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大都会34

时间: 2020-04-13    进入日语论坛
核心提示:虚無への招待主急行「ちくま」は名古屋で中央線に乗りかえる必要がない。松本まで直通で入るからである。松本で大糸線に乗りかえ
(单词翻译:双击或拖选)
虚無への招待主

急行「ちくま」は名古屋で中央線に乗りかえる必要がない。松本まで直通で入るからである。松本で大糸線に乗りかえる。豊科—有明—細野—大町などとアルピニストには忘れられない駅名を暁暗の車窓に確かめているうちに、列車は下車駅、信濃四谷に近づきつつあった。
神城付近から全形をあらわした白馬連峰は、折りからの朝焼けの中を車窓にまさに眉を圧するばかりの量感で迫ってきた。
雪にびっしりと鎧われた頂稜が薄紅く色づき、次第に山麓に澱む暁暗を駆逐していく。
白馬、鑓、杓子いわゆる白馬三山が今日の一日のはじめのために朝陽をうけて煌《きら》めき始めようとしている姿に、花岡は思わず長い息を吐いた。
(俺は還ってきたのだ)
彼は心の底からしみじみと感じたのである。
信濃四谷、六時××分。——列車は定時に着いた。「現役時代」よく使った�四等寝台�(座席の下へもぐりこむ)と違って、山岳部が贈ってくれたのは一等寝台だけあって、よく眠れた。気分は爽快である。重装備のザックを背負いピッケルを手にしてデッキへ向かう。久しぶりに肩にずしりとかかるあの懐しい重量である。
デッキへ立つと寒気が頬を刺した。
さすがに厳冬期だけあって降りる人は少ない。それでも、やはり山に向かうらしいものものしい姿の人影が、ちらほらと改札口に向かっている。
この季節に山へ、それも三千米級の�大物�を志すだけあって、さすがに隙のない装備である。いずれも筋金入りのアルピニストにちがいない。それに皆若い。
花岡はふと不安を覚えた。卒業以来山は全然やっていない。資本主義社会の血みどろの生存競争は続けてきたが、陽に灼かれ風雪に晒される本格的登山からは全く遠ざかっていた。八年のブランクを置いたまま、いきなり現役のパリパリの中へ入って尾いていけるだろうか?
まあ、気楽にやろう。バテたら|基  地《ベースキヤンプ》で留守番《テントキーパー》でもしながらのんびり山を見ているだけでもよい。そう思うと不安は消え、久しぶりに山へ向かう悦びが胸に突き上げるように湧いてきた。
駅前からタクシーを拾ってベースキャンプがあるはずの南股へ向かう。細野部落を過ぎると間もなく左股の谷の奥に、不帰岳の鋸歯状のスカイラインが望まれた。
二股で車を帰した花岡は、朝の白々とした風景の中に自分以外の人影の見あたらないのを知って意外そうな顔をした。O・Bが合宿に参加する場合は、後輩が少なくともこのあたりまで出迎えるのが慣例となっていたからである。
急行「ちくま」の切符を贈ってくれたのは彼らである。ならば自分が大体、この時間に二股へ到着することは分っているはずだ。大先輩がわざわざ、後輩の合宿に馳けつけたのだ。本来ならば四谷まで出迎えてもふしぎはない。
(この頃の連中はたるんでるな)
花岡は自分が現役の頃の秋霜烈日たる部の規律をおもってちょっと腹立たしかった。
「ところで、奴ら何処へB・Cを張っていやがるんだろう?」
彼は一人ごちながら、ともあれどこかに仮の休み場所を見つけるために歩き始めた。
その時、また、一台のタクシーが雪にチェーンをきしませながらやって来た。降り立ったのはやはり登山者である。
(何処へ登るつもりだろう? かなりの重装備だが、ここで降りるところを見るとやはり、不帰一、二峰が本命だが、それにしても単独とはよほど、腕に自信があるんだろうな)
花岡に見られているとも知らず、その登山者は朝の光の中に面を晒した。
「岩村!」
驚愕の叫びが花岡の唇から洩れた。
相手の男も花岡を認めて雪の中に立ち竦んだ。たがいに思いがけない相手を見出した驚きである。二人は信じられないようにそのままたがいの顔を凝視していたが、やがておたがいがまぎれもない旧き山仲間であるのを認めると、
「いったいどうしてここへ?」
「お前こそどうして?」
