体毛が、異様である。
髪と眉《まゆ》は白かったが、口ひげのみは濡《ぬ》れたように黒い。それに血色がよく、紅白色といっていい顔が、だらりと肉を垂らしている。
奇相である。
(あの顔は、人以外のものじゃな)
庄九郎はかねて、長井藤左衛門のことをそうおもっていた。
精神が感じられない。
あぶらぎりすぎている。体じゅうの脂肪を揺りうごかして、藤左衛門は歩いていた。
精神《・・》のかわりに、藤左衛門は体じゅうを実力で鎧《よろ》っていた。真実、美濃では守護職の土岐家以上の実力を、藤左衛門こと、
小守護さま
は持っていた。
この藤左衛門が、いままで成りあがりの庄九郎をだまって見ていたことこそおかしい。
反撃がおそいくらいであった。
髪と眉《まゆ》は白かったが、口ひげのみは濡《ぬ》れたように黒い。それに血色がよく、紅白色といっていい顔が、だらりと肉を垂らしている。
奇相である。
(あの顔は、人以外のものじゃな)
庄九郎はかねて、長井藤左衛門のことをそうおもっていた。
精神が感じられない。
あぶらぎりすぎている。体じゅうの脂肪を揺りうごかして、藤左衛門は歩いていた。
精神《・・》のかわりに、藤左衛門は体じゅうを実力で鎧《よろ》っていた。真実、美濃では守護職の土岐家以上の実力を、藤左衛門こと、
小守護さま
は持っていた。
この藤左衛門が、いままで成りあがりの庄九郎をだまって見ていたことこそおかしい。
反撃がおそいくらいであった。
年号は、大永があらたまって享禄《きょうろく》になっている。その二年十二月。
「なんとしても承知はできませぬ」
と藤左衛門は川手城に登城し、頼芸のすそをおさえるようにして諫《かん》止《し》した。
「そもそもこの川手なる御城《おんしろ》は、ご遠祖頼遠《よりとお》さま、頼康《よりやす》さまこのかた二百年、美濃の鎮城としてつづいてきたものでござりまする。それをなんぞや」
藤左衛門は厚い唇をなめ、
「あきんどあがりの新参者にたぶらかされ、いわれもなき枝広の地にお移り遊ばすとは。なんの、この藤左衛門は存じておりまする、あの才槌頭《さいづちあたま》めは、お屋形さまを枝広に移し奉り、おのれはこの川手城を乗っ取らんとするこんたん。お屋形さまにはそれがわかりませぬか」
「藤左衛門、口がすぎる」
頼芸には、この田舎臭い肉塊よりも、庄九郎の都会的な感覚のほうがこころよい。
「かの者は、左様な魂胆ではない」
「お屋形さま、お眼が昏《くら》んでおる。弟君の揖斐《いび》五郎様、鷲《わし》巣《ず》六郎様も、そう申しておられまするぞ」
「五郎、六郎が?」
頼芸は、不快な顔をした。
兄弟ほど油断のならぬものはないことを頼芸は知りぬいているのである。
頼芸自身、兄の政頼を越前に追っぱらって守護職になった。さればいつ、五郎、六郎が藤左衛門にかつがれて自分を追わぬともかぎらない。
げんに庄九郎がそういったのである。血は毒のようなものだ、と。
庄九郎が頼芸に説いた言葉は、一種の帝王学のようなものである。
「血は毒のようなものでござる。貧家の兄弟というものは分けあうべき財産《しんしょう》がござらぬため力を協《あわ》せてはたらき、家名を興すもとになります。毒も、この場合は薬、というべきものでありましょう。しかしながら権門勢家の兄弟ほど油断のならぬものはござりませぬ」
と、古今東西の実例をくわしくあげ、
「げんにお屋形さまがよい例でござる。おん兄君がお屋形さまによって追われた。弟君がその真似《まね》をせぬとはかぎりませぬ。肉親は毒物であるとお思いあそばすように」
もともと、頼芸は自分の兄弟に愛情など持てようのない育ちかたをしている。それぞれがべつべつにそだてられ、少年時代の共通の思い出などはない。
それに、五郎、六郎たちは妾腹《しょうふく》の出で、その点でもいよいよ疎《そ》遠《えん》であった。
藤左衛門が退出したあと、庄九郎が登城してきた。
「狒々《ひひ》どのが参られましたそうな」
というと、頼芸は大笑いした。なるほど、藤左衛門の容貌《ようぼう》は狒々に似ている。
「そちのことを、才槌頭と申しておったぞ」
「痛み入ります。しかし狒々殿が申されたのはそれだけではありますまい。才槌頭は川手城を乗っ取るつもりじゃ、と申されたに相違ございませぬ」
