この、京を戦慄《せんりつ》せしめた永禄八年の事件を、どこから物語ってよいか。
「弾正殿《だんじょうどの》」
と通称されている者がいる。官は弾正少弼《しょうひつ》で、名は松永久秀。
史上、斎藤道三《どうさん》とならんで悪人の代表のようにいわれている男だ。この物語のあるくだりで道三が弾正と会ったことがある。その当時、弾正は、京をおさえている大名の三好長慶の一介の執事にすぎなかった。
それが次第に成長し、いまでは三好家の家老ながら事実上三好家のぬしのようになり、阿波《あわ》、河内《かわち》、山城《やましろ》、京、といった、日本の中枢部をおさえている。
「弾正殿は悪人」
ということはたれ知らぬ者はないが、たれもこの弾正に手も足も出ない。強大な軍隊をもつ上に、智謀すぐれ、海千山千といった外交能力をもち、それに、近《きん》畿《き》地方のどの大小名よりもいくさがうまい。
三好家の吏員あがりだけに、文書にもあかるい。風雅の道も心得ている。京の公卿《くげ》、堺《さかい》の富商などと格別なつきあいを持っているのは、かれが当代有数の風流人であることにも大きにあずかって力がある。
かれの才能を証拠だてる一つは、かれの居城である信貴《しぎ》山城《さんじょう》である。
信貴山は、河内と大和の両国を屏風《びょうぶ》のようにへだてている生《い》駒《こま》・信貴山脈の一峰で、標高四八〇メートルある。
城は、大和側の山腹にあり、弾正はこれを永禄三年に築いた。永禄三年といえば信長が桶狭《おけはざ》間《ま》で今川義元を急襲して討った年で、弾正はこのころ、河内・大和の斬り取りにいそがしかった。
城に天守閣がある。
高く天空に屹立《きつりつ》し、大和平野を一望で見おろすことができた。城に天守閣をきずいた最初の例で、
「弾正殿は、一大楼閣を築かれたそうな」
という評判は、京の公卿、堺の町人のあいだで大評判となり、わざわざ見物にゆく者が多かった。そのうわさが尾張まできこえてきて、信長の耳に入った。
「面白《おもしろ》いことをする男だ」
すべて新規なものを好み、独創的な才能を愛する信長はよほどこの風聞に興味をもったらしい。が、かれがその「天守閣」をもつにいたるのは、このときから十六年後の安《あ》土《づち》城を築きあげるときまで待たねばならない。
「天守閣」
といっても、さほど実戦的な役に立つものではなく、むしろその壮麗な楼閣を天空に築きあげることによって、城主の威福を天下に示す、という、いわば宣伝の効果のほうが大きい。
当然、世人の心にも、
「さすがは弾正殿じゃ」
と、実力以上にこの男の像が大きく映り、その印象が諸国にまきちらされてゆく。
信貴山城をつくってから二年後に、弾正は主人三好長慶の世《せい》子《し》義興《よしおき》が意外に英明で自分をうとんじはじめていることに気づき、
(この若殿がいては、主家を自由にできぬ)
と、ひそかに毒殺してしまった。
父親の長慶はこのところひどくもうろく《・・・・》しはじめている。世間では、
——義興様を弾正殿が殺した。
ということを噂《うわさ》しているのに彼のみは病死したと思いこみ、悲《ひ》歎《たん》に暮れ、急に世をはかなみ、河内飯盛山《いいもりやま》城にひきこもって政務も弾正にまかせきりにし、からだもめっきり衰えた。このため弾正の独壇場になった。
弾正にはまだ一人邪魔者がいる。長慶の実弟の三好冬康《ふゆやす》であった。冬康は摂津茨木《いばらき》城の城主で連歌の名人として知られ、「集外三十六歌仙」の一人としてかぞえられている。
弾正は、耄碌《もうろく》した長慶に、
冬康殿にご謀《む》反《ほん》のお企てあり。