とほとんどおうむ返しに訊きあった。
「そうか、お前ももらったのか」
花岡が言った。岩村も母校山岳部から招待されて来たのだ。それなのに後輩らしい人影は依然として見えない。そろそろ八時に近い。いくら彼らが朝寝坊だとしても、もうテントから起き出してもよい時間である。それに行動日は�早発ち早着き�が山では鉄則なのである。
「おかしいな?」
「場所をまちがえたんじゃないか?」
「いや確かに南股とあった。それが証拠に二人仲良く[#「仲良く」に傍点]ガン首を揃えているじゃあないか」
花岡が言った。確かに、彼の言う通り二人揃ってまちがえるはずがない。
「とにかく、ここで立ち話しをしていてもしかたがない。南股の発電所の少し上に取入口小屋があるはずだ。そこまで行ってみないか? 途中で出迎えに会うかもしれない」
「よかろう」
岩村の提案に二人は肩を並べて歩き始めた。少し行ったところでスキーを履く。
二人は黙々として進んだ。久しぶりに昔の仲間が再会したというのに、二人の心はその朝の風景のように白々しかった。この八年の歳月はたがいの心をどう歩み寄りようもないほどに遠く隔ててしまったことを、二人は密かに認めないわけにはいかなかった。
途中、発電所に寄って尋ねてみると、今年は帝都大は入っていないという返事であった。彼ら自身現役時代いろいろと世話になった所である。管理人こそ変っていたが、うそを言うはずがなかった。帝都大山岳部が来ていないことは事実だ。
それではあの招待状はどう解釈する? 狐につままれたような気持で、ともあれ二人は取入口小屋を使わせてくれと頼んだ。
「先客が一人あるが、よかったらお使いなせえ」
ひげ面の人の善さそうな管理人は言ってくれた。どうやら、単独行の登山者がすでに使っているらしい。二人は礼をのべて発電所を出た。
ここからはワカンを履いて夏路《なつみち》を辿る。夏路の最後の坂をあえぎ登ると、ふくよかな雪の台地にその小屋はあった。
小屋は三坪あまりの小さなものである。小さな煙突からたちのぼる薄青い煙は、先客の登山者が焚いたものであろう。
小屋の屋根の彼方に不帰の一峰から三峰までが顔をのぞかせ、抜けるような青空の中に、雪煙を飛ばしている。風は樹林に遮られてこの台地までは届かないが、あの高所ではさぞや強風が吹き荒れていることだろう。
二人は小屋の前にしばらく立ち止まって、久しぶりに接する岳の風景に見惚れた。
「大分冷えてきた。入ろう」
岩村にうながされて二人は小屋の扉を押した。
「今日は」
「お邪魔します」
先着の登山者は土間のストーブの前にうずくまっていたが、返事をしなかった。
彼らは顔を見合わせて、ちょっとうんざりしたような顔をした。登山者の中には時たま、この先着者のように人間嫌いをむき出しにする者がいる。
彼がそういうタイプだとすれば、こいつは窮屈な小屋生活《ヒユツテレーベン》になりそうだ。二人は遠慮がちにストーブの側へ寄っていった。
先着者が顔を上げた。薄暗い小屋の中で、ストーブの炎をうけた彼の片面が赫く染まった。
「渋谷!」
岩村と花岡が同時に叫んだ。
「おうおう」
渋谷は痴呆者特有の奇妙な音声を発しながら、ストーブの側を指した。ここへ坐れということらしい。
「一体、お前どうしてここへやって来たのだ?」
花岡が立ったまま問うのへ、渋谷は一通の開封された封書を差し出した。
その中には彼らが受け取ったのと同じ内容の招待状が入っていた。渋谷もどうやら彼らと同じ招待を受けたらしい。
「一体、誰がこんな悪戯をしたのだ?」
岩村が眉をひそめた。
「まあ、いい。どうせおたがいにひまな身体だ。少しのんびりと遊んでいこうじゃないか」
花岡が皮肉たっぷりに言った。
そうだ、悪戯であれ、何であれ、こんな結構な招待はない。食糧も充分用意してきた。小屋の狭ささえ苦にならなかったら、�虚《うつろ》の都会�へ帰るのよりはるかによい。それに三人の昔の仲間が顔を揃えたのではないか。彼らが今まで所属していた強大な組織のためにおたがいに激しくせり合ってきたが、組織そのものが失われたというよりは、組織からしめ出された今となってみれば以前の山仲間に戻って何ら差しつかえのないはずである。
(しかし、それにしても、いったい誰が?)
