(暮れぬうちに)
とおもいながら、光秀は歩きつづけた。
暑い季節で、汗が下着から帷子《かたびら》まで、ぐっしょりと濡《ぬ》らし、それがしぼるばかりになったが、光秀はかまわずに歩いた。
(生涯《しょうがい》、おれはこの日、この野《の》面《づら》を歩きつづけている自分を忘れぬだろう)
南山城の野には、竹藪《たけやぶ》が多い。すでに竹は葉を新しくし、めざめるばかりの青さで、野面のところどころに叢《むらが》っていた。
やっと勝竜寺という部落に入り、
「細川兵部大輔(藤孝)殿のお屋敷はどこにあるか」
ときくと、守護の館《やかた》のことだから、村人は丁寧な物腰でおしえてくれた。
「あのむこうに、椋《むく》の木がございまするな」
なるほど、椋の大樹が、枝を天に栄えさせていた。
「あの椋をめあてにお行きなされまし」
行ってみると、藤孝の屋敷はさすがに守護の館らしく浅堀を掘りめぐらし、土《ど》塀《べい》を取りまわして四方一町ほどはある。
(荒れている)
門も屋敷もわらぶきで、そのわら屋根に青草がぼうぼうと茂っていた。
光秀は椋の木の下に立ち、門を丁々《ちょうちょう》とたたいた。
人は、出て来ない。
すでに、あたりは黄昏《たそがれ》はじめ、東の空に宵《よい》の月がかかっている。光秀は低徊《ていかい》趣味のある男だ。
(こうして黄昏のなかで門を叩《たた》いている自分を、いつかは思いだすだろう)
と、そんなふうに自分を一幅の大和絵のなかの人物に擬しながら、なおも丁々とたたきつづけた。
やっと門がひらき、郎党風の男が用心ぶかく野太刀を握って顔を出した。京の変事があっていらい、不意の来訪者にはここまで用心しているのであろう。
「兵部大輔殿に申し伝えられよ。越前一乗谷の明智十兵衛光秀がご安否を気づかい、京から駈《か》けに駈けてただいま参着した、と」
「あ、明智様で」
郎党は、光秀の噂《うわさ》などを主人から聞き知っているらしい。ほっとして、
「主人もよろこぶでござりましょう。これにてしばらく」
と、いってひっこんだが、待つほどもなくこんどは主人の細川藤孝みずから飛び出してきて、
「十兵衛殿」
と、声をつまらせ、手をとった。よほど感動したものであろう。宵闇《よいやみ》で表情《かお》こそさだかに見えなかったが、泣いているようであった。
「さ、ここではなんともならぬ。破れ屋敷ながらどうぞ内へ。さ、お入りくだされ」
と藤孝は導き入れ、客間に通し、小女《こおんな》をひとりつけて汗ばんだ衣服を着かえさせた。
その間、藤孝は姿を消している。
(どうしたか)
光秀は、風の通る縁に出、ぼんやりと端《はい》居《し》して藤孝を待った。
部屋は、見まわすのも気の毒なほどに荒れはてている。
(世が世ならば従《じゅ》四位下、兵部大輔の官位をもつ幕臣といえば大そうなものであるのに、この惨澹《さんたん》たる住いはどうであろう)
やがて藤孝が、衣服をあらため、髪をと《・》きあげて出てきた。この点、行儀のいい男で、さすがは室町風の殿中作法のなかで育った男らしくて光秀には好ましかった。
「ただいま、茶の用意をしております」
と、藤孝はいった。
(これはこれは)
と、光秀は思わざるをえない。細川藤孝は茶道の本場の京の、さらにその本場の室町御所(将軍館《やかた》)で風雅をきたえ、そのなかでも錚々《そうそう》たる若茶人としてきこえている。
(暮らしも苦しいであろうに、客を遇するに茶道をもってするとは、なかなかできぬことだ。しかも一介の田舎侍のおれに)
とおもえば、光秀の胸に感動と畏《い》敬《けい》がわきあがってくる。
「支度ができるまでのあいだ、兄弟同然のお手前に、わが妻を引きあわせたい。さしつかえはござるまいか」
