庄九郎は、槍の穂先を沈めた。
まだ、構えている。
くわっ、とひらいた庄九郎の眼が、しだいに細くなってゆく。眼が細くなるにつれて顔から表情が消え、消えるにつれて、肩、両手に入っていた力が抜け、抜けた力は、構えている庄九郎の姿の下へ下へと沈み、やがて腰がすわった。
(まあ、みごと。……)
と、舞の上手の深芳野は、庄九郎の肢《し》態《たい》の美しさに眼をみはった。
土岐頼芸は、杯を唇《くちびる》にもって行ったまま、金縛《かなしば》りに遭ったように身動きもせず、杯越しに庄九郎の姿をみている。
「…………」
と、庄九郎は動いた。
駈けた。
するするするする、と両足が畳の上をむだなく移動してゆく。
素早い。
両足がしきいを越えた。
いま一つ、しきいをひらりと越えた。
越えると同時に、
「うっ」
と跳躍し、砥《と》ぎすました槍の穂が光の尾をひいて、頼芸と深芳野の眼の前を通りすぎた。
最後に庄九郎は、大喝《だいかつ》した。
体がはねあがった。
槍の穂がほとばしるように伸び、金色に輝いている虎《とら》の眼の黒い瞳《ひとみ》の中心でとまった。
襖絵《ふすまえ》の猛虎は、なおも咆哮《ほうこう》している。
「殿、おあらためを。——」
と庄九郎は槍を背後へころがして、平伏した。頼芸は立った。
深芳野もおもわず立ちあがった。
「おお」
と頼芸は、虎に顔を近づけてうめいた。
信ぜられぬほどのことだが、虎の瞳の中央に、プツリと銀針で突いたほどのかすかな穴があいている。
「勘九郎、でかした」
と、頼芸はほめざるをえない。
「おそれ入りまする。されば、この賭け、それがしの勝ちでござりまするな」
「いかにも」
「それがしの勝ちとあれば、お約束のものを頂戴つかまつりまする。——深芳野さま」
と、庄九郎は深芳野の手をにぎった。
「こちらへ参られますように」
と手をとりつつ、そろそろと畳を踏み、頼芸の座からはるかな座にさがって、膝をつき手をつき、平伏した。
深芳野も、庄九郎の横にすわりながら、血の気をうしなった顔を、頼芸のほうにむけている。
頼芸は、いまにも泣きだしそうな顔で深芳野を見ていた。
「深芳野さま。なにをなされております」
と、庄九郎は頼芸へも聞こえよとばかりの大声でたしなめた。
「頭《ず》をおさげあそばすように。ながいあいだの殿のお手塩かけた御養育、おん礼申しあげられますように」
「はい。……」
と、泣くような小声でいった。
「殿様、深芳野は、……」
「おお」
と、頼芸は、おもわず腰を浮かし、
「み、深芳野、なんぞ申すことがあるか。申すことがあろう、申せ」
と、歯に唾《つば》を溜《た》めていった。頼芸にすればこの瀬戸《せと》際《ぎわ》で深芳野が駄々《だだ》をこねてむずかってくれることを望んだのであろう。そうすれば庄九郎に、——このかけは戯《たわむ》れじゃ許せ、と頼み入ろうと思ったのである。
「早う、申せ」
「はい。……」
深芳野の細い頸《くび》すじに、さっと血がさしのぼった。
恨みの言葉がのど《・・》さきまで出かかっていたが、それがすらすらと云《い》えるような習慣を、深芳野はもっていない。
諦《あきら》めて、別のことをいおうとした。
云わねばならぬことであった。頼芸の子を、深芳野はそのほそい体にやどしている。まだ三月にしかならず、侍女のお国もそのことに気づいていなかったが、頼芸には閨《ねや》で明かしたことがある。頼芸はそのことを忘れたのであろうか。
深芳野は、そのことについて頼芸に言おうとした。
「…………」
と、こみあげてくるものを、何ひとつ表現することができない。思いあまってこの場は泣き伏すべきであったろう。
しかしふしぎと、涙も出ないのである。頼芸に対する恨み、憎しみが、この場の深芳野から、泣く能力さえ奪ったのであろうか。
「殿。——」
と落ちついて言上したのは、庄九郎のほうであった。
「それがし、賭けに勝ったりとはいえ、殿にとって天地にも代えがたい深芳野様を頂戴いたしましたる御恩は、生々世々《しょうじょうせぜ》、相忘れませぬ。このうえは深芳野様を通じておそれながら君臣は一体も同然……」