その疑問は拭い取れなかった。
「これは星川社長の字に似てるよ」
突然、渋谷が言った。MLT—3の発売会の例にも見られるように、彼は時折り、人並みの口をきくことがある。
「星川さんがまた、どうして?」
岩村が言いかけたのを、花岡が引き取って、
「そうか、星川さんなら考えられるぞ」
「説明してくれよ」
「星川さんは渋谷の義理の親父、つまり、岳父というわけだ。自分の一人娘を渋谷へやったくらいだから、よほど、奴が可愛いにちがいない。こんな渋谷の姿を見ているのはたまらなかったのだろう。そこで考えた。旧い山仲間の俺達と共に�昔の山�へ行かせてやったらあるいは快《よ》くなるかもしれないとな。しかし、気狂いのお伴では俺達が行かない。そこで考え出した一計が例の招待状だ。どうせ、お役ご免になってひまな俺達だ。母校山岳部からの誘いに一も二もなくとびつくだろうとな」
「なるほど、それなら話はわかる。とすると、俺達は気狂いのお守《も》りに、まんまとかり出されたというわけか」
「ま、そういったわけだ」
花岡はかつて自身が一度考えついたちえだけに、そう推理して疑わなかった。
「それでだ、一つ相談がある」
花岡は岩村に視線を注いだ。
「相談? 何だ?」
「せっかくここまでやって来たんだ、渋谷のお守りだけではつまらないと思わないか?」
花岡の瞳にストーブの炎が宿って燃えた。すでにそこには協和電機家電部長、花岡進という人間はなく、アルピニスト、花岡進の身と心が置かれていた。
「そうだな……で?」
「三人が揃ったのだ。どうだ一峰北壁をやってみないか?」
「えっ、北壁を!」
岩村は目を見開いた。不帰岳一峰北壁、それこそ彼らの青春の見果てぬ夢だった。惜しくも初登攀を為し遂げぬうちに卒業となり、この数年の歳月の間に後進のいくつかのパーティによって攀じられてしまったとはいうものの、依然として彼らの胸の中に、自らの足でいつの日かはという夢が根強い残り火のように燃え続けていた。
「しかし、渋谷は使えまい」
ややあって岩村が言った。
「パアでも山へは登れるさ。それにトップは俺達がやればよい」
「そうだな」
「やろう! 三人でもう一度北壁をやるんだ」
「よかろう」
岩村の瞳にも炎が宿った。二人はがしっと手を握りあった。久しぶりにビジネスを離れた打算のない握手だった。何のことかよく分らないくせに渋谷がその上に自分の掌を重ねた。
彼の瞳も炎を映しているように見えた。
 翌朝午前二時、三人はほとんど同時に目覚めた。ザイル四十、三十各一本、ハーケン、カラビナ、ハンマー、アブミ等、もしかすると岩を登ることになるかもしれないと思って用意してきた岩登り用具を再点検してザックに詰める。
ラジウスで煮た肉粥を一杯ずつ啜《すす》り、便通を整えれば出発準備完了。
午前二時四十五分、三人は行動を開始した。
「すげえ星だな」
岩村が呻くように言った。久しぶりに仰ぐ山の星の明滅は凄絶なばかりに三人の目に沁みる。寒気は酷しかった。まつげがピリッと凍りつくような寒気は今日の少なくとも午前中の好天を約束するものだ。
最初の間はスキーをつける。沢の中はデブリとクラストでスキーにはかなり辛い。