「なんの差しつかえがございましょう。藤孝殿のご内儀と申せば、先日、二条館の松永弾正討ち入りのときにみごと討死あそばされた沼田上総介《かずさのすけ》殿のお娘御であられましたな。公《く》方《ぼう》(将軍)様のことはさることながら、ご愁傷しごくに存じ奉ります」
「いやいや、そのこと、いまは申されるな。別屋にてゆるりと愚痴もきいて頂き、ご意見もうかがわねばなりませぬ」
ほどもなく、藤孝の妻があらわれ、光秀にあいさつをした。
まだ未婚の姫御前のように稚《わか》い。光秀も、鄭重《ていちょう》にあいさつをかえした。
やがて乳母らしい女があらわれ、満一歳になったかならぬかの男の児を抱いていた。
「惣領《そうりょう》でござる」
と、藤孝は、その幼児を紹介した。光秀はにじり寄って、幼な顔をのぞきこんだ。
眠っている。
「あどけないなかにも眉騰《まゆあが》り、唇ひきしまりみごと武者所《むしゃどころ》の別当(長官)といったお骨柄《こつがら》のように見うけられます。ゆくすえあっぱれな大将におなりあそばすでございましょう」
この子が、のちの細川忠興《ただおき》である。光秀の娘お玉(ガラシャ夫人)をめとり、関ケ原の陣で活躍し、肥後熊本五十四万石に封ぜられる。が、この幼児とそういう因縁をむすぶに至ろうとは、のぞきこんでいる光秀にはむろんわからない。
茶室の支度ができた。
案内されて客の座にすわると、茶ではなく、一椀《わん》のとろろ《・・・》が出た。
(心憎い)
と、光秀は椀をとりあげながらおもった。茶とは客を接待する心術であるとすれば、遠道を駈けてきた空腹の光秀にいきなり茶をのませるよりもまずとろろ《・・・》で胃の腑《ふ》にやわらぎをあたえさせ、ゆるゆると精気を回復させる心づかいこそ、茶の道というべきであろう。
「いかが、いま一椀」
といって、藤孝はくすくす笑っている。茶室に案内し、客を炉の前にすわらせながら、茶ではなくとろろ《・・・》をすすめている自分がおかしかったのであろう。
「これは、とろろ《・・・》茶でござるな」
光秀も、めずらしく下手な冗談をいって笑った。光秀の特徴は諧謔《かいぎゃく》を解さないところであったが、この場のおかしさだけはどうにかわかったに相違ない。
やがて山菜、鯉《こい》のなます《・・・》が運ばれてきて酒になった。
その間、京の変事についての情報はたがいに交換しあっている。
「弾正ほど悪虐《あくぎゃく》な男はいない」
と、藤孝はいった。
将軍義輝を殺しただけではないのである。
義輝の弟で鹿苑《ろくおん》寺《じ》(通称金閣寺)の院主になっている僧名周�《しゅうこう》という者がいる。あの夜、平田和泉守という者に別働隊をひきいさせ、鹿苑寺にやって周�に拝謁《はいえつ》し、
「おそれながら、御兄君の将軍様が、二条のおん館にて連歌を興行あそばされておりまする。その席へ早々におよびし奉れ、というお下知《げち》にて、手前、お迎えに参上つかまつりましてござりまする」
といわせ、周�をひきださせた。
周�は、数えて十七歳である。疑うこともなく平田和泉守に導かれて鹿苑寺門前から輿《こし》に乗り、人数にかこまれつつ坂をおりた。
人数は、ゆるゆると進む。
紙屋川のあたりで日が暮れたが、奇妙なことに人数は先導二人が松明《たいまつ》をもつのみで、いっさい燈火を用いない。すでに雨がふりはじめている。
紙屋川の土手ぎわにさしかかったときにさすがに周�はふしぎに思い、
「泉州《せんしゅう》、泉州」
と、平田和泉守をよんだ。といって周�はこの阿波《あわ》うまれの三好家の重臣をよく知っているわけではない。
「泉州、なぜ灯をつけぬ」
「おそれながら」
と、平田和泉守は輿《こし》に近づき、阿波なまりでこのようにいった。
「念仏をおとなえくださりませ」
