庄九郎は廊下を走り、政頼の寝所の杉《すぎ》戸《ど》の前までくると、内部の気配をうかがうようにして戸に耳をつけた。
廊下は暗い。
具足姿の庄九郎は右手に槍、左手にタイマツを持ち、その炎は庄九郎の野望そのもののように粉を星のようにとばして燃えさかりつつある。
杉戸の絵は、京の画人がわざわざ美濃によばれてかいた絵らしい。岩絵《いわえの》具《ぐ》を盛りあげてかいた「火炎太鼓」である。
ぐらっ、
と、杉戸をあけた。なかに踏みこむと、血がある。
死体がある。
五つ、女ばかりであった。
その死体のなかで、らん《・・》と眼をむいて槍を構えている近習の武士が一人、それにその背後で衣装をつけおわったばかりの美濃の国主土岐政頼が、ふるえている。
「お屋形様でござりまするな」
庄九郎は、一歩、踏み出した。
この瞬間こそ、庄九郎がその生涯《しょうがい》で何度かみせた大狂言のうちでも最たるものであったろう。
「この城、頂戴《ちょうだい》つかまつる。いやさそれがしではござりませぬ。お屋形様の御弟君頼芸様にお譲りなされますように」
「あ、あぶら屋!」
と、どなったのは近習武士である。
「そのほう、商人《あきゅうど》の分際にて不《ふ》逞《てい》の心根《こころね》をいだき、御弟君をそそのかし参らせ、乱をおこし、弑逆《しいぎゃく》の大罪を犯さんとするか」
「おそれ入る」
庄九郎はその者にいんぎんに一礼し、
「弑逆とは臣にして君を殺すという意味でござるが、それがしはさきごろ、頼芸様の使者としてこの川手の府城に登城つかまつりましたるとき、お屋形様はそれがしをあぶら屋として遇された。美濃の国主と油屋、主従関係があろうはずがない」
庄九郎の足に、女どもの血が流れてきている。
「さらに申す。それなる政頼様、頼芸様の御父君政房様は、御生前、家督を頼芸様に継がせようとなされた。一部老臣の反対にあい、小戦さまでおこり、ついに御兄君政頼様が国主になられたわけでござりまするが、これは御父君の意思に逆いしことならずや。孝は国の大道なりと申す。不孝の国主を上にいただくことは一国のみだれをまねくもと」
冗談ではない、乱れのモトは庄九郎そのひとではないか。
庄九郎もさすがにこの道学者めいたせりふがおかしかったのか、ちょっと小首をひねってから、声をたてて笑いはじめた。
ひどく明るい声であった。
「お屋形様に申しあげまする。もはやあなた様にはこの乱世のなかで美濃一国を経営する能がないとそれがしは見申したわ」
「それがしとは何者ぞ」
政頼は、歯噛《はが》みしている。唇から血が流れていた。恐怖よりも憤《いきどお》りで体がふるえている。
「それがしとは、ここに居るそれがし」
「油屋か」
「でもあり、でもござりませぬ。お屋形様の眼には何と映っているか存じませぬが、天が美濃を革《あらた》めて国を興せと命じたる毘《び》沙門天《しゃもんてん》であるとお思いなさるが、まずまずご無難でありましょうな。——お屋形様」
「な、なんじゃ」
「ひれ伏しなされい」
庄九郎は威厳に満ちた足どりと、それこそ毘沙門天像のような炬《きょ》のような眼をひらいてゆっくりと政頼に近づいた。
近習は、やっとわれにかえり、さっと槍を繰りだしてきたが、庄九郎はすばやく槍の柄《え》で払い、力を喪《うしな》って流れたその槍を、足をあげて踏み折った。
近習は太刀のツカに手をかけた。
半ば抜きかけた相手の手もとにとびこみ、タイマツの火のカタマリをその顔へおしつけた。
「わっ」
とのけぞった。
「おのれがこの白拍子どもを殺したか。何の罪あっておなごを殺す」
もとはといえば、妙覚寺本山をとびだして庄九郎は還俗《げんぞく》したあと、一時は下人同然の境《きょう》涯《がい》に陥《お》ちた。いわば白拍子どもとおなじ階層の出身ともいえる。