「よくわかるな」
頼芸は、感心した。
「そのとおりだ。しかしなぜわかった」
「あっははは。狒々どのは、ご自分こそ、この川手城がほしいのでござりましょう。お屋形さまを追って五郎様をあとに据《す》え、美濃一国を以前同然に切り盛りしたいというのが本心にちがいありませぬ」
「証、証拠があるのか」
「ござる」
と、うなずいたが、あとはだまった。だまるしか、仕方があるまい。証拠などなにもないのである。
「なんとしても承知はできませぬ」
と藤左衛門は川手城に登城し、頼芸のすそをおさえるようにして諫《かん》止《し》した。
「そもそもこの川手なる御城《おんしろ》は、ご遠祖頼遠《よりとお》さま、頼康《よりやす》さまこのかた二百年、美濃の鎮城としてつづいてきたものでござりまする。それをなんぞや」
藤左衛門は厚い唇をなめ、
「あきんどあがりの新参者にたぶらかされ、いわれもなき枝広の地にお移り遊ばすとは。なんの、この藤左衛門は存じておりまする、あの才槌頭《さいづちあたま》めは、お屋形さまを枝広に移し奉り、おのれはこの川手城を乗っ取らんとするこんたん。お屋形さまにはそれがわかりませぬか」
「藤左衛門、口がすぎる」
頼芸には、この田舎臭い肉塊よりも、庄九郎の都会的な感覚のほうがこころよい。
「かの者は、左様な魂胆ではない」
「お屋形さま、お眼が昏《くら》んでおる。弟君の揖斐《いび》五郎様、鷲《わし》巣《ず》六郎様も、そう申しておられまするぞ」
「五郎、六郎が?」
頼芸は、不快な顔をした。
兄弟ほど油断のならぬものはないことを頼芸は知りぬいているのである。
頼芸自身、兄の政頼を越前に追っぱらって守護職になった。さればいつ、五郎、六郎が藤左衛門にかつがれて自分を追わぬともかぎらない。
げんに庄九郎がそういったのである。血は毒のようなものだ、と。
庄九郎が頼芸に説いた言葉は、一種の帝王学のようなものである。
「血は毒のようなものでござる。貧家の兄弟というものは分けあうべき財産《しんしょう》がござらぬため力を協《あわ》せてはたらき、家名を興すもとになります。毒も、この場合は薬、というべきものでありましょう。しかしながら権門勢家の兄弟ほど油断のならぬものはござりませぬ」
と、古今東西の実例をくわしくあげ、
「げんにお屋形さまがよい例でござる。おん兄君がお屋形さまによって追われた。弟君がその真似《まね》をせぬとはかぎりませぬ。肉親は毒物であるとお思いあそばすように」
もともと、頼芸は自分の兄弟に愛情など持てようのない育ちかたをしている。それぞれがべつべつにそだてられ、少年時代の共通の思い出などはない。
それに、五郎、六郎たちは妾腹《しょうふく》の出で、その点でもいよいよ疎《そ》遠《えん》であった。
藤左衛門が退出したあと、庄九郎が登城してきた。
「狒々《ひひ》どのが参られましたそうな」
というと、頼芸は大笑いした。なるほど、藤左衛門の容貌《ようぼう》は狒々に似ている。
「そちのことを、才槌頭と申しておったぞ」
「痛み入ります。しかし狒々殿が申されたのはそれだけではありますまい。才槌頭は川手城を乗っ取るつもりじゃ、と申されたに相違ございませぬ」
「よくわかるな」
頼芸は、感心した。
「そのとおりだ。しかしなぜわかった」
「あっははは。狒々どのは、ご自分こそ、この川手城がほしいのでござりましょう。お屋形さまを追って五郎様をあとに据《す》え、美濃一国を以前同然に切り盛りしたいというのが本心にちがいありませぬ」
「証、証拠があるのか」
「ござる」
と、うなずいたが、あとはだまった。だまるしか、仕方があるまい。証拠などなにもないのである。
庄九郎を殺す、ということを藤左衛門一派がきめたのは、十二月二十六日のことである。
この日、藤左衛門は、表むきの「連《れん》歌《が》の興行」ということで、揖斐五郎、鷲巣六郎をはじめ美濃でおもだつ地侍二十数人を朝から稲葉山麓《さんろく》の自邸にまねいていた。
(臭い。——)
と、庄九郎はにらみ、飛騨《ひだ》うまれの耳次を藤左衛門の屋敷に潜入させていた。
それだけではない。
招待をうけた客のひとりである不破《ふわ》市之丞《いちのじょう》という者がかねて庄九郎によしみを通じているのを幸い、内報してくれることを頼んだのである。