「なに?」
「念仏こそ無明長夜《むみょうちょうや》の炬燈《あかり》と申しまするゆえに」
と、悲痛な声調子《こわぢょうし》でいう。無明長夜とは死んだあとたどるべき黄泉《よみじ》の暗さ、長さを表現することばである。その無明長夜をゆく死者の松明こそ念仏である、という思想が、当節はやりの一向宗によってひろめられ、一種の流行語のようになっているのである。
「されば御免」
と平田和泉守は叫ぶや、周�をひきよせ、その胸元を短刀で一突きに突き、すばやく首を掻《か》き切った。
輿は死《し》骸《がい》と首をのせたまま進んだ。
そばに平田和泉守がつき従ってゆく。が、さすがに後生のわるいことをしたと思ったのか、しきりと念仏をとなえ輿の上の首にむかって、
「お恨みくださりますな。あなたさまが武門の頭領の家におうまれあそばされたことがわるいのでござりまする。種《しゅ》(血筋)貴ければ殃《わざわい》多し、なにとぞ来世は、庶人凡《しょにんぼん》下《げ》の家におうまれあそばしますように」
と口説きつづけた。
人の運など、わからない。ほんの数分後、この念仏好きの平田和泉守みずからが、不覚にも周�のあとを追って黄泉へ急いでしまった。
亀助《かめすけ》という者がいる。上京《かみぎょう》の小川に商い屋敷をもつ美濃屋常哲《じょうてつ》という者のせがれで、世話する者があって周�の雑色《ぞうしき》となり、外出のときには荷をかついだり、傘《かさ》などさしかけてこまめに仕えていた。
それが輿わきに従っていて、暗夜ながらもこの異変に気づいた。豪胆な男で、叫びも逃げもせず息をひそめて歩きつつ、加害者平田和泉守の様子をうかがっていたが、和泉守は周�を討ってから影まで細るほどに気落ちしている。
(いまぞ)
とおもい、腰に帯びた二尺の打物を音もなくひきぬき、和泉守のそばに忍び寄るなり、背から腹にかけて突き通し、声もあげさせずに斃《たお》してしまった。
「奸人《かんじん》、覚えたか」
と叫んだのがわるかった。人数がさわいで和泉守のそばに近づき、
「松明、松明」
と火をよびよせてみると、たったいま念仏を唱えていた男が、地上で長くなっている。
「下手人はたれぞ」
と、松明をたかだかとかかげてあたりをみると、亀助がいた。
亀助は小者の身でこれほどの武士を討ちとったあととて、なにやらぼう然としている。
「おのれか」
と問い詰められてからわれにかえり、ぱっと逃げた。うしろが、農家の軒だった。
その農家の戸を後ろ楯《だて》にとって亀助は剣をかまえ、斬《き》りふせいだ。亀助はすでに死を決している。奮迅《ふんじん》の勢いでたたかった。
「近所の衆に申しあげる。三好殿の家来平田和泉守、たばかって、鹿苑寺院主周�様を弑《しい》し奉ったぞ。されど周�様家来美濃屋の亀助、その場にて仇《あだ》を報じたり」
と、市中にひびけとばかりにどなった。
その声をめあてに一人が真二つとばかりに斬りおろしたが、その太刀が軒先をざくり割ったがために胴が空き、その胴を亀助が力まかせに斬り割った。
が、やがて亀助は乱刃《らんじん》のなかで死んだ。この噂は翌朝市中にひろがり、三条のほとり夷《えびす》川《がわ》の辻《つじ》に落首がかかげられた。
滾《たぎ》りたる泉(和泉守)といへど
美濃亀が、ただ一口に飲み干しぞする
とおもいながら、光秀は歩きつづけた。
暑い季節で、汗が下着から帷子《かたびら》まで、ぐっしょりと濡《ぬ》らし、それがしぼるばかりになったが、光秀はかまわずに歩いた。
(生涯《しょうがい》、おれはこの日、この野《の》面《づら》を歩きつづけている自分を忘れぬだろう)
南山城の野には、竹藪《たけやぶ》が多い。すでに竹は葉を新しくし、めざめるばかりの青さで、野面のところどころに叢《むらが》っていた。
