床拭《ゆかふ》きとガラス磨きを終えた久吉と音吉は近くのパン製造所に入って行った。何十畳もある広い部屋の真ん中に、ベッドを二つ縦長に並べた程《ほど》の大きなこね台があった。一方の壁には、これまた大きながっしりとした小麦粉入れの箱が置かれてある。蓋《ふた》をあけると馬の飼い葉|桶《おけ》のような形だ。もう一方の壁には、煉瓦《れんが》で作った竈《かまど》が二つあった。一見《いつけん》博士やグリーンの家の一室にある暖炉を大きくしたようなものだが、薪《まき》の投げこみ口の上は、パンを蒸し焼きにする装置になっている。その大竈《おおがま》が二つ並んでいる。その竈《かまど》で焼き上げられた長いパンが、白布をかけた壁際の台の上に何本も積まれてあった。香《こう》ばしいパンの香りが部屋一杯に満ちている。
入って来た久吉と音吉を見て、白衣を着、白い帽子を頭に乗せた赤ら顔の男が、
「ハーイ オト キュウ」
と笑顔で迎えた。焼き上がったパンは、同じ砦《とりで》の中にある社員専用の店に運んで行くのだ。使い走りを引き受けていた音吉と久吉には、このパン運びも楽しいことのひとつだった。
「ザ スメルズ グード(いい匂いだな)」
久吉が英語で愛嬌《あいきよう》よく言った。白衣を着た四、五人の男たちが、何か言って笑った。この部屋はいつも陽気だ。
「けど、ここは暑いなあ。かなわんで」
久吉は首をすくめて見せた。只《ただ》でも暑い七月、大きな二つの竈に火が入れば、これはもう焦熱地獄だ。二人は、まだあたたかいパンを大きな籠《かご》に入れて外に出た。広い芝生が、七月の日の下にきらめいている。この二|丁《ちよう》四方|程《ほど》の砦の中には、高い塀《へい》に沿って将校、外交官、要員の家々、穀物倉庫、火薬庫、鍛冶屋《かじや》、大工小屋、樽《たる》製造所、洗濯《せんたく》小屋、それに料理所、インデアンとの交易所、そして雑貨店等があった。この雑貨店は、博士の家の真向かいにあった。ざっと一丁半程は離れている。音吉と久吉が雑用に当たっている時、岩松は造船所で手伝っていた。その器用さが買われて、造船所で一日二、三時間働いていたのである。ハドソン湾会社は、本命の毛皮の交易《こうえき》の外《ほか》に、農業や酪農も営み、製材、造船も営んでいた。製材所や造船所は、砦の外のコロンビア河の畔《ほとり》にあった。
久吉と音吉が、パンを運んで行くと、子供たちが駈《か》け寄って来た。
「オト」
「キュウ」
この地ではもう、音吉たち三人の名を知らぬ者はない。どこを歩いても、すぐに子供たちが寄って来る。その中に、あのラナルドがいた。どの子も、ほとんど混血児だ。中でもメーテスが一番多かった。メーテスとは、フランス人とインデアンの混血児である。だが音吉たちにとっては、どれも皆同じだ。毎朝学校で、一時間は机を並べて共に勉強する仲間でもある。子供たちが寄ってくると、二人は日本の童唄《わらべうた》や子守唄をうたう。子供たちが喜んで一緒にうたう。次々にせがまれると、久吉はお蔭参《かげまい》りの唄をうたう。
「おかげでさ するりとな 脱《ぬ》けたとさ」
久吉は陽気な声でうたうのだが、音吉はこの歌を聞くと、奇妙な気持ちになる。日本の国から脱《ぬ》け出てしまった自分たちを感ずるのだ。脱け出したくて脱けてしまったのではない。が、確かに脱けてしまったのだ。
二人は店に入った。広い店の中には、男や女たちが七、八人買い物をしていた。煉瓦色《れんがいろ》のシャツを着た白髪《しらが》まじりの店の主任が、
「サンキュー」
と、二人を見て声をかけた。
「ユア ウエルカム《どういたしまして》」
