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国盗り物語17

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:朱《しゅ》唇《しん》(ふん。)庄九郎は、今日も常在寺の書院の縁側で昼寝をしている。(まだ来ぬな)ふと椎《しい》の木を見た
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朱《しゅ》唇《しん》

(ふん。……)
庄九郎は、今日も常在寺の書院の縁側で昼寝をしている。
(まだ来ぬな)
ふと椎《しい》の木を見た。根もとから梢《こずえ》のほうにだんだん眼を移して行って、ぱっと閉じた。梢に太陽がひっかかっていたからである。
(考えてもむだなことだ)
まだ来ぬ、というのは、美濃の実力者長井利隆からの使いがである。来ぬとあれば、長井が庄九郎をよほど警戒したか、それともこの国の貴族社会に紹介するに足りぬ人物とみたか、どちらかであろう。
(待つことさ)
庄九郎の処世観では、世の中はやる《・・》と待つ《・・》の二つしかない。待つということも重要な行動なのである。
そうした午後、縁側にいる庄九郎の耳に、山門の方角から、にわかに馬のいななき、人声のざわめきが聞こえてわたってきた。
(………?)
と眼をつぶっていると、廻廊《かいろう》を稚児《ちご》が走り渡ってきて、
「松波様、松波様。京の山崎屋(奈良屋)から杉丸《すぎまる》、赤兵衛殿と申されるかたがお見えになりました」
といった。
(ほう、よいときに来たな)
京を出るときに、お万阿《まあ》に命じておいたことだ。美濃へ隊商を寄越せ、と。
(どれ、門前へ出てみるか)
庄九郎は本堂の西側を通って、山門へ出てみた。
路上、半丁ばかりのあいだが、山崎屋(奈良屋)の荷駄《にだ》、人馬でうずまっている。荷駄はすべて上質の荏胡《えご》麻油《まあぶら》であり、人は護送の牢人《ろうにん》、売り子、手代である。
「あっ、旦《だん》那《な》様」
泣きっ面の杉丸が駈《か》けてきた。
ぺたっと路上でうずくまって、お懐《なつか》しゅうござりまする、御料人様は毎日旦那様のことばかりを申されております、おつつが《・・・・》はございませぬか、と早口でいった。
「見てのとおり息災だ」
そこへ赤兵衛もやってきて、この男は例の悪相でにっと笑った。
「お達者そうでござりまするな」
「お前達も元気そうでなによりだ。人数の宿割りはもうきめたか」
「へい、近在の各村に分宿することに致しました。あれだけの荷を美濃一国に売りあるくのですから、二十日はかかりましょう」
「たんと儲《もう》けよ」
「そのつもりでござりまする」
ひとまず二人を、庄九郎の自室に通した。
杉丸はすわると、懐《ふとこ》ろから油紙につつんだ封書をとりだして、膝《ひじ》をにじらせ、庄九郎の前においた。
「御料人様からのお手紙でござりまする」
「ああ、そうか」
庄九郎はさすがにお万阿が懐しい。しかし二人の眼前で読むのもはばかられて、そのまま懐ろへねじこんだ。
「それで、例のものを持ってきたか」
「へい」
杉丸と赤兵衛は、庄九郎の前に砂金の入った鹿皮《しかがわ》の袋を三つならべた。そのほか、永楽銭をカマスに二十袋馬に積んで持ってきている、という。
「豪勢じゃな」
庄九郎は、この瞬間から美濃随一の金持になった、といっていい。
「御料人様が、旦那様がご出世なさるまで山崎屋(奈良屋)の身代を傾けても金銀を運ぶ、とおおせられております」
と杉丸がいった。筆頭手代として杉丸自身もそう思っている。もっとも杉丸にすれば、主人が美濃土岐家に仕官をする、という程度しか知らず、まさか、油屋の旦那のぶんざいで美濃乗っ取りを考えているとは、夢にも想像できないことだ。
「杉丸、京へ帰ればすぐその足で堺《さかい》へゆき、めずらしい唐物《とうぶつ》をさがしておいてくれ。こんどはいつくる」
「三月のちに」
「そのときに届けてもらおうか。大明《たいみん》のおし《・・》ろい《・・》、べに《・・》、香木《こうぼく》なども忘れずに」