「このあぶら屋もまた人を殺す。が、すべて天の命によって殺す。あぶら屋の殺戮《さつりく》はすべて正義と思え。しかしながらおのれどもの人を殺すは、恐怖か憎悪、この二つの理由からしかない。このあぶら屋は恐怖も憎悪もなく人を殺すぞ」
「………?」
と、武士には意味がわかるまい。
「お屋形様、お命だけはたすけて進ぜますゆえ、美濃へは再びおもどりなさるな。舞いもどられたときはこのあぶら屋の槍がお命を申しうけまするぞ」
そういわれるとにわかに恐怖がよみがえったのか、政頼は、わあーっとけものじみた叫びをあげて逃げだした。近習がそのあとを追った。
「裏門《からめて》から落ちられよ」
と庄九郎は声をかけ、すばやく先まわりして裏門口《からめてぐち》の大将の可児《かに》権蔵《ごんぞう》に声をかけ、政頼に手をかけるな、といった。
ただ、庄九郎は自分の手兵百騎をもって政頼を追わせた。送り狼《おおかみ》のようなものである。
庄九郎から意を受けた送り狼どもは、政頼を追い、大垣から関ケ原に入り、さらに北国街道を北上させ、越前まで走らせた。
越前一乗谷《いちじょうだに》に首都をもつ朝倉氏は、北陸王といっていい。美濃土岐氏とは在来婚姻《こんいん》を重ねてきたため、政頼はその朝倉孝景をたよって身を寄せた。
廊下は暗い。
具足姿の庄九郎は右手に槍、左手にタイマツを持ち、その炎は庄九郎の野望そのもののように粉を星のようにとばして燃えさかりつつある。
杉戸の絵は、京の画人がわざわざ美濃によばれてかいた絵らしい。岩絵《いわえの》具《ぐ》を盛りあげてかいた「火炎太鼓」である。
ぐらっ、
と、杉戸をあけた。なかに踏みこむと、血がある。
死体がある。
五つ、女ばかりであった。
その死体のなかで、らん《・・》と眼をむいて槍を構えている近習の武士が一人、それにその背後で衣装をつけおわったばかりの美濃の国主土岐政頼が、ふるえている。
「お屋形様でござりまするな」
庄九郎は、一歩、踏み出した。
この瞬間こそ、庄九郎がその生涯《しょうがい》で何度かみせた大狂言のうちでも最たるものであったろう。
「この城、頂戴《ちょうだい》つかまつる。いやさそれがしではござりませぬ。お屋形様の御弟君頼芸様にお譲りなされますように」
「あ、あぶら屋!」
と、どなったのは近習武士である。
「そのほう、商人《あきゅうど》の分際にて不《ふ》逞《てい》の心根《こころね》をいだき、御弟君をそそのかし参らせ、乱をおこし、弑逆《しいぎゃく》の大罪を犯さんとするか」
「おそれ入る」
庄九郎はその者にいんぎんに一礼し、
「弑逆とは臣にして君を殺すという意味でござるが、それがしはさきごろ、頼芸様の使者としてこの川手の府城に登城つかまつりましたるとき、お屋形様はそれがしをあぶら屋として遇された。美濃の国主と油屋、主従関係があろうはずがない」
庄九郎の足に、女どもの血が流れてきている。
「さらに申す。それなる政頼様、頼芸様の御父君政房様は、御生前、家督を頼芸様に継がせようとなされた。一部老臣の反対にあい、小戦さまでおこり、ついに御兄君政頼様が国主になられたわけでござりまするが、これは御父君の意思に逆いしことならずや。孝は国の大道なりと申す。不孝の国主を上にいただくことは一国のみだれをまねくもと」
冗談ではない、乱れのモトは庄九郎そのひとではないか。
庄九郎もさすがにこの道学者めいたせりふがおかしかったのか、ちょっと小首をひねってから、声をたてて笑いはじめた。
ひどく明るい声であった。
「お屋形様に申しあげまする。もはやあなた様にはこの乱世のなかで美濃一国を経営する能がないとそれがしは見申したわ」