と讒言《ざんげん》し、長慶の同意を得、にわかに兵をおこして冬康を殺してしまった。長慶はあとで冬康の潔白を知ったがどうにもならず、憂《ゆう》悶《もん》のうちに衰死した。義興、冬康、長慶、という三人が相ついで死んだため、三好家はぬ《・》けがら《・・・》同然になった。弾正は三好義継《よしつぐ》という長慶の養子に主家を相続させ、それを擁していよいよ威をふるった。
長慶の死後、弾正にとってまだひとり、邪魔な男がいた。
将軍義輝である。
義輝は、なまじい気概をもってうまれついているために、弾正の意のままにはならない。
(なんとか工夫はないか)
と、弾正は思案した。
幸い、現将軍の叔父にあたる義維の子で、三好家に養育されている足利家の血すじの者がいる。十四代将軍義栄《よしひで》である。これを擁立すれば弾正の自由になり、ついには天下を掌握できるであろうとおもった。
(されば義輝将軍を殺さねばならぬ)
と、弾正は日夜思案をかさねた。
「弾正殿《だんじょうどの》」
と通称されている者がいる。官は弾正少弼《しょうひつ》で、名は松永久秀。
史上、斎藤道三《どうさん》とならんで悪人の代表のようにいわれている男だ。この物語のあるくだりで道三が弾正と会ったことがある。その当時、弾正は、京をおさえている大名の三好長慶の一介の執事にすぎなかった。
それが次第に成長し、いまでは三好家の家老ながら事実上三好家のぬしのようになり、阿波《あわ》、河内《かわち》、山城《やましろ》、京、といった、日本の中枢部をおさえている。
「弾正殿は悪人」
ということはたれ知らぬ者はないが、たれもこの弾正に手も足も出ない。強大な軍隊をもつ上に、智謀すぐれ、海千山千といった外交能力をもち、それに、近《きん》畿《き》地方のどの大小名よりもいくさがうまい。
三好家の吏員あがりだけに、文書にもあかるい。風雅の道も心得ている。京の公卿《くげ》、堺《さかい》の富商などと格別なつきあいを持っているのは、かれが当代有数の風流人であることにも大きにあずかって力がある。
かれの才能を証拠だてる一つは、かれの居城である信貴《しぎ》山城《さんじょう》である。
信貴山は、河内と大和の両国を屏風《びょうぶ》のようにへだてている生《い》駒《こま》・信貴山脈の一峰で、標高四八〇メートルある。
城は、大和側の山腹にあり、弾正はこれを永禄三年に築いた。永禄三年といえば信長が桶狭《おけはざ》間《ま》で今川義元を急襲して討った年で、弾正はこのころ、河内・大和の斬り取りにいそがしかった。
城に天守閣がある。
高く天空に屹立《きつりつ》し、大和平野を一望で見おろすことができた。城に天守閣をきずいた最初の例で、
「弾正殿は、一大楼閣を築かれたそうな」
という評判は、京の公卿、堺の町人のあいだで大評判となり、わざわざ見物にゆく者が多かった。そのうわさが尾張まできこえてきて、信長の耳に入った。
「面白《おもしろ》いことをする男だ」
すべて新規なものを好み、独創的な才能を愛する信長はよほどこの風聞に興味をもったらしい。が、かれがその「天守閣」をもつにいたるのは、このときから十六年後の安《あ》土《づち》城を築きあげるときまで待たねばならない。
「天守閣」
といっても、さほど実戦的な役に立つものではなく、むしろその壮麗な楼閣を天空に築きあげることによって、城主の威福を天下に示す、という、いわば宣伝の効果のほうが大きい。
当然、世人の心にも、
「さすがは弾正殿じゃ」
と、実力以上にこの男の像が大きく映り、その印象が諸国にまきちらされてゆく。
信貴山城をつくってから二年後に、弾正は主人三好長慶の世《せい》子《し》義興《よしおき》が意外に英明で自分をうとんじはじめていることに気づき、
(この若殿がいては、主家を自由にできぬ)
と、ひそかに毒殺してしまった。