「はい」
「朝鮮渡来の虎《とら》の毛皮などは、当国の者は田舎者ゆえ、よろこぶかもしれない」
「見つけに参りましょう」
「交趾《こうちん》の香盒《こうごう》などもおもしろいな。そうそう思いだした。大明渡来の墨、硯《すずり》、朱、群青《ぐんじょう》、胡《ご》粉《ふん》、絵絹などもそろえてもらおう」
「絵の道具でござりまするな。旦那様がおかきになりまするので」
「いや、わしは浮世に絵をかくのだ。絹の上に絵などをかいているひまがない」
他に思惑《おもわく》がある。そのことは物語の進むにつれておいおい出てくるであろう。
「そちらは、当山《とうざん》へ泊まれ」
庄九郎は、常在寺を自分の家のように思っているらしい。
「いやいや」
杉丸は遠慮した。主人が厄介《やっかい》になっているうえに、手代まで泊まれば悪かろう。
「なんの、遠慮は要らぬことだ。この砂金も永楽銭もぜんぶ常在寺に寄進する」
「えっ」
赤兵衛はたまげた。砂金などは土岐家の要所々々に賄《わい》賂《ろ》としてばらまくのであろうと思ってもってきたのだが、それを愚にもつかぬ寺にすっかり寄進してしまうとはどういう料《りょう》簡《けん》か。
「も、もったいのうござりまするぞ」
「赤兵衛、そちはもとは妙覚寺の寺男であったというのに、そんな性根では極楽には行けぬな」
庄九郎は笑った。
杉丸は、ちかごろは庄九郎の感化をうけてすっかり日蓮宗の篤信者《とくしんじゃ》になっていたから、庄九郎のこの美挙に感動した。さすがは敬慕する自分のあるじであるとおもった。
「だ、だんなさま、そうなされまし。当国では日蓮宗はこの常在寺だけとやら。御法義昂《こう》隆《りゅう》のために何よりの布施《ふせ》でござりまする」
「そのつもりでいる」
(ほう)
赤兵衛は、庄九郎の顔をまじまじみつめている。妙法蓮華経の功《く》力《りき》など、もとの法蓮房いまの松波庄九郎は、いまも昔も信じてはいないことをよく知っているのである。
「さてそちらはここで待て。当山の日護上人に拝謁《はいえつ》させてやる」
「日護上人といえばたしか、昔の南陽房様でござりましたな」
赤兵衛は寺男崩れだからよく知っている。
「そうだ。しかし学生《がくしょう》のころとはちがい、いまは当国きっての巨刹《きょさつ》の上人だ。心安だてに無礼はあってはならぬぞ」
「へっ」
赤兵衛は、首をすっこめた。
 寄進ときいて、日護上人はよろこんだ。いや、驚いたのである。もとの兄弟子から財《ざい》施《せ》を受けるというのは、思いもよらなかった。
「法蓮房」
と、この若い上人は庄九郎を同学のころの旧称でよぶ。
「なにやら面《おも》映《は》ゆいな。おぬしはいかに物持とはいえ、そのように気を使うてもらわずともよいぞ」
「南陽房、申されるな。わしとても御《お》仏飯《ぶっぱん》で育てられた身、還俗《げんぞく》したりとはいえ、妙法蓮華経の功力により生かされている身じゃ。わずかなりとも仏恩に報いさせて貰《もら》いたい」
「おお、真の布《ふ》施行《せぎょう》とはこのことか」
上人はますます感動した。自分の所有物を他人に与えることを仏法では布施行といい、四《し》摂《せつ》の一つとして数えられるほどの重大な行《ぎょう》である。
しかし施者は、施すことによって福報を期待するようなことがあっては、真の布施行にはならない。ただ与え、ひたすらに与えることによって生得《しょうとく》の執着《しゅうじゃく》を去り、ついには仏法窮極の目的たる空《くう》の境地に達する。さればこそ、行というのである。
「おぬしはそれじゃ」
と日護上人はいうのだ。法蓮房はさすが学才智弁第一といわれただけに、仏法の真髄を知っている、というのである。
しかもその布施というのが、馬十頭に積んだ砂金、永楽銭といったものだときいて、日護上人は、胆《きも》をつぶした。
この当時はまだ物々交換がおもで、良銭というものは明国から輸入される永楽銭しかなく、それも通貨としては絶対量が不足なのだ。とくに美濃の田舎では、この銭そのものがめずらしいといっていい。それを馬十頭といえば、気の遠くなるような財である。