「それがしとは何者ぞ」
政頼は、歯噛《はが》みしている。唇から血が流れていた。恐怖よりも憤《いきどお》りで体がふるえている。
「それがしとは、ここに居るそれがし」
「油屋か」
「でもあり、でもござりませぬ。お屋形様の眼には何と映っているか存じませぬが、天が美濃を革《あらた》めて国を興せと命じたる毘《び》沙門天《しゃもんてん》であるとお思いなさるが、まずまずご無難でありましょうな。——お屋形様」
「な、なんじゃ」
「ひれ伏しなされい」
庄九郎は威厳に満ちた足どりと、それこそ毘沙門天像のような炬《きょ》のような眼をひらいてゆっくりと政頼に近づいた。
近習は、やっとわれにかえり、さっと槍を繰りだしてきたが、庄九郎はすばやく槍の柄《え》で払い、力を喪《うしな》って流れたその槍を、足をあげて踏み折った。
近習は太刀のツカに手をかけた。
半ば抜きかけた相手の手もとにとびこみ、タイマツの火のカタマリをその顔へおしつけた。
「わっ」
とのけぞった。
「おのれがこの白拍子どもを殺したか。何の罪あっておなごを殺す」
もとはといえば、妙覚寺本山をとびだして庄九郎は還俗《げんぞく》したあと、一時は下人同然の境《きょう》涯《がい》に陥《お》ちた。いわば白拍子どもとおなじ階層の出身ともいえる。
「このあぶら屋もまた人を殺す。が、すべて天の命によって殺す。あぶら屋の殺戮《さつりく》はすべて正義と思え。しかしながらおのれどもの人を殺すは、恐怖か憎悪、この二つの理由からしかない。このあぶら屋は恐怖も憎悪もなく人を殺すぞ」
「………?」
と、武士には意味がわかるまい。
「お屋形様、お命だけはたすけて進ぜますゆえ、美濃へは再びおもどりなさるな。舞いもどられたときはこのあぶら屋の槍がお命を申しうけまするぞ」
そういわれるとにわかに恐怖がよみがえったのか、政頼は、わあーっとけものじみた叫びをあげて逃げだした。近習がそのあとを追った。
「裏門《からめて》から落ちられよ」
と庄九郎は声をかけ、すばやく先まわりして裏門口《からめてぐち》の大将の可児《かに》権蔵《ごんぞう》に声をかけ、政頼に手をかけるな、といった。
ただ、庄九郎は自分の手兵百騎をもって政頼を追わせた。送り狼《おおかみ》のようなものである。
庄九郎から意を受けた送り狼どもは、政頼を追い、大垣から関ケ原に入り、さらに北国街道を北上させ、越前まで走らせた。
越前一乗谷《いちじょうだに》に首都をもつ朝倉氏は、北陸王といっていい。美濃土岐氏とは在来婚姻《こんいん》を重ねてきたため、政頼はその朝倉孝景をたよって身を寄せた。
翌朝、庄九郎は軍勢のうち五百を割《さ》き、可児権蔵を大将にして鷺山《さぎやま》城に急行させ、頼芸を迎えさせた。
頼芸は即日、美濃の府城である川手城に入り、国主の位置についた。
庄九郎は、京都へも手をうった。朝廷も足《あし》利《かが》幕府も何の威権もないが、賞典の授与権だけはもっている。ほどなく朝廷から頼芸に美濃守任官の沙汰《さた》がくだり、幕府からは美濃守護職としての相続を公認する旨《むね》、沙汰がくだった。
(これはこれでよし)
庄九郎は頼芸に賀意をのべた。
頼芸も無邪気なものだ。
庄九郎の手をとり、
「そちのおかげだ」
と、眼をうるませた。庄九郎は手を頼芸にあずけながら無表情にうなずき、
「深芳野を頂戴つかまつりましたるときの御約束を果たしたまででござりまする」
といった。
このいわばクーデターのおかげで、つい数年前までは一介の油商人にすぎなかった庄九郎は、国主の執事となり、権勢ならぶ者はない存在となった。
