美濃の稲葉山城を陥《おと》してからの信長のうごきは、ややゆるやかになったようである。
京や諸国のあいだでも、
「信長、信長」
という声はあまり聞かれなくなった。桶狭《おけはざ》間《ま》での今川義元討滅、さらに美濃稲葉山城の陥落、このふたつの衝撃的な事件が、信長の名を大きく世にあげさせたが、その後、信長は世間をあっといわせるようなことはしていない。
美濃が、安定しないからである。
この国は源平争乱以来の源氏(土岐氏)の根拠地で鎌倉士風がつよく、本城が陥《お》ちたからといって在郷の地侍がすぐ隣国の征服者に平身低頭するわけでなく、意外に頑《がん》固《こ》な抗戦主義者が多かった。それらが山城に立てこもって、絶望的な抗戦をつづけた。
信長は、その掃蕩《そうとう》に没頭した。その占領地の安定のために忙殺され、華やかな大作戦をやるようなゆとりは、信長にはなかった。
自然、世間の口の端にのぼらない。
「美濃を固めねば」
信長はつねにそういった。美濃を固めねばいかなる大仕事もできない。
逆に美濃を固めたあかつきは、いかなる大仕事でもできるであろう。国は富み、兵は強く、しかも交通は四通八達している。
たとえば西美濃の関ケ原という地点ひとつを例にとってもそうである。この関ケ原村付近から、放射状に大街道が天下に向かってのびている。上方《かみがた》と関東をつなぐ中山道《なかせんどう》、伊勢へ出る伊勢街道、さらには北国へゆく北国街道が走っている。天下に兵を動かすには美濃ほどいい根拠地はない。
「美濃を制する者は天下を制す」
とは、信長の舅《しゅうと》斎藤道三《どうさん》が言いのこしたことばだ。道三はこの地に来たり、この地を制したが、ついに見果てぬ天下への夢を実現せぬまま長《なが》良川《らか》畔《はん》で非《ひ》業《ごう》に果てた。
美濃
いまは岐阜県。
その信長が選んだ「岐阜」という新名称の旧稲葉山、新岐阜城は、いまかれのあたらしい設計によって新装をいそぎつつある。
この間、信長は、軍隊を、尾張清《きよ》洲《す》城、同小《こ》牧《まき》城、岐阜の新城下、美濃大垣城などに分駐させつつ、岐阜城の落成を待っている。
じっと待っているわけではない。
そこは稀有《けう》の働き者である。このいわば待ち時間を、外交にそそいだ。
信長の最終目的は、京に織田家の旗を立てることだ。そのための前進路にいる強敵が、北近江の浅井氏である。
かといって浅井氏を討伐できるほどの武力は信長にないため、手をつくしてこれと友好《よしみ》をむすび、美人の噂の高い妹お市御料人《ごりょうにん》を、浅井家の若当主長政《ながまさ》に嫁がせた。浅井家とは姻戚の間柄《あいだがら》になった。
(いざ京へ入るときには、浅井は同盟してくれるか、くれなくとも友好的に軍隊輸送の安全を保障してくれるだろう)
というのが、そのねらいであった。
信長は浅井氏のほか、必要とおもわれる方面に外交の手をのばしたが、かれの最も怖《おそ》れたのは甲斐《かい》の武田信玄であった。
(信玄にはかなわぬ)
ということは、信長が彼我《ひが》の軍事力を冷静に分析してわかっている。単なる理解ではない。戦慄《せんりつ》といっていい。
兵力は織田軍の倍である。信玄はゆうに三万人以上を国外に派遣することができるであろう。兵数だけでなく、兵の素質が、織田兵と武田兵では格段の差があった。
信長の尾張兵は、もともと東海一の弱兵とされてきた。東隣の三《み》河《かわ》兵に遠く及ばず、北隣の美濃兵にはるかに及ばない。その弱兵の尾張衆が天下の風雲のなかで疾駆しはじめたのは織田家の先代信秀の鍛練と、信長の天才的能力があってこそのことだ。
信長を得てはじめて尾張衆は動きはじめたが、それでも天下最強といわれる武田の甲州軍にはとても及ばない。