音吉が礼儀正しく頭を下げた。そしていつものようにパン棚《だな》にパンを並べた。店は四方に棚が設けられ、いつもパンを置く棚の上段に、皿やミルクポット、ボウル等の食器が並べられてある。パン棚の右手には、赤、白、黄色、グレー、紺、黒等の布地をはじめ、紅白、黒白等の色鮮やかな縞《しま》模様の布地が、着分《ちやくぶん》ずつたたんで重ねられてある。日本の着物地とはちがう。どれも服地なのだ。長靴《ながぐつ》がある。皮靴がある。シルクハットもある。かんじきもあれば、箒《ほうき》もある。煙草《たばこ》のパイプがあり、ランプがある。ローソクがある。鋸《のこぎり》、鉋《かんな》、ヤスリがある。塩、砂糖、石鹸《せつけん》、酢、ソース、様々な形のガラスビン、そしてマッチ等々、雑多な品が棚という棚にあふれていた。
音吉と久吉は、パンを棚に並べ終わると、店の中をぐるりと見まわした。
「音、この中で、ひとつだけ日本に持って行ってもいいと言われたら、何にする?」
「そうやなあ、わしはマッチやな」
「何や、マッチか」
「そうや、火打ち石で火をつけるのは面倒だでな。マッチなら、すぐにぽっと火がつくわ。母《かか》さまがきっと喜ぶで」
琴の名がのどまで出たが、口には出さなかった。
「そうやな。マッチを見たら、みんなびっくりするやろな。魔法かと思うやろな」
「ほんとにびっくりするで。船の上でな、初めてマッチを見た時、わしは仰天《ぎようてん》したでな」
マッチは一枚の薄い板に刻みが入れられてあり、刻まれた先端に燐《りん》が塗られてあった。それを一回|毎《ごと》に割《さ》いて使うようになっていた。初め、割くところを見た時、するめのような食物かと思ったものだ。それが、ちょっと、こするだけで火が点《つ》くのを見て、ひどく驚いたものだ。
「わしはな音、マッチより、やっぱりギヤマンのビンをもらうな。こりゃ驚くで」
「久吉、お前はよっぽどギヤマンが好きと見えるな」
先程も久吉は、ガラス窓を土産《みやげ》に持って帰りたいと言ったのだ。
「そうや。わしはギヤマンが好きや。アイ ラブ ギヤマンや」
久吉は楽しそうに笑った。今にも日本に帰れるというその思いだけが、久吉の胸を占めていた。
「音、もう一つ土産にくれる言うたら、何にする?」
笑いをおさえて、久吉はもう一度店の中を見まわした。そんな二人を子供たちや女たちが何か言いながら、微笑を浮かべて眺《なが》めていた。
「そうやなあ。ああ、あれがいいわ」
音吉が指さしたのは、販売主任の背後の板壁にかかったスレートの黒板であった。
「何や、あんなものか。あんなもの誰が喜ぶ?」
「みんな喜ぶと思うわ。良参寺の和尚《おしよう》さまやって、寺子屋の子供たちやって。チョークで書くと、消せば消せるんやで。あんな便利なもの、日本にはあらせんで」
「それもそうやな。墨で書いたもんは、消えせんでな。あれは何ちゅうもんやろな。あのブラックボードは、日本語で何といったらいいんやろ」
「くろいたと呼べばいいわ」
「くろいたか。なるほど、黒い板やから、くろいたやな。わしは、何にするかなあ。そうや、ソープがええわ、ソープが。体を洗うにも、着物を洗うにも、あれは便利やで」
「うん、そうやな。あれは日本語で何と呼んだらええんかな」
「そうやなあ……むずかしいな音、そうや、早洗いはどうや」
「早洗い? あんまりおもしろないな」
「したら、音なら何と言う?」
「うーん……。垢消《あかけ》しはどうや」
「垢消し? そりゃうまい!」
久吉はぽんと手を叩《たた》いて、
「垢消しとはうまいなあ。さすがに音は頭がちがうわ。したらな。音。ここにある物、ここの言葉で何というか、言いくらべしてみよか」
「よし! 一番こっちの棚《たな》から、順々に行こう」
「じゃ、あの鋸《のこぎり》は何と言う?」
「鋸は何やったろ」
二人が首をひねる傍で、ラナルドが言った。
「ザット イズ ア ハンドソー」
「あ、そうやった。ハンドソーやハンドソー。そう言えば舵取《かじと》りさんが時々言ってたわ。なあ、音、日本に帰ったら、鋸はハンドソー言うんやと、みんなに教えてやろうな。忘れんように書きとめて置かねばならんで」