やっと勝竜寺という部落に入り、
「細川兵部大輔(藤孝)殿のお屋敷はどこにあるか」
ときくと、守護の館《やかた》のことだから、村人は丁寧な物腰でおしえてくれた。
「あのむこうに、椋《むく》の木がございまするな」
なるほど、椋の大樹が、枝を天に栄えさせていた。
「あの椋をめあてにお行きなされまし」
行ってみると、藤孝の屋敷はさすがに守護の館らしく浅堀を掘りめぐらし、土《ど》塀《べい》を取りまわして四方一町ほどはある。
(荒れている)
門も屋敷もわらぶきで、そのわら屋根に青草がぼうぼうと茂っていた。
光秀は椋の木の下に立ち、門を丁々《ちょうちょう》とたたいた。
人は、出て来ない。
すでに、あたりは黄昏《たそがれ》はじめ、東の空に宵《よい》の月がかかっている。光秀は低徊《ていかい》趣味のある男だ。
(こうして黄昏のなかで門を叩《たた》いている自分を、いつかは思いだすだろう)
と、そんなふうに自分を一幅の大和絵のなかの人物に擬しながら、なおも丁々とたたきつづけた。
やっと門がひらき、郎党風の男が用心ぶかく野太刀を握って顔を出した。京の変事があっていらい、不意の来訪者にはここまで用心しているのであろう。
「兵部大輔殿に申し伝えられよ。越前一乗谷の明智十兵衛光秀がご安否を気づかい、京から駈《か》けに駈けてただいま参着した、と」
「あ、明智様で」
郎党は、光秀の噂《うわさ》などを主人から聞き知っているらしい。ほっとして、
「主人もよろこぶでござりましょう。これにてしばらく」
と、いってひっこんだが、待つほどもなくこんどは主人の細川藤孝みずから飛び出してきて、
「十兵衛殿」
と、声をつまらせ、手をとった。よほど感動したものであろう。宵闇《よいやみ》で表情《かお》こそさだかに見えなかったが、泣いているようであった。
「さ、ここではなんともならぬ。破れ屋敷ながらどうぞ内へ。さ、お入りくだされ」
と藤孝は導き入れ、客間に通し、小女《こおんな》をひとりつけて汗ばんだ衣服を着かえさせた。
その間、藤孝は姿を消している。
(どうしたか)
光秀は、風の通る縁に出、ぼんやりと端《はい》居《し》して藤孝を待った。
部屋は、見まわすのも気の毒なほどに荒れはてている。
(世が世ならば従《じゅ》四位下、兵部大輔の官位をもつ幕臣といえば大そうなものであるのに、この惨澹《さんたん》たる住いはどうであろう)
やがて藤孝が、衣服をあらため、髪をと《・》きあげて出てきた。この点、行儀のいい男で、さすがは室町風の殿中作法のなかで育った男らしくて光秀には好ましかった。
「ただいま、茶の用意をしております」
と、藤孝はいった。
(これはこれは)
と、光秀は思わざるをえない。細川藤孝は茶道の本場の京の、さらにその本場の室町御所(将軍館《やかた》)で風雅をきたえ、そのなかでも錚々《そうそう》たる若茶人としてきこえている。
(暮らしも苦しいであろうに、客を遇するに茶道をもってするとは、なかなかできぬことだ。しかも一介の田舎侍のおれに)
とおもえば、光秀の胸に感動と畏《い》敬《けい》がわきあがってくる。
「支度ができるまでのあいだ、兄弟同然のお手前に、わが妻を引きあわせたい。さしつかえはござるまいか」
「なんの差しつかえがございましょう。藤孝殿のご内儀と申せば、先日、二条館の松永弾正討ち入りのときにみごと討死あそばされた沼田上総介《かずさのすけ》殿のお娘御であられましたな。公《く》方《ぼう》(将軍)様のことはさることながら、ご愁傷しごくに存じ奉ります」
「いやいや、そのこと、いまは申されるな。別屋にてゆるりと愚痴もきいて頂き、ご意見もうかがわねばなりませぬ」
ほどもなく、藤孝の妻があらわれ、光秀にあいさつをした。