兵馬が強いうえに、越後の上杉謙信とならんで信玄は、もはや神にちかいほどの戦さ上手とされている。作戦が卓絶しているだけでなく、軍制、戦法が独創的で、将士は信玄の一令のもと手足のように動き、死を怖れず、むしろ信玄の下知《げち》のもとで死ぬことをよろこんでいるような連中である。
(とてもかなわない)
と信長がみているのは、むりもなかった。
しかも始末のわるいことに、その信玄の終生の目的は、信長と同様、京に武《たけ》田《だ》菱《びし》の旗をたてることであった。
その信玄の雄図は、北方の越後から謙信がつねに挑戦《ちょうせん》してくることによって、不幸にも実現がながびいている。もし北方の謙信さえいなければ、信玄はらくらくと東海道へ南下し、海道筋の家康、信長を踏みつぶしつつゆうゆうと京へ入れたであろう。
信長の幸運といっていい。もし謙信という、戦さを芸術家が芸術を愛するような気持で愛している奇妙な天才が信玄の北方にいなければ、信長などはとっくに戦場の露と消えているか、それとも信玄の馬の口輪をとっていなければならなかったであろう。
(おれは悪運がいい)
と信長は思ったかどうか。もともとこの無神論者は、運などを信じたことがなかった。運などはいつ変転するかもわからない。いつ謙信が戦さをやめるかもわからない。そのときはあの猛獣の群れのような甲州武田軍が、怒《ど》濤《とう》のように尾張・美濃に進み入ってくるであろう。
(信玄を手なずける以外にない)
信長は、対武田の態度を、その一点にしぼった。手なずける、といっても、相手は、どれほどの智謀があるか想像もつかぬ巨人である。しかも劫《こう》を経ている。信玄はすでに四十の半ばを越えていた。
手なずける、というのはこうとなっては懐柔ではない。屈辱のかぎりをつくしておべっかと媚《び》態《たい》外交をする以外にない。むしろ、こっちが手なずけられて《・・・・・・・》しまわなければ危険であった。手なずけるのも手なずけられるのも、要はおなじ結果である。危険は去る。
この場合、
「信玄に可愛がってもらう」
ということだ。猫《ねこ》のように相手の毛ずね《・・》に頭をこすりつけ、じゃれ《・・・》てゆくのである。じゃれれば、相手も憎くは思うまい。
(猫でゆく)
と、信長は心魂をさだめた。猫はじゃれてゆくが、もともと不《ふ》逞《てい》な小動物だ。猫の心中、人間に手なずけられているとは思っていないかもしれない。存外、じゃれることによって人間を手なずけたと猫は思っているかもしれない。信長は、その方法をとった。
ひんぴんと、贈り物をした。国力を傾けての財宝が、三国の境を越えて甲斐の国へしばしば運ばれて行った。
(妙な小僧だ)
と信玄は最初おもった。ついで、
(油断はできぬ)
と、信玄は警戒した。武田信玄という稀《き》代《だい》の策謀家はその半生のうち、かぞえきれぬほどに人を欺《だま》してきたが、いまだかつて人にだまされたことがない。
(尾張の小僧にはなにか魂胆がある)
とみて、用心した。
そこはぬかりのない信玄のことだ。何人もの諜者《ちょうじゃ》を尾張に放って信長の言動を窺《うかが》わせたが、あやしい様子はない。
ないどころか、
「甲斐大僧正《だいそうじょう》(信玄)ほど慕わしいお人はいない。ことごとくわが手本である」
と平素、左右にいっているふうである。この言葉のいいまわし、およそ信長らしからぬ咏歎調《えいたんちょう》だが、武田の諜者たちはそこまで見ぬくほどの頭はない。
戻《もど》って、信玄に報告した。かれらの報告はことごとく信長の自分への誠実さ、友《ゆう》誼《ぎ》を示すもので、わるい情報はひとつとしてない。
(妙な小僧だ)
と思う信玄の述懐が、ややその「小僧」に愛嬌《あいきょう》を感じはじめるようになった。
信長も、抜からない。信玄への親善使節には、家中きっての雄弁家を使った。織田掃部《かもんの》助《すけ》という一族の者で、かつて尾張から流れて武田家に仕えていた者が、つねに使節として音物《いんもつ》(進物)をはこび、そのつど信玄に、