さっそく、日護上人は寺僧に食事《とき》をつくらせ、赤兵衛、杉丸をまじえて馳《ち》走《そう》した。
「………?」
と、上人は赤兵衛の顔をみて、妙な顔をしている。記憶《おぼえ》のある面《つら》つきなのだ。
庄九郎が、ほらあの頃《ころ》の寺男じゃ、と紹介すると、そうか、と苦笑した。
あとで日護上人が、
「法蓮房、おぬしらしくもない。あの寺男は妙覚寺本山で持てあましの悪党だったではないか。注意するがよいぞ」
「はははは、南陽房。悪人とは生得《しょうとく》慾心熾《さか》んなる者のことだが、それだけに使いようによってはなかなかおもしろい。善悪の色さだかならぬ腑《ふ》ぬけよりも、よほど役に立つ」
「おぬしの器量でこそ使えるのだ。しかし杉丸という手代は、善骨じゃな」
「わしは善悪両人、能に応じて使っている」
「いや、感心した」
日護上人の法蓮房庄九郎に対する傾倒は、妙覚寺本山のころからの習慣である。

一方、加納の城では。——
この翌々日の午後、城主の長井利隆は、朝からのにがい顔のまま、
「忘筌亭《ぼうせんてい》」
と名づける小さな学問所で独り二月堂《つくえ》にもたれ、茶壺《ちゃつぼ》に手を入れては、煎茶《せんちゃ》の葉を噛《か》んでいた。
利隆は、齢《とし》にしてはしわも多く顔色も冴《さ》えないのは、持病の胃のせいであろう。ひとつには茶好きでありすぎる。葉のまま噛むのがすきなのである。
利隆は、美濃きっての学問好きとされた男だ。戦国の世、しかも小なりともこういう城主の身に生まれてさえいなければ、とっくに出家遁世《とんせい》して花鳥風詠《ふうえい》を楽しんでいたであろう。
(本当なのか)
と、つぶやく。
にがい顔はそれだ。先日きた松波庄九郎が常在寺に多額の財を寄進した、ということである。
不快であった。
いや、庄九郎が、ではない。利隆は自分に対して、面白《おもしろ》くない。
あの日庄九郎を見たとき、あまりに怜《れい》悧《り》すぎ、あまりに人としての魅力がありすぎることにおそろしさを覚えた。
(これは謀《む》反人《ほんにん》の型ではないか)
利隆が読み知っている中国の史籍では、こういう魅力の男が、一国一家をくつがえすということを教えている。
(近づけるべきではない)
と見た。
だから、「いずれまた」といいながら、常在寺への使いを出さなかったのである。
その利隆の「見込み」がはずれた。けさ、あの男《・・・》が常在寺に多額の布施をした、といううわさをきいたのである。
(寺への布施をするなどは、利口者のすることではない。存外、そういう美談好きの甘い男ではあるまいか)
と思いなおさざるをえなくなった。自分の美談に酔える男かもしれない。いわば、見かけほどの利口者ではない。つまりその程度の利口者ならば、土岐の殿様に推挙しても害はなかろう、と思いかえしたのである。
(要するにあの男は、こうか。鎌倉以来の名家である土岐の家名にあこがれ、その名家が衰えているのを惜しみ、感傷し、いささかの力でもつくしたい、そういう感傷癖と美談癖のある男か)
なにぶん、寺に寄付をしてよろこんでいる男だ。存外そういう手の物好きかもしれない。物好きといってわるければ、他人に忠義を尽したくてその相手をさがしまわっている男、——要するにうまれついての忠義者か。
(そのうえにあの才覚。——)
これは土岐家のために天がくだしたような名執事になるかもしれぬ。
(いや、まったく見誤った。わしにもこういうことがあるのか)
長井利隆は、やっと顔色を平常にもどし、すぐ馬の支度を命じた。
「常在寺へゆく」
と、城門を出た。供は十人ばかり。この時代のこととて、それぞれ腹巻をつけ、弓、長《なが》槍《やり》をもっている。
めざす常在寺へは、一騎、先触れが走って訪問を予告していたから、長井利隆がついたときは、一山《いっさん》でむかえた。
「弟」
と、利隆は日護上人にささやいた。
「松波庄九郎殿はおられるか」
「法蓮房でござるか、もはや美濃にも倦《あ》いたと申して、今日あたりからあちこちに土産などを求め、京に帰る支度をしております。私がいかにとめましても、微笑しているばかりで、支度をやめませぬ」
