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国盗り物語14

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:美濃へ 山崎屋は、大いに繁昌《はんじょう》した。が、かんじんの庄九郎は、いまひとつ浮かぬ顔である。書院でぼんやり考えこん
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美濃へ

 山崎屋は、大いに繁昌《はんじょう》した。
が、かんじんの庄九郎は、いまひとつ浮かぬ顔である。
書院でぼんやり考えこんでいるときなど、お万阿が、
「旦那さま。どうなされました」
と声をかけても、耳にきこえない様子であった。
ときに、
「いやなに。——」
微笑でごまかすこともある。
あるとき、
「徳政《とくせい》」
があった。
幕府のお得意芸である。足利《あしかが》幕府といっても、あってなきような存在で、この時代より数代前の将軍義政《よしまさ》でさえ、その妾《しょう》の出産費がなく、やむなく甲冑《かっちゅう》を質草にして京の土倉《つちくら》(質屋)から五百貫文をかりた、という話がのこっているほどだから、当代の将軍義稙《よしたね》などは、天子とともに虚位を擁するにすぎなかった。
そのくせ、足利家の家計がやってゆけなくなると、
「徳政」
をやる。官命による「借金踏み倒し」である。むろん、庶民間の貸借にまでおよぶ幕命だが、事実上は、足利家の家計をすくうためにやるもので、徳政は単に美称であった。
泣きっつらは、商人である。
「かなわん」
と、庄九郎は徳政の出た数日のあいだ、酢《す》をのんだような顔をしてくらした。
山崎屋は現銀取引きが多いからさほどの打撃はうけないが、かといって、足利家におさめている油は、年二回ばらいである。
それが帳消しになる。
腹が立つのだ。
「武士とは勝手なものよ」
と、お万阿にこぼした。
「将軍《くぼう》さまのお申しつけゆえ、仕方がないではありませぬか」
「ふん、将軍」
不快の原因は、そういう存在である。なんのために幕府、将軍は存在するのか。
いまは足利将軍家も初代尊氏《たかうじ》以来百八十年たつほどに古くなっているが、その間《かん》一族、重臣間の争いがあいつぎ、五十年前の応仁《おうにん》ノ乱では、京都全市が兵火で焼失するほどの騒ぎをおこした。
「民を苦しめるために存在している」
ことはあきらかである。日本史上、足利幕府ほど愚劣、悪徳な政府はないであろう。
「ほろぼすべし」
という声はまだおこっていない。諸国の大名、豪族は、なお将軍の「神聖権」だけはみとめているから、そこまでの声はおこらないのである。
——虚位を擁しているだけなら、まずまず無害ではないか。
というのだ。
「無害」
というのは、諸国諸大名にとっては無害である。しかし、庄九郎のような京の町人にとっては、これほど有害な存在はない。
いや、事実、戦国の地図をひらいてみるに京へのぼって新政権を樹《た》てられるだけの実力者は出ていないのである。
後年、庄九郎の婿《むこ》になり、京をおさえて、近世《・・》の幕をあげ、ついに幕府を倒した織田信長は、まだこのとき出生してさえいなかった。
ある夜、庄九郎はお万阿をそばによび、
「わしのいうことを素直にきいてくれるか」
と、いった。
「なにごとでございます」
「幕府を倒したい」
「えっ」
「あっははは。なんの、驚くことはない。一介の油屋にすぎぬ山崎屋庄九郎の手で幕府が倒れるものではない」
「さ、さようでござりましょう。ひとをおどろかすものではござりませぬ」
「もっともなことだ。しかしお万阿、倒せる法がないことはないぞ」
庄九郎の言い草が、いかにも冗談めいていたから、お万阿もつい、戯《ざ》れ口調になって、
「どういう手だてがございます?」
と、興味もないのに訊《き》いてみた。
「まず、お万阿の承知が要るわさ」
「わたくしの?」
「そう、お万阿の力を借りねばならぬ」
「面白《おもしろ》うございますこと。わたくしにそのような力がございますかしら」
「ある」
庄九郎は、断定した。
「あるとすれば、どうなるのでございます」
「わしは、国を盗《と》りにゆく」
「え?」
意味がわからない。
「一国を奪ってその兵力を用い、四隣を併合しつつ、やがては百万の軍勢を整えて京へ押しのぼり、将軍を追って天下を樹立する。もはや庄九郎の天下には、神《じ》人《にん》などというばけものもゆるさず、徳政などの暴政はなさず、商人には楽市・楽座(自由経済)の権をあたえ、二里ゆけば通行税をとられるというようなことをやめて関所を撤廃し、百姓には一定の租税のほかはとらず、天子公卿《くげ》には御料を献上してお暮らしの立つようにする」