果然、陰謀の集会であった。
集まった者のほとんどはあらかじめ藤左衛門から相談をうけていたらしく、驚きもしなかった。この日の談合も賛否の相談ではなく、すでに実施の下相談にまですすんでいた。
「新春六日は、先君政房様の法《ほう》会《え》が、川手の霊薬山正法寺《りょうやくさんしょうほうじ》で営まれる。かの者は当然、出るであろう。法会がおわった直後、われらが堂内でむらがって立ち、刺し殺す。ご一同、おぬかり召さるなよ」
藤左衛門は、最後に念を押した。
席に、不破市之丞がいる。縁の下には、耳次がいた。
こもごも、庄九郎に報告した。
庄九郎はその夜、耳次のほかに赤兵衛をよび、秘策をさずけた。
「小守護様(長井藤左衛門)ご謀《む》反《ほん》、といううわさをたてよ」
というのである。
「よいか。小守護さまは川手城に押し寄せて頼芸様を弑《しい》し奉り、その跡に揖斐五郎さまをたてなさるおつもりらしい、というのだ」
翌日、うわさはぱっとひろまった。
聞いた非藤左衛門派の地侍は一驚し、ぞくぞくと川手の府城に登城してきた。
「お屋形さま、一大事でござりまする」
と、かれらはみなせきこんでいった。
頼芸は、真蒼《まっさお》になっていた。
ところが頼芸のそばに侍《はべ》っている庄九郎だけは驚きもせず、
「慎まれよ」
と一喝《いっかつ》した。
「左様なことは藤左衛門殿にかぎってありえぬことだ。流言でござる。おおかたは、尾張の織田、近江の浅井なんぞが、美濃に大乱のおこるのをねがい、忍びどもをつかって、あらぬ噂《うわさ》をふりまいているのであろう。お歴々ともあろうお方が、そういう児戯《じぎ》にひとしい詐略《さりゃく》に乗せられるとはなにごとでござる」
翌日、川手の町の高札《こうさつ》場《ば》に、
近頃、怪しき大事をいいふらす者これあり、右流言、固く停止《ちょうじ》の事。若し違背あるにおいては罰すべきもの也《なり》。
という文面を、土岐美濃守頼芸の名で掲示した。
このため一部で囁《ささや》かれていた噂がかえってひろまるはめ《・・》になり、なにも知らずに高札を読んだ者が、
——怪しき大事とはなんぞ。
とひとにききまわったりした。庄九郎の思う壺《つぼ》である。
噂と高札をきいて一驚したのは、当の藤左衛門である。
剛毅な男だから、早速馬と人数を用意させ、揖斐五郎、鷲巣六郎をも誘って百騎あまりで堂々と川手の城下町に乗りこんだ。
大手門のそばの高札場に馬を立てるや、
「何びとが噂を撒《ま》くか」
と割れ鐘のような声でどなった。
「わしが美濃を横領するやに吹聴《ふいちょう》する者があるが、横領の必要もない。わが家は代々の美濃の小守護じゃ。みなの者、聴け、地下《じげ》の者も聴け、われに逆意なきは、この高札のとおりであるぞ」
藤左衛門は、辻々《つじつじ》を練り、呼ばわって歩いた。この男にはそんな無邪気さもあったが、それだけではない。
ひとりの刺客をはなっている。
理由は、こんな噂が立った以上、正法寺での謀殺がやりにくくなったからである。
刺客は、こういうときによく傭《やと》われる伊賀出身の男であった。
異名を、猫《ねこ》歯《ば》といった。
暮の二十八日、庄九郎の加納城内の犬は日没とともにことごとく死んだ。
城内のたれもが気づかなかったが、ただ耳次だけが、乾《いぬい》の櫓《やぐら》の下で一頭の犬の死《し》骸《がい》を発見し、庄九郎に報告した。
「毒《どく》餌《え》か、と存じまする」
「あの犬は午《ひる》さがりには元気にいた。すると殺されてほどもないと見える。曲者《くせもの》は城内にいる。おそらく今夜、毒刃を持った男がわしの部屋にあらわれるだろう」
「いかがなされます」
「うむ?」
庄九郎はほかのことを考えているらしく、しばらくだまっていたが、やがて、
「耳次、そちがわしの身代りになれ」
といった。
「殺されるのでござりまするな」
耳次はおどろきもしない。庄九郎は大《おお》真面《まじ》目《め》にうなずいた。
「そうだ」
そのあと、こまかい指示をした。月代《さかやき》を清らに剃《そ》って庄九郎にまぎらわしくすること、寝所では深《み》芳《よし》野《の》と同衾《どうきん》すること。
「深芳野様と?」
聞いて、はじめて耳次は戦慄《せんりつ》した。主人の側室ではないか。