と、庄九郎は悪趣味な言葉をつかった。君臣がおなじ女の体を通じて結ばれた、というなまぐさいひびきを、この庄九郎のことばはもっている。
「されば、それがし、いよいよ身を粉にしてこの忠義をはげむ覚悟でござりまする。——深芳野様」
「は、はい」
「もはや、深芳野、と呼びます。殿のお気持がかわりませぬうちにいそぎ退出つかまつりましょうず」
と、膝行《しっこう》してさがろうとした。
頼芸の表情がゆがんだ。
「深芳野」
と声をかけ、伸びあがろうとするところを、庄九郎の声がぴしゃりとおさえた。
「ご未練でござる。武門の棟梁《とうりょう》たる者が、婦女子ごとき情をお持ちあそばすものではござらぬ。ご謀反《むほん》こそ男の大志と思い候《そうら》え。そのことについては数日後に登城つかまつり、くわしく言上するつもりでござりまする」
「そうか」
頼芸は力なくうなずいた。庄九郎のらん《・・》と光る眼に威伏されてしまっている。
庄九郎は、それが哀れになった。
「殿、ただいまも申しあげたとおりでござりまする。この西村勘九郎は股《こ》肱《こう》の臣とは申せ、譜代の家来でもこれ無く、また、お血すじを受けた御一門ご家門のはしにつながる者でもござりませぬ。その勘九郎めが、これから殿とともに、御一門にも洩《も》らせぬような秘策秘事をこらし、ついには美濃一国を殿のものにし奉ろうというときにあたって、殿との繋《つな》がりの薄さを、日ごろ悩まざるをえませなんだ。殿もおそらくはそういう心もとなさをそれがしにお持ちでございましたろう。この深芳野を拝領つかまつりましたうえは、もはや殿との御縁は、ご血族、ご縁類、譜代重恩《ちょうおん》のともがらよりも深う、重う、濃うござりまする。きょうはまことに……」
と、平伏した。
「おめでとうござりまする」
君臣が、女の体を通じて血を盛るよりも濃い杯を交したようなものだ、と庄九郎はいうのである。
気弱な頼芸はそういわれてみると、なにやらめでたく思わざるをえない気持になり、
「勘九郎、下げてとらせた深芳野を通じていつまでも変わらずにはげんでくれい」
と、頬《ほお》をふるわせていった。
「あっはははは」
庄九郎は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いとばしておくこともわすれない。この場の湿っぽい空気をいつまでも深芳野や頼芸に持ち越されてはたまらぬと思ったのである。
「なにを笑う」
頼芸は、眼をまるくした。
「うれしかったのでござる。いやいや、よだれが出申した。これからは、夜ごと深芳野を可愛がりながら、殿のおうわさなど致すでござりましょう」
あとは、くそ真面目《まじめ》な顔にもどって、しずしずと退出した。
頼芸は庄九郎と深芳野が去ったあと、もう一度、虎の襖絵のそばへ寄って、顔をちかづけてみた。
プツリと、小さな穴があいている。
手で、撫《な》でてみた。
(神業《かみわざ》のような腕だ)
槍の腕が、である。この人のいい男は、それを感心している。そのあげくに深芳野を、みごとに捲《ま》きあげて行った、庄九郎のもう一つの神業については、頼芸は夜になってからひしひしと実感せざるをえないであろう。
まだ、構えている。
くわっ、とひらいた庄九郎の眼が、しだいに細くなってゆく。眼が細くなるにつれて顔から表情が消え、消えるにつれて、肩、両手に入っていた力が抜け、抜けた力は、構えている庄九郎の姿の下へ下へと沈み、やがて腰がすわった。
(まあ、みごと。……)
と、舞の上手の深芳野は、庄九郎の肢《し》態《たい》の美しさに眼をみはった。
土岐頼芸は、杯を唇《くちびる》にもって行ったまま、金縛《かなしば》りに遭ったように身動きもせず、杯越しに庄九郎の姿をみている。
「…………」
と、庄九郎は動いた。
駈けた。
するするするする、と両足が畳の上をむだなく移動してゆく。
素早い。
両足がしきいを越えた。
いま一つ、しきいをひらりと越えた。
越えると同時に、
「うっ」
と跳躍し、砥《と》ぎすました槍の穂が光の尾をひいて、頼芸と深芳野の眼の前を通りすぎた。
最後に庄九郎は、大喝《だいかつ》した。
