ニシキヘビなど一度にカモシカ一頭を丸のみして、あと何十日も食わずにとぐろをまいているということだが、もし、人間も食いだめが可能だったら、さしずめ給料日に、一カ月分を腹につめこんで後顧のうれいをなくするのだが……そのかわりに、おそらくは、料理の発達も、味を楽しむ習慣もなく、食物はエサとしての意味しかもたぬものになってしまったであろう。
人間の消化器官は、毎日食事をとらなくてはいけないように出来ている。日々の|糧《かて》をいかにして得ることができるか、という問題をめぐって展開してきたドラマが、人類史の主流なのである。もし、途方もない食いだめができたら、人類の進歩もなかったかもしれないのである。
人間は、毎日食わねばならないが、一日に何度食わねばならないといったことはない。腹に食物を長時間ためることができぬ乳呑児であっても、別に一日何回乳を飲ませなくてはいけないということはない。乳児には、一日七回哺乳すべきだ、いや五回だとかいって大騒ぎをしている育児ママをよそ目に、子どもは育っていくものである。たいてい、赤ん坊はオッパイが欲しくなったら泣くものであり、授乳時間の間隔を一定にしたら、その間は腹がもつだけの量を吸いとるものである。そのうちに、赤ん坊が大きくなるにしたがい、授乳時間の間隔が長くなり、乳以外の食品も与えられるようになって、いつの間にか一日三食で済ますようにしたてあげられる。してみると、われわれが一日三回食事をとるのも、学習の結果である。文化とは学習によって伝達されるものという、文化の定義の一つの側面によれば、一日の食事回数は、文化によってさだまるといえよう。
人間の消化器官は、毎日食事をとらなくてはいけないように出来ている。日々の|糧《かて》をいかにして得ることができるか、という問題をめぐって展開してきたドラマが、人類史の主流なのである。もし、途方もない食いだめができたら、人類の進歩もなかったかもしれないのである。
人間は、毎日食わねばならないが、一日に何度食わねばならないといったことはない。腹に食物を長時間ためることができぬ乳呑児であっても、別に一日何回乳を飲ませなくてはいけないということはない。乳児には、一日七回哺乳すべきだ、いや五回だとかいって大騒ぎをしている育児ママをよそ目に、子どもは育っていくものである。たいてい、赤ん坊はオッパイが欲しくなったら泣くものであり、授乳時間の間隔を一定にしたら、その間は腹がもつだけの量を吸いとるものである。そのうちに、赤ん坊が大きくなるにしたがい、授乳時間の間隔が長くなり、乳以外の食品も与えられるようになって、いつの間にか一日三食で済ますようにしたてあげられる。してみると、われわれが一日三回食事をとるのも、学習の結果である。文化とは学習によって伝達されるものという、文化の定義の一つの側面によれば、一日の食事回数は、文化によってさだまるといえよう。
さきにのべた、東アフリカ狩猟採集民のハツァピ族では、一日の食事の回数、食事の時間はきまっていない。いつでも、食物が手に入った時、たべられるだけたべるのである。そして、腹がへったら、またたべるのだ。
だが、狩猟、採集の生活は、いちじるしく不安定なものである。獲物が獲れないとき、ハチミツや果実がみつからなかった場合は、食物を求めて二日も三日も空き腹をかかえて、サバンナのなかを放浪してまわるのだ。
潜在的飢餓状態にあるかれらは、大変な大食いでもある。
わたしが、ハツァピ族のなかで暮していたときのことである。ある朝、集落の長老夫婦とその息子夫婦が連れだって、毒矢の毒つくりに山へ行ってから二日も帰って来なかったことがあった。毒つくりとは、毒の木を伐って、なかのパルプ質に含まれる樹液をしぼり出して、これをぐつぐつ煮つめて、コールタール状の毒をつくるのだ。
毒の木のそばで一泊くらいして毒つくりをすることもあるが、二日も帰ってこないのはおかしいと、人々も少々心配しはじめた。
三日目になって、長老のジイサンを先頭に、大きくふくらんだ腹をなでながら、ようやく四人がもどってきた。あとに従う息子は、肩に、シマウマのモモ肉の十キロくらいの塊りをかついでいる。
話を聞いてみると、毒の木の生えている山奥へ行く道すがら、シマウマの群れに出会ったので、息子が近寄って毒矢で一頭たおしたとのこと。そこで、もう毒つくりに行くのはよしにして、シマウマを殺した場所に野宿することとした。三日間、シマウマの肉を食いあきたら寝て、起きたらまた食って巨大な肉塊と格闘していた。とうとう四人で食い尽しかけたので、ようやく腰をあげ、集落への土産の一塊りを持って帰ってきたとのこと。
わたしたちの仲間で、ハツァピ族を二年間調査していた、富田浩造さんは、ライフルの名手である。かれが村人にたのまれて、畑荒しをするカバを一頭倒したら、うわさを聞いて、ハツァピ族が八人集まってきて、カバの肉にとりついたという。そして、三日間食い続けに食って、二トンもあるカバを骨だけにしてしまったそうだ。
おすそ分けにあずかったシマウマのモモ肉は、大変やわらかく、馬肉のようなクセもない。ハツァピ流に焚火の煙くさい焼肉にしてよし、塩、コショウをして、ステーキによし、ハツァピ族同様、肉にうえていたわたしには、最上のごちそうだった。