五時に一峰末端。ここでスキーデポ。煙草一本廻し喫《の》みにしただけで直ちに傾斜四十度位のガレ場に取付く。トップ花岡、続いて岩村、渋谷の順にザイルパーティを組み、コンティニュアスに登る。
快適なピッチ四十分、ガレを登り切って、オーバーハングの岩の下に出る。そこで初の大休止、東の空が白んできた。
不帰一峰頂上より不帰沢に落ちこんだ高距約四百米の壮絶な垂壁が彼らの目指す北壁であり、積雪期は豪快な氷壁となってほとんど登攀不可能な垂直の空間を作り出す。
唯一のルートとして考えられるものは不帰沢をつめて、一峰尾根最後の壁下に入る浅いルンゼから取付き、氷化した壁を百五十米、それより岩層帯を経由してヒマラヤ襞へ入る。この部分は横に広いのでルートは豊富にありそうだが、雪崩の巣となっている。平均傾斜六十〜七十度、特に稜線直下は垂直に近い。問題はそこの突破だ。
テルモスの紅茶とチョコレートで一息ついた三人はふたたび立ち上がった。ここで十二爪アイゼンをつけた。
「行くぞ」
花岡が言った。オーダーは同じである。オーバーハングを避けて急峻な雪田に入る。雪田の上部で最初のハーケンを使う。二ピッチばかりのトラヴァースを終えると陽がさしてきた。
懸念されていた渋谷が案外やる。スキップカットする手つきも確かだ。頭は狂っても、アルピニストとしての手練は残っていたのか。
次がきのこ雪と氷化した壁、雪と氷の壁にステップを刻み、じりじりとピッチを上げる。
「よし、代ろう」
外傾した不安定なテラスに出たところで岩村がトップ交代。大分高度感も出て、脚下の雪渓が白くはるかだ。
この付近から乾いた完全な岩場になる。浮石が多く落石がしきり。しかし、岩村は確かな足取りで小石一つ落さずに登る。三十米いっぱいで大ハング上のテラスに出る。ここで三人が顔を揃える。
取付より六時間かかった。ここで昼食。
食後も同じオーダーで登る。ワンピッチで岩の小リッジ、第一ピッチ予想外に悪い。ハーケンを数本消費する。続いて第二ピッチ、岩は不安定である。
「ちくしょう、ハーケンが打てねえ」
小さなハングに行きづまり、岩村が呻いた。やさしそうに見える岩も、ホールドやバンド状の個所に氷がついて難しい。
「代ろう」
突然、渋谷が言った。花岡と岩村は顔を見合わせた。渋谷の腕は彼らの知るかぎり確かであったが、頭が正常ではないのだ。
「大丈夫、やらせてくれ」
渋谷は二人の逡巡を見抜いたように重ねて言った。落ち着いた声音である。どうみても異常とは思えない。
二人は顔を見合わせてうなずいた。へたに断ってつむじを曲げられたら困る。
トップの安全を期するために四十米ザイルをダブルにする。
しかし、渋谷の腕は確かだった。
アイスバイルでホールドを刻み、露出岩にハーケンを打ちこむ。そしてそこにアブミをかけて心にくいほど鮮やかに乗り越えて行った。
ザイルは順調に伸びる。時折り、渋谷がカットした氷片がはらはらと顔にかかる。
「ようし」
渋谷の合図に二人はいつの間にかザイルに全身の重量を託していた。
渋谷を疑うにはあまりにも鮮やかな身のこなしだった。花岡ミドル、岩村ラストのオーダー。
この頃からガスが出て来た。雪もちらつき始めた。ようやく天候が崩れ始めたらしい。まだ最上部のヒマラヤ襞の難所が残っている。