体がはねあがった。
槍の穂がほとばしるように伸び、金色に輝いている虎《とら》の眼の黒い瞳《ひとみ》の中心でとまった。
襖絵《ふすまえ》の猛虎は、なおも咆哮《ほうこう》している。
「殿、おあらためを。——」
と庄九郎は槍を背後へころがして、平伏した。頼芸は立った。
深芳野もおもわず立ちあがった。
「おお」
と頼芸は、虎に顔を近づけてうめいた。
信ぜられぬほどのことだが、虎の瞳の中央に、プツリと銀針で突いたほどのかすかな穴があいている。
「勘九郎、でかした」
と、頼芸はほめざるをえない。
「おそれ入りまする。されば、この賭け、それがしの勝ちでござりまするな」
「いかにも」
「それがしの勝ちとあれば、お約束のものを頂戴つかまつりまする。——深芳野さま」
と、庄九郎は深芳野の手をにぎった。
「こちらへ参られますように」
と手をとりつつ、そろそろと畳を踏み、頼芸の座からはるかな座にさがって、膝をつき手をつき、平伏した。
深芳野も、庄九郎の横にすわりながら、血の気をうしなった顔を、頼芸のほうにむけている。
頼芸は、いまにも泣きだしそうな顔で深芳野を見ていた。
「深芳野さま。なにをなされております」
と、庄九郎は頼芸へも聞こえよとばかりの大声でたしなめた。
「頭《ず》をおさげあそばすように。ながいあいだの殿のお手塩かけた御養育、おん礼申しあげられますように」
「はい。……」
と、泣くような小声でいった。
「殿様、深芳野は、……」
「おお」
と、頼芸は、おもわず腰を浮かし、
「み、深芳野、なんぞ申すことがあるか。申すことがあろう、申せ」
と、歯に唾《つば》を溜《た》めていった。頼芸にすればこの瀬戸《せと》際《ぎわ》で深芳野が駄々《だだ》をこねてむずかってくれることを望んだのであろう。そうすれば庄九郎に、——このかけは戯《たわむ》れじゃ許せ、と頼み入ろうと思ったのである。
「早う、申せ」
「はい。……」
深芳野の細い頸《くび》すじに、さっと血がさしのぼった。
恨みの言葉がのど《・・》さきまで出かかっていたが、それがすらすらと云《い》えるような習慣を、深芳野はもっていない。
諦《あきら》めて、別のことをいおうとした。
云わねばならぬことであった。頼芸の子を、深芳野はそのほそい体にやどしている。まだ三月にしかならず、侍女のお国もそのことに気づいていなかったが、頼芸には閨《ねや》で明かしたことがある。頼芸はそのことを忘れたのであろうか。
深芳野は、そのことについて頼芸に言おうとした。
「…………」
と、こみあげてくるものを、何ひとつ表現することができない。思いあまってこの場は泣き伏すべきであったろう。
しかしふしぎと、涙も出ないのである。頼芸に対する恨み、憎しみが、この場の深芳野から、泣く能力さえ奪ったのであろうか。
「殿。——」
と落ちついて言上したのは、庄九郎のほうであった。
「それがし、賭けに勝ったりとはいえ、殿にとって天地にも代えがたい深芳野様を頂戴いたしましたる御恩は、生々世々《しょうじょうせぜ》、相忘れませぬ。このうえは深芳野様を通じておそれながら君臣は一体も同然……」
と、庄九郎は悪趣味な言葉をつかった。君臣がおなじ女の体を通じて結ばれた、というなまぐさいひびきを、この庄九郎のことばはもっている。
「されば、それがし、いよいよ身を粉にしてこの忠義をはげむ覚悟でござりまする。——深芳野様」
「は、はい」
「もはや、深芳野、と呼びます。殿のお気持がかわりませぬうちにいそぎ退出つかまつりましょうず」
と、膝行《しっこう》してさがろうとした。
頼芸の表情がゆがんだ。
「深芳野」
と声をかけ、伸びあがろうとするところを、庄九郎の声がぴしゃりとおさえた。
「ご未練でござる。武門の棟梁《とうりょう》たる者が、婦女子ごとき情をお持ちあそばすものではござらぬ。ご謀反《むほん》こそ男の大志と思い候《そうら》え。そのことについては数日後に登城つかまつり、くわしく言上するつもりでござりまする」
「そうか」
頼芸は力なくうなずいた。庄九郎のらん《・・》と光る眼に威伏されてしまっている。
庄九郎は、それが哀れになった。