父親の長慶はこのところひどくもうろく《・・・・》しはじめている。世間では、
——義興様を弾正殿が殺した。
ということを噂《うわさ》しているのに彼のみは病死したと思いこみ、悲《ひ》歎《たん》に暮れ、急に世をはかなみ、河内飯盛山《いいもりやま》城にひきこもって政務も弾正にまかせきりにし、からだもめっきり衰えた。このため弾正の独壇場になった。
弾正にはまだ一人邪魔者がいる。長慶の実弟の三好冬康《ふゆやす》であった。冬康は摂津茨木《いばらき》城の城主で連歌の名人として知られ、「集外三十六歌仙」の一人としてかぞえられている。
弾正は、耄碌《もうろく》した長慶に、
冬康殿にご謀《む》反《ほん》のお企てあり。
と讒言《ざんげん》し、長慶の同意を得、にわかに兵をおこして冬康を殺してしまった。長慶はあとで冬康の潔白を知ったがどうにもならず、憂《ゆう》悶《もん》のうちに衰死した。義興、冬康、長慶、という三人が相ついで死んだため、三好家はぬ《・》けがら《・・・》同然になった。弾正は三好義継《よしつぐ》という長慶の養子に主家を相続させ、それを擁していよいよ威をふるった。
長慶の死後、弾正にとってまだひとり、邪魔な男がいた。
将軍義輝である。
義輝は、なまじい気概をもってうまれついているために、弾正の意のままにはならない。
(なんとか工夫はないか)
と、弾正は思案した。
幸い、現将軍の叔父にあたる義維の子で、三好家に養育されている足利家の血すじの者がいる。十四代将軍義栄《よしひで》である。これを擁立すれば弾正の自由になり、ついには天下を掌握できるであろうとおもった。
(されば義輝将軍を殺さねばならぬ)
と、弾正は日夜思案をかさねた。
その不穏の気配は、当然、義輝にもわかった。義輝は乱世に生まれおちた将軍だけにわが身を護《まも》る神経だけは病的にするどい。ときどき弾正が、二条の将軍館にやってきて義輝の御機《き》嫌《げん》をうかがう。その弾正の顔つきをみただけで義輝は、
(弾正め)
と、異様さを嗅《か》ぎとった。
松永弾正は、美男である。
年少のころは少女にも見まがう美童で、長慶に閨《ねや》で可愛《かわい》がられたこともあったらしい。いまもその面形《おもがた》が豊かすぎるほどの頬《ほお》にのこっている。
齢《とし》にしては色が白く、眼が大きく、張りがあり、それに五十を過ぎた男のわりには唇《くちびる》の姿が可《か》憐《れん》であった。この一見、陽気で美しい顔立ちの男が、つぎつぎと主筋の者を謀殺して行ったとはとても思われない。
その弾正が、このところしばしば義輝に拝《はい》謁《えつ》を乞《こ》うては無用の風流ばなしをし、義輝の側近たちにも気味わるいほどの愛嬌《あいきょう》をふりまきはじめたのである。
それが義輝を警戒させた。
「あの男の笑顔が気味わるい」
弾正の笑顔が義輝の夢にまであらわれてそれがために義輝はしばしばうなされた。
「いっそ弾正を討伐なされましては」
と、細川藤孝はいった。討伐、といっても義輝には軍隊がない。近国の諸大名を頼むしかないのである。その計画も極秘でなければならない。もしその密謀が洩《も》れれば逆に将軍が弾正に殺されてしまうのだ。
「うまくゆくか」
「それがしが近国を駈《か》けまわってみましょう」
細川藤孝は密使となり、将軍の御教書を持って、さまざまの姿に変装して近国を駈けあるき、将軍に同情的な大小名を歴訪しはじめた。むろん越前朝倉家にいる明智光秀にも手紙をやり、
——いざというときには朝倉義景を説いて軍勢を京にさしのぼらせてもらいたい。
と頼んだ。光秀にまだ朝倉義景を動かすだけの勢力がないことは藤孝にもわかっているが、藁《わら》をもつかむ、というあの気持である。
むろん。——