「抱きあってもよいぞ。深芳野にとくと言いふくめておく」
「し、しかし」
「耳次、逆らうな」
庄九郎はすばやく自分の小《こ》袖《そで》をぬぎ、耳次にあたえた。
夜が更《ふ》け、月が落ちたころ、城館の台所の煙抜きから、いっぴきの蜘蛛《くも》がおりてくるように黒い影が細引きをつたい、
すーっ
と土間におりてきた。藤左衛門が伊賀から傭い入れた猫歯である。
納《なん》戸《ど》にかくれた。
その内部は、かねて細工しておいたらしく天井板《てんじょういた》が簡単にはずれるようになっている。
猫歯は、板をはずし、身を持ちあげるや、一挙に天井の上にのぼった。
梁《はり》の上をさらさらと渡った。
ところどころに、忍びの用心のための金網が張られている。が、用を為《な》さない。
あらかじめ猫歯が、やすりで切りとってしまっているからである。
(首尾はよい)
夜気が動いた。猫歯は、庄九郎の寝所の上へそろりと移動した。
気配を殺している。この男のそばに鼠《ねずみ》の巣があった。鼠が二ひきいた。その鼠さえ、そばを過ぎてゆく猫歯の気配には気づかない。
猫歯は、庄九郎の部屋の上まで来た。格天《ごうてん》井板《じょういた》の一角に穿《うが》たれた錐《きり》の穴から灯が洩《も》れている。
その錐の穴へ、眼をあてた。
そのままの姿勢で、猫歯は四《し》半刻《はんとき》もじっとしていた。
寝息を聴いているのである。
——頃はよし。
とおもったのであろう。
音もなく、板をはずした。すべてあらかじめ細工してあったのであろう。
猫歯が、身を入れようとしたとき、眼の前の梁から自分を見おろしている男がいる。
(………?)
面覆《めんおお》いに、黒装束、忍び刀、といった装束は、すべて自分とおなじである。
「た、たれだ」
ひくい声で猫歯はきいた。
「藤左衛門様からおぬしに手伝え、との言いつけを受けた者よ」
「名は?」
用心ぶかく問いかさねた。
「云うな、と藤左衛門様はおおせられた」
「伊賀の者か。たれの下忍《あらしこ》だ」
と猫歯は訊《き》き、隙《すき》をうかがった。刺し殺すつもりだったのである。
「仕事をつづけろ」
梁の上の黒装束はいった。だけでなく、ゆっくりと降りてきた。
黒装束は、這《は》った。よほど器用な男か、みしり、とも音がしない。
猫歯はそっと忍び刀の鯉口《こいぐち》を切り、抱くようにして抜きはなち、背中へまわして剣をそばめた。
黒装束は、這ってきた。
「寄るな」
猫歯がいったとき、黒装束はすでに起きあがっていた。どうやら右ひざを立てている様子であった。
と思った瞬間、黒装束の背中から刀が電光よりも早く鞘走《さやばし》り、弧をえがいて落ちてきた。猫歯はあやうくその刀をつばもとで受け、はずすや、とびさがった。
「お、おのれは何者じゃ」
「まだわからぬか」
黒装束は、目だけで微笑《わら》った。
「おぬしが会いたいと思ってやってきた当のこの館《やかた》のあるじ、長井新九郎利政よ」
「お、おのれは」
刀を、びゅっと横ざまにはらった。が、むなしく流れた。
黒装束は、梁の上にもどっている。
「伊賀の者、わしの手につかぬか。士分に取りたててやるが」
「………?」
慾が出た。
そのすきに黒装束は、梁から飛びおりた。
そのころ、宿直《とのい》の者五、六人がすでに槍《やり》の鞘をはらって天井の下にむらがっていた。
みな、血走った眼で天井を見あげている。
物音が入りみだれて聞こえ、ほこりがしきりと落ちてくるが、いずれの物音が自分の主人のものか、よくわからない。
すでに屋敷じゅうの人数が起きて、軒端にすきまもなくカガリ火を焚《た》きはじめていた。こういうときの機敏さでは、庄九郎の家来は美濃でも随一であった。
「伊賀の者、もはやのがれられぬ。わしの郎党になれ」
「な」
どもった。
「なりまする」
庄九郎は、わざと気をゆるめ、体をくずしつつ、刀をおさめた。猫歯の本心を見るためである。
はたして、猫歯は動いた。
抜いた。横に払い、手《て》応《ごた》えもみず、そのまま梁に飛びついてのがれようとした。
が、すでに胴が二つになっていた。
ざあっ、と血が噴きこぼれ、死体が梁の上から落ちてきた。
庄九郎は、天井板をはずし、けもののような身軽さで座敷の上へとびおりた。畳の上に立つと、