渋谷はハーケンをほとんど打たない。的確なバランスクライムを素手で登っている。
渋谷がトップを代ってから三ピッチで岩場を抜けて、いよいよ、ヒマラヤ襞に入った。
早速、小さなちり雪崩が顔にかかる。雪はますます激しく、風も出てきた。吹雪模様である。
腕時計は三時を示していた。行動開始後、すでに十二時間を経過している。急がなければならなかった。
それにしても渋谷の動きは的確である。ピッケルの届くかぎりステップを刻む、アイスハーケンを打って吊り上がる。また、ステップカット、次はアイスロックハーケン、四十米のザイルが伸び切って、
「よし、こい」
の合図。ちり雪崩間断ない中を着実にピッチを稼ぐ。
突然、上方に白煙が上がった。
「くるぞ!」
渋谷の怒声にはっとふり仰いだ二人の目に、表層雪崩が特有の静かな音をたてて落ちて来た。
ザイルとピッケルを頼りに虫のように岩壁にへばりついて、行き過ぎるのを待つ以外に方法がない。
「終ったぞ」
渋谷の声にやっと顔を上げた二人に、青白い氷壁を背負うようにして笑っている渋谷の顔が映った。
今のなだれで岩村と花岡は、渋谷の確保《ジツヘル》するザイルにぶら下がった形になっていた。
「渋谷!」
ふと彼の笑顔にぞっとするような冷たさを感じて、ミドルを登る花岡が叫んだ。
「お前、なおったのか!?」
ラストの岩村も言った。渋谷の笑いは白痴の笑いではなかった。
「ははは」
渋谷はなおも笑った。そしてその笑いを中途で硬直させると、
「なおっていたさ。ずうっと以前からな」
風雪が不帰沢の方から猛烈な勢いで吹き上げて来た。バリバリと音をたてて硬直するような寒気の中で渋谷の声は確実に二人の耳に届いた。
「お前達の招待主は俺さ。何のためか分るか? 言わずとも分るだろう。罪もない俺の家族を殺戮し、俺の恩人を滅した貴様達に復讐するためだ。今日を何日だと思う? 八年前二峰に立った日だ。俺はこの日を歯を喰いしばって待っていた。一度は貴様達と青春の友情を誓い合ったこの不帰で、人間の怨みの底の深さを思い知らせてやろうとな。
岩村、貴様は自分の出世のために、俺を殺そうと図り、アマメクボで俺の妻と子を焼き殺した。俺はあの猛火の中で、貴様の意図をはっきりと読んだ。自分の眼前で妻子を焼き殺されるのを見ながら、どうすることもできなかった男の怨みがどんなものか分るか!? 俺は必ず復讐してやろうと誓った。そしてわざと廃人を装い機会を待っていたのだ。それにそうしなければお前は執念深く俺の生命を狙っただろうからな。ハワイのハネムーン先へ電報を打ったのもこの俺さ。盛川の行状をあまねく調べて失脚させたのも俺のやったことだ。
花岡、貴様は俺の技術が欲しいばかりにあらゆる汚い手段を弄してMLT—3の公開実験を失敗させた。立花の子供が死んだのを知っているか? 貴様が殺したのだ。そのようにしてまで星電研を系列化しながら、俺に利用価値がなくなるとみるや、俺の大恩人である星川社長をはじめ、旧星電研幹部をボロ屑のように放り出した。
彼らや、俺達のほんの一握りのささやかな幸福を、貴様は自分の保身のためにめちゃめちゃにしてしまった。