万一の攻防にそなえて、将軍の二条の館の堀を深くし、塀《へい》を高くあげ、隅々《すみずみ》には櫓《やぐら》を組みあげる普《ふ》請《しん》にとりかかった。
この情報が、信貴山城にいた松永弾正の耳に入った。
(将軍《くぼう》にあっては、はや当方の意中をさとられしか)
猶《ゆう》予《よ》はできぬ、城普請のすまぬうちにこちらから仕掛けようと弾正は思い、腹心の林久大夫という者をよび、
「将軍の御日常をさぐって参れ」
と、探索にのぼらせた。
久大夫はさっそく京にのぼり、七条の朱雀《すざく》のあたりの裏町に住むなじみの妓《おんな》の家に逗留《とうりゅう》し、毎日外出しては、二条館のあたりをうろうろした。
時は、陰暦五月である。おりから梅雨どきで毎日霖《りん》雨《う》が降りつづき、二条館の普請もいったん中止になり、堀端には人影はない。京の市中の者にきくと、
「将軍様は、長雨のご退屈しのぎに、毎日、ご遊興なされている」
という。
久大夫は信貴山城に走りもどってその旨《むね》を弾正に報告した。
弾正は、襲撃計画の実施にとりかかった。むろん、河内飯盛山城にいる三好家の当主義継を総大将とし、いわゆる「三好三人衆」をも語らい、兵を発した。
といって、軍勢の形をとらず、人数を三十人、五十人ずつに分け、ばらばらにして京へ発向させ、それも道中、「西国のさる大名の家来が清水寺参詣《きよみずでらさんけい》のため京へのぼる」という体裁をとって世間の目をごまかした。
五月十九日の日没後、これらの人数は京の市中の要所々々に屯集《とんしゅう》した。総大将三好義継は兵四百五十をひきいて鴨川《かもがわ》べりの三本木に陣を布《し》き、松永弾正は烏丸《からすま》春日《かすが》正面、室町《むろまち》には十《と》河一存《ごうかずまさ》、西大路には三好笑岸《しょうがん》、勘解由《かげゆ》小《こう》路《じ》のあたりには岩城主税助《ちからのすけ》がそれぞれ陣を布き、二条館のまわりに犬一ぴきも通さぬ包囲網を完了した。
この夜、雨が降っている。
二条館ではすでに側近の武士が退出し、それぞれの屋敷にもどっていた。
邸内には、小姓と頭のまるい同朋衆《どうぼうしゅう》のほか戦闘力のある者はほとんどいない。
義輝の謀臣細川藤孝は、ここ数日来、京の郊外の乙訓郡勝竜寺《おとくにのこおりしょうりゅうじ》という土地にいた。ここに藤孝のわずかばかりの知行所と屋敷があったのである。むろん藤孝はこの夜の異変を夢にも知らない。
二条館の正門は、室町通に面しており、この門の改築だけは終了していて、城らしく櫓《やぐら》門《もん》になっていた。
雨がやや小降りになったのは、夜七時すぎである。夜八時、包囲軍はいっせいに松明《たいまつ》をともし、それぞれの街路をひしめきながら進み、堀端に来るや、弾正の手もとで打ち鳴らす太鼓を合図に喚《おめ》きながら堀にとびこみ、塀にとりつきはじめた。
「なんの物音ぞ」
と、奥の寝所ではね起きたのは、将軍義輝である。
(さては三好松永の党の謀《む》反《ほん》か)
と、さとり、念のため側近の沼田上総介《かずさのすけ》(細川藤孝の舅《しゅうと》)を走らせて偵察《ていさつ》させた。
上総介が館内を走って大手門にあたる室町口の櫓の上にのぼり、あたりを見まわすと、大路小路に松明の火がみちみちている。
「何者ぞ、謀反のやつらは。寄せ手の大将はこれへ名乗りをあげよ」
と、わめきおろすと、室町口の攻撃をうけもっていた十河一存が兵を静め、馬を堀端まで進ませ、
「三好修理大《しゅりのだい》夫《ふ》(義継)の手の者でござる。年来の遺恨を散ぜんがために今《こ》宵《よい》まかり参って候《そうろう》ぞ」
とどなりあげた。