「殿、ただいまも申しあげたとおりでござりまする。この西村勘九郎は股《こ》肱《こう》の臣とは申せ、譜代の家来でもこれ無く、また、お血すじを受けた御一門ご家門のはしにつながる者でもござりませぬ。その勘九郎めが、これから殿とともに、御一門にも洩《も》らせぬような秘策秘事をこらし、ついには美濃一国を殿のものにし奉ろうというときにあたって、殿との繋《つな》がりの薄さを、日ごろ悩まざるをえませなんだ。殿もおそらくはそういう心もとなさをそれがしにお持ちでございましたろう。この深芳野を拝領つかまつりましたうえは、もはや殿との御縁は、ご血族、ご縁類、譜代重恩《ちょうおん》のともがらよりも深う、重う、濃うござりまする。きょうはまことに……」
と、平伏した。
「おめでとうござりまする」
君臣が、女の体を通じて血を盛るよりも濃い杯を交したようなものだ、と庄九郎はいうのである。
気弱な頼芸はそういわれてみると、なにやらめでたく思わざるをえない気持になり、
「勘九郎、下げてとらせた深芳野を通じていつまでも変わらずにはげんでくれい」
と、頬《ほお》をふるわせていった。
「あっはははは」
庄九郎は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いとばしておくこともわすれない。この場の湿っぽい空気をいつまでも深芳野や頼芸に持ち越されてはたまらぬと思ったのである。
「なにを笑う」
頼芸は、眼をまるくした。
「うれしかったのでござる。いやいや、よだれが出申した。これからは、夜ごと深芳野を可愛がりながら、殿のおうわさなど致すでござりましょう」
あとは、くそ真面目《まじめ》な顔にもどって、しずしずと退出した。
頼芸は庄九郎と深芳野が去ったあと、もう一度、虎の襖絵のそばへ寄って、顔をちかづけてみた。
プツリと、小さな穴があいている。
手で、撫《な》でてみた。
(神業《かみわざ》のような腕だ)
槍の腕が、である。この人のいい男は、それを感心している。そのあげくに深芳野を、みごとに捲《ま》きあげて行った、庄九郎のもう一つの神業については、頼芸は夜になってからひしひしと実感せざるをえないであろう。
庄九郎は、深芳野を果樹の林のなかの屋敷に連れて帰った。
深芳野は、たった一日のうちにおこなわれたあまりにはげしい運命の転換に、ものをいう元気もない。
(まるで鉢《はち》活《い》けの木のような手軽さで、自分の運命が移しかえられている)
という憤《いきどお》りは、正直なところ深芳野の思考にはうかばなかった。環境の変化がはげしすぎて、ものを考える気力も体力も、深芳野から奪ってしまっていた。
「これが私の屋敷だ」
と、庄九郎は屋敷のすみずみまで案内し、赤兵衛、耳次などの郎党、小者などの男どもにもひきあわせ、さらにこの男の滑稽《こっけい》なことには、深芳野を庭へ連れだし、庭木の一本々々の幹をぱんぱんとたたいては、
「これは桃」
「これは栗《くり》」
「あれは柿《かき》」
と紹介してまわったのである。深芳野は、はじめはいちいちうなずいていたが、だんだん可笑《おか》しくなってきて、思わず頬に微笑をさしのぼらせた。
「ああ、そなたは愁《うれ》い顔もよいが、やはり笑顔が清げでよい。庭に連れだしたのは、もう一本の樹《き》を紹介したかったからだ。その樹は天にむかって亭々《ていてい》とそびえ、枝葉を繁《しげ》らせて美濃一国を蔽《おお》おうとしている」
「どの樹です」
「そなたの眼の前にいる。本来の名乗りは松波庄九郎、仮の名乗りは西村勘九郎」
「…………」
「どのようなことがあっても、そなたはわしを頼っておればよい」
口だけではあるまい。
そう断言できるだけの凜《りん》とした勁《つよ》さがこの男の五体をひき緊《しま》らせている。
頼芸にはないものであった。
庄九郎は、深芳野に部屋を一つ与え、老女のお国にも部屋をあたえた。
たちまち、屋敷が手狭になった。さっそく建て増しをせねばならないであろう。
とにかく、その日、屋敷うちでもっともおどろいたのは、京からきて滞留している赤兵衛であった。
「京の御料人様をどうなさるのでございまする」