が、その権勢も内実は不安定なものであることを、たれよりも庄九郎自身が知っている。なにしろ、頼る者といえば頼芸だけで、頼芸の権威の蔭《かげ》にかくれてそれをあやつっているだけの存在なのだ。
美濃八千騎。
といわれる。この面積四百方里の国で、それだけの小領主がいるのである。その向背《こうはい》のいかんによっては庄九郎の位置もあぶないものだ。
とにかく頼芸は、庄九郎に対する論功行賞として本巣郡文殊城《もとすのこおりもんじゅじょう》(現在の岐阜市から西北五里)を与えた。
が、庄九郎はこの城と領内の村々を一度見に行ったきりで、行こうともしない。もっともまるっきり無関心でない証拠に、領内の百姓の租税を美濃の他領よりも心持ゆるやかなものにした。
当然、百姓の好感を得た。この時代の百姓は、徳川時代のような法制化された「階級」ではない。兵農はまだ未分離の状態にあり、大百姓はいざ軍陣のときには小領主に動員されて騎馬武者(将校)になる者もあり、その百姓屋敷に飼われている作男どもはときに卒として活躍する。かれらの世論は重要というべきであった。
庄九郎はそういう「領民」どもをたくみに手なずけた。
なにしろ、庄九郎は京に山崎屋というぼう大な富があり、せかせかと百姓どもを搾《しぼ》らねばならぬようなしみったれた小領主ではない。
とにかく、その城には住まない。川手城内に屋敷をつくり、頼芸と肌《はだ》を接するようにして土岐家の家政をみている。
「文殊城では不満なのか」
と、頼芸が心配そうにきいた。
「いえ、文殊城はこの川手城から遠うございます。毎日登城ができぬとあっては、御奉公にさわりがございましょう」
そういう庄九郎に、意外な幸運が舞いこんだ。もたらした者は、長井利隆である。
利隆は、常在寺日護上人の兄で、庄九郎が美濃にきた最初から異常な好意をよせている老将である。
美濃の大豪族の一人であり、土岐の一族で、頼芸の少年時代から後見人をつとめてきた人物であることは、この物語の最初のころに紹介した。庄九郎を頼芸に引見させたのも利隆だったし、庄九郎の才能に対し気味わるいほどの尊敬をはらってきた唯一《ゆいいつ》の有力者でもあった。
かつ、この川手城攻撃の兵力の大半は、長井利隆の一族、家来なのであった。そこまで庄九郎を支援してきた。
利隆にすれば、庄九郎の才能を愛してそれを支援することは頼芸を支援することであり、かつ、隣国で成長しつつある近江《おうみ》の浅井氏、尾張の織田氏の脅威から美濃をまもる唯一の方法であると信じていた。
(あの男さえおれば、わしは安《あん》堵《ど》して眼を瞑《ねむ》れる)
とも思っている。
利隆は、病身であった。それがちかごろほとんど病床にあり、自分の余命がいくばくもないことに気づきはじめていた。
ある日、庄九郎を加納城内の病室によび、
「自分の気がかりなのは、頼芸様の御身の上と、美濃の安危である。どうだろう、そこもとがより一層に頼芸様に御奉公してくれるように、また御奉公しやすいように、私の家の名跡《みょうせき》と城を受け継いではくれまいか」
という意味のことをいった。
信じられぬことである。利隆は悩乱したのではあるまいか。どこの国に、えたいの知れぬ風来坊に城と領地と家名をゆずる馬鹿《ばか》がいよう。
「…………」
庄九郎は、枕頭《ちんとう》をわずかにさがって両手をついたまま、眼だけは注意ぶかく利隆の表情を読みとろうとしている。
利隆は、すこし瞳《ひとみ》に灰色がかってはいたが、澄んだ眼をもっていた。うそや冗談をいっている表情ではない。しばらく眼をつぶって考えごとをしている風《ふ》情《ぜい》であったが、やがて、
「庄九郎殿」
と、利隆はふるい呼び名でよんだ。
「悪人とはなにか、ということを、わしはむかしから考えつづけてきた」
(………?)