俺は貴様への復讐の手はじめとして、MLT—3を改良したEP—3を古川電産にくれてやった。そのために、貴様のスポンサーである花岡俊一郎は、古川徳太郎のバックアップを失い、見るも無惨に失脚した。彼の失脚は貴様の失脚につながった。
しかし、俺の怨みはそんなことくらいでははれない。
俺達は決して多くを求めていなかった。
優秀な製品を世に送り、自分や自分の家族が静かに暮らしていければよかったのだ。
貴様ら二人はそれを青春の友情の仮面をかむって、血も凍るような残酷さで、虫を踏みつぶすように踏み躙《にじ》った。貴様達は今こそその償いをしなければならない。
死んでもらうよ。俺はここでザイルを切る。おれはここから独力で頂へ出られる、しかし、貴様らは俺に確保してもらわなければ上がれない。四百米の氷壁は貴様らを殺すにはもってこいだ。途中のきばのような岩角に切り裂かれ、ひき肉のようになって、不帰沢へ墜ちろ! 真白な雪渓を貴様らの血でまっ赤に染めて、きっときれいな眺めだろうよ」
渋谷は登山ナイフをザイルにあてた。
「渋谷、待て!」
ラストの岩村が叫んだ。
「今さら、何を言う」
「そうじゃない。お前が切るのはよせ! お前がそれをすれば殺人だ。お前はお前だけの渋谷ではないぞ、日本の渋谷なんだ。俺はお前の山仲間に値しない男だった。そんな男のために殺人の罪を負うことはない、渋谷、さよなら。厚かましい言葉だが、俺を許してくれ」
岩村は、右掌に握った白く光るものをザイルにあてた。一瞬、ふり仰いだ岩村の眼がうるんだように光り、ザイルは花岡と岩村の間で切断された。岩村の身体は岩角に大きくバウンドしながら深所からの目に見えぬ力に引きずりこまれるようにガスの中に呑みこまれていった。
「岩村!」
花岡は自分の身体から下方に伸びるザイルに、もはや、人間の重量がかからないことを知った。花岡は岩村を呑みこんだ霧の海から視線を上方へ転じた。
「渋谷」
花岡は呼んだ。雪つぶてが彼の面を打った。渋谷の返事の代りに吹雪が吠えた。ちり雪崩と雪煙が数米上方の渋谷の姿すら見え隠れさせる。不帰沢から吹き上げてくる強風の力で身体が持ち上げられそうである。
「岩村と同じ理由で俺も殺す必要はない。俺は恥ずべきアルピニストだった。今さら、言ってももう遅いが、今の俺にせめてできることは、お前に俺を殺させないことだ。直接、八つ裂きにしたいだろうが、お前は殺人者になってはならん。お前にはまだやることがあるんだ。渋谷、さよならだ。せめて頂上へ行ってくれ! 俺達三人が共に登ろうと誓った不帰一峰の頂上にな」
ザイルは花岡の頭上で切断された。渋谷の掌の中で急に軽くなったザイルの下方を、花岡の身体は岩角に切り刻まれながら着実に加速度を増していった。
その姿が雪煙に呑みこまれるまでのほんの数瞬間、岩角にあたって血しぶきを上げた、落下する花岡の身体が渋谷の網膜に焼きついた。雪壁にとび散った赤いしたたりを、不帰沢の深淵から吹き上げたガスがたちまち隠してしまった。
「終った」
渋谷は言った。これで何もかも終ったのだ。もう頂上へ抜ける必要もない。かといって降りる必要もないし、第一、一人では降りられない。
このままここで夜になるのを待てばよいのだ。後は風雪と寒気が決着をつけてくれるだろう。雪崩が来たら巻きこまれたっていい。