「おれだ」
頭《ず》巾《きん》をとった。
天井から血がしたたり落ちている。
「戦さの支度をしろ」
「御敵は?」
「藤左衛門」
いまから稲葉山麓の城館へ押し寄せるとすれば、朝《あさ》駈《が》けになるであろう。
庄九郎は、具《ぐ》足櫃《そくびつ》のふたをはねあげた。
このため一部で囁《ささや》かれていた噂がかえってひろまるはめ《・・》になり、なにも知らずに高札を読んだ者が、
——怪しき大事とはなんぞ。
とひとにききまわったりした。庄九郎の思う壺《つぼ》である。
噂と高札をきいて一驚したのは、当の藤左衛門である。
剛毅な男だから、早速馬と人数を用意させ、揖斐五郎、鷲巣六郎をも誘って百騎あまりで堂々と川手の城下町に乗りこんだ。
大手門のそばの高札場に馬を立てるや、
「何びとが噂を撒《ま》くか」
と割れ鐘のような声でどなった。
「わしが美濃を横領するやに吹聴《ふいちょう》する者があるが、横領の必要もない。わが家は代々の美濃の小守護じゃ。みなの者、聴け、地下《じげ》の者も聴け、われに逆意なきは、この高札のとおりであるぞ」
藤左衛門は、辻々《つじつじ》を練り、呼ばわって歩いた。この男にはそんな無邪気さもあったが、それだけではない。
ひとりの刺客をはなっている。
理由は、こんな噂が立った以上、正法寺での謀殺がやりにくくなったからである。
刺客は、こういうときによく傭《やと》われる伊賀出身の男であった。
異名を、猫《ねこ》歯《ば》といった。
暮の二十八日、庄九郎の加納城内の犬は日没とともにことごとく死んだ。
城内のたれもが気づかなかったが、ただ耳次だけが、乾《いぬい》の櫓《やぐら》の下で一頭の犬の死《し》骸《がい》を発見し、庄九郎に報告した。
「毒《どく》餌《え》か、と存じまする」
「あの犬は午《ひる》さがりには元気にいた。すると殺されてほどもないと見える。曲者《くせもの》は城内にいる。おそらく今夜、毒刃を持った男がわしの部屋にあらわれるだろう」
「いかがなされます」
「うむ?」
庄九郎はほかのことを考えているらしく、しばらくだまっていたが、やがて、
「耳次、そちがわしの身代りになれ」
といった。
「殺されるのでござりまするな」
耳次はおどろきもしない。庄九郎は大《おお》真面《まじ》目《め》にうなずいた。
「そうだ」
そのあと、こまかい指示をした。月代《さかやき》を清らに剃《そ》って庄九郎にまぎらわしくすること、寝所では深《み》芳《よし》野《の》と同衾《どうきん》すること。
「深芳野様と?」
聞いて、はじめて耳次は戦慄《せんりつ》した。主人の側室ではないか。
「抱きあってもよいぞ。深芳野にとくと言いふくめておく」
「し、しかし」
「耳次、逆らうな」
庄九郎はすばやく自分の小《こ》袖《そで》をぬぎ、耳次にあたえた。
夜が更《ふ》け、月が落ちたころ、城館の台所の煙抜きから、いっぴきの蜘蛛《くも》がおりてくるように黒い影が細引きをつたい、
すーっ
と土間におりてきた。藤左衛門が伊賀から傭い入れた猫歯である。
納《なん》戸《ど》にかくれた。
その内部は、かねて細工しておいたらしく天井板《てんじょういた》が簡単にはずれるようになっている。
猫歯は、板をはずし、身を持ちあげるや、一挙に天井の上にのぼった。
梁《はり》の上をさらさらと渡った。
ところどころに、忍びの用心のための金網が張られている。が、用を為《な》さない。
あらかじめ猫歯が、やすりで切りとってしまっているからである。
(首尾はよい)
夜気が動いた。猫歯は、庄九郎の寝所の上へそろりと移動した。
気配を殺している。この男のそばに鼠《ねずみ》の巣があった。鼠が二ひきいた。その鼠さえ、そばを過ぎてゆく猫歯の気配には気づかない。
猫歯は、庄九郎の部屋の上まで来た。格天《ごうてん》井板《じょういた》の一角に穿《うが》たれた錐《きり》の穴から灯が洩《も》れている。
その錐の穴へ、眼をあてた。
そのままの姿勢で、猫歯は四《し》半刻《はんとき》もじっとしていた。
寝息を聴いているのである。
——頃はよし。
とおもったのであろう。
音もなく、板をはずした。すべてあらかじめ細工してあったのであろう。
猫歯が、身を入れようとしたとき、眼の前の梁から自分を見おろしている男がいる。
(………?)