沼田上総介は櫓門をかけおりて義輝のもとにその旨急報し、言いすてるなり宿直《とのい》の部屋に入って甲冑《かっちゅう》をつけ、二《に》人張《にんばり》の弓をとって櫓門にもどろうとすると、すでに門が打ちやぶられ、敵勢がわめきながら乱入するところだった。
義輝の小姓たちは真暗な邸内で手さぐりで具足をつけ、義輝のもとにあつまってきた。いずれも幕臣のうちの名家の子らで、畠山、一色《いっしき》、杉原、脇《わき》屋《や》、大脇、加持《かじ》、岡部といった、武家としては由縁《ゆかり》のある姓をもつめんめんである。
義輝は、この日がわが最《さい》期《ご》と覚悟したらしく、
「もっと燭台《しょくだい》を持て。座敷をあかあかと照らせ。酒はあるか。いそぎこれへ持て。肴《さかな》はす《・》るめ《・・》でよし。女官《にょうぼう》どもも集《つど》え。これにて最後の酒宴を張ろう」
と言い、その用意をさせた。
城館のあちこちから敵方の武者声、打ちこわしの物音がきこえてくるなかで、あわただしい酒宴がひらかれた。
小姓どもはみな若いせいか、すずしげな覚悟がどの面上にもある。そのうち細川藤孝の縁つづきの細川隆是《たかよし》という若者がするすると進み出て、
「ご酒興を添え奉る」
と言うや、女官からあでやかな小《こ》袖《そで》を借り、それを頭からかぶって舞を一さし舞った。
義輝は手を打ってそれを賞《ほ》め、
「その小袖をかせ」
といって、筆硯《ひっけん》をとりよせ、その小袖の上に墨くろぐろと辞世の歌を書きつけた。
五月雨《さみだれ》は
露か涙かほととぎす
わが名をあげよ雲の上まで
歌はさほどのものではないが、数え年三十のこの剣術好きの将軍の気概が、なまなましいまでに出ている。
「されば斬って出る。者ども名を惜しめ」
義輝は、剣をとって、立ちあがった。小姓たちは応《おう》、と武者声をあげるや廊下へとびだし四方に敵をもとめて走った。
義輝はその間に足利家重代の着背《きせ》長《なが》の鎧《よろい》をつけ、五枚錣《しころ》のカブトをかぶり、座敷の床の間に大刀十数本を積みかさね、単身、廊下を走って玄関の式台まで出、飛びかかってきた敵の首を剣光一閃《いっせん》、みごとにはねあげた。
剣は上泉《かみいずみ》伊勢守から手ほどきをうけ、塚原卜伝《ぼくでん》から一ノ太刀の奥義まで受けた達人である。義輝ほどの名人は、当代、そう幾人とはいないであろう。
玄関口はせまい。
一人々々が打ちかかってくる。その槍《やり》をはずし薙刀《なぎなた》をたたき落し、飛びこんでは敵の具足のすきまをねらって斬り、突き伏せ、あるいは首を刎《は》ね、すさまじい働きを示しはじめた。
(将軍は鬼か)
と、寄せ手はさすがにひるみ、遠巻きにして容易に踏みこまない。そのうち義輝は座敷に駈け込んでは数本の刀をかかえこみ、ふたたび玄関口にもどって、飛びかかる敵を斬った。
刀はいずれも足利家秘蔵の名刀である。ときには袈裟《けさ》にふりおろすと具足もろとも骨まで斬れる業物《わざもの》あり、そのつど義輝は、
「斬れる」
と、血しぶきをあげつつ高笑し、具足斬りをした刀はその場で投げ捨てた。金具を斬った刀は刃こぼれがして次の敵を両断することができないからだ。
義輝はもはやいっぴきの殺人鬼に化したといっていい。腕はある。死は覚悟している。征《せい》夷《い》大将軍の身でみずから剣闘をした男は鎌《かま》倉《くら》以来、明治維新にいたるまでこの義輝のほかはなかったであろう。さらには一剣客としても兵法《ひょうほう》(剣術)勃興《ぼっこう》いらい、これほどの働きをした男もなかった。
やがて城館の四方から火が出、火は次第に燃えあがって、玄関に移ったため義輝はしりぞいて座敷をトリデに奮戦するうち、敵方に池田某という者がいて背後から槍をもって義輝の足をはらった。