「お万阿《まあ》か。あのままよ。山崎屋庄九郎の妻女は、天地、あの者しかおらぬ」
「安《あん》堵《ど》つかまつりました。しかしこのことは京に帰ってだまっているわけでおじゃるな」
「喋《しゃべ》れ」
「これはしたり」
「お万阿には申しきかせてある。深芳野は美濃侍西村勘九郎のもので、お万阿とはなんの関係もない。わしは二人いる」
「ははあ、べつべつなので」
赤兵衛は、あきれた。
「して、われわれはあの姫御前様のことをどうよべばよろしおじゃろうか」
「深芳野様とよべばよい」
「奥方様、とは呼び奉らずに」
「おお、そう呼びたければよべ。よび方などはどうでもよいことだ」
「すると、奥方様ではないのでおじゃるな」
「まあ、そうだ」
妾である。
庄九郎は、頼芸の寵愛《ちょうあい》している妾を、妾としてもらったわけで、それを正室にするつもりはない。
ひとの妾を本妻にするなどは、誇りの高い庄九郎の堪えられぬところである。
「驚きましたな。頼芸様の寵姫《ちょうき》をとりあげておいて、それをご正室にもなさらぬとは」
「あたりまえのことだ。正室などは政略によってやりとりするもので、男の想《おも》いの通わぬおなごのことだ。想いをかけたおなごは、側室こそのぞましい。もともと、正室、側室に上下はあるものか」
「すると、旦《だん》那《な》様は、まだこのあとご正室をどこかからお迎えなさろうというのでおじゃりまするか」
「どちらの旦那だ。山崎屋庄九郎のほうならちゃんとお万阿という正室がある」
「美濃のほうの」
「ああ、勘九郎のほうか。さきのことはまだわからぬわい。しかし深芳野を獲《え》たからといってあわてて正室の座にすえてしまう馬鹿《ばか》もなかろう。ああいう座は、明けておいてこそのちのちの妙味があるものだ」
たちまち、屋敷が手狭になった。さっそく建て増しをせねばならないであろう。
とにかく、その日、屋敷うちでもっともおどろいたのは、京からきて滞留している赤兵衛であった。
「京の御料人様をどうなさるのでございまする」
「お万阿《まあ》か。あのままよ。山崎屋庄九郎の妻女は、天地、あの者しかおらぬ」
「安《あん》堵《ど》つかまつりました。しかしこのことは京に帰ってだまっているわけでおじゃるな」
「喋《しゃべ》れ」
「これはしたり」
「お万阿には申しきかせてある。深芳野は美濃侍西村勘九郎のもので、お万阿とはなんの関係もない。わしは二人いる」
「ははあ、べつべつなので」
赤兵衛は、あきれた。
「して、われわれはあの姫御前様のことをどうよべばよろしおじゃろうか」
「深芳野様とよべばよい」
「奥方様、とは呼び奉らずに」
「おお、そう呼びたければよべ。よび方などはどうでもよいことだ」
「すると、奥方様ではないのでおじゃるな」
「まあ、そうだ」
妾である。
庄九郎は、頼芸の寵愛《ちょうあい》している妾を、妾としてもらったわけで、それを正室にするつもりはない。
ひとの妾を本妻にするなどは、誇りの高い庄九郎の堪えられぬところである。
「驚きましたな。頼芸様の寵姫《ちょうき》をとりあげておいて、それをご正室にもなさらぬとは」
「あたりまえのことだ。正室などは政略によってやりとりするもので、男の想《おも》いの通わぬおなごのことだ。想いをかけたおなごは、側室こそのぞましい。もともと、正室、側室に上下はあるものか」
「すると、旦《だん》那《な》様は、まだこのあとご正室をどこかからお迎えなさろうというのでおじゃりまするか」
「どちらの旦那だ。山崎屋庄九郎のほうならちゃんとお万阿という正室がある」
「美濃のほうの」
「ああ、勘九郎のほうか。さきのことはまだわからぬわい。しかし深芳野を獲《え》たからといってあわてて正室の座にすえてしまう馬鹿《ばか》もなかろう。ああいう座は、明けておいてこそのちのちの妙味があるものだ」
深芳野にも、それがわからない。祝言《しゅうげん》はせぬのであろうか。今夜は、どこに寝るのであろう。……
「お姫《ひい》さま、不審でございまするな」
と、お国も声をひそめていった。