まだ未婚の姫御前のように稚《わか》い。光秀も、鄭重《ていちょう》にあいさつをかえした。
やがて乳母らしい女があらわれ、満一歳になったかならぬかの男の児を抱いていた。
「惣領《そうりょう》でござる」
と、藤孝は、その幼児を紹介した。光秀はにじり寄って、幼な顔をのぞきこんだ。
眠っている。
「あどけないなかにも眉騰《まゆあが》り、唇ひきしまりみごと武者所《むしゃどころ》の別当(長官)といったお骨柄《こつがら》のように見うけられます。ゆくすえあっぱれな大将におなりあそばすでございましょう」
この子が、のちの細川忠興《ただおき》である。光秀の娘お玉(ガラシャ夫人)をめとり、関ケ原の陣で活躍し、肥後熊本五十四万石に封ぜられる。が、この幼児とそういう因縁をむすぶに至ろうとは、のぞきこんでいる光秀にはむろんわからない。
茶室の支度ができた。
案内されて客の座にすわると、茶ではなく、一椀《わん》のとろろ《・・・》が出た。
(心憎い)
と、光秀は椀をとりあげながらおもった。茶とは客を接待する心術であるとすれば、遠道を駈けてきた空腹の光秀にいきなり茶をのませるよりもまずとろろ《・・・》で胃の腑《ふ》にやわらぎをあたえさせ、ゆるゆると精気を回復させる心づかいこそ、茶の道というべきであろう。
「いかが、いま一椀」
といって、藤孝はくすくす笑っている。茶室に案内し、客を炉の前にすわらせながら、茶ではなくとろろ《・・・》をすすめている自分がおかしかったのであろう。
「これは、とろろ《・・・》茶でござるな」
光秀も、めずらしく下手な冗談をいって笑った。光秀の特徴は諧謔《かいぎゃく》を解さないところであったが、この場のおかしさだけはどうにかわかったに相違ない。
やがて山菜、鯉《こい》のなます《・・・》が運ばれてきて酒になった。
その間、京の変事についての情報はたがいに交換しあっている。
「弾正ほど悪虐《あくぎゃく》な男はいない」
と、藤孝はいった。
将軍義輝を殺しただけではないのである。
義輝の弟で鹿苑《ろくおん》寺《じ》(通称金閣寺)の院主になっている僧名周�《しゅうこう》という者がいる。あの夜、平田和泉守という者に別働隊をひきいさせ、鹿苑寺にやって周�に拝謁《はいえつ》し、
「おそれながら、御兄君の将軍様が、二条のおん館にて連歌を興行あそばされておりまする。その席へ早々におよびし奉れ、というお下知《げち》にて、手前、お迎えに参上つかまつりましてござりまする」
といわせ、周�をひきださせた。
周�は、数えて十七歳である。疑うこともなく平田和泉守に導かれて鹿苑寺門前から輿《こし》に乗り、人数にかこまれつつ坂をおりた。
人数は、ゆるゆると進む。
紙屋川のあたりで日が暮れたが、奇妙なことに人数は先導二人が松明《たいまつ》をもつのみで、いっさい燈火を用いない。すでに雨がふりはじめている。
紙屋川の土手ぎわにさしかかったときにさすがに周�はふしぎに思い、
「泉州《せんしゅう》、泉州」
と、平田和泉守をよんだ。といって周�はこの阿波《あわ》うまれの三好家の重臣をよく知っているわけではない。
「泉州、なぜ灯をつけぬ」
「おそれながら」
と、平田和泉守は輿《こし》に近づき、阿波なまりでこのようにいった。
「念仏をおとなえくださりませ」
「なに?」
「念仏こそ無明長夜《むみょうちょうや》の炬燈《あかり》と申しまするゆえに」
と、悲痛な声調子《こわぢょうし》でいう。無明長夜とは死んだあとたどるべき黄泉《よみじ》の暗さ、長さを表現することばである。その無明長夜をゆく死者の松明こそ念仏である、という思想が、当節はやりの一向宗によってひろめられ、一種の流行語のようになっているのである。
「されば御免」