「上総介《かずさのすけ》(信長)が、お屋形(信玄)様を尊仰申しあげておりまする様子は、乳児が母を慕うがごときものがござりまする」
などといった。
信玄はもとより巧弁の者をその弁口によって信ずるということはしない。むしろ、言葉が甘ければ甘いほど警戒し、
(いよいよ油断ならぬ)
と、気持をひきしめていた。しかし尾張は幾つかの国をへだてているため、いまの信玄にとって信長という小僧は直接利害関係がない。このため、さほど神経をとがらすというほどのことはなかった。ただ油断ならぬという底意地のすわった目で信玄は信長を見ていたのである。
あるときふと、
「信長からの音物を、これへもって来よ」
とかたわらの者に命じた。中身だけではなく、梱包《こんぽう》ごともって来よ、と信玄はいった。
信長の音物は、豪華なものだ。なにしろ、その梱包の箱からして、漆塗りなのである。類がないといっていい。梱包など、粗末な板でつくった箱で結構ではないか。
漆塗りの高価さは、いつの時代でもかわらない。それが高価である理由は、気が遠くなるほどに手間がかかるためだ。塗っては乾かし、乾かしては塗り、十分に作りあげようとすれば七度も十度もそれを繰りかえさねばならず、このため小さな椀《わん》をつくるのでも、物によっては半年、一年はかかる。
が、簡略な方法もある。
現今《こんにち》もその簡略が安漆器には用いられているが、糊《のり》付《づ》けの方法である。漆を糊で固定させてぺろりと一度塗りぐらいでごまかしてしまう方法だ。
外見は、かわらない。
が、使ってみると、すぐ剥《は》げてしまって赤《あか》肌《はだ》が出、見るもむざんな姿になる。
(それにちがいない)
と信玄はにらんだ。すぐその梱包の一箱を御前に進めさせ、やおら腰をさぐって脇差《わきざし》から小《こ》柄《づか》をぬきとった。
さくり
と、箱のかどを削った。削りあとを、信玄はしさいにのぞきこんだ。
やがて顔をあげたときの信玄の目に、感動が浮かんでいた。
削りあとに漆の層があり、極上品というべき七度塗りの漆であった。本来なら松材の木箱で足りる荷造り用の箱に、これほどの高価な漆器を用いるとはどういうことであろう。
答えは、一つである。
(誠実な男だ)
ということであった。信玄ほどの者が、念には念を入れた「尾張の小僧」の欺しの手にみごとに乗った。
「信長とは、信実《しんじつ》深き者よ。あれがつねづね言って寄こす巧弁な口上は、あるいはうそでないかもしれぬ。これが証拠よ」
と、左右にも、その削りあとを見せた。左右も、息を呑《の》んで感嘆した。
信長には、魂胆がある。将来《さき》のことは別としてまずまず、武田家と姻戚関係をむすびたいということであった。
程を見はからって、それを申し入れた。
美濃、といっても木曾に近いあたりの苗《なえ》木《ぎ》に遠山勘太郎という城主がいる。苗木とは、現今、観光地の恵《え》那峡《なきょう》のあたりである。遠山氏は南北朝以来の名族で、近国で知らぬ者はない。余談ながら、江戸期の名奉行で「遠山の金さん」として講釈や映画で知られている遠山左衛門尉景元《さえもんのじょうかげもと》という人物はその子孫である。遠山家の本家は徳川家の大名に列しており、苗木で一万二十一石を領し、維新までつづいている。
この遠山家に、死んだ道三の正室小見《おみ》の方(明智氏)の妹が嫁いでいる。遠山勘太郎の妻女である。
それに雪姫という娘がある。
濃姫のいとこ、ということで、信長は美濃経略の初期に遠山氏に工作し、味方にひき入れ、その雪姫を養女として尾張にひきとっていた。
美《び》貌《ぼう》である。
明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。そのうつくしさは、人口に乗って甲斐まで知られている。
「その雪姫を、なにとぞ勝頼《かつより》様に」
