十六度に近いフォート・バンクーバーの位置は、宗谷《そうや》海峡の緯度と同じである。六、七、八月は、雨も少なく暑い日がつづいた。それが九月に入ると、ぱたりと暑さが去り、俄《にわか》に太陽が遠のいた感じだった。この幾日か雨がつづいたが、それでも今朝は、青空は見えないまでも、雨が止んでいた。
今、岩松は、洗面台の上の壁の鏡に向かってひげを剃《そ》っている。薄刃のレザーを巧みに使いながら、
「音、昨夜明け方な、俺は親方の夢を見たで」
と、鏡の中の音吉を見た。十六歳の音吉はまだひげを剃るまでもない。グリーンからもらったノートに、鉛筆で単語を書きとめていた。音吉は暇さえあれば、ノートをひらく。英語を覚えたいというより、学ぶことは何でも、好きなのだ。ここに来て三か月、日曜日以外は朝の学校と、つづくグリーンの、二時間の特別教授で、三人は次々と言葉を覚えていった。新しい言葉が、毎日流れこむように耳に入ってくる。音吉はその言葉を、日本への土産《みやげ》にしたいと思っていた。そして、できれば簡単な通辞ぐらいはできるようになりたいと、近頃《ちかごろ》は考えるようになった。だから尚《なお》のこと、ノートに書きつけることが多くなる。
今ひらいた音吉のノートには、十二か月の月の名、四季の名、曜日が整然と記されている。
(セプテンバーやな、九月は)
そう思った時、岩松に声をかけられたのだ。
「親方さんの夢? 親方さん、どんな様子やった?」
ノートを閉じて、音吉は椅子《いす》から立ち上がった。久吉は便所に行っていた。便所は外便所なのだ。
「うん、親方なあ、元気な顔で飯を食うていたで」
「さよか。元気な顔で、飯をなあ……」
音吉はふっと胸が詰まった。重右衛門や兄の吉治郎たちの墓が、フラッタリーの岬にある。ドウ・ダーク・テールの親切な計らいで、墓に別れを告げては来たが、音吉にはひどく心残りなのだ。吉治郎や重右衛門が、せめて骨だけでも日本に持って帰って欲しいと、悲痛な叫びを上げているような気がして、時折《ときおり》夜も眠れなくなることがある。フラッタリー岬まではかなりの距離だが、日本に帰る時、あの墓を掘り起こして、骨を良参寺に持って帰り、和尚《おしよう》に懇《ねんご》ろに弔《とむら》ってもらいたいと思う。重右衛門の夢を見たという岩松も、きっと心にかかっているにちがいない。
「うん。白い歯を見せてな。つやつやした顔だった。何を言いたくて夢に現れたのかなあ」
「ほんとになあ」
音吉は、重右衛門のありし日のひげを剃《そ》る様を思い浮かべた。そのひげを剃る重右衛門の前に、久吉と代わる代わるに、鏡を向けていたことを思い出す。
(あれは、かねの鏡やった)
音吉は、ソープをつけてレザーを使っている岩松を見ながら、重右衛門のひげを剃る様を思った。水でひげをぬらしただけで、剃刀《かみそり》でじゃりじゃりと剃っていた。
(親方さんは、ガラスの鏡も、レザーも、ソープも知らなんだ)
自分たちは正に生き残ったのだと、音吉は改めて思う。もし幸いにしてあの全員が助かっていたなら、どんなに愉快であったろう。あのフラッタリー岬にいても、十四人いれば心強かった筈《はず》だ。このフォート・バンクーバーに来ても、帰る楽しみはもっともっと大きかったと思う。
その時、久吉が部屋に戻って来た。
「寒いわ、今朝《けさ》は」
言ってから、
「な、舵取《かじと》りさん。ここの廁《かわや》だけは、わしは嫌いや。尻をぺたんとつけて、何や気持ち悪いわ。いつまで経っても廁ばかりは馴《な》れせんわ」
久吉は白人たちの真似《まね》をして、肩をすくめ両手を広げて見せた。
「ほんとに廁はわしも好かん。ここに来た最初は、お蔭《かげ》で何日も通じなかったわ」
「廁は岬のほうがよかったわな。日本と同じだったでな。穴を掘った上に、枝を渡しただけやったでな。あのほうが簡単でよかったわ」
「そうやな、鹿の声が聞こえたりして、風流やったな」
「こっちの廁は、鳥の声が聞こえても、聞く気はあらせん。尻ぺたが気になって」
その久吉に、音吉が言った。
「あんな久吉、舵取《かじと》りさんな、親方さんの夢見たんやって」
「へえー、舵取りさんもか。わしも見たんやで、昨夜。で、どんな夢やった、舵取りさん」
「ああ、元気で飯を食うてた夢や」
剃《そ》り終わった顔に、タオルを当てながら、岩松が答えた。
「何やって? 飯食うてた!? 何や、同じ夢や」
久吉は驚いて、
「何だかいややな。親方さんたち、腹が空《す》いて、餓鬼《がき》になったんとちがうか」
久吉の言葉に、音吉が言った。
「餓鬼になんぞならせん。な、舵取りさん」
「ああ、餓鬼になんぞなる人やない。ちゃあんと成仏《じようぶつ》したわ」
「したら一体、何で同じ時に飯を食う夢を見たんや」
「まあ、そんなこともあるやろ。たまにはな」
「それはそうやけど、でも気になるわ」
久吉は珍しく夢を気にした。