深芳野はだまっていた。一日のうちにこうも運命がかわりはてては、そのようなことまで考える根気がない。
夜がきた。
深芳野は、真新しい絹の臥《ふし》床《ど》に身を横たえた。
(来るか)
と、思った。が、疲れた。ついまどろみ、やがて深いねむりにおちた。
深夜、であったろう。
眼がさめたとき、臥床のなかに庄九郎が訪ねていることを知った。
「わしだ」
と、庄九郎はやさしく抱きよせた。その腕が、やがて深芳野のほそい骨が撓《たわ》むほどの力を加えてきた。
唇が、深芳野の唇を濡《ぬ》らしている。
「く、くるしゅうございます」
「あははは、これがわしの愛し方だ。お屋形はかようには愛さなんだか」
深芳野は、かぶりをふった。そのかぶりが途中でとまり、
(あっ)
と叫びが洩れそうになった。体をつらぬくような衝撃が、身のうちを走った。頼芸とはすべてに作法がちがっていた。
「いずれ、馴《な》れる」
「はい」
「深芳野、わしはついにそなたを獲た。いま天にものぼるような気持でいる。わしのよろこびに応《こた》えよ」
不覚にも、深芳野はつつしみを忘れた。忘れさせるものが、深芳野の胎内に蟠《わだかま》っていた。それがはげしく動いた。
長い髪がみだれ、深芳野がうごくたびに畳の上に渦《うず》を巻いて流れた。
「深芳野、よいか」
「はい」
「わしの子を産むのだ」
この夜、屋根の上の美濃の天には、星がおびただしく流れた。美濃の村々でそれをみていた者たちは、世に乱が来るのではないかとうわさした。まさか深芳野と庄九郎の合歓が、美濃の乱をつぎつぎに呼んでゆこうとは、たれも気づかない。
庄九郎は、深芳野の体から離れた。
「そなたのために屋敷を造りかえる」
と、庄九郎はいった。
「お国にも扶持《ふち》を与えるつもりだ。この西村はそなたの住みよい家にしてゆく」
庄九郎の胸の中に、深芳野は顔をうずめている。これが幸福なのかどうかは、深芳野にもわからない。ただ、温かい。
自分がいま抱かれている男がひどく高い体温をもっていることだけはわかった。
「お姫《ひい》さま、不審でございまするな」
と、お国も声をひそめていった。
深芳野はだまっていた。一日のうちにこうも運命がかわりはてては、そのようなことまで考える根気がない。
夜がきた。
深芳野は、真新しい絹の臥《ふし》床《ど》に身を横たえた。
(来るか)
と、思った。が、疲れた。ついまどろみ、やがて深いねむりにおちた。
深夜、であったろう。
眼がさめたとき、臥床のなかに庄九郎が訪ねていることを知った。
「わしだ」
と、庄九郎はやさしく抱きよせた。その腕が、やがて深芳野のほそい骨が撓《たわ》むほどの力を加えてきた。
唇が、深芳野の唇を濡《ぬ》らしている。
「く、くるしゅうございます」
「あははは、これがわしの愛し方だ。お屋形はかようには愛さなんだか」
深芳野は、かぶりをふった。そのかぶりが途中でとまり、
(あっ)
と叫びが洩れそうになった。体をつらぬくような衝撃が、身のうちを走った。頼芸とはすべてに作法がちがっていた。
「いずれ、馴《な》れる」
「はい」
「深芳野、わしはついにそなたを獲た。いま天にものぼるような気持でいる。わしのよろこびに応《こた》えよ」
不覚にも、深芳野はつつしみを忘れた。忘れさせるものが、深芳野の胎内に蟠《わだかま》っていた。それがはげしく動いた。
長い髪がみだれ、深芳野がうごくたびに畳の上に渦《うず》を巻いて流れた。
「深芳野、よいか」
「はい」
「わしの子を産むのだ」
この夜、屋根の上の美濃の天には、星がおびただしく流れた。美濃の村々でそれをみていた者たちは、世に乱が来るのではないかとうわさした。まさか深芳野と庄九郎の合歓が、美濃の乱をつぎつぎに呼んでゆこうとは、たれも気づかない。
庄九郎は、深芳野の体から離れた。
「そなたのために屋敷を造りかえる」
と、庄九郎はいった。
「お国にも扶持《ふち》を与えるつもりだ。この西村はそなたの住みよい家にしてゆく」
庄九郎の胸の中に、深芳野は顔をうずめている。これが幸福なのかどうかは、深芳野にもわからない。ただ、温かい。
自分がいま抱かれている男がひどく高い体温をもっていることだけはわかった。