義輝はころんだ。
「すわ、おころびあそばされたぞ」
とその上から杉《すぎ》戸《ど》をかぶせ、義輝の自由をうばい、隙《すき》間《ま》から槍を突き入れ、くどいばかりに突き入れ突き入れしてついに殺した。
といって、軍勢の形をとらず、人数を三十人、五十人ずつに分け、ばらばらにして京へ発向させ、それも道中、「西国のさる大名の家来が清水寺参詣《きよみずでらさんけい》のため京へのぼる」という体裁をとって世間の目をごまかした。
五月十九日の日没後、これらの人数は京の市中の要所々々に屯集《とんしゅう》した。総大将三好義継は兵四百五十をひきいて鴨川《かもがわ》べりの三本木に陣を布《し》き、松永弾正は烏丸《からすま》春日《かすが》正面、室町《むろまち》には十《と》河一存《ごうかずまさ》、西大路には三好笑岸《しょうがん》、勘解由《かげゆ》小《こう》路《じ》のあたりには岩城主税助《ちからのすけ》がそれぞれ陣を布き、二条館のまわりに犬一ぴきも通さぬ包囲網を完了した。
この夜、雨が降っている。
二条館ではすでに側近の武士が退出し、それぞれの屋敷にもどっていた。
邸内には、小姓と頭のまるい同朋衆《どうぼうしゅう》のほか戦闘力のある者はほとんどいない。
義輝の謀臣細川藤孝は、ここ数日来、京の郊外の乙訓郡勝竜寺《おとくにのこおりしょうりゅうじ》という土地にいた。ここに藤孝のわずかばかりの知行所と屋敷があったのである。むろん藤孝はこの夜の異変を夢にも知らない。
二条館の正門は、室町通に面しており、この門の改築だけは終了していて、城らしく櫓《やぐら》門《もん》になっていた。
雨がやや小降りになったのは、夜七時すぎである。夜八時、包囲軍はいっせいに松明《たいまつ》をともし、それぞれの街路をひしめきながら進み、堀端に来るや、弾正の手もとで打ち鳴らす太鼓を合図に喚《おめ》きながら堀にとびこみ、塀にとりつきはじめた。
「なんの物音ぞ」
と、奥の寝所ではね起きたのは、将軍義輝である。
(さては三好松永の党の謀《む》反《ほん》か)
と、さとり、念のため側近の沼田上総介《かずさのすけ》(細川藤孝の舅《しゅうと》)を走らせて偵察《ていさつ》させた。
上総介が館内を走って大手門にあたる室町口の櫓の上にのぼり、あたりを見まわすと、大路小路に松明の火がみちみちている。
「何者ぞ、謀反のやつらは。寄せ手の大将はこれへ名乗りをあげよ」
と、わめきおろすと、室町口の攻撃をうけもっていた十河一存が兵を静め、馬を堀端まで進ませ、
「三好修理大《しゅりのだい》夫《ふ》(義継)の手の者でござる。年来の遺恨を散ぜんがために今《こ》宵《よい》まかり参って候《そうろう》ぞ」
とどなりあげた。
沼田上総介は櫓門をかけおりて義輝のもとにその旨急報し、言いすてるなり宿直《とのい》の部屋に入って甲冑《かっちゅう》をつけ、二《に》人張《にんばり》の弓をとって櫓門にもどろうとすると、すでに門が打ちやぶられ、敵勢がわめきながら乱入するところだった。
義輝の小姓たちは真暗な邸内で手さぐりで具足をつけ、義輝のもとにあつまってきた。いずれも幕臣のうちの名家の子らで、畠山、一色《いっしき》、杉原、脇《わき》屋《や》、大脇、加持《かじ》、岡部といった、武家としては由縁《ゆかり》のある姓をもつめんめんである。
義輝は、この日がわが最《さい》期《ご》と覚悟したらしく、
「もっと燭台《しょくだい》を持て。座敷をあかあかと照らせ。酒はあるか。いそぎこれへ持て。肴《さかな》はす《・》るめ《・・》でよし。女官《にょうぼう》どもも集《つど》え。これにて最後の酒宴を張ろう」
と言い、その用意をさせた。
城館のあちこちから敵方の武者声、打ちこわしの物音がきこえてくるなかで、あわただしい酒宴がひらかれた。