と、信長の使者織田掃部助が、信玄にもちかけた。雪姫は織田家の実子ではない。勝頼は武田家の世《よ》嗣《つぎ》である。断わられるかと思ったが信玄は存外あっさりと、
「よかろう」
といった。この点、信長の外交は、みごとに成功している。もっともこの雪姫は信勝《のぶかつ》を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄《えいろく》九年の末である。
雪姫の死で縁が切れた、というので、信長はさらに別な縁談をもちこみはじめた。
もちこんだのは、この物語のほんのわずか後のはなしになる。
永禄十年の秋のことだ。こんどの縁談は、前のよりもさらに武田家にとってぶ《・》がわるかった。
信長の申し出は、
「姫御の菊姫さまを」
というのである。菊姫は信玄の娘で、まだかぞえて七つでしかない。もっとも花婿《はなむこ》となるべき信長の長男信忠《のぶただ》はまだ数えて十一歳である。その嫁に、というのだ。
嫁に、というのは、わるく解釈すれば人質ということでもある。下《した》目《め》の織田家から申し出られる縁談ではないのだ。
このときこそ断わられると覚悟したが、この一件も、
「よかろう」
と、信玄は快諾した。
このころには信玄にとって信長の利用価値は大いに出はじめている。いざ京都へ、というとき、沿道の信長を先鋒《せんぽう》に立て、逆らう者どもを蹴散《けち》らさせようと考えはじめていた。
信長も、そこは心得ている。
「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」
と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
「信長は自分にとって無二の者である」
と、左右にもいった。その「無二」の関係を、信玄はさらに結婚政策によって固めようとした。その愛娘《まなむすめ》を、いわば人質になるかもしれぬ危険をおかして織田家に呉れてやる約束をしたのである。
(信玄も存外あまい)
と、信長は、虎《とら》のひげをもてあそぶような思いを感じつつそう思ったであろう。が、表むきは、大きによろこんだ。
幼童と童女の婚約が結ばれたのは、永禄十年十一月である。信長はさっそくその御礼として、例のぼう大な進物を甲斐へ送った。虎の皮五枚それに豹《ひょう》の皮が五枚、さらに緞《どん》子《す》五百反という途方もない珍品ばかりであった。
武田信玄からも、それへのお返しの品々が送られてきた。甲斐は山国であり、尾張のように商業地でなく土地も痩《や》せている。精いっぱいのお返しとして獣皮がおくられてきたが、熊《くま》の皮であった。それに蝋燭《ろうそく》、漆、馬などである。尾張という先進経済圏にいる織田家としてはべつにめずらしい品ではない。
しかし信長はよろこび、武田家の使者である信州飯田の城主秋山伯耆守晴近《ほうきのかみはるちか》を大いに歓待し、
「わが美濃の長《なが》良《ら》川《がわ》には世にめずらしいものがござる。鵜《う》飼《かい》でござる」
といって、この不愛想者が秋山の手をひくようにして見物にともない、御座《ござ》船《ぶね》に乗って長良川で歓を尽した。
京や諸国のあいだでも、
「信長、信長」
という声はあまり聞かれなくなった。桶狭《おけはざ》間《ま》での今川義元討滅、さらに美濃稲葉山城の陥落、このふたつの衝撃的な事件が、信長の名を大きく世にあげさせたが、その後、信長は世間をあっといわせるようなことはしていない。
美濃が、安定しないからである。
この国は源平争乱以来の源氏(土岐氏)の根拠地で鎌倉士風がつよく、本城が陥《お》ちたからといって在郷の地侍がすぐ隣国の征服者に平身低頭するわけでなく、意外に頑《がん》固《こ》な抗戦主義者が多かった。それらが山城に立てこもって、絶望的な抗戦をつづけた。