だが、狩猟、採集の生活は、いちじるしく不安定なものである。獲物が獲れないとき、ハチミツや果実がみつからなかった場合は、食物を求めて二日も三日も空き腹をかかえて、サバンナのなかを放浪してまわるのだ。
潜在的飢餓状態にあるかれらは、大変な大食いでもある。
わたしが、ハツァピ族のなかで暮していたときのことである。ある朝、集落の長老夫婦とその息子夫婦が連れだって、毒矢の毒つくりに山へ行ってから二日も帰って来なかったことがあった。毒つくりとは、毒の木を伐って、なかのパルプ質に含まれる樹液をしぼり出して、これをぐつぐつ煮つめて、コールタール状の毒をつくるのだ。
毒の木のそばで一泊くらいして毒つくりをすることもあるが、二日も帰ってこないのはおかしいと、人々も少々心配しはじめた。
三日目になって、長老のジイサンを先頭に、大きくふくらんだ腹をなでながら、ようやく四人がもどってきた。あとに従う息子は、肩に、シマウマのモモ肉の十キロくらいの塊りをかついでいる。
話を聞いてみると、毒の木の生えている山奥へ行く道すがら、シマウマの群れに出会ったので、息子が近寄って毒矢で一頭たおしたとのこと。そこで、もう毒つくりに行くのはよしにして、シマウマを殺した場所に野宿することとした。三日間、シマウマの肉を食いあきたら寝て、起きたらまた食って巨大な肉塊と格闘していた。とうとう四人で食い尽しかけたので、ようやく腰をあげ、集落への土産の一塊りを持って帰ってきたとのこと。
わたしたちの仲間で、ハツァピ族を二年間調査していた、富田浩造さんは、ライフルの名手である。かれが村人にたのまれて、畑荒しをするカバを一頭倒したら、うわさを聞いて、ハツァピ族が八人集まってきて、カバの肉にとりついたという。そして、三日間食い続けに食って、二トンもあるカバを骨だけにしてしまったそうだ。
おすそ分けにあずかったシマウマのモモ肉は、大変やわらかく、馬肉のようなクセもない。ハツァピ流に焚火の煙くさい焼肉にしてよし、塩、コショウをして、ステーキによし、ハツァピ族同様、肉にうえていたわたしには、最上のごちそうだった。
世界の多くの場所で、近世になるまで、一日、二回の食事が普通であった。
中世のことわざでは、「天使は日に一度だけ、人間は二度、動物は三度かそれ以上食事をする必要がある」といったそうだ。天使が食事をするというのは、はじめて知ったことであるが、天使の献立というのは、なんであるかを、多くの人に訊ねたが、いまだもってわからない。
日本では|朝餉《あさげ》、夕餉の二回が正式の食事であった。もっとも、職人など重労働に従っていた者は、昼もたべたとみえるらしく、清少納言は、大工が|中食《ちゆうじき》をしているのをみて、さもさもめずらしげに、「たくみの物くふことこそいとあやしけれ」と書いている。
現在では、食事は一日三度で、オカズも多いので、都会の人間の一食に消費する米は一合が標準とされるが、江戸時代には、ところによっては二合五勺入りの升が米びつにそえられ、これが一人一回のメシの標準量とされていたという。武士の社会でサラリーの単位となる一人扶持とは、一日五合の|扶持《ふち》米を給与することにあった。この五合を朝夕二回にわけて、二合五勺ずつ食べた前代の名残りが、江戸時代にも伝えられたのであろう。
民俗学の教えるところによると、現在でも田畑へ持って出てたべる昼食をヒルマと呼ぶ地方があるという。もともとは、田植えなど特別な日に、戸外へもっていってたべた昼食が、日常の生活のリズムに定着して、ヒルメシとして、家のなかでたべる食事となったのであろう。
日本人が、日に三回食事をするようになったのは江戸時代からのことである。
中世のことわざでは、「天使は日に一度だけ、人間は二度、動物は三度かそれ以上食事をする必要がある」といったそうだ。天使が食事をするというのは、はじめて知ったことであるが、天使の献立というのは、なんであるかを、多くの人に訊ねたが、いまだもってわからない。
日本では|朝餉《あさげ》、夕餉の二回が正式の食事であった。もっとも、職人など重労働に従っていた者は、昼もたべたとみえるらしく、清少納言は、大工が|中食《ちゆうじき》をしているのをみて、さもさもめずらしげに、「たくみの物くふことこそいとあやしけれ」と書いている。
現在では、食事は一日三度で、オカズも多いので、都会の人間の一食に消費する米は一合が標準とされるが、江戸時代には、ところによっては二合五勺入りの升が米びつにそえられ、これが一人一回のメシの標準量とされていたという。武士の社会でサラリーの単位となる一人扶持とは、一日五合の|扶持《ふち》米を給与することにあった。この五合を朝夕二回にわけて、二合五勺ずつ食べた前代の名残りが、江戸時代にも伝えられたのであろう。
民俗学の教えるところによると、現在でも田畑へ持って出てたべる昼食をヒルマと呼ぶ地方があるという。もともとは、田植えなど特別な日に、戸外へもっていってたべた昼食が、日常の生活のリズムに定着して、ヒルメシとして、家のなかでたべる食事となったのであろう。
日本人が、日に三回食事をするようになったのは江戸時代からのことである。