岩村と花岡は墜ちる前に妙なことを言ったが、俺の体は俺だけのものだ。はるみも雄一も死んだ。MLT—3も、EP—3も、もはや俺のものではない。愛する星電研と愛すべき人々も、散り散りになってしまった。要するに、生きていくべきすべての理由が失われたのだ。渋谷夏雄は今日から本当に廃人になった。廃人として生きるよりは、この不帰北壁に俺の生命の決着をつけさせた方がいい。
渋谷はそのままそこへうずくまった。雪がさらさらと音を立ててヤッケに当たる。手足の感覚が急速に失われていく。あたかも彼自身が氷壁の一部のように凍りつくまでに大して時間はかからないだろう。
彼は岩の一部のようになってぶつぶつと一人言を言った。
「岩村も花岡も自分から死ぬなんて馬鹿な奴らだ。何故、俺と一緒に登らなかった。ここまで来ながら馬鹿な奴らだ」
彼はひとりつぶやきながら自分が言ってることの矛盾に気がつかなかった。もう身体は寒気を感じない。いや、感覚そのものが去りつつあるのだ。
「しかし、ここまで来ながら頂へ行かないという手はないな」
渋谷の朦朧とした意識に、花岡の言葉がよみがえった。
「せめてお前だけは頂上へ行ってくれ」
遠い青春の日の誓い、それが現実の社会では何の役にも立たなかった。しかし、ここは山だ。そしてもうみんないなくなってしまった。
雄一も、はるみも、星川社長も、星電研も、そして岩村も花岡も。今、いるのは俺だけ。
それも雪煙と強風の空間の中で虫のように死んでいこうとしている。死んでいく前ならば、遠い旧い日の夢物語りの約束を果たしてもよいのではないか。
  旧キ山仲間ハ皆去ッタ
追憶ヲ追ウコトハモウ止ソウ
昔唄ッタ山ノ唄ハ
幾多ノ山仲間ニ唄イ継ガレタ。
重力ヲ拒ネノケタ磐石ノ確保《ジツヘル》ハ
旧キ山仲間ノナキ後モ
薄緑リノ模糊タル彼方ヨリ
今モ我ラヲ支エテイル。
 渋谷の耳に遠い日の夢の唄が聞こえてきた。
渋谷は動き始めた。彼の肉体が動いているのではなく、彼の精神が動いているといってよかった。
風雪の声とアイゼンのきしみ。夕闇が忍び寄っていた。吹雪の煙幕の中をどこをどう登ったか記憶はない。
やがて、急に傾斜が薄れたかと思うと、渋谷はさらに大きな風圧の中へ投げ込まれた。遂に頂台地へ出たのである。しかし、渋谷には自分がどこにいるのか分らなかった。
ただ分ることは言いようのない大きな空《むな》しさであった。体中が透明になって風雪も寒気もみな体を通り抜けていく。岩村や花岡に抱いていた憎悪も、雄一やはるみへの愛惜もその空しさの中にすべて洗い流されていく。
空しさの中で渋谷はふと思った。
「もしかしたら、岩村と花岡は招待状を受けた時から俺の意図を知っていたのではないだろうか? 人生に夢を見失った彼らが、殺されるのを承知で招待を受けたのではなかったか? あいつら、あまりにも素直に死んでいった。自分達の生活を破壊した犯人は彼らではない。もっと巨大な怪物なのだ。岩村や花岡自身がその巨怪の哀れな犠牲者だった」
しかし、そんなことはもうどうでもよかった。体の中から何もかも流れ出してしまったような空しさなのである。
何でもいい。何でもいいから俺を充たしてくれるものはないか?