と平田和泉守は叫ぶや、周�をひきよせ、その胸元を短刀で一突きに突き、すばやく首を掻《か》き切った。
輿は死《し》骸《がい》と首をのせたまま進んだ。
そばに平田和泉守がつき従ってゆく。が、さすがに後生のわるいことをしたと思ったのか、しきりと念仏をとなえ輿の上の首にむかって、
「お恨みくださりますな。あなたさまが武門の頭領の家におうまれあそばされたことがわるいのでござりまする。種《しゅ》(血筋)貴ければ殃《わざわい》多し、なにとぞ来世は、庶人凡《しょにんぼん》下《げ》の家におうまれあそばしますように」
と口説きつづけた。
人の運など、わからない。ほんの数分後、この念仏好きの平田和泉守みずからが、不覚にも周�のあとを追って黄泉へ急いでしまった。
亀助《かめすけ》という者がいる。上京《かみぎょう》の小川に商い屋敷をもつ美濃屋常哲《じょうてつ》という者のせがれで、世話する者があって周�の雑色《ぞうしき》となり、外出のときには荷をかついだり、傘《かさ》などさしかけてこまめに仕えていた。
それが輿わきに従っていて、暗夜ながらもこの異変に気づいた。豪胆な男で、叫びも逃げもせず息をひそめて歩きつつ、加害者平田和泉守の様子をうかがっていたが、和泉守は周�を討ってから影まで細るほどに気落ちしている。
(いまぞ)
とおもい、腰に帯びた二尺の打物を音もなくひきぬき、和泉守のそばに忍び寄るなり、背から腹にかけて突き通し、声もあげさせずに斃《たお》してしまった。
「奸人《かんじん》、覚えたか」
と叫んだのがわるかった。人数がさわいで和泉守のそばに近づき、
「松明、松明」
と火をよびよせてみると、たったいま念仏を唱えていた男が、地上で長くなっている。
「下手人はたれぞ」
と、松明をたかだかとかかげてあたりをみると、亀助がいた。
亀助は小者の身でこれほどの武士を討ちとったあととて、なにやらぼう然としている。
「おのれか」
と問い詰められてからわれにかえり、ぱっと逃げた。うしろが、農家の軒だった。
その農家の戸を後ろ楯《だて》にとって亀助は剣をかまえ、斬《き》りふせいだ。亀助はすでに死を決している。奮迅《ふんじん》の勢いでたたかった。
「近所の衆に申しあげる。三好殿の家来平田和泉守、たばかって、鹿苑寺院主周�様を弑《しい》し奉ったぞ。されど周�様家来美濃屋の亀助、その場にて仇《あだ》を報じたり」
と、市中にひびけとばかりにどなった。
その声をめあてに一人が真二つとばかりに斬りおろしたが、その太刀が軒先をざくり割ったがために胴が空き、その胴を亀助が力まかせに斬り割った。
が、やがて亀助は乱刃《らんじん》のなかで死んだ。この噂は翌朝市中にひろがり、三条のほとり夷《えびす》川《がわ》の辻《つじ》に落首がかかげられた。
滾《たぎ》りたる泉(和泉守)といへど
美濃亀が、ただ一口に飲み干しぞする
その落首は、事件直後、京に馳《は》せのぼった細川藤孝が、ひそかに三条夷川の辻に行って写しとってきた。
それを、この席で光秀にみせた。
「美濃屋?」
光秀は自分の生国だけに、まず亀助の実家の家号が気になった。
「亀助の父は、何者でござるか」
「市中の噂では美濃屋常哲というあきんどのせがれであるそうで」
「あ、美濃屋常哲といえば通称を小四郎と申し、京の上、小川町に住む者ではありませぬか」
「左様、そのように聞きました。お知る辺《べ》の者でござるか」
「いかにも」
光秀は縁のふしぎさに驚いた。美濃屋常哲はもともと武儀《むぎ》小三郎と言い、明智家の家来であった。明智城が陥《お》ちてから斎藤義竜《よしたつ》の追手をのがれて京に出、両刀をすてて商人になった。光秀は常哲が旧臣であるところから、京にのぼったときはときどき宿として使っていたのである。しかし亀助という若者には会ったことがない。