小姓どもはみな若いせいか、すずしげな覚悟がどの面上にもある。そのうち細川藤孝の縁つづきの細川隆是《たかよし》という若者がするすると進み出て、
「ご酒興を添え奉る」
と言うや、女官からあでやかな小《こ》袖《そで》を借り、それを頭からかぶって舞を一さし舞った。
義輝は手を打ってそれを賞《ほ》め、
「その小袖をかせ」
といって、筆硯《ひっけん》をとりよせ、その小袖の上に墨くろぐろと辞世の歌を書きつけた。
五月雨《さみだれ》は
露か涙かほととぎす
わが名をあげよ雲の上まで
歌はさほどのものではないが、数え年三十のこの剣術好きの将軍の気概が、なまなましいまでに出ている。
「されば斬って出る。者ども名を惜しめ」
義輝は、剣をとって、立ちあがった。小姓たちは応《おう》、と武者声をあげるや廊下へとびだし四方に敵をもとめて走った。
義輝はその間に足利家重代の着背《きせ》長《なが》の鎧《よろい》をつけ、五枚錣《しころ》のカブトをかぶり、座敷の床の間に大刀十数本を積みかさね、単身、廊下を走って玄関の式台まで出、飛びかかってきた敵の首を剣光一閃《いっせん》、みごとにはねあげた。
剣は上泉《かみいずみ》伊勢守から手ほどきをうけ、塚原卜伝《ぼくでん》から一ノ太刀の奥義まで受けた達人である。義輝ほどの名人は、当代、そう幾人とはいないであろう。
玄関口はせまい。
一人々々が打ちかかってくる。その槍《やり》をはずし薙刀《なぎなた》をたたき落し、飛びこんでは敵の具足のすきまをねらって斬り、突き伏せ、あるいは首を刎《は》ね、すさまじい働きを示しはじめた。
(将軍は鬼か)
と、寄せ手はさすがにひるみ、遠巻きにして容易に踏みこまない。そのうち義輝は座敷に駈け込んでは数本の刀をかかえこみ、ふたたび玄関口にもどって、飛びかかる敵を斬った。
刀はいずれも足利家秘蔵の名刀である。ときには袈裟《けさ》にふりおろすと具足もろとも骨まで斬れる業物《わざもの》あり、そのつど義輝は、
「斬れる」
と、血しぶきをあげつつ高笑し、具足斬りをした刀はその場で投げ捨てた。金具を斬った刀は刃こぼれがして次の敵を両断することができないからだ。
義輝はもはやいっぴきの殺人鬼に化したといっていい。腕はある。死は覚悟している。征《せい》夷《い》大将軍の身でみずから剣闘をした男は鎌《かま》倉《くら》以来、明治維新にいたるまでこの義輝のほかはなかったであろう。さらには一剣客としても兵法《ひょうほう》(剣術)勃興《ぼっこう》いらい、これほどの働きをした男もなかった。
やがて城館の四方から火が出、火は次第に燃えあがって、玄関に移ったため義輝はしりぞいて座敷をトリデに奮戦するうち、敵方に池田某という者がいて背後から槍をもって義輝の足をはらった。
義輝はころんだ。
「すわ、おころびあそばされたぞ」
とその上から杉《すぎ》戸《ど》をかぶせ、義輝の自由をうばい、隙《すき》間《ま》から槍を突き入れ、くどいばかりに突き入れ突き入れしてついに殺した。
この変報を光秀がきいたのは、偶然なことながらかれが京にむかってのぼりつつある道中においてであった。
江州《ごうしゅう》草津の宿《しゅく》の旅館で、たまたま同宿した出雲《いずも》の御符《ごふ》売りからきいた。
(止《や》んぬるかな)
と、一時は自分の運のわるさに暗澹《あんたん》とする思いだった。光秀が朝倉家で占めている特異な位置はといえば、義輝将軍の知遇を得ている、ということだけのことではないか。その義輝が死んだとなれば、戦国策士をもって任ずる彼としては、魔法のたね《・・》を失ったようなものであった。
が、すぐ、この友情あつい男は、友人の細川藤孝の安危が気になってきた。