「そ、それはならぬ。おとめせよ。あれほどの人物を他国に逃がすことがあってよいものか。弟、おとめ申せ」
「兄上、御思案が長すぎましたな。慎重は兄上の悪いお癖でござりまする」
「なんの、しかし心を決してしまえばゆるがぬのがわしの性分じゃ」
早速、常在寺の茶室で、日護上人を亭主に、庄九郎と席をともにした。
「お発《た》ちなされるそうでござるな」
「私ですか」
庄九郎は、茶碗《ちゃわん》をおいた。
「どうも、都から女房殿《にょうぼうどの》のたよりが参りましてな、それをみると、矢もたてもたまらなくなり、急に発つつもりになりました」
「庄九郎どのの御内儀とあれば、さぞ才色を兼ねた女人《にょにん》であろう。ちかごろ都では書風は何がはやっております」
「やはり青蓮院流《しょうれんいんりゅう》でありましょうか。一部の物好きは道風《とうふう》(小野)を好むようです。しかし私の女房は左様な流儀ではありませぬ」
「ほう」
長井利隆は膝をのりだした。都ぶりとあれば眼のない武士なのである。
「さしつかえなくば拝見できまいか」
といった。
「いや、べつに他人に読まれてこまるような手紙ではありませぬゆえ、お見せしてもよろしゅうございますが、長井殿、かならず笑われますな」
「なんの、嗤《わら》いますものか。都のはやりを知りたいものでござる」
「されば」
と庄九郎は、懐ろから一通の書信をとりだした。杉丸が言伝《ことづか》ってきたあの手紙である。
「どうぞご披《ひ》見《けん》を」
と、長井利隆のほうに押しやった。長井利隆はとりあげ、両手で鄭重《ていちょう》に押しいただいたうえ、静かに披見した。
庄九郎、端座したまま。
「…………」
と長井利隆は顔が、真赤になった。
巻紙には、何の文字も書かれていない。
ただ中央のあたりに、紅唇《こうしん》を捺《お》しあてて紅《べに》をつけた痕《あと》が、朱印のごとくくっきりしている。
「その手紙に添えて」
と、庄九郎はさらに紙包みをとりだして長井利隆のひざもとに進めた。
「こういう便りも認《したた》められておりました」
「は」
長井はどぎもをぬかれてほとんど無意識にその紙包みをひろげた。
ひとすじ、ほそいものが入っている。
「こ、これは何でござる」
「陰《かく》し毛《げ》でござる」
庄九郎は、にこりともしない。
はあっ、と長井はふとい溜息《ためいき》をつき、鄭重に巻きなおし、包みなおして、庄九郎のひざもとに返した。
「いや、おそれ入りました。千万言の文章、王《おう》羲之《ぎし》の筆にもまさる名筆でござる。庄九郎殿はよい内儀をもたれました」
「…………」
「どうぞ、お収めを」
長井は、しょんぼりしてしまっている。ど《・》ぎも《・・》をぬかれたのであろう。
しかし、これが庄九郎に対する長井利隆の印象を一変させた。
(ああまでのろける《・・・・》とは、抜け目がないようにみえて、よほど底のぬけた男であろう)
と、あとあとまで人に語った。
むろん、庄九郎の手である。長井利隆のような人物にはこの手でゆけばそういう印象をもつであろうということは、百も見通しのうえである。もっとも、お万阿がそういう手紙を送ってきたことだけは本当だが。
その夜、遅くまで長井利隆は、庄九郎を説得し、しまいには手をついて頼んだ。
「蜀《しょく》の玄徳劉備《りゅうび》が、諸葛亮《しょかつりょう》(孔明)の廬《いお》を三たび訪ねて出廬《しゅつろ》を懇請したときの気持もかようなものではなかったかと思われます。庄九郎殿、貴殿のお力がなければ美濃土岐家の衰運はどうにもならぬ」
長井利隆、
惚《ほ》れたとなれば、つい古典などをひきだして、過度な気持になるらしい。だんだん言葉をつくし、修辞を多くしてゆくうちに、むしろ自分の言葉に暗示されて、庄九郎が諸葛孔明にみえてきたのであろう。
庄九郎が、
「では。——」
とうなずいたのは、その夜も更《ふ》けたころである。
「ありがたや」
長井利隆、日護上人は、兄弟同時に手を拍《う》ってよろこんだ。
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