渋谷はその何かを手探るように数歩よろめきながら歩いた。よろめきつつハイマツに足をとられて倒れた。そしてそのまま、ハイマツの中に首をつっこんだまま動かなくなった。
強風下にもかかわらず、雪がその上に降りつもり、人の形から�一部のようになってぶつぶつと一人言を言った。
「岩村も花岡も自分から死ぬなんて馬鹿な奴らだ。何故、俺と一緒に登らなかった。ここまで来ながら馬鹿な奴らだ」
彼はひとりつぶやきながら自分が言ってることの矛盾に気がつかなかった。もう身体は寒気を感じない。いや、感覚そのものが去りつつあるのだ。
「しかし、ここまで来ながら頂へ行かないという手はないな」
渋谷の朦朧とした意識に、花岡の言葉がよみがえった。
「せめてお前だけは頂上へ行ってくれ」
遠い青春の日の誓い、それが現実の社会では何の役にも立たなかった。しかし、ここは山だ。そしてもうみんないなくなってしまった。
雄一も、はるみも、星川社長も、星電研も、そして岩村も花岡も。今、いるのは俺だけ。
それも雪煙と強風の空間の中で虫のように死んでいこうとしている。死んでいく前ならば、遠い旧い日の夢物語りの約束を果たしてもよいのではないか。
  旧キ山仲間ハ皆去ッタ
追憶ヲ追ウコトハモウ止ソウ
昔唄ッタ山ノ唄ハ
幾多ノ山仲間ニ唄イ継ガレタ。
重力ヲ拒ネノケタ磐石ノ確保《ジツヘル》ハ
旧キ山仲間ノナキ後モ
薄緑リノ模糊タル彼方ヨリ
今モ我ラヲ支エテイル。
 渋谷の耳に遠い日の夢の唄が聞こえてきた。
渋谷は動き始めた。彼の肉体が動いているのではなく、彼の精神が動いているといってよかった。
風雪の声とアイゼンのきしみ。夕闇が忍び寄っていた。吹雪の煙幕の中をどこをどう登ったか記憶はない。
やがて、急に傾斜が薄れたかと思うと、渋谷はさらに大きな風圧の中へ投げ込まれた。遂に頂台地へ出たのである。しかし、渋谷には自分がどこにいるのか分らなかった。
ただ分ることは言いようのない大きな空《むな》しさであった。体中が透明になって風雪も寒気もみな体を通り抜けていく。岩村や花岡に抱いていた憎悪も、雄一やはるみへの愛惜もその空しさの中にすべて洗い流されていく。
空しさの中で渋谷はふと思った。
「もしかしたら、岩村と花岡は招待状を受けた時から俺の意図を知っていたのではないだろうか? 人生に夢を見失った彼らが、殺されるのを承知で招待を受けたのではなかったか? あいつら、あまりにも素直に死んでいった。自分達の生活を破壊した犯人は彼らではない。もっと巨大な怪物なのだ。岩村や花岡自身がその巨怪の哀れな犠牲者だった」
しかし、そんなことはもうどうでもよかった。体の中から何もかも流れ出してしまったような空しさなのである。
何でもいい。何でもいいから俺を充たしてくれるものはないか?
渋谷はその何かを手探るように数歩よろめきながら歩いた。よろめきつつハイマツに足をとられて倒れた。そしてそのまま、ハイマツの中に首をつっこんだまま動かなくなった。
強風下にもかかわらず、雪がその上に降りつもり、人の形からなだらかな円みへ、そして頂台地の一部分のように埋めこんでいった。
もう夜になっていた。吹雪は夜になっても一向に衰える気配がなかった。
 それから、約三ヵ月後の五月のあるよく晴れた日、白馬岳から鹿島槍方面への一般コースの縦走を志した数人の登山者パーティは、不帰岳第一峰の頂で異様な臭気を嗅《か》いだ。
蛋白質の腐敗するような異臭にもめげず、好奇心に駆られて頂台地に臭気源を探し求めたパーティは、北壁を望むハイマツの中に渋谷の死体を発見した。
ハイマツの上だっただけに雪が早く融け、山の陽に灼かれて腐敗したらしい。頭髪はすでに脱け落ち、頭蓋骨質が露出していた。破れた衣服の下の皮膚は緑色を帯び、肋骨を露出した胸腔内にたまった黄色い水の中を無数の蛆がうごめいていた。
人の気配に蠅がわーんと飛び立つ。
「見るな、見ない方がいい」
パーティの中の女性を手で制しながら、発見した登山者自身、あやうく嘔吐しそうになっていた。
 翌々日の朝、東京日本橋の菱井銀行の会長室と、大阪中の島の古川銀行の頭取室で、二人の男が秘書の運んできた新聞に目を通しながら、奇しくも同じようなことをつぶやいた。
「世の中には為すべきことが山ほどあるというのに、一円にもならない山登りで命を喪うとは何処のどいつか知らんが、馬鹿な奴がいるもんだ」
二人の男の棲《す》む巨大なビルの外では二つの大都会がすでに一日のダイナミックな活動を始めていた。

本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
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