「まあ、おもしろい」
お万阿は冗談だとおもっているのだ。あたりまえのことで、一介の油屋の旦那にできることではない。
「どうだ、お万阿」
「結構でございますこと」
というより、ほかはない。
「そうか、結構か」
「…………」
庄九郎の顔が笑ってないことに気づいて、お万阿はぎくりとした。
「旦那様、結構だと申せばどうなるのでございます」
「お万阿に力添えしてもらわねばならぬことがある」
「どういうこと?」
「簡単なことだ」
「早くおっしゃって」
「一年」
「いちねん?」
「その期間だけ、わしを世間に出してもらいたい。それだけのことだ」
「厭《い》や」
「とはいわさぬ。もうお万阿は承知してしまっている。一年だけのことだ。店のことはもう杉丸と赤兵衛にまかせていい。お万阿はただ、帳尻《ちょうじり》だけを見て、あとは毎日わしの帰りを待っていてくれるだけでよい」
「おうかがいします」
「なんだ」
「一年たてば、旦那さまは、百万の軍勢をひきいて京に押しのぼっておいでになるのでございますか」
信じてはいない。
「それはむりだな」
と、庄九郎も、はじめて笑った。
「一年で百万の軍勢はむりだが、一国をおさえるだけのめど《・・》がつくかつかぬかだけはわかる。その期間が、一年だ」
「一年」
「そう。一年で、とうてい庄九郎の力でむりだとわかれば、わしはもとの油屋になってもどってくる」
「めど《・・》がつけば、どうなります」
「お万阿をよぶわい。一年後にはその国へよぶというのだ」
「本当?」
「庄九郎、うそをついたことがあるか」
気持にいつわりはない。真実のつもりである。
「一年たてば、お万阿へのお気持が薄れるということはありますまいね」
「薄れぬ」
とうなずいたのも、真実な心であった。
庄九郎は、策略の多い人間だが、そのつどそのつど、心に濃烈な真実をこめていた。ただ濃烈な真実というものは、次の瞬間には色が変ずる、というむなしさも知っている。庄九郎の真実は、霜月《しもつき》に照りかがやく紅葉の美しさに似ていた。紅葉とは、翌月の師《し》走《わす》にはもう色が褪《あ》せる。そういうはかなさがあればこそ、霜月のもみじ《・・・》は、より一層の美しさでひとの心を打つのであろう。
「わかりました」
お万阿は、いわざるをえない。むしろ、感動していた。
「きっと一年でございますよ」
お万阿は、庄九郎の膝《ひざ》に両掌《りょうて》をおいた。

それから数日、庄九郎は書院でこもりきりですごし、夜も、そこに床をとらせた。
考えている。
すでに庄九郎は、大げさにいえば日本六十余州の諸国の国情について、居ながらにして語ることができるほど、材料をもっていた。
畿《き》内《ない》や中国筋は、自分の足で歩き、眼でみて知っているばかりか、この稼業《かぎょう》のありがたさで、諸国へ売りあるく売り子から耳にしている。
遠国《おんごく》については、山伏《やまぶし》、歩き巫子《みこ》、御師《おし》、放《ほう》下《か》僧《そう》、くぐつ師、など旅を人生としている者を座敷に泊めては、話をきいていた。
諸大名の能力、性癖、家老の人物、さらに家政の乱れ、整頓《せいとん》ぶり、それらをこまかくしらべあげ、
(はて、どの国がよいか)
と、考えぬいてきた。
ついに、
「美濃」
ときめた。
美濃の国は、郡のかずでいえば十数。米のとれ高は六十五万石はくだらない。
その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道《とうさんどう》、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。
(美濃を制する者は、天下を制することになる)
と庄九郎は見ぬいた。
庄九郎が、美濃をえらんだのは天才的な眼識といっていい。美濃に天下分け目の戦いがおこなわれたのは、古くは壬申《じんしん》ノ乱があり、のちには関ケ原の戦いがある。徳川時代には、美濃に大大名をおかず、つまりこの国を制せられることをおそれ、一国のうち十一万七千石を幕府直轄領《ちょっかつりょう》とし、あとの六十余万石を大名、旗本八十家にこまぎれに分割してたがいに牽制《けんせい》させた。それほどの要国である。
 それに庄九郎は、遠く鎌倉《かまくら》時代から美濃に封《ほう》ぜられている、土岐《とき》家が腐敗しきっていることが、なによりも気に入っていた。
土岐家は足利幕府の諸大名のなかでもきっての名家で、往年は強盛をほこったものであった。
足利初期に、こういう話がある。
土岐頼遠《よりとお》というそのころの当主が、将軍尊氏の機《き》嫌奉《げんほう》伺《し》に京にのぼっていたが、都大路で、持明院《じみょういん》上皇の乗輿《じょうよ》に出会った。