「左様か、お手前の旧臣のせがれでありましたか。これは奇妙不可思議な」
と藤孝も息をのむような表情である。
「それにしても美濃人のけなげなることよ。お手前は美濃源氏の名家の出とはいえ、すでに城も奪われ家もほろんで天下を牢浪《ろうろう》なされながらなおかつ幕府の再興に望みをおかけくだされている。それさえ奇特と存じていますのに、いまお手前の旧臣のせがれが、雑色の身で太刀をふるって周�様の仇《かたき》をとった。われわれ幕臣としてはむしろ恥じ入らねばなりませぬ」
亀助の事件は、いよいよ藤孝の光秀に対する気持を深めたようであった。
「して、ほかに?」
と、光秀はきいた。ほかにこの京都事件の情報はないか、というのである。
「左様、御所もお慌《あわ》てなされたらしい」
「そうであろう、一夜にして征《せい》夷《い》大将軍がお亡《な》くなりあそばしたゆえ、公卿《くげ》衆は狼狽《ろうばい》したことでありましょう」
「関白以下が、大騒ぎをなされた」
二条の義輝将軍の館は、御所に近い。この突然の夜戦に公卿衆は大さわぎし、万一の場合に帝《みかど》を叡山《えいざん》に御動座申しあげる支度をしつつ、御所の諸門をかためたが、暁《あ》けがたになってみごとな甲冑《かっちゅぅ》に身をかためた若い武士が三十人ばかりの人数をひきつれて御所の門外まで近づき、大音をあげて昨夜の始末を語り、
「されば将軍家はもはやこの世におわしませぬ。向《こう》後《ご》、朝廷の御用はそれがしがうけたまわることに相成りまする」
御所内から蔵人《くろうど》(宮中の庶務をあつかう職員)が出てきて小門をあけ、
「そなたは、どなたでおじゃるか」
とおそるおそる聞くと、その武士は、
「さん候《そうろう》。それがしは三好修理大夫義継という者でござる」
と言い、馬首をめぐらして去った。三好義継というのは、松永弾正が自分の言いなりになる主人として三好家を継がせた男である。
「三好・松永の徒は、本国の阿波で養育してきた義栄殿を奉じて将軍とし、天下の権をほしいままにする狼心《ろうしん》のようでござるな」
「その狼心、粉砕せねばなりませぬ」
と、光秀は言下にいった。
「当然」
藤孝はうなずき、さらに、
「それには、御先代義晴公の御《おん》次《じ》男《なん》の君にて幼いころに僧におなりあそばされ、いまは奈良一乗院の御《ご》門跡《もんぜき》としておすごしあそばしている御方を、将軍として奉ぜねばなりませぬ」
「あ」
光秀は、そういう嫡流《ちゃくりゅう》が僧になっているということを知らなかった。亡き義輝の弟で、路上で殺された周�の兄である。
「その一乗院門跡は、三好・松永の毒手におかかり遊ばされなんだのでございますか」
「左様、幸いにも」
と細川藤孝はうなずいたが、憂《うれ》いの色が濃い。毒手にこそかかっていないが、三好・松永の徒は義輝を殺すと同時に奈良に別働隊をさしむけ、一乗院を包囲し、その門跡が脱出せぬように厳重な監視をしているという。
門跡は、僧名は、覚慶《かくけい》。
のちの十五代将軍義昭《よしあき》である。
「いかに」
と、光秀がいった。声が思わず慄《ふる》えた。
「敵方の警固が厳重であろうとも、それがし、一乗院に乗りこみ、命を賭《と》して御門跡を奪還し奉りましょう」
言ってから光秀の両眼が、ぎらぎらと異様に光った。いかにそれが難事であろうとも、わが身が世に躍り出る機会はこの奪還の一挙にしかない、と光秀はおもった。
「やってくださるか」
藤孝はにじり寄って光秀の手をとり、
「天下ひろしといえども、この将軍後継者の奪還に命をすてようとしているのはわれら二人しかない」
藤孝の顔に、噴《ふ》き出るほどの血がさしのぼった。