庄九郎は、眼をあげた。話は、意外な内容に発展しそうであった。
「庄九郎殿は、考えたことはござるか」
「それがし、かつては桑門《そうもん》(宗門)に居りましたれば」
——当然、善悪の問題は考えてきたことだ、という意味のうなずきかたを、庄九郎はした。
「そうであった、そなたは京の妙覚寺本山の大秀才であったな。ゆらい、日蓮宗というのは、善にも強烈な人間を出し、悪にも強烈な人間を出すということをきいた」
「左様、他宗は知らず……」
庄九郎は、日蓮宗の哲学《・・》に触れた。
「日蓮宗以外の他宗というのは、善悪の問題があいまいでござりまする。法然《ほうねん》、親鸞《しんらん》の浄土門にありましては、人間の存在そのものが、悪であると申しまする。人間は、魚介鳥獣《ぎょかいちょうじゅう》などの生きものの命を奪って食うしか肉体《しきしん》をたもつ方法がなく、女人《にょにん》を愛さねば子孫の繁殖ができず、そのように、殺生《せっしょう》、女犯《にょぼん》をせねば生きてゆけぬように作られた存在が人間であると申しまする。されば、釈尊の教えから見ますれば、救われぬ者がにんげん。そういう人間というものを、悪は悪のままで、信篤《しんあつ》き者も信薄き者も、そのありのままの姿で救うてくださるというのが阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》である、と申しまするが、日蓮宗にあっては左様には寛容ではありませぬ。日蓮宗の根本経典《こんぽんきょうてん》である法華経を信ぜぬやから《・・・》は、たとえ世にいう善人であろうとすべて悪人であり、世を毒し、国をほろぼす者だと申しまする。自然、善悪というものに強烈なこだわりを持ちまするゆえ、そのせいか、日蓮の徒には悪人が多い。たとえ悪行《あくぎょう》をしても法華経を念《ねん》持《じ》すれば罪障が消滅するというべんりな教えがござりまするゆえ、すさまじい悪をする者があるようでござりまするな」
庄九郎は、けろりとしていった。とりもなおさず、この男のことではないか。
とは、長井利隆は思わなかった。
庄九郎の才器に心酔しきっているのである。
「いや、話がむずかしくなったが、私のいう悪とか悪人とかは、別のことだ。つくづく考えてみるに、無能の国主、無能の家老、無能の領主とは、乱世にあっては悪人だな」
「ほう」
驚いてみせたが、庄九郎も同感であった。
「この美濃をみよ」
長井利隆は目をつぶった。
なるほど、美濃はここ十年ほどのあいだ、何度も浅井、織田氏から国境を侵略され、そのつど出戦しているのだが、勝ったためしはない。
国境の百姓どもこそ、いいつらのかわで、稲の取り入れ時分になると近江の浅井軍が侵略してくる。
稲を刈ってしまうのだ。
(なんのための守護職か)
と、関ケ原付近や墨股《すのまた》付近の国境にいる百姓どもは恨みぬいているという。百姓だけではなく、その付近の地侍もさんたんたるもので、侵略されるたびに親を殺され、子を殺され、貯蔵している武器、食糧を掠奪《りゃくだつ》され、牧田という郷村にいる地侍で牧田右近という者は妻子を近江の浅井衆に殺されたあげく、乞食のような姿で京へ流れて行ったという。
この悲惨のモトはたった一つである。土岐家に人材がいないことだ。
国主は歴代無能つづきだし、それを補佐する豪族どもも、ろくな者がいない。
「わしをふくめて、そうだ」