信長は、その掃蕩《そうとう》に没頭した。その占領地の安定のために忙殺され、華やかな大作戦をやるようなゆとりは、信長にはなかった。
自然、世間の口の端にのぼらない。
「美濃を固めねば」
信長はつねにそういった。美濃を固めねばいかなる大仕事もできない。
逆に美濃を固めたあかつきは、いかなる大仕事でもできるであろう。国は富み、兵は強く、しかも交通は四通八達している。
たとえば西美濃の関ケ原という地点ひとつを例にとってもそうである。この関ケ原村付近から、放射状に大街道が天下に向かってのびている。上方《かみがた》と関東をつなぐ中山道《なかせんどう》、伊勢へ出る伊勢街道、さらには北国へゆく北国街道が走っている。天下に兵を動かすには美濃ほどいい根拠地はない。
「美濃を制する者は天下を制す」
とは、信長の舅《しゅうと》斎藤道三《どうさん》が言いのこしたことばだ。道三はこの地に来たり、この地を制したが、ついに見果てぬ天下への夢を実現せぬまま長《なが》良川《らか》畔《はん》で非《ひ》業《ごう》に果てた。
美濃
いまは岐阜県。
その信長が選んだ「岐阜」という新名称の旧稲葉山、新岐阜城は、いまかれのあたらしい設計によって新装をいそぎつつある。
この間、信長は、軍隊を、尾張清《きよ》洲《す》城、同小《こ》牧《まき》城、岐阜の新城下、美濃大垣城などに分駐させつつ、岐阜城の落成を待っている。
じっと待っているわけではない。
そこは稀有《けう》の働き者である。このいわば待ち時間を、外交にそそいだ。
信長の最終目的は、京に織田家の旗を立てることだ。そのための前進路にいる強敵が、北近江の浅井氏である。
かといって浅井氏を討伐できるほどの武力は信長にないため、手をつくしてこれと友好《よしみ》をむすび、美人の噂の高い妹お市御料人《ごりょうにん》を、浅井家の若当主長政《ながまさ》に嫁がせた。浅井家とは姻戚の間柄《あいだがら》になった。
(いざ京へ入るときには、浅井は同盟してくれるか、くれなくとも友好的に軍隊輸送の安全を保障してくれるだろう)
というのが、そのねらいであった。
信長は浅井氏のほか、必要とおもわれる方面に外交の手をのばしたが、かれの最も怖《おそ》れたのは甲斐《かい》の武田信玄であった。
(信玄にはかなわぬ)
ということは、信長が彼我《ひが》の軍事力を冷静に分析してわかっている。単なる理解ではない。戦慄《せんりつ》といっていい。
兵力は織田軍の倍である。信玄はゆうに三万人以上を国外に派遣することができるであろう。兵数だけでなく、兵の素質が、織田兵と武田兵では格段の差があった。
信長の尾張兵は、もともと東海一の弱兵とされてきた。東隣の三《み》河《かわ》兵に遠く及ばず、北隣の美濃兵にはるかに及ばない。その弱兵の尾張衆が天下の風雲のなかで疾駆しはじめたのは織田家の先代信秀の鍛練と、信長の天才的能力があってこそのことだ。
信長を得てはじめて尾張衆は動きはじめたが、それでも天下最強といわれる武田の甲州軍にはとても及ばない。
兵馬が強いうえに、越後の上杉謙信とならんで信玄は、もはや神にちかいほどの戦さ上手とされている。作戦が卓絶しているだけでなく、軍制、戦法が独創的で、将士は信玄の一令のもと手足のように動き、死を怖れず、むしろ信玄の下知《げち》のもとで死ぬことをよろこんでいるような連中である。
(とてもかなわない)
と信長がみているのは、むりもなかった。
しかも始末のわるいことに、その信玄の終生の目的は、信長と同様、京に武《たけ》田《だ》菱《びし》の旗をたてることであった。
その信玄の雄図は、北方の越後から謙信がつねに挑戦《ちょうせん》してくることによって、不幸にも実現がながびいている。もし北方の謙信さえいなければ、信玄はらくらくと東海道へ南下し、海道筋の家康、信長を踏みつぶしつつゆうゆうと京へ入れたであろう。