「さ、朝食やで。早う飯を食うて、スクール・チャーチに行かなならんで」
岩松は気にもとめぬふうであった。ガラス窓越しに、ポプラの木がしきりに風にさやぐのが見えた。
今、岩松は、洗面台の上の壁の鏡に向かってひげを剃《そ》っている。薄刃のレザーを巧みに使いながら、
「音、昨夜明け方な、俺は親方の夢を見たで」
と、鏡の中の音吉を見た。十六歳の音吉はまだひげを剃るまでもない。グリーンからもらったノートに、鉛筆で単語を書きとめていた。音吉は暇さえあれば、ノートをひらく。英語を覚えたいというより、学ぶことは何でも、好きなのだ。ここに来て三か月、日曜日以外は朝の学校と、つづくグリーンの、二時間の特別教授で、三人は次々と言葉を覚えていった。新しい言葉が、毎日流れこむように耳に入ってくる。音吉はその言葉を、日本への土産《みやげ》にしたいと思っていた。そして、できれば簡単な通辞ぐらいはできるようになりたいと、近頃《ちかごろ》は考えるようになった。だから尚《なお》のこと、ノートに書きつけることが多くなる。
今ひらいた音吉のノートには、十二か月の月の名、四季の名、曜日が整然と記されている。
(セプテンバーやな、九月は)
そう思った時、岩松に声をかけられたのだ。
「親方さんの夢? 親方さん、どんな様子やった?」
ノートを閉じて、音吉は椅子《いす》から立ち上がった。久吉は便所に行っていた。便所は外便所なのだ。
「うん、親方なあ、元気な顔で飯を食うていたで」
「さよか。元気な顔で、飯をなあ……」
音吉はふっと胸が詰まった。重右衛門や兄の吉治郎たちの墓が、フラッタリーの岬にある。ドウ・ダーク・テールの親切な計らいで、墓に別れを告げては来たが、音吉にはひどく心残りなのだ。吉治郎や重右衛門が、せめて骨だけでも日本に持って帰って欲しいと、悲痛な叫びを上げているような気がして、時折《ときおり》夜も眠れなくなることがある。フラッタリー岬まではかなりの距離だが、日本に帰る時、あの墓を掘り起こして、骨を良参寺に持って帰り、和尚《おしよう》に懇《ねんご》ろに弔《とむら》ってもらいたいと思う。重右衛門の夢を見たという岩松も、きっと心にかかっているにちがいない。
「うん。白い歯を見せてな。つやつやした顔だった。何を言いたくて夢に現れたのかなあ」
「ほんとになあ」
音吉は、重右衛門のありし日のひげを剃《そ》る様を思い浮かべた。そのひげを剃る重右衛門の前に、久吉と代わる代わるに、鏡を向けていたことを思い出す。
(あれは、かねの鏡やった)
音吉は、ソープをつけてレザーを使っている岩松を見ながら、重右衛門のひげを剃る様を思った。水でひげをぬらしただけで、剃刀《かみそり》でじゃりじゃりと剃っていた。
(親方さんは、ガラスの鏡も、レザーも、ソープも知らなんだ)
自分たちは正に生き残ったのだと、音吉は改めて思う。もし幸いにしてあの全員が助かっていたなら、どんなに愉快であったろう。あのフラッタリー岬にいても、十四人いれば心強かった筈《はず》だ。このフォート・バンクーバーに来ても、帰る楽しみはもっともっと大きかったと思う。
その時、久吉が部屋に戻って来た。
「寒いわ、今朝《けさ》は」
言ってから、
「な、舵取《かじと》りさん。ここの廁《かわや》だけは、わしは嫌いや。尻をぺたんとつけて、何や気持ち悪いわ。いつまで経っても廁ばかりは馴《な》れせんわ」
久吉は白人たちの真似《まね》をして、肩をすくめ両手を広げて見せた。
「ほんとに廁はわしも好かん。ここに来た最初は、お蔭《かげ》で何日も通じなかったわ」
「廁は岬のほうがよかったわな。日本と同じだったでな。穴を掘った上に、枝を渡しただけやったでな。あのほうが簡単でよかったわ」
「そうやな、鹿の声が聞こえたりして、風流やったな」
「こっちの廁は、鳥の声が聞こえても、聞く気はあらせん。尻ぺたが気になって」
その久吉に、音吉が言った。
「あんな久吉、舵取《かじと》りさんな、親方さんの夢見たんやって」
「へえー、舵取りさんもか。わしも見たんやで、昨夜。で、どんな夢やった、舵取りさん」
「ああ、元気で飯を食うてた夢や」
剃《そ》り終わった顔に、タオルを当てながら、岩松が答えた。
「何やって? 飯食うてた!? 何や、同じ夢や」
久吉は驚いて、
「何だかいややな。親方さんたち、腹が空《す》いて、餓鬼《がき》になったんとちがうか」
久吉の言葉に、音吉が言った。
「餓鬼になんぞならせん。な、舵取りさん」
「ああ、餓鬼になんぞなる人やない。ちゃあんと成仏《じようぶつ》したわ」
「したら一体、何で同じ時に飯を食う夢を見たんや」
「まあ、そんなこともあるやろ。たまにはな」
「それはそうやけど、でも気になるわ」
久吉は珍しく夢を気にした。
「さ、朝食やで。早う飯を食うて、スクール・チャーチに行かなならんで」
岩松は気にもとめぬふうであった。ガラス窓越しに、ポプラの木がしきりに風にさやぐのが見えた。