当然、頼遠は下馬し、自分の行列を道に片寄せ、家来ともども伏しおがむべきところだが、時代は足利の天下がはじまったばかりの最盛期であり、土岐頼遠はその幕《ばっ》下《か》でも最大の大名の一人である。
頼遠は、知らぬ顔で、馬上、平然とすれちがおうとした。
「下馬《げば》あれ」
と、上皇の供奉《ぐぶ》の者が注意した。
頼遠は狂ったかとおもうほどにいかり、その言葉を『太平記』の記述どおりに写すと、
「このころ洛中《らくちゅう》にて、頼遠などを下馬《おろ》すべき者は、覚えぬものを、云うはいかなる馬鹿《ばか》者《もの》ぞ。いちいちに奴原《やつばら》、蟇《ひき》目負《めお》わせてくれよ」
とよばわった。
上皇の前《ぜん》駆《く》、随身《ずいじん》たちが驚き、これは京馴《な》れぬ田舎者ゆえそういうのであろうと思い、口々に、
「院(上皇)の御《み》幸《ゆき》であるぞ」
とどなった。頼遠、からからと馬上で笑い、
「何、院というか、犬というか。犬の御幸なれば射て落さん」
というままに、家来の十数騎にも弓に矢をつがえさせ、ぐるりと上皇の御車をとりかこみ、犬追物《いぬおうもの》の競技のように駈《か》けまわり駈けちがっては、さんざんにおどし矢を射かけた。
ばかばかしい話だが、土岐一族といえば都大路をわがもの顔にのし歩いていた時代もあったのである。
(その土岐家の屋台も、すっかり白アリに食いあらされている)
殿様やその一族は、百年の無為徒食ですっかり無力化し、国政は家老がにぎり、その家老一族も貴族化して家老の家老が実権をにぎり、それもまた、逸楽に馴れて、世のうわさではどの人物も「糞便《ふんべん》を垂れる土偶《でく》」同然になっている。
(手ごろじゃな)
庄九郎は、おもった。庄九郎が学んだ漢学では、民治能力をうしなった権力者は、その座にいることがすでに悪であり、それを倒すのが正義であるという。
「お万阿、美濃にきめたぞよ」
と、庄九郎はある日、にこにこと相好《そうごう》を崩して書院から出てきた。その調子のあまりの手軽さに、お万阿もつい、
「美濃におきめなさいましたか」
と、日常茶飯のように答えた。
「あの国は、水の景色がよい。長《なが》良《ら》川《がわ》の堤には見渡すかぎり竹やぶがつづいていて、秋などは歌の一つも詠《よ》みたくなるようなところだ。お万阿も楽しみにしているがよい」
「ぜひ」
とはいったが、もうお万阿の気持は夢からさめている。
(はたして一年で?)
としみじみと庄九郎の顔を見るのである。
 庄九郎が、武士の姿にもどり、青江恒次の大剣を腰にしてひとり京を発《た》ったのは、大永《たいえい》元年の夏である。
この戦乱の世に、いかに武士とはいえ一人で旅をするというのは大胆以上のものであった。途中、草賊、山賊が各所に巣食い、穏和な百姓といえども、相手に金があるとおもえば、打ち殺して奪いあげるという時代であった。
出発のとき、お万阿が、
「だいじょうぶでございますか」
と、蒼《あお》ざめていった。
赤兵衛、杉丸も口をそろえて、
「人数をととのえてお出《い》でなされまし」
といったが、庄九郎は笑い、
「おれを殺せるやつがあるものか」
さっさと発ってしまった。
 事実、庄九郎を殺せる男はいなかった。
京から十九里。
近江《おうみ》もはずれの山中に、醒《さめ》ケ井《い》という里があり、この里まできたとき、まだ陽《ひ》が高かった。
(いま一あし、のばして柏原《かしわばら》までゆくか)
と、山坂の悪路を踏みくだくようにして庄九郎はのぼった。
現在《いま》の梓《あずさ》のあたりだろうか、赤松の林がそろそろ杉にかわりはじめたころ、庄九郎は、ようやく脚が疲れてきた。
陽も傾きはじめている。
ふと峠から峰をみあげると、一軒の家がみえた。
庄九郎は、たずねた。
「泊めてもらえぬか」
と、窓へのびあがっていうと、なかにはおさだまりの話で、山賊が三人ほどいた。
暁《あ》けがた、賊が庄九郎の懐《ふとこ》ろをねらおうとおもって忍び寄ったとき、たちどころにはねおきて青江恒次をつかみ、炉をとびこえ、
「推参なり」
と素っぱ抜くなり一人を斬《き》ってすて、さらに土間にとびおりて一人を斬り、一人だけは生かして、刀で相手の頬《ほお》をぴたぴたとたたき、
「松波庄九郎だ。覚えておくがよい」
と、金をやって美濃の方角へ放ちやっている。自分の武勇ばなしをあらかじめ美濃へ伝わらせるための手だったのであろう。
庄九郎だけでなく、当時の武者修行者が、まま《・・》やった宣伝法である。
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