信長の幸運といっていい。もし謙信という、戦さを芸術家が芸術を愛するような気持で愛している奇妙な天才が信玄の北方にいなければ、信長などはとっくに戦場の露と消えているか、それとも信玄の馬の口輪をとっていなければならなかったであろう。
(おれは悪運がいい)
と信長は思ったかどうか。もともとこの無神論者は、運などを信じたことがなかった。運などはいつ変転するかもわからない。いつ謙信が戦さをやめるかもわからない。そのときはあの猛獣の群れのような甲州武田軍が、怒《ど》濤《とう》のように尾張・美濃に進み入ってくるであろう。
(信玄を手なずける以外にない)
信長は、対武田の態度を、その一点にしぼった。手なずける、といっても、相手は、どれほどの智謀があるか想像もつかぬ巨人である。しかも劫《こう》を経ている。信玄はすでに四十の半ばを越えていた。
手なずける、というのはこうとなっては懐柔ではない。屈辱のかぎりをつくしておべっかと媚《び》態《たい》外交をする以外にない。むしろ、こっちが手なずけられて《・・・・・・・》しまわなければ危険であった。手なずけるのも手なずけられるのも、要はおなじ結果である。危険は去る。
この場合、
「信玄に可愛がってもらう」
ということだ。猫《ねこ》のように相手の毛ずね《・・》に頭をこすりつけ、じゃれ《・・・》てゆくのである。じゃれれば、相手も憎くは思うまい。
(猫でゆく)
と、信長は心魂をさだめた。猫はじゃれてゆくが、もともと不《ふ》逞《てい》な小動物だ。猫の心中、人間に手なずけられているとは思っていないかもしれない。存外、じゃれることによって人間を手なずけたと猫は思っているかもしれない。信長は、その方法をとった。
ひんぴんと、贈り物をした。国力を傾けての財宝が、三国の境を越えて甲斐の国へしばしば運ばれて行った。
(妙な小僧だ)
と信玄は最初おもった。ついで、
(油断はできぬ)
と、信玄は警戒した。武田信玄という稀《き》代《だい》の策謀家はその半生のうち、かぞえきれぬほどに人を欺《だま》してきたが、いまだかつて人にだまされたことがない。
(尾張の小僧にはなにか魂胆がある)
とみて、用心した。
そこはぬかりのない信玄のことだ。何人もの諜者《ちょうじゃ》を尾張に放って信長の言動を窺《うかが》わせたが、あやしい様子はない。
ないどころか、
「甲斐大僧正《だいそうじょう》(信玄)ほど慕わしいお人はいない。ことごとくわが手本である」
と平素、左右にいっているふうである。この言葉のいいまわし、およそ信長らしからぬ咏歎調《えいたんちょう》だが、武田の諜者たちはそこまで見ぬくほどの頭はない。
戻《もど》って、信玄に報告した。かれらの報告はことごとく信長の自分への誠実さ、友《ゆう》誼《ぎ》を示すもので、わるい情報はひとつとしてない。
(妙な小僧だ)
と思う信玄の述懐が、ややその「小僧」に愛嬌《あいきょう》を感じはじめるようになった。
信長も、抜からない。信玄への親善使節には、家中きっての雄弁家を使った。織田掃部《かもんの》助《すけ》という一族の者で、かつて尾張から流れて武田家に仕えていた者が、つねに使節として音物《いんもつ》(進物)をはこび、そのつど信玄に、
「上総介《かずさのすけ》(信長)が、お屋形(信玄)様を尊仰申しあげておりまする様子は、乳児が母を慕うがごときものがござりまする」
などといった。
信玄はもとより巧弁の者をその弁口によって信ずるということはしない。むしろ、言葉が甘ければ甘いほど警戒し、
(いよいよ油断ならぬ)
と、気持をひきしめていた。しかし尾張は幾つかの国をへだてているため、いまの信玄にとって信長という小僧は直接利害関係がない。このため、さほど神経をとがらすというほどのことはなかった。ただ油断ならぬという底意地のすわった目で信玄は信長を見ていたのである。
あるときふと、
「信長からの音物を、これへもって来よ」