「そうやな」
うなずきながら音吉は、日本に帰ったらという言葉が、近頃《ちかごろ》の久吉には多いと思った。むろん久吉だけではない。音吉自身も岩松も言う。フラッタリー岬にいた時は、三人は滅多に「日本に帰ったら」とは言わなかった。帰る当てがなかったからだ。
(けど……ほんとに日本に帰れるんやろか)
音吉は不意に不安になった。
入って来た久吉と音吉を見て、白衣を着、白い帽子を頭に乗せた赤ら顔の男が、
「ハーイ オト キュウ」
と笑顔で迎えた。焼き上がったパンは、同じ砦《とりで》の中にある社員専用の店に運んで行くのだ。使い走りを引き受けていた音吉と久吉には、このパン運びも楽しいことのひとつだった。
「ザ スメルズ グード(いい匂いだな)」
久吉が英語で愛嬌《あいきよう》よく言った。白衣を着た四、五人の男たちが、何か言って笑った。この部屋はいつも陽気だ。
「けど、ここは暑いなあ。かなわんで」
久吉は首をすくめて見せた。只《ただ》でも暑い七月、大きな二つの竈に火が入れば、これはもう焦熱地獄だ。二人は、まだあたたかいパンを大きな籠《かご》に入れて外に出た。広い芝生が、七月の日の下にきらめいている。この二|丁《ちよう》四方|程《ほど》の砦の中には、高い塀《へい》に沿って将校、外交官、要員の家々、穀物倉庫、火薬庫、鍛冶屋《かじや》、大工小屋、樽《たる》製造所、洗濯《せんたく》小屋、それに料理所、インデアンとの交易所、そして雑貨店等があった。この雑貨店は、博士の家の真向かいにあった。ざっと一丁半程は離れている。音吉と久吉が雑用に当たっている時、岩松は造船所で手伝っていた。その器用さが買われて、造船所で一日二、三時間働いていたのである。ハドソン湾会社は、本命の毛皮の交易《こうえき》の外《ほか》に、農業や酪農も営み、製材、造船も営んでいた。製材所や造船所は、砦の外のコロンビア河の畔《ほとり》にあった。
久吉と音吉が、パンを運んで行くと、子供たちが駈《か》け寄って来た。
「オト」
「キュウ」
この地ではもう、音吉たち三人の名を知らぬ者はない。どこを歩いても、すぐに子供たちが寄って来る。その中に、あのラナルドがいた。どの子も、ほとんど混血児だ。中でもメーテスが一番多かった。メーテスとは、フランス人とインデアンの混血児である。だが音吉たちにとっては、どれも皆同じだ。毎朝学校で、一時間は机を並べて共に勉強する仲間でもある。子供たちが寄ってくると、二人は日本の童唄《わらべうた》や子守唄をうたう。子供たちが喜んで一緒にうたう。次々にせがまれると、久吉はお蔭参《かげまい》りの唄をうたう。
「おかげでさ するりとな 脱《ぬ》けたとさ」
久吉は陽気な声でうたうのだが、音吉はこの歌を聞くと、奇妙な気持ちになる。日本の国から脱《ぬ》け出てしまった自分たちを感ずるのだ。脱け出したくて脱けてしまったのではない。が、確かに脱けてしまったのだ。
二人は店に入った。広い店の中には、男や女たちが七、八人買い物をしていた。煉瓦色《れんがいろ》のシャツを着た白髪《しらが》まじりの店の主任が、
「サンキュー」
と、二人を見て声をかけた。
「ユア ウエルカム《どういたしまして》」
音吉が礼儀正しく頭を下げた。そしていつものようにパン棚《だな》にパンを並べた。店は四方に棚が設けられ、いつもパンを置く棚の上段に、皿やミルクポット、ボウル等の食器が並べられてある。パン棚の右手には、赤、白、黄色、グレー、紺、黒等の布地をはじめ、紅白、黒白等の色鮮やかな縞《しま》模様の布地が、着分《ちやくぶん》ずつたたんで重ねられてある。日本の着物地とはちがう。どれも服地なのだ。長靴《ながぐつ》がある。皮靴がある。シルクハットもある。かんじきもあれば、箒《ほうき》もある。煙草《たばこ》のパイプがあり、ランプがある。ローソクがある。鋸《のこぎり》、鉋《かんな》、ヤスリがある。塩、砂糖、石鹸《せつけん》、酢、ソース、様々な形のガラスビン、そしてマッチ等々、雑多な品が棚という棚にあふれていた。