(共に、殉じたか)
藤孝は勇者である。十に九つまでは、将軍とともに斬り死したにちがいない。
光秀は、草津から六里二十四町の道を飛ぶようにいそぎ、京に入るやすぐ室町通を北上し、二条の館をたずねた。
すでに焼けあとでしかない。
光秀はつぎつぎに町の者をつかまえては当夜、将軍に殉じた人の名をきいてまわった。次第に様子がわかってきて、事件の当夜は、お側衆《そばしゅう》はほとんど下城していて、居合わさなかったことも知った。さらに藤孝が都を離れて知行地の勝竜寺にいることも知った。
(天命なるかな。細川藤孝ひとり生きてあるかぎり幕府はほろびぬ)
光秀は狂喜し、まず藤孝をさがさねばと思い、藤孝の所領である乙訓郡勝竜寺を訪ねるべく京をはなれた。
(きっと、藤孝はあの在所にもどっている)
そう確信したのは、松永弾正の一党は、つぎの将軍の位置にかれらの持駒《もちごま》である義栄《よしひで》を据《す》えねばならぬ必要上、幕臣の生命、身分、領地は保障するという布告を出しているからである。当然、藤孝は逃げもかくれもしていまい。
(藤孝に会って、幕府再建の方途をきめねばならぬ。松永弾正らは義栄様をおし立てるかもしれぬが、そうはさせぬ。おれは藤孝とふたりで別の将軍を擁立するのだ)
みちみち、そう思案した。思案しつつ気持が晴れてきた。考えようによっては、義輝の死によって、自分の前途が洋々とひらけてきた、ともいえるのではないか。
(おれの一生も、おもしろくなる)
光秀は懸命に足を動かし、若葉につつまれた南山城《やましろ》の野を南にくだった。
江州《ごうしゅう》草津の宿《しゅく》の旅館で、たまたま同宿した出雲《いずも》の御符《ごふ》売りからきいた。
(止《や》んぬるかな)
と、一時は自分の運のわるさに暗澹《あんたん》とする思いだった。光秀が朝倉家で占めている特異な位置はといえば、義輝将軍の知遇を得ている、ということだけのことではないか。その義輝が死んだとなれば、戦国策士をもって任ずる彼としては、魔法のたね《・・》を失ったようなものであった。
が、すぐ、この友情あつい男は、友人の細川藤孝の安危が気になってきた。
(共に、殉じたか)
藤孝は勇者である。十に九つまでは、将軍とともに斬り死したにちがいない。
光秀は、草津から六里二十四町の道を飛ぶようにいそぎ、京に入るやすぐ室町通を北上し、二条の館をたずねた。
すでに焼けあとでしかない。
光秀はつぎつぎに町の者をつかまえては当夜、将軍に殉じた人の名をきいてまわった。次第に様子がわかってきて、事件の当夜は、お側衆《そばしゅう》はほとんど下城していて、居合わさなかったことも知った。さらに藤孝が都を離れて知行地の勝竜寺にいることも知った。
(天命なるかな。細川藤孝ひとり生きてあるかぎり幕府はほろびぬ)
光秀は狂喜し、まず藤孝をさがさねばと思い、藤孝の所領である乙訓郡勝竜寺を訪ねるべく京をはなれた。
(きっと、藤孝はあの在所にもどっている)
そう確信したのは、松永弾正の一党は、つぎの将軍の位置にかれらの持駒《もちごま》である義栄《よしひで》を据《す》えねばならぬ必要上、幕臣の生命、身分、領地は保障するという布告を出しているからである。当然、藤孝は逃げもかくれもしていまい。
(藤孝に会って、幕府再建の方途をきめねばならぬ。松永弾正らは義栄様をおし立てるかもしれぬが、そうはさせぬ。おれは藤孝とふたりで別の将軍を擁立するのだ)
みちみち、そう思案した。思案しつつ気持が晴れてきた。考えようによっては、義輝の死によって、自分の前途が洋々とひらけてきた、ともいえるのではないか。
(おれの一生も、おもしろくなる)
光秀は懸命に足を動かし、若葉につつまれた南山城《やましろ》の野を南にくだった。