とかたわらの者に命じた。中身だけではなく、梱包《こんぽう》ごともって来よ、と信玄はいった。
信長の音物は、豪華なものだ。なにしろ、その梱包の箱からして、漆塗りなのである。類がないといっていい。梱包など、粗末な板でつくった箱で結構ではないか。
漆塗りの高価さは、いつの時代でもかわらない。それが高価である理由は、気が遠くなるほどに手間がかかるためだ。塗っては乾かし、乾かしては塗り、十分に作りあげようとすれば七度も十度もそれを繰りかえさねばならず、このため小さな椀《わん》をつくるのでも、物によっては半年、一年はかかる。
が、簡略な方法もある。
現今《こんにち》もその簡略が安漆器には用いられているが、糊《のり》付《づ》けの方法である。漆を糊で固定させてぺろりと一度塗りぐらいでごまかしてしまう方法だ。
外見は、かわらない。
が、使ってみると、すぐ剥《は》げてしまって赤《あか》肌《はだ》が出、見るもむざんな姿になる。
(それにちがいない)
と信玄はにらんだ。すぐその梱包の一箱を御前に進めさせ、やおら腰をさぐって脇差《わきざし》から小《こ》柄《づか》をぬきとった。
さくり
と、箱のかどを削った。削りあとを、信玄はしさいにのぞきこんだ。
やがて顔をあげたときの信玄の目に、感動が浮かんでいた。
削りあとに漆の層があり、極上品というべき七度塗りの漆であった。本来なら松材の木箱で足りる荷造り用の箱に、これほどの高価な漆器を用いるとはどういうことであろう。
答えは、一つである。
(誠実な男だ)
ということであった。信玄ほどの者が、念には念を入れた「尾張の小僧」の欺しの手にみごとに乗った。
「信長とは、信実《しんじつ》深き者よ。あれがつねづね言って寄こす巧弁な口上は、あるいはうそでないかもしれぬ。これが証拠よ」
と、左右にも、その削りあとを見せた。左右も、息を呑《の》んで感嘆した。
信長には、魂胆がある。将来《さき》のことは別としてまずまず、武田家と姻戚関係をむすびたいということであった。
程を見はからって、それを申し入れた。
美濃、といっても木曾に近いあたりの苗《なえ》木《ぎ》に遠山勘太郎という城主がいる。苗木とは、現今、観光地の恵《え》那峡《なきょう》のあたりである。遠山氏は南北朝以来の名族で、近国で知らぬ者はない。余談ながら、江戸期の名奉行で「遠山の金さん」として講釈や映画で知られている遠山左衛門尉景元《さえもんのじょうかげもと》という人物はその子孫である。遠山家の本家は徳川家の大名に列しており、苗木で一万二十一石を領し、維新までつづいている。
この遠山家に、死んだ道三の正室小見《おみ》の方(明智氏)の妹が嫁いでいる。遠山勘太郎の妻女である。
それに雪姫という娘がある。
濃姫のいとこ、ということで、信長は美濃経略の初期に遠山氏に工作し、味方にひき入れ、その雪姫を養女として尾張にひきとっていた。
美《び》貌《ぼう》である。
明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。そのうつくしさは、人口に乗って甲斐まで知られている。
「その雪姫を、なにとぞ勝頼《かつより》様に」
と、信長の使者織田掃部助が、信玄にもちかけた。雪姫は織田家の実子ではない。勝頼は武田家の世《よ》嗣《つぎ》である。断わられるかと思ったが信玄は存外あっさりと、
「よかろう」
といった。この点、信長の外交は、みごとに成功している。もっともこの雪姫は信勝《のぶかつ》を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄《えいろく》九年の末である。
雪姫の死で縁が切れた、というので、信長はさらに別な縁談をもちこみはじめた。
もちこんだのは、この物語のほんのわずか後のはなしになる。
永禄十年の秋のことだ。こんどの縁談は、前のよりもさらに武田家にとってぶ《・》がわるかった。