面覆《めんおお》いに、黒装束、忍び刀、といった装束は、すべて自分とおなじである。
「た、たれだ」
ひくい声で猫歯はきいた。
「藤左衛門様からおぬしに手伝え、との言いつけを受けた者よ」
「名は?」
用心ぶかく問いかさねた。
「云うな、と藤左衛門様はおおせられた」
「伊賀の者か。たれの下忍《あらしこ》だ」
と猫歯は訊《き》き、隙《すき》をうかがった。刺し殺すつもりだったのである。
「仕事をつづけろ」
梁の上の黒装束はいった。だけでなく、ゆっくりと降りてきた。
黒装束は、這《は》った。よほど器用な男か、みしり、とも音がしない。
猫歯はそっと忍び刀の鯉口《こいぐち》を切り、抱くようにして抜きはなち、背中へまわして剣をそばめた。
黒装束は、這ってきた。
「寄るな」
猫歯がいったとき、黒装束はすでに起きあがっていた。どうやら右ひざを立てている様子であった。
と思った瞬間、黒装束の背中から刀が電光よりも早く鞘走《さやばし》り、弧をえがいて落ちてきた。猫歯はあやうくその刀をつばもとで受け、はずすや、とびさがった。
「お、おのれは何者じゃ」
「まだわからぬか」
黒装束は、目だけで微笑《わら》った。
「おぬしが会いたいと思ってやってきた当のこの館《やかた》のあるじ、長井新九郎利政よ」
「お、おのれは」
刀を、びゅっと横ざまにはらった。が、むなしく流れた。
黒装束は、梁の上にもどっている。
「伊賀の者、わしの手につかぬか。士分に取りたててやるが」
「………?」
慾が出た。
そのすきに黒装束は、梁から飛びおりた。
そのころ、宿直《とのい》の者五、六人がすでに槍《やり》の鞘をはらって天井の下にむらがっていた。
みな、血走った眼で天井を見あげている。
物音が入りみだれて聞こえ、ほこりがしきりと落ちてくるが、いずれの物音が自分の主人のものか、よくわからない。
すでに屋敷じゅうの人数が起きて、軒端にすきまもなくカガリ火を焚《た》きはじめていた。こういうときの機敏さでは、庄九郎の家来は美濃でも随一であった。
「伊賀の者、もはやのがれられぬ。わしの郎党になれ」
「な」
どもった。
「なりまする」
庄九郎は、わざと気をゆるめ、体をくずしつつ、刀をおさめた。猫歯の本心を見るためである。
はたして、猫歯は動いた。
抜いた。横に払い、手《て》応《ごた》えもみず、そのまま梁に飛びついてのがれようとした。
が、すでに胴が二つになっていた。
ざあっ、と血が噴きこぼれ、死体が梁の上から落ちてきた。
庄九郎は、天井板をはずし、けもののような身軽さで座敷の上へとびおりた。畳の上に立つと、
「おれだ」
頭《ず》巾《きん》をとった。
天井から血がしたたり落ちている。
「戦さの支度をしろ」
「御敵は?」
「藤左衛門」
いまから稲葉山麓の城館へ押し寄せるとすれば、朝《あさ》駈《が》けになるであろう。
庄九郎は、具《ぐ》足櫃《そくびつ》のふたをはねあげた。