音吉と久吉は、パンを棚に並べ終わると、店の中をぐるりと見まわした。
「音、この中で、ひとつだけ日本に持って行ってもいいと言われたら、何にする?」
「そうやなあ、わしはマッチやな」
「何や、マッチか」
「そうや、火打ち石で火をつけるのは面倒だでな。マッチなら、すぐにぽっと火がつくわ。母《かか》さまがきっと喜ぶで」
琴の名がのどまで出たが、口には出さなかった。
「そうやな。マッチを見たら、みんなびっくりするやろな。魔法かと思うやろな」
「ほんとにびっくりするで。船の上でな、初めてマッチを見た時、わしは仰天《ぎようてん》したでな」
マッチは一枚の薄い板に刻みが入れられてあり、刻まれた先端に燐《りん》が塗られてあった。それを一回|毎《ごと》に割《さ》いて使うようになっていた。初め、割くところを見た時、するめのような食物かと思ったものだ。それが、ちょっと、こするだけで火が点《つ》くのを見て、ひどく驚いたものだ。
「わしはな音、マッチより、やっぱりギヤマンのビンをもらうな。こりゃ驚くで」
「久吉、お前はよっぽどギヤマンが好きと見えるな」
先程も久吉は、ガラス窓を土産《みやげ》に持って帰りたいと言ったのだ。
「そうや。わしはギヤマンが好きや。アイ ラブ ギヤマンや」
久吉は楽しそうに笑った。今にも日本に帰れるというその思いだけが、久吉の胸を占めていた。
「音、もう一つ土産にくれる言うたら、何にする?」
笑いをおさえて、久吉はもう一度店の中を見まわした。そんな二人を子供たちや女たちが何か言いながら、微笑を浮かべて眺《なが》めていた。
「そうやなあ。ああ、あれがいいわ」
音吉が指さしたのは、販売主任の背後の板壁にかかったスレートの黒板であった。
「何や、あんなものか。あんなもの誰が喜ぶ?」
「みんな喜ぶと思うわ。良参寺の和尚《おしよう》さまやって、寺子屋の子供たちやって。チョークで書くと、消せば消せるんやで。あんな便利なもの、日本にはあらせんで」
「それもそうやな。墨で書いたもんは、消えせんでな。あれは何ちゅうもんやろな。あのブラックボードは、日本語で何といったらいいんやろ」
「くろいたと呼べばいいわ」
「くろいたか。なるほど、黒い板やから、くろいたやな。わしは、何にするかなあ。そうや、ソープがええわ、ソープが。体を洗うにも、着物を洗うにも、あれは便利やで」
「うん、そうやな。あれは日本語で何と呼んだらええんかな」
「そうやなあ……むずかしいな音、そうや、早洗いはどうや」
「早洗い? あんまりおもしろないな」
「したら、音なら何と言う?」
「うーん……。垢消《あかけ》しはどうや」
「垢消し? そりゃうまい!」
久吉はぽんと手を叩《たた》いて、
「垢消しとはうまいなあ。さすがに音は頭がちがうわ。したらな。音。ここにある物、ここの言葉で何というか、言いくらべしてみよか」
「よし! 一番こっちの棚《たな》から、順々に行こう」
「じゃ、あの鋸《のこぎり》は何と言う?」
「鋸は何やったろ」
二人が首をひねる傍で、ラナルドが言った。
「ザット イズ ア ハンドソー」
「あ、そうやった。ハンドソーやハンドソー。そう言えば舵取《かじと》りさんが時々言ってたわ。なあ、音、日本に帰ったら、鋸はハンドソー言うんやと、みんなに教えてやろうな。忘れんように書きとめて置かねばならんで」
「そうやな」
うなずきながら音吉は、日本に帰ったらという言葉が、近頃《ちかごろ》の久吉には多いと思った。むろん久吉だけではない。音吉自身も岩松も言う。フラッタリー岬にいた時は、三人は滅多に「日本に帰ったら」とは言わなかった。帰る当てがなかったからだ。
(けど……ほんとに日本に帰れるんやろか)
音吉は不意に不安になった。