と、利隆はいった。
要するに利隆のいうところ、領土を経営する者が無能なるは最大の悪であり、悪人であるというのである。
「頼芸様は、政頼様よりましとはいえ、あのとおりの人だ。大軍を率いて、浅井や織田に打ち勝てるお人ではない。また、累代《るいだい》腐りきった土岐家の組織を快刀乱麻を断つがごとく建てなおせるお人でもない。その補佐役のわしがこのとおりの病身で無能ときている。いわば悪人だな」
「…………」
となると、庄九郎は天がくだした無上の善人ということになるであろう。
「このままでは、土岐家はほろび、美濃はほろびる。わしのような悪人《・・》は引退せねばならぬ」
長井家は、土岐家の支族としても最大のものだから、庄九郎がこの家を継いでこの家の名において美濃の政治に臨むならば、少々の荒療治もできるであろう、と利隆はいうのだ。
「だから譲る」
——本気かな? と庄九郎は思った。
利隆は、本気であった。敏感な男だけに庄九郎が怖《おそ》るべき存在であることもわかっているにちがいない。が、この男に腕をふるわせる以外に、美濃は滅亡を待つばかりだということも、利隆は知っている。
利隆は、ひどく無慾になっていた。
病身で精気が衰弱しているせいでもあろうし、累代の名家の末というのは、利隆のように慾を置きわすれてうまれてきたような者も出るらしい。それになによりも利隆には子がなかった。
庄九郎は、養子という形になった。
利隆はすべてを庄九郎に譲り、自分は髪をおろして僧体になり、武《む》儀郡《ぎのごおり》の山奥の寺に隠《いん》棲《せい》してしまった。
庄九郎は、このとき、
「長井新九郎利政」
という名前にかわった。わずかな間に庄九郎は、妙覚寺の法蓮房、松波庄九郎、奈良屋庄九郎、山崎屋庄九郎、再び松波庄九郎、ついで西村勘九郎、さらにはこんど長井新九郎という名にかわった。
かわるたびに、人生が一変している。一生のうち、一人で何種類もの人生を送ろうというつもりらしい。
とまれ、加納城主になった。
川手の府城を奪取してから、わずかひと月目のことである。
変転のはやさ。
生きる名人というべきであろう。
——本気かな? と庄九郎は思った。
利隆は、本気であった。敏感な男だけに庄九郎が怖《おそ》るべき存在であることもわかっているにちがいない。が、この男に腕をふるわせる以外に、美濃は滅亡を待つばかりだということも、利隆は知っている。
利隆は、ひどく無慾になっていた。
病身で精気が衰弱しているせいでもあろうし、累代の名家の末というのは、利隆のように慾を置きわすれてうまれてきたような者も出るらしい。それになによりも利隆には子がなかった。
庄九郎は、養子という形になった。
利隆はすべてを庄九郎に譲り、自分は髪をおろして僧体になり、武《む》儀郡《ぎのごおり》の山奥の寺に隠《いん》棲《せい》してしまった。
庄九郎は、このとき、
「長井新九郎利政」
という名前にかわった。わずかな間に庄九郎は、妙覚寺の法蓮房、松波庄九郎、奈良屋庄九郎、山崎屋庄九郎、再び松波庄九郎、ついで西村勘九郎、さらにはこんど長井新九郎という名にかわった。
かわるたびに、人生が一変している。一生のうち、一人で何種類もの人生を送ろうというつもりらしい。
とまれ、加納城主になった。
川手の府城を奪取してから、わずかひと月目のことである。
変転のはやさ。
生きる名人というべきであろう。