信長の申し出は、
「姫御の菊姫さまを」
というのである。菊姫は信玄の娘で、まだかぞえて七つでしかない。もっとも花婿《はなむこ》となるべき信長の長男信忠《のぶただ》はまだ数えて十一歳である。その嫁に、というのだ。
嫁に、というのは、わるく解釈すれば人質ということでもある。下《した》目《め》の織田家から申し出られる縁談ではないのだ。
このときこそ断わられると覚悟したが、この一件も、
「よかろう」
と、信玄は快諾した。
このころには信玄にとって信長の利用価値は大いに出はじめている。いざ京都へ、というとき、沿道の信長を先鋒《せんぽう》に立て、逆らう者どもを蹴散《けち》らさせようと考えはじめていた。
信長も、そこは心得ている。
「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」
と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
「信長は自分にとって無二の者である」
と、左右にもいった。その「無二」の関係を、信玄はさらに結婚政策によって固めようとした。その愛娘《まなむすめ》を、いわば人質になるかもしれぬ危険をおかして織田家に呉れてやる約束をしたのである。
(信玄も存外あまい)
と、信長は、虎《とら》のひげをもてあそぶような思いを感じつつそう思ったであろう。が、表むきは、大きによろこんだ。
幼童と童女の婚約が結ばれたのは、永禄十年十一月である。信長はさっそくその御礼として、例のぼう大な進物を甲斐へ送った。虎の皮五枚それに豹《ひょう》の皮が五枚、さらに緞《どん》子《す》五百反という途方もない珍品ばかりであった。
武田信玄からも、それへのお返しの品々が送られてきた。甲斐は山国であり、尾張のように商業地でなく土地も痩《や》せている。精いっぱいのお返しとして獣皮がおくられてきたが、熊《くま》の皮であった。それに蝋燭《ろうそく》、漆、馬などである。尾張という先進経済圏にいる織田家としてはべつにめずらしい品ではない。
しかし信長はよろこび、武田家の使者である信州飯田の城主秋山伯耆守晴近《ほうきのかみはるちか》を大いに歓待し、
「わが美濃の長《なが》良《ら》川《がわ》には世にめずらしいものがござる。鵜《う》飼《かい》でござる」
といって、この不愛想者が秋山の手をひくようにして見物にともない、御座《ござ》船《ぶね》に乗って長良川で歓を尽した。
そういう信長は、一方では、つぎの飛躍にそなえてしきりと人材を召しかかえていた。
新占領地の美濃ではめぼしい者はどんどん高禄《こうろく》で召しかかえ、重職を与えた。なにしろ才能のない者を極度にきらう男である。才能がなければ譜《ふ》代《だい》の家来でもさほどに重用しなかったが、才能さえあれば新参の者でも重く用いた。
そのころ、
「明智光秀」
という名を、もと道三に仕えていまは織田家の侍大将の一人になっている猪《いの》子《こ》兵助からきいた。猪子はそのころ越前の光秀から手紙をもらい、光秀の近況を知っていたのである。
が、光秀の手紙には、
「推挙してくれ」
とは一字も書いていない。ただ、「朝倉家の客分であることに倦《あ》きあきしてきた。いずれ公《く》方《ぼう》様(義秋)のお指図によって、自分の才幹のふるえる地に行くつもりである」とのみ書かれていた。こう書いておけば、いつかは信長の耳に入るであろうと光秀はおもったのである。
文中、
「公方様」
という文字を何カ所かで使った。安くは見られまいという細心の配慮であった。
「めいち・こうしゅう、か」
信長はつぶやいた。
明《めい》智《ち》光秀《こうしゅう》、天下にこれほどいい名をもった者もすくないであろう。明智が光り秀《ひい》でている、というまるで詩の一章を姓と名にしたようななまえである。